8:おいてかないで


「はぁ…今日はこれで終わりだなぁ」


散らばった資料をまとめて一つ息をつく。
そして仕事用のメガネを取ってチラリと自身のベッドを見やって次は大きくため息。


「シュウくーん。寝るならおうちに帰りなさーい。私が寝れないじゃない。」


わざとらしく声をあげてみてもベッドのふくらみは無反応だ。
全く、また私に不眠で会社に行けと言うのか。
そんな事を考えていればようやくもぞもぞ動き出したイケメン男子様。


「んー…花子?終わったのか?」


「はいはい、終わった。終わりました。だからシュウ君もおうちに帰ろうね。」


「…………やだ。」


…は?
一瞬ピシリと固まってしまったが我に返ってぶんぶんと首を振る。
そして未だにベッドから降りようとしない彼を力いっぱい揺さぶった。

「ちょっと、帰りなさいよー!私もいい加減寝たい!」


「いーやーだー。」


どこの駄々っ子だよ!
シュウ君はむっとした表情で私のシーツを頭からかぶり、じとりとこちらを見上げる。
あ、だめ可愛いほだされてしまいそう。


「今日は花子と一緒に居る………かえりたくない。」


「おおう、そう言うセリフは彼女が言うんだからね分かってるかい?」



そんな冷静に返してみても私の顔は今真っ赤だ。
私の反応に満足したのかシュウ君はニヤリと意地悪に微笑んでもぞもぞとベッドの上で移動し始める。
そして僅かながらの空間を作ってニッコリ。


「おいで、一緒に寝よ?」


「う、うん?何私の空耳?」


シュウ君は普段可愛いから忘れがちだから彼も立派な男の子なのだ。
そして年下である。所謂オトシゴロってやつだ。そんな子とベッドを共にしろと?無理無理無理!
けれどシュウ君はそんな私の心を読んだかのようにくたりと首を傾げてまた笑う。


「何もしないさ………今日は。」


「今日はって何!?どういう事ですかね!?」


夜中にも拘らず盛大に叫んでしまい思わず口を押えてしまう。
シュウ君は相変わらずニコニコ顔。瞳はとても優しい。


「ホラ、花子」


「や、やだよ…」


柔らかいシュウ君の声はまるで魔法のようだ。
言葉では拒否していても足は確実に彼の元へと歩み寄ってしまう。
ああもうこれも吸血鬼の特殊能力だったりするの?ううん、これは超能力でも何でもなくて、只…ただ、


「おいで」


ゆるりと手を伸ばされてしまえばもうおしまいだ。
初めから決められていた事の様に私はするりと彼の腕に収まってしまう。
彼はようやく手に入った私を嬉しそうに抱き締めて笑う。


「ふふ…あったかい…」


「きょ、今日だけだからね…ホント、今日だけだからね!」


「うん…ありがとう。」


私を確かめるようにぎゅっと抱き締めて心地よさそうに頬に擦り寄ってくる
ああもう冷たいなぁ。でもどうしてだか心地いい。こうなってしまったのは全部シュウ君の所為だと思う。
毎日毎日飽きもせず“すき”、“かわいい”の雨嵐。そんな甘い言葉のマシンガンに撃たれ続ければ誰だってこうなっちゃうって。


「ああ、やっぱり…花子の感触も香りも…すき」


その時、彼の違和感に不意に気付いた。
少しずつ落ち着いては来ているが、微かに体が震えている。そして若干ではあるが声も。

けれど彼が何も話さないのならば私は何も聞かない。大人の感覚だけで無理に聞き出すというのは酷なものだろう。


只、自分勝手に一つの結論を導き出して。


「シュウ君…もっとぎゅってしていいよ。」


「うん………花子、だいすき。」


多分、おそらくだけれど今の彼は少しばかり不安定なのだろう。
そして何故かはわからないけれど私が彼の安定剤の様な役割を果たしている。


「ねぇ…何も聞かないの?」


少し不安げに私を覗き込むシュウ君に苦笑。
全く、私はどれだけ彼にお子様だと思われてしまっているのだろうか。


「シュウ君が言いたくないならいいよ。聞かない。」


「………」


私の顔をじっと見つめたままシュウ君は何故か泣きそうになって
それを見られまいといつもの様に肩に顔を寄せてぐりぐりと頭を動かす。


「花子がやさしいから…余計すきになる。」


「えぇ〜?何ソレ…」


「…………夢をみたんだ。昔の。」


ぽつりとそれだけ呟いた彼は何かに怯えるようにギュッと私を抱き締める腕に力を込める。


「花子は…いなくならないで…」


それはまるで迷える子羊が神に捧げる祈りのようで
私はそんな器でもないにも関わらず彼のそのささやかな願いをかなえてあげたいと心の底から思ってしまった。

大丈夫だよと、子供をあやすように彼の背中に手を回して力を込めると
静かに響いた嗚咽に私は聞こえないふりを決め込んで静かに目を閉じた。





「お、おおおおおお?」


「…………」


まずい。これは非常にまずい状況だ。
私は今会社のロビーで冷や汗をかいている。
それもこれもぷくーっと可愛らしくふくれっ面をしているシュウ君が原因である。


あれから数時間後、私はいつもの様に目を醒まして会社に行こうとしたのだけれど
シュウ君は未だに夢の中で、起こすのが可哀想だなぁと思ってしまいゆっくりと彼の腕から抜け出してそのまま出社したのだ。
…それがお気に召さなかったらしい。


まぁ、あんな不安定なシュウ君を独りきりにしてしまった私にも非はあるのだけれど
悲しい事に私は社会人である。社会の歯車なので会社をさぼるという選択肢など初めから存在していないのだ。


「えっと、シュウ君?」


「死ぬかと思った。」


「え?」


おずおずと彼の顔を覗き込めば突然抱き締められてそんな台詞。
昨夜よりずっとはっきりその腕は震えていて、ああ私はとんでもない事をしてしまったんだと今更ながらに自身の行動を反省する。


「起きたら、誰もいなくて…花子の感触も香りも全部全部なくなってて…もう…もう、」


「…っ!」


ガタガタと震える彼の声はもはや泣いてしまっていて
どうしようかとオロオロしてしまっているとじわりと彼の顔が埋められている肩が濡れる。


今私に出来ることは何だと、足りない頭を高速フル回転して導き出した拙い結論に基づいて行動を起こす。


「シュウ君」


ぐっと両腕に精一杯力を入れて一度彼を離して、驚いた表情の彼の少しばかり濡れてしまっている頬にちゅっと唇を落とす。

そしてそのまま両瞼にもキス。幸いな事にいつも通りの残業でロビーに残っているのは私とシュウ君だけだ。
最後にそっと未だに静かに流れる涙を拭ってあげた。


「…ごめんね。」


「………うん、」


なにもいい訳はせず。只謝罪の言葉を口にすれば彼は小さく頷いて、また私を逃がさないように抱き締めた。


今、こうして捕まってしまっているのは間違いなく私のはずなのに
どうしてか、彼が“もう、離さないで”と、懇願しているようで
されるがままになっていた身体を動かして“大丈夫”と声には出さないまま自分より大きな体のはずの彼を包み込んだ。



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