108:どうか、しあわせに


喉を鳴らして吸い上げる程、もっともっとと言う欲望が際限なく膨れ上がる
嗚呼、この感覚は酷く久々だと…普段なら抑えることの出来る欲に溺れ続けていれば
遠くの意識の隅で、愛しいひとの泣き声を、耳にした





それは、この世で一番聞きたくはない音




「……っ、」




瞬間、俺の理性は欲望の海からぐっと一気に現実へと引き戻される
傍で聞こえるのはやはり最愛である花子の泣き声
そして自身の牙が彼女の柔肌に突き刺さって加減なしに血を吸い上げている事実に気付く




一体、何があったのだろう





ぐるぐると数秒の間で思考を全力で巡らせ、整理する
嗚呼、そうだ………数日前から逆巻レイジの動きが気になっていて
けれど暫く何も行動を起こさないから俺の思い過ごしだったのだろうと気を抜いた矢先に……
自身の考えの甘さに後悔しながらも、まず彼女から牙を離さないと、と思うが中々思うようにいかない



嗚呼、やはり花子の血はこうして俺の衝動の背中を容赦なく押して叩き落そうとする
普段ならぐっと堪える事が出来るのにこんなにも難しいのはきっと先程からまぶしい位に輝いている満月の所為だ
それでも必死に彼女の悲痛な泣き声を頼りに理性を叩き起こそうと躍起になる
そうだ、俺は花子にこんな思いをして欲しくない……彼女を愛しているから、この血に何度叩き落されても
這い上がらないといけない……もう、二度と彼女を傷つけないと誓ったんだ。




必死な思いでようやく牙をその身体から引き抜き、彼女の顔を見つめれば
驚きと安堵を示した表情を見せてくれたので、俺もそれにつられて笑みを浮かべる。
気を抜いたらすぐにでもまた、本能と欲に持って行かれそうだが…そうはさせない。絶対にだ。





「花子、」




「ルキさん、ルキさん………ルキさん…っ」




普段の俺の声色に安堵した彼女が俺の腕の中で涙を零す
嗚呼、本当にまた怖い思いをさせてしまったんだな……以前、彼女の血如きでは落ちないと言ったのに
少しの時間でもこうして花子を不安にさせてしまったことを謝りたい。



そう思いながらも彼女を抱き締めたまま辺りを見回し状況を必死に把握する
泣きじゃくる彼女、冷たい鉄格子、そして近くにある銀のナイフに………




「(逆巻シュウ…………?)」




ちらりと視界の端に見えたいつもいけ好かない彼女の元最愛と言うか兄のような存在の彼
しかし、今はその瞳にいつもの余裕も…花子限定に見せる穏やかさも何もなく
只々此方を絶望と罪悪感、その他の負の感情が入り乱れた色で見ている。
嗚呼、何だかその目………少し出会ったばかりの頃の花子と少し似ているな…




そして更に視線を動かせばニヤリと愉し気に此方を格子の外から見つめる
この悲劇の舞台の製作者、逆巻レイジと目が合った。
どうしてこいつが俺と花子を攫ってこんな所に閉じ込めたのか……
少し考え、以前あのお方に彼等の話を聞いた事があったのを思い出しすぐに全ての辻褄が合ってひとつ、溜息をつく




本当に、悪趣味な嫌がらせだ




奴の……逆巻レイジの思惑を理解してあくまでも冷静に彼と言葉を交わしながらも
この状況の打開策を練るけれど、この状況では選択肢はどう考えても二つしかない。
外の逆巻シュウが動くことが出来るのならまた話は変わってくるのだろうが
今、あいつは自身の所為で花子をこんな目に逢わせてしまった、巻き込んでしまった罪悪感と
また大切なものを持ってしまったという後悔とで動けない…




嗚呼、ならもう………
方法はただ一つだけしかない





ずっと……ずっと花子に言い聞かせてきた
自身を大切にしろと、蔑ろにするなと
なのにそんな俺が最期にこの選択肢を選ぶなんて
きっとお前は酷く憤るのだろうな……
何せずっと花子に怒ってきた事を俺は今からしようとしているのだから





しかし、もう二つしか選ぶ道がないのなら
俺はこちら側を選ばせてもらう……ちらりと未だに燻る吸血衝動を抑えながらも彼女を見やれば不安そうに此方を見上げていた。
その顔色は普段と比べ物にない位に白くて、瞳にはもう力も残っていないようだ





嗚呼、早く終わらせて花子………お前をここから出してやりたい




「花子……すまなかった。痛むか?苦しくはないか?嗚呼、顔色が悪いな……少し吸い過ぎたな…」




俺が少しの間堕ちてしまったばかりにこんな状態にしてしまって…
けれど、きっとこのまま時間が過ぎればまた堕ちる。
閉じ込められて数日は経っているであろうこの渇き、そして満月と未だに口に残る花子の血の味
ここまで条件が揃っていればどれだけ彼女を愛している想いが強いとしても長くは理性の手綱を持ち続けれることは難しい




そっと手近にあった銀のナイフを手に取ると
震える声で必死に絞り出した逆巻シュウの声が響き渡るが
俺だって……俺だってこんな選択、したくない……




俺だって…………花子と穏やかに時間を過ごしたかった




「逆巻シュウ、結局貴様に花子を預ける事になりそうだ………泣かせるなよ?」




本当は絶対に預けたくない相手に最愛を託す
嗚呼、嫌だな……お前を逆巻シュウなんかに渡すなんか絶対にしたくない。
けれど……きっとそうすれば、時間は掛かるだろうが二人でゆっくり前に進める日が来ると思う。
腹立たしいが、幼い彼女をずっと愛していたあいつなら………大丈夫だろう。



逆巻シュウも今は動けないかもしれないが
俺に花子を託された以上………きっと、今度こそ花子を護ってくれる。
幼い日から彼女を愛し、今でもこうして花子の幸せを願うお前にしか花子を託せない
だから…しっかりしてくれよ?腹立たしい逆巻の長男よ。




そっと彼女の胸を押し、俺から離れさせてやる。
嗚呼、すまない花子……あれほど言っていた俺が、こうして自身を犠牲にする事をどうか許してほしい




彼女を離している時間が酷く長く感じて
その間に走馬灯のように思い返すのは今までの日々




初めてエキストラの花子を見かけて、どうしてか目を離せなくなって
傍に置いてそれから沢山の事があった……
楽しい事ばかりじゃない…つらい事、悲しい事、どれだけ積み重ねてきただろう
けれどその日々全てが俺にとって愛しいものだった…



それら全てを思い返せば自然と
こんな酷く辛くて悲しい状況なのに、自身の表情は情けなく緩んでしまう





嗚呼、花子……花子
愛していた……俺はお前に教えようと、与えようと傍にいたけれど
いつの間にかこんなにも与えられていたんだな



だからこそ、こうしてお前の為に
あの方から頂いた命も、手放せると……心の底から思えるのだろう




「花子、愛してた………最後に我儘になってしまってすまない……お前の、」




本当は最期まで傍に居たかった
お前が人間として、一生を全うする瞬間
優しく手を包んで見送ってやりたかった
お前の死を抱いてずっと永遠を生きていたかった……
お前の……




「お前の隣にずっと居たかった」





最期の言葉をぽつり、遺して宛がうのが吸血鬼を殺せる唯一の凶器
本当はもう少し、心置きなく逝けるような言葉を紡ぎたかったけれど
こうして本音を零したのはどうか許してほしい。






「(花子、花子………どうかしあわせに)」





そう願ってぐっとソレを胸に突き立てようとした時
小さな地面を蹴り上げる音が響いて
目の前に愛しくて白い手が伸びたのだ



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