風化


はじめはそう、声からだった…
その優しい暖かな声。
俺の名前を愛おしげに呼ぶその声だ。


『シュウ』


そして次はその温もり。
いつも困ったように微笑みながらも決して拒否はしないで俺を膝の上に乗せてゆっくり愛おしむ様に頭を撫でてくれたその温もり。



『困った甘えん坊ね』



嗚呼そうだ、微笑みも。
俺にだけに向けられる優しいその微笑みはいつだって心の奥底をふわりと包み込んで冷たいはずの俺の体をじわりと暖かくしてくれた。



『ふふ、だいすき』



全部全部、すべてが愛おしくて
灰色だった俺の世界に無遠慮に様々な色をまき散らしてくれたお前は俺のヒーローだった。



「花子…」



小さく、俺以外誰もいない少し広く感じる部屋でお前の名前を呼んでみるけれど
もうその言葉に返ってくる声は聞こえることはない。只々虚しく、時が過ぎていく度にお前を愛した証拠が砂の様に消えていくだけ
声、温もり、微笑み…順番に俺の記憶は容赦なくお前を消していく。



「花子、花子…花子…」



縋るように名前を呼んでみても、もうお前は抱き締めてくれないし微笑み返してもくれない。勿論名前だって呼んでくれない。
嗚呼、今日もまたお前の何かを忘れてしまうであろう自分が酷く恐ろしい。



「忘れたくない…忘れたくない…!花子…!」



声が震える。
失う事が恐ろしくて誰も愛さなかったのに、事もあろうに人間であるお前を愛してしまった罰なのだろうか。
だとしたら神様とやら、どうか俺を許してほしい。
せめて記憶の中の花子だけは俺から奪わないでほしい。どうか、どうか…



「愛してる…愛してるんだ…!」



情けなくボロボロと涙を零して嘆いてみても
現実は残酷で、どれだけ抗ってみても、もうお前がどう俺を呼んでいたのかさえ思いだせない。
もう一度、もう一度だけでいいからその声で俺の名前を呼んでほしい。そして愛の言葉を囁いて欲しい。



「愛してる…花子…」



嗚呼、いっそ
いっそ忘れてしまうのならばお前へのこの気持ちを真っ先に忘れたかったよ。
そうすれば、こんなにも辛くて苦しい事もなかっただろうに。
けれど皮肉にもきっとこの気持ちだけは永遠に消え去ることはないのだろう…




「お前は…酷い女だよ」



俺にこんな気持ちを残して逝くだなんて
きっといつまで経っても俺はお前を“愛してた”なんて言えないんだろうな。
俺の腕から消えてなくなったくせにお前はそれでも俺を縛り付けるんだ。



「あいしてるよ…」




虚ろに呟いて零れ続ける涙に自嘲して
俺は今日も、お前の大切な何かを忘れてしまうのだろう。



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