なはは
第一章
みにくい子はどこまでいこうとみにくい。
これは私の持論だ。
私の両頬には傷がある。
まず、右の頬には切り傷。
五、六歳あたりにお父さんにつけられたものだ。あのひとは子どものような癇癪持ちで、かといって子どものようなかわいらしさなんてまるでなかった。さっきまで機嫌よくにこにこしていたかと思えば、ふとしたことで突然わめき散らす。私とお母さんの何気ない言動が気に入らなかっただとか、低気圧なんかで不調だっただとか、もうなにが原因なのかわからない日もあった。酔いが回ると特別酷いもので、私たちに容赦なくあたった。
あれは、そういう特別酷い日に起こったのだと思う。鈍く光る銀色の包丁。ぽたぽた落ちる生あたたかい血。つんざくような悲鳴。ほとんど鮮明に思い出せるのに、あのひとがずっと叫ぶように吐き出しつづけていた台詞はよくおぼえていない。
そして左には火傷の跡。
あれからお母さんとはふたりで暮らすようになった。急いで見つけたちいさなマンションだったけれど、それなりにおだやかに過ごしていた。ようやく慣れはじめた頃だった。ひとつ隣の家屋で放置されたたばこの火がきっかけで、うちのマンションも火事に遭ったのだ。真っ赤に昇る火。焦げついた匂い。酷い息苦しさと、声にならなかった頬への痛み。
こうして両頬にいともかんたんに消えない跡が残った。
右だけなら大きな絆創膏一枚でも済んだけれど、左の火傷跡もあると毎回貼り変えるのは手間だった。あとは両方に絆創膏を貼るのは不格好だと幼いながらに思っていたのもあって、手っ取り早く隠せる方法を考えていた。そんなとき、ふと薬箱のなかで目に留まったのが、マスクだった。
それから、マスクをつけはじめた。どれだけ暑くてもかぶれても吹き出物ができても、かならず毎日。自宅以外ではほとんどつけていたけれど、給食の時間だけは避けられない。はじめて外したときは、それがどれだけ私の今後に影響をあたえるのか考えていなかった。もっと慎重になるべきだったと、いまなら思う。
いつしかつけられたあだ名は、『口裂け女』。笑っているかのようにうまい具合に唇の両端に刻まれているからだろう。
誰に言われても、否定しなかった。ほんとうに、その通りだと思った。
からかわれた。煙たがられた。いじめられた。ただ私と隣にいるだけでもからかわれてしまうから、友達は距離を置くようになり、私からも遠ざけていった。私の周りからは、誰もいなくなった。
春は出会いと別れの季節などというけれど実際はそうでもない。中学に上がっても真新しい環境とは程遠かった。いかにマスクを外さずに過ごせるか画策しようにも、小学校からの顔馴染みに噂を立てられたらあっというまに広がっていく。蝕まれていくのに、時間はかからなかった。
誰も私を知らない場所に行きたかった。
二年生への進級がきまった頃。お母さんと相談して転校を決めた。お母さんが用意してくれた、並べられたパンフレットを手にとって読んでみる。リビングでぱらぱらめくっていたときだった。ここだ、と思った。生徒数がかなり多いからこそ私みたいな存在でも目立ちにくそうだったこと、都心に比較的近いので不便もないこと、エスカレーター式だから進学も容易であろうこと、海沿いにある綺麗な立地だったこと。ほとんど直感だった。
誰も知らなくていい。誰も気づかなくていい。
みにくいアヒルの子はみにくいとさんざん虐げられていたが、ふと水面に映った自分の姿が実はうつくしい白鳥だったと知り、歓喜する。
『あなたがいちばんきれいね』
とある白鳥が、かつてはみにくいと言われつづけた白鳥にそう言った。
そうして物語は幕を閉じる。
教訓はどうであれ、綺麗ごとだと思った。
いつ見ようと、鏡に映る私はみにくい。一日のはじまりから終りまで、どの群れに属そうとも変わらない。隠していた顔は実は美少女でした、みたいな少女漫画のような設定があればこのさきの人生もさぞイージーモードだったんだろう。美少女ならそもそも隠す必要もないのだろうけど。
見た目がすべてじゃない。いつになったらその言葉を信じられるのだろう。
きっと私は、一生隠していきていく。マスクをつけはじめた頃から漠然とそう思っていたけれど、年々、いっそうはっきりとした輪郭を帯びていく。これは諦めではなく、覚悟だと云えば、少しはかっこよくきこえるだろうか。
ほんとうの私の姿を晒して失望されるくらいなら、はじめから誰にも知られないままでいい。
存在を知られていないのとしんでいるのはイコールだ。しんだようにいきていけば、なにもこわくない。そうしていれば、どんな痛みもおぼえなくてすむだろうから。
*
春とはいえ、学年でいえばきりがいいとはいえない時期に入学した私は若干浮いていて、頑なにマスクを外そうとしない姿がさらにそれを増長させていた。気遣って声をかけてくれる子もいたけれど、あの恒例行事をことごとく断るのもあって親しくなるには至らない。でも、みんなから遠巻きに見られるのもいまだけだ。こうやって断りつづけていたら、そのうちそんな子もいたな、程度にしか思われなくなる。
昼休みのチャイムが鳴る。席を立って、すぐさま教室を出る。
校舎を出て、中庭を通り抜けたさきをしばらく歩くと、別の校舎に着く。校舎の裏を回ると、木製のベンチが背もたれ同士がくっつくように二脚設けられている。古びたベンチは腰を下ろしただけで軋んだ音が鳴る。念のため周囲を確認し、お弁当を広げた。
体育でさえも先生に許可をもらってマスクをつけつづけているので一日の大半は隠せているけれど、最大の難関・昼ご飯ともなるとそうもいかない。試しになにも食べずに過ごそうと挑戦するも、頭がいまいち働かないうえ午後に体育もあればふらふら倒れそうになって、作戦は失敗。昼ご飯抜きは断念して探しまわった結果、やっと見つけた場所だった。校舎の影で覆われているせいでお世辞にも陽あたりがいいとはいえない。あたり一帯はうすら暗くて、じめじめもしているから、うまくやればキノコでも栽培できそうだ。気分転換だとかさわやかな昼下がりなんかを目的とするならまぁ不向きな場所だけれど、ひと目を気にせずお腹をみたせることを思えば多少の我慢はしかたがない。
このさきもお昼はここで過ごす。明日も明後日も明明後日も、卒業までずっと。
が、計画はあえなく崩れてしまった。
しゃんとした背筋。きめこまかい白い肌。ゆるい癖のついた髪。
うつくしいひとが、そこにいた。
陰りのなかに埋もれることなく、むしろその対比でひときわまっさらな存在感を目立たせている。
どうしてあのひとがここに?
視線がまじわった途端、息がとまった。彼の口が開きかけたのを見て、本能的に危険信号を受信したみたいに、私は瞬時に踵を返した。
話しかけられたくない。顔も合わせたくない。秘密の場所を知られたくない。そもそもどうして、あのひとがあそこにいる意味がわからない。
ぐるぐる考えごとをしているうちに無意識に早歩きをしていたのか、校舎裏からずいぶんはなれてしまった。ふっと立ち止まり、大きくため息をつく。
あぁ、めんどくさい。せっかくお弁当つくってきたのにな。今日はお昼抜きにするしかないか。お腹の虫がぐう、と鳴って、げんなりする。
明日はチャイムと同時にさっさと教室を出よう。ベンチの位置取り一等賞を勝ち取れば、仮にあのひとがあとから来ても空気を察して去ってくれるはずだ。
「待って!」
なんてことはない。
「君、昨日も来てたよね?」
どうして。あぁ、ほんとうにめんどくさい。
なんと今日も、彼はすでにベンチに鎮座していた。数分授業が伸びてしまったといはいえそれでも結構はやめに教室を出たつもりだ。さすが運動部で鍛えられた脚といったところなのか、なんなのか。
「占領しているつもりはないんだ」
綺麗な顔。気品のある佇まい。物腰低くていねいに申し訳なさそうに伺っているようすを見れば見るほど、どうして彼みたいなひとがここにいるのかますますわからなくなる。
彼のことはおおまかに知っている。
際立って容姿のいいこと、テニスが強いこと、ひとあたりがいいこと、それらがあいまって異常に好かれていること、つまりとにかく優れていること。私は立海に入ってまもないので生徒事情はそうくわしくないけれど、彼はきっと入学当初からひと目置かれているのだろうということはなんとなくわかる。そんなひとがこうも陰気臭い場所でお昼を過ごしているのは違和感でしかなかった。彼がここで過ごしているのを、校内でいったいどれくらいが把握しているのだろう。実は見た目に反して極度のコミュ障なのか?ともうたがったが「昨日だってほんとうはここで食べるつもりだったんだろ?」ほとんど初対面の私相手に流暢に話しかけているあたり、そういうわけでもなさそうだ。
やっぱりわからない。友達とにこやかに、外で食べるにしても中庭のような風通しのいいあかるい場所で優雅に過ごしているほうが彼にはお似合いなのに。
「いや……お邪魔したのはこっちだから」
彼の都合はどうあれ、なんで私の場所取ったんだ。とは、思っている。なにも私の領地じゃないのは重々承知しているけど。けども。隠すつもりもないが、マスクのおかげですこぶる嫌そうにしている顔まではバレてないはず。
「でも、君だってここで食べたいんだろう?」
「……それは、」
「椅子はもうひとつあるから、うしろならどうだい」
彼が立つ向こうの、もう一脚のベンチ。座るだけなら別に問題ない。でも。
「やっぱりいい」
「どうして?」
彼は意外とずけずけ入るらしい。口が動いては、窄む。いくらか繰り返したあと、息ができたような気分で口を開いた。
「食べてるとこ、見られたくない」
俯いて、お弁当箱の袋を強く握った。
変な理由だと、自分でも思う。まじめにこたえなきゃよかった。せめてひとりが好きだからと言えばよかった。そもそもこたえる義理もなかった。後ろめたくなるのは、どう見られてもいいと思っているくせに、実際は自意識過剰で、割り切れていない証拠だ。あぁ、めんどくさい。
もういいよ。
「わかった」
そう絞り出そうとしたら、さえぎられた。ゆったりと顔を上げる。彼の目を見て、胸が詰まった。
「俺のうしろに君が座ればいい」
「でも」
「ふりむかないよ」
いつかの日を思い出した。誰にも言わないしなにも思わないから、マスクを取ってみせて。そう言われた日があった。過去の自分は他人を信じてみようと思えていた。信じた結果、期待していた反応が返ってくるわけじゃないことも、むしろ傷つくことのほうがずっと多いことも知らずに。よく云えば純粋で、つまり馬鹿正直だった。
ひとの言葉はあてにならない。
これも私の持論だ。
「……絶対に?」
解っていても同じことを繰り返すのだから、ほんとうにあてにならない。
「絶対に」
彼の言葉と、まっすぐな瞳を信じてみようと思ってしまった、懲りない自分も。
*
こうして彼とお昼を過ごす日々がはじまった。
背もたれ同士が接して置かれたベンチに倣って、彼とも背を向けたままだ。こういう配置だとたいていはなるべく距離をとるために、ベンチの端とその真反対の端へと互い違いに座るのかもしれないが、それは絶対に避けたかった。なにかの拍子で彼がこちらへ視線を寄越し、万が一顔を見られてしまうことだってありえなくはない。不安要素はとりのぞきたくて彼の真後ろに座ってもいいか伺えば、彼は気にしたり疑問に思う素振りもせずにすんなり了承してくれた。
そうまでしてここで食べる必要はあるのか、ほかを探したほうがいいか。そんなふうに自問自答していたけれど、人間には適応力があるもので一週間程度で慣れてきた。互いに干渉することもなく黙々と食べているだけなので案外気楽だ。
「いつもここで食べているのかい?」
なんてことはない。
あからさまなため息を吐いてやろうかと思ったけれど、軽く息をつく程度に留める。見た目通りのコミュ力の高さをわざわざ発揮しなくてもいいのに。話しかけないでほしいとは思いながらも、無視する気概までは持ちあわせていない。
「まぁ、そうだね」
「いつもそっちがわなのかい?」
「うん」
「たまには交代しようか」
「交代?」
「こっちのほうが陽あたりも景色もまだいいだろうから」
顔を見上げると目に入るのは、ひびのはいった壁一面だけ。視線を下ろしたさきもタイルの隙間から生えた雑草しか見えない。対して、彼の座るベンチの前はまだ景色もひらけている。こちらは暗がりだが、彼の定位置は時間帯によっては陽が差し込んでくる。
「こっちのほうが落ち着くから、大丈夫」
ずっと向こうのほうで若干声が聞こえるあたり、いっさいひとが通らないわけではないのだろう。距離からして相手からは視認されないとわかっていても顔を丸裸にした状態でひとと向き合いたくない。それに私の座る位置なら背後から物音が聴こえたら即座に隠せることを思うと、こっちのほうが断然安心だ。
まぁこんなふうにいろいろ回避策は考えているけれど、まずここを好んで来る人間はまずいないだろう。と、見込んでいたのに。
「あなたはどうしてここに来てるの?」
ついでだから聞いてしまおう。ちょっとだけ興味はある。じめじめして暗い場所は実に彼のようなひとにふさわしくない。
「気になるかい? そんな大それた理由はないけど」
おかしげに聞き返してくる。
「好き好んで来るとは思えない」
「なにも、ひとりでゆっくりしたいからだよ」
「別にここじゃなくてももっといい場所はあるでしょ」
「そっくりそのまま君に返すよ」
「私の話はしてない」
「ごめん」
そう言って、ちいさく笑っていた。その様はうつくしいのだろう。見なくてもわかる。
「でも嘘じゃないよ。単純にゆっくりしたいだけなんだ。誰も来なさそうだからここにしたってだけ」
「意外とおひとり様が好きなんだね」
「そうでもないよ。たまには友達と食堂も行くしね」
「お弁当は毎回ここなの?」
「前は教室でも食べてたんだ。でも……こんな言いかたはしたくないけど、いろいろ誘われるのが億劫になってしまってね」
歯切れの悪い話しぶりにようやく察しがついた。そういえば、彼はあまりあるほどに好意を向けられているのだ。四限目が終るチャイムと同時に牽制やら争奪戦やらが繰り広げられている光景が思い浮かんだ。芸能人みたいで華々しくも思えるけれど、そんな状況に浮かれるとしても、きっと一瞬だけで気が休まらないだろうし、しまいにはうんざりしそうだ。同情したくもなる。
「たいした理由でもないから、君がわざわざ退く必要もないと思ったんだ」
「たいしたことないわけじゃないと思うよ」
「そうかい」
「私のほうが、よっぽど」
言いかけて、口を噤んだ。
顔を見られたくないから。
不格好で、変な理由。徹底するならそれこそトイレで食べたらいいものを、少しでも取り繕いたくてここに座りつづけている。つまらないところで見栄をはっている。いまさらどう見られてもいいと、何回も自分自身に言い聞かせているのに。
「比べるようなものじゃないよ」
真後ろからきこえる、すずやかで透明な声。
「ここにいたい理由が俺にもあって、君にもあった。中身がどうあれたまたま目的が合致しただけだよ。君のほうがさきに見つけたところをお邪魔してるのは俺のほうだしね」
「なんでここにいるのって正直思ったけど」
「わかりやすかったよ。ほんとうに嫌なんだなぁって」
「……気づいてたの?」
「あんな目をされてしまったらね。ほかにいい場所もないから俺も退く気はなかったけど」
どうやら彼は明確に向けられた負の感情に気づきながらもさわやかにながしていたらしい。案外、あつかましさを秘そめているようだ。「あっそ」と返せば、彼はくすっと笑った。
「ここで食べてること、誰にも言わないでね」
「もちろん。ここが知られたら俺も困るしね」
「『僕』じゃないの?」
「僕?……あぁ、一人称のことかい?」
「すごくそれっぽいのに、なんか意外」
「これって変なのかな? あ、そうそう。友達にはギャップ萌えだとかって言われたけど、どういう意味なんだい?」
「あなたの友達っておもしろいね。まぁ、好意的にとらえていいと思うよ」
「もし場所を交代してほしかったら、いつでも声をかけてね」
「うん」
「せっかくだから名前で呼んでほしいな。俺は幸村。君は?」
「みょうじ」
「これからもよろしくね、みょうじさん」
せっかくの意味がよくわからないが、多分、秘密を共有している者同士ということなんだろう。
それからも彼と過ごす昼休みがつづいた。互いに背中を向けて、顔は見せずに。
さっきみたいに会話が途切れないのは稀なほうでだいたいはあっさり終った。というより、終らせていた。
他人は信用できない。
これも私の持論。
マスクをつけるようになってからは遠巻きに見られることがほとんどだった。まれに意図して私に近づくひともいたけれど、それもからかうだけの単なる興味本位でしかないのがわかりやすかった。私にとって彼は、たとえ同じ場所、同じ時間を過ごそうとも到底まじわるはずがない、別世界の人間だった。彼にかかわる意味も必要性もないと思っていた。だからいくら話を振られようと簡潔な返事しか返さなかった。なのに、暇だからなのかなんのか、それでも彼は話しかけてくる。
「もしかして、拭いてくれたのかい? 今朝は雨だったからベンチも濡れてるかと思っていたんだけど」
「もう乾いてたよ」
「そのわりには俺の定位置だけがきっちり乾いてるのは違和感があるけどね」
「……気のせいだよ」
「ハンカチ、濡れてしまったかな? 俺のでよければ替えはあるよ」
「いらない」
「じゃあ今度なにかお礼させてほしいな」
「いらない」
「気遣ってくれてどうもありがとう」
「なんのこと」
「もっと素直になればいいのに。みょうじさん、やさしいところあるのにもったいないな」
くすっと笑いながら、彼は言った。
翌日の昼休み。彼は立海プリンを奢ってくれた。おいしかった。
私が不快にならない境界線を知っているかのようで一定以上は踏み込まない。近寄って、ぐんと距離を詰めたかと思えば、あっさり引いていく。馴れ馴れしくなくほどよく少しずつ。不思議と嫌じゃなかった。私にはそれが、ちょうどよかった。
「なにか読んでいるのかい?」
「単語帳。中間テスト、嫌な予感しかしない……英語とか無理だよ」
「空き時間にまで勉強するなんてまじめだね。うちの後輩も見習ってほしいよ」
「幸村くんは余裕そうだね」
「予習復習をちゃんとしていたら詰め込む必要もないからね」
「優秀すぎる回答でなにも言い返せないよ」
「問題出そうか?」
「え、いいの?」
「うん。貸してごらんよ」
学校にいるとつねに気を張っているのがあたりまえだったのに、彼といるときだけはやすらげた。
「ふぅ……暑いなぁ」
「影とはいえ湿気もすごいしね。教室に戻るかい?」
「ううん、戻ってもすることないし。幸村くんこそ帰ってもいいんだよ」
「俺もいいかな」
「そう」
「こうやって君と話してるほうが楽しいし」
「……私も、そうかも」
「みょうじさん、最近素直になったよね」
「な、なにその言いかた」
「うれしいんだよ」
食べ終ったらすぐに教室へ戻っていたのに、最近はチャイムが鳴るぎりぎりまで居続けている。
「今日は弁当じゃないんだね」
「なんか飽きちゃって。毎日自分の味だから、たまにコンビニのおにぎりとか食べたくなるんだよね」
「いつもはみょうじさんがつくっているのかい?」
「寝坊しちゃったらお母さんにお願いしてるけど、だいたいは」
「へぇ! すごいね」
「晩御飯の残りもの詰めてるだけだよ。幸村くんも料理とかそういうの得意そうだよね」
「ううん、そうでもないよ。むしろ苦手なほうなんだ」
「えっ、そうなの?」
「初心者でもおすすめのものってあるかな?」
別世界のひとじゃない、ひとりの男の子として、彼をもっと知りたいと思えた。
「君がおすすめしてくれた卵焼き、やっとつくれるようになったんだ」
「あっ、ほんとに?」
「六時間もかかってしまったよ」
「え?」
「なかなか大変だったな」
「……薄々思ってたけど」
「ん?」
「幸村くんって料理のセンス壊滅的なんだね」
「えっ」
「え?」
「そうなのかい?」
「まさかの自覚なし?」
「蓮二には『精市には少々難しかったようだな』くらいしか言われなかったよ」
「少々で済ませてくれるその子はすごくやさしいね」
「……そうだね」
「お、落ち込まないでよ!」
「これ、どうかな? 別で取り分けてきたから味見してほしいのだけど……」
ちいさい容器に詰められた、少し焦げた卵焼き。背中越しにおいしいよ、と感想を言ったときの彼のはずんだ声がちょっとおかしかった。
彼に出会ってから、笑う回数が増えた。昼休みを待ち遠しにしている自分がいた。
きっと私は、このさきもここで過ごしていく。
たとえ暑くても寒くても強風が吹いても、雨が降っていても。
彼がいなくとも。
今日は朝から雨だった。
時期が時期なので連日そんな天気だ。これまではタイミングよく昼にはやんでいるか降っても小雨程度だったので耐え忍んでいたけれど、いまはどしゃぶりという言葉がぴったりなくらいざあざあ地面を打ちつけている。さすがに彼もいない。
どうしよう。でも、ここまで来たんだしもういいや。
ベンチをハンカチで拭いてみても、水滴を拭いきれないうちに水分を吸いつくしてしまう。多少お尻が濡れてしまうけれどしかたがない。傘を指しながら、片手でパンの袋を開ける。お弁当にしなくて正解だった。少しでも傘を傾けたら、ばたばたと細い滝のように傘の端から水がながれおちる。ひんやりとした空気に思わず身震いした。体温が下がっていく。
どうにか凌げるかと思ったけれど、さすがに無茶だった。雨の日くらいは昼抜きにしようか。でも天気予報だと明日からもしばらく雨がつづきそうだからきついかな。だめもとで屋内で過ごせる場所をもういちど探してみよう。
目の前の水たまりに、絶えまなく無数の波紋が広がっては消えていく。傘を僅かに上げて、見つめたさきは、鉛色の雲が覆いつくしている。
どうしてこんなときに雨なんか降るんだろう。
どうして寒いんだろう。
どうしてこうしてまで、ここに来るんだろう。
どうして私は、こんなところにいるんだろう。
「みょうじさん」
意識が引き戻された。慌ててマスクをつけて、声のするほうへ首をねじった。
「よかった」
わけがわからない。喉の奥がつっかえて、なにも発せない。彼が歩く度びちゃびちゃと濡れた地面のはじける音がする。
「寒くないかい? よかったらこれ、羽織っても、」
「どうして?」
ブレザーに手をかけようとしていた、彼の動きが停止した。
わからない。どうして彼がここに来たのかも、なにがよかったのかも、どうしてそんなにも安心した顔をしているのかも、なにもかも。
「どうして?」
もういちど尋ねたが、彼は無言を貫いた。彼をじっと見つめる。彼も私を、見つめていた。しばらくすると、彼はふっとなにかが抜け落ちたみたいにやわらかくなって「はいこれ」無遠慮に片手で私の肩にブレザーをかけた。ずしりと肩に重みがのる。少しだけ、幸村くんのぬくもりが残っている。私が口を挟もうとする隙もあたえず、彼は購買でもらったであろうポリ袋をベンチに敷いてながれるように座った。傘があたらないようにする配慮か、はじめて真後ろではなく、対角線上の位置にいた。互いに傘がさえぎって、横顔は見えない。
「どうしてって、いつもここで食べてるだろ」
「だからってわざわざこんな、」
言いかけて、口を噤んだ。
わざわざこんな天気にまで来なくてもいいのに、なんて、私が言えた立場じゃない。
自分の姿を、客観的に思い浮かべた。雨の日にまでこんな場所に逃げて、隠れて、過剰に警戒している自分。私は、どうしてこんなにも。
「適当に食堂でも行けばいいのに」
「君がここにいると思ったから」
「理由になってないよ、それ」
はげしい雨音に、から笑いがまじる。
「幸村くんは、無理に来なくていいんだよ」
いまさら誰にどう見られようとしかたがないと思っていた。そうやっていきていくんだと悟っていた。
そのはずだった。なのにどうして、恥ずかしいなんて思うんだろう。
来て欲しくなかった。こんな不格好な私なんか、彼にだけは見られたくなかった。誰かに蔑まれる瞬間なんていくらでも味わってきたのに、いまさらすぎる。
「そうだね」
やわらかいのにまっすぐな声はすいよせられそうで心地いい。だから、苦手だ。
「来たらきっと、どこで過ごそうが俺には関係ないって君に言われるんだろうなって思った。実際、そうだと思ったよ。俺がどこにいようが君がどこにいようが、好き勝手にしてもいいんだからとやかく言える権利なんてお互いにない。
でも、だめだったんだ」
わからない。
「もう、関係ないことになんてできないよ。きっと俺なら、今日みたいな日にここにいたら不安になる。こんな雨でも君がここにいると思うと、どうしても」
どうしたって、わからない。
「君をひとりにしたくなかったんだ」
どうして私はこんなところにいて、彼もこんなところにいるのかも。柔和なふりをしておきながら、私の意見を聞き容れるつもりなど毛頭ないであろうことも。
「同情なんかいいのに」
「そうかい」
「そうだよ」
彼といると、余計な感情をおぼえそうになるのも。わからなくて、こわい。これ以上、弱くなりたくないのに。
「だってそんなの、ほんとうに関係ないよ」
ふるえる声は、雨がかき消してくれる。
「うん」
彼はそれだけだった。素っ気ないとは、思わなかった。
雨は降りつづける。すべてを洗いながしてまっさらにしていく。
そのあとも彼は普段の調子で話かけてきた。湿気を含んで重たくかんじた空気もいつのまにか消えて、私もまったく同じ調子で会話をつづけていた。授業のこと、部活のこと、家でのこと、昨日のテレビのこと。変わらないということが、ひどくほっとする。
「よかったら、このあと屋上庭園に来ないかい?」
「え?」
「まだ満開じゃないのもあるけど紫陽花がちょうど時期なんだ。あとはほかにもラベンダーとかクチナシとか……いまみたいな天気だと誰も来ないから特にしずかだしね」
「雨でもちゃんと、見に行ってるんだね」
「最近なんだ。いまみたいな天気でも見に行くのが好きになったのは。わかったっていうのかな」
彼の傘がうしろへ傾いた。庭園を思い出すように、下から見上げているようだ。
「どんなに強い雨が降っていても、誰にも見られなくても、花はずっと咲いている。あたりまえのことかもしれないけど、でも、ほんとうにとても綺麗なんだ。普段あれだけ世話をしていても気づけなかったけど、見過ごしてしまうのはもったいない気がして。そういう姿を間近で見られるのは実は貴重なことなのかもしれないって、最近よく思うようになったんだ」
こまやかに話す彼は、そのうつくしさに敬意を表しているのだと思った。いつだっていつくしみを込めて彼らと向き合っている。きっとこのひとの目に留まった子はさぞかししあわせものだろう。
彼の見る景色を、私も見られるだろうか。
「なんだかうまく言えないんだけどね」苦笑気味の彼に「なんとなく、わかったよ」私は返した。
「私も、一緒に行っていい?」
うしろで、彼が笑ったような気がした。
「もちろん」
屋上庭園は濃い雨の匂いでみたされていた。ふたりで傘を指しながら歩き回れば、とっくに濡れていたローファーはいよいよびしょ濡れになった。傘をはじく雨の音。つめたい空気。湿気でうねりの強まった彼の癖毛。雫がのった花びら。
「靴下の替え、持ってきたらよかった」
「俺もこれからはそうしようかな」
「また来る気?」
「そのつもりだけど?」
「変なの」
「君もだろ」
「私はいいの」
「こういうお昼も意外と楽しいね」
幸村くんは花の名前をたくさん教えてくれた。育てかた、咲く時期、気をつけないといけないこと。想像していたよりも敷地が広いのはもちろん、幸村くんが植え込み場所を広げていった結果、こんなにも立派な庭ができあがったことにもおどろいた。多少はほかの生徒も手伝っているとはいえ、ほとんどは幸村くんがお世話をしていると思うとなかなか大変そうだけれど、彼はそれも含めて楽しんでいるのだろう。歩いている途中もさっそく明日の手入れはどうしようか云々などと考えているようで、隣で見ていてちょっとおもしろかった。
この日から、雨の降る昼休みはあのベンチで過ごしてから、屋上庭園を訪れるのがおきまりになった。ふたり揃って足もとを濡らして、雨のはじける音を耳にしながら。
「ほんとうに花が好きなんだね」
「え?」
「いまの幸村くん、すごく楽しそう」
彼ははにかんでいた。
「君がいるから」
彼といると、みたされた。しずかで、ゆったりとして、あたたかい時間。こころが溶けおちるようで、ずっと留まることができたらいいのにと、願いたくなる。
けれどときどき、いまのあり様でいつまでも彼のそばにいられるわけがないとも思う。
どうしたら、このうつくしいひとの隣にふさわしい存在になれるのだろう。
「ここにもなにか植えてみたいな」
美化委員に入っている彼は、その名の通り敷地内の美化・清掃活動や整理整頓の呼びかけに勤しんでいる。このあいだ配られた学年だよりに載っていた『花いっぱい運動』推進の記事も彼が寄稿したらしい。いまごろ私のうしろであたりを見やりながら、あれこれ巡らせているのだろうか。
「このあたり、なんにもないもんね」
「ポットでも置いたら見栄えもよくなるし、工夫したらいろいろできそうだなって」
「あっちのほうに置くの?」
ここからはなれた位置にはなるが、幸村くんの座るベンチから少し歩けば校舎の影にもさえぎられない、よく陽の通る場所があるが「こっちのほうにしたいんだ」彼はベンチの近辺で考えているみたいだ。
「陽あたり悪いけど、大丈夫?」
「日陰でも育つ植物はあるからね。もっと調べてみるよ」
「ここまで見に来てくれるひと、いるのかな」
「ここは誰にも気づかれない秘密の場所だからね」
「せっかく景観よくするなら、もうちょっと人気のあるところにしないと意味ないんじゃ……」
「確かに美化活動でいうなら効果はあんまりだろうね」
わかってるじゃん、と、言おうとしたら、「でも」彼がつづけた。
「ここには俺もいるけど、君もいるんだから。せっかくふたりでいるんだから、もっと綺麗な場所にしておきたいなって」
ほがらかな声。彼が思い描いているのはどんな景色なのだろう。
「雑草を抜くところからはじめないとな……あ、そうだ。君の座ってるほうにもなにか置くつもりだから、好きな色とかあれば教えてくれるかい」
「こっちは、いいよ。もっと陽あたり悪いし」
「君の周りだけなにもしないのは、さびしいよ」
灼けるような陽ざしの向こうで蝉の声がきこえる。目の前の壁のいくつもの黒い染みをぼんやりとながめた。
「さっきは、ごめんね」
こぼした声は、思うよりもずっと弱々しかった。
「なにがだい?」
彼にはさっぱりのようだ。
布と針とにらめっこをして、黙々と作業をつづける。ここ一週間、貴重な休み時間は提出時期が迫っているパッチワークに費やしている。昼休みにもその時間をあてたらもっとはやく完成するのだろうけれど、幸村くんと喋っていたらあっというまに予鈴が鳴ってしまって、せっかく裁縫セットを持ち込んでも無駄になるのだ。今日こそはと思っているのに、今日の昼休みもそうなりそう。
「家庭科の宿題かい?」
なんて考えていたら、あの幸村くんがいるではないか。覗きこむようにしてぐんと近づいている。いつのまに、いや、なんでここにいるんだ。いや、それ以前に顔が近い。私の動機もおかまいなしに彼はじぃっと見つめてくるので、手を前に出して気持ち程度押しやってみる。なにが悪いのか?と言いたそうに、彼はきょとんとしている。
「ちょっと、い、いきなりなに」
「俺はもっと前からいたよ? すごい集中力だね」
「なんでここにいるわけ」
「部活のことでほかのクラスに用事があったんだけど、それで通りかかったら君が見えたからなんとなく」
私の座席は廊下寄りで後方だからか、開いていた扉からだとちょうど見える位置みたいだ。
「ポーチにしたんだね」
「見てほしくないんだけど……うまくないから」
「そうかい? 綺麗にできていると思うけど。このワッペン、かわいいね。くまが好きなのかい?」
「なに笑ってんの」
「君がキャラものって意外だなぁって」
「にしては笑いすぎだと思うけど」
「もっとポジティブにとらえていいのに」
「私、いま針持ってるよ」
「こわいこわい。君が言うと洒落にならないな」
「どういう意味っ」
彼が口もとに手をあてながら大きく笑う。むきになっているのがマスク越しでもバレてしまっているのがくやしい。思わず私もつられて、笑っていたときだった。
隣の席にいた子たちが、私たちのほうを見ながら声を潜めて話している。示しあわすように互いに顔を見合わせいた。
いたたまれない気持ちになった。彼女たちの反応を見て、これまでの自分のおこないを思い返した。そういえば、私は授業以外、教室のなかでほとんど声を出したことがない。笑うなんてもってのほかだった。はたから見ればなにを考えているのかもわからない私が誰かと会話をしている姿は貴重で、異様に映るのだろう。ましてその相手が、幸村くんだから。そう思われて当然だと思ういっぽうで、受け止めきれない私がいる。校舎裏の私とそれ以外の私はまるで違う。
なんでこんなふうにしか、できないんだろう。
「はやく行ってよ」
手もとだけを視界に入れるようにして、俯いた。彼の顔を見られなかった。
「またあとでね」
そう言って、彼は行った。
それからも手は動かしていたはずなのに、見返してみると、ほんの少ししか進んでいなかった。
「あのときの私、ぶっきらぼうだったよね」
「なにも気にならなかったけどな」
気遣ってそう言っているわけではなく、ほんとうに気にしていないのだろう。だからといって、胸に澱んだものが拭い切れたわけでもない。
「なにかあった?」
背後で微かに気配が動いた気がした。ふりむいてはいないだろうけれど、多分、私のようすをうかがっている。
あの、と口を開いた。
「私、全然だめなの。教室だとなんにも話せないし、友達もいない。幸村くんと話すのも、こんな形でしかできなくて。前からなんだけどね、でもあらためて思い返してみるとほんとうにだめだなって思うんだ」
沈黙がながれる。
相談してどうにかなるわけでもないのに疲れてるのかな。まだ夏本番前なのにさっそく夏バテにやられたのかもしれない。
そんなふうにぼうっと考えごとをしていたら、ふと我に返った。そうだ、なにをべらべら彼に話しているんだ。余計なことを言って困らせてしまったかも。いまさらさっきのは忘れてくださいなんて言えない。でも、なんて言えばいいんだろう。
どうにか喉をこじ開けようと努めていたら、
「⁉いった……!」
ごんっと脳内に鈍い音が鳴り響くと同時に激痛が襲った。ふいうちもあいまってまともに機能しない頭で、噛みしめた歯の隙間から息を思いきり吸い込む。
「ごめんよ」
彼はというと、けろっとしている。
「な、なに? 虫とか飛んできたの?」
「わざとだよ」なかなか痛いね、などと言って軽快に笑っている。
「は⁉」
「君はもっと寡黙なのかと思ってたけど、話してみると結構リアクションが大きいよね」
「……はい?」
「笑うときはすごい笑うし」
「どうせ私は幸村精市さんみたいにお上品に笑えませんよ」
「下品だなんて言ってないじゃないか」
どうやらわざと頭突きをされたみたいだ。彼は石頭なのだろうか、まあまあ痛い。すりすりと後頭部をなでて自分で自分をいたわった。
「目覚ましにはちょうどよかっただろ」
「別に眠くなかったけど」
「俺、君の笑い声、好きなんだ」
彼が言った。もうちょっとで、ふりむきそうだった。
「また馬鹿にしてるでしょ」
「ほんとうだよ。声、いつもかわいいなって思うんだ」
なに言ってんだこいつ。の、ひと言くらいかましてやりたかったが、かなしいかな、それどころじゃない。たたでさえ暑いのにこのまま熱中症でたおれたら、彼のせいだ。気持ちのやりように困って、スカートの上で手を重ねるようにしてぎゅっと握りしめた。もう、ほんとうにやめてほしい。
数分後にやっとの思いで「そんなわけないよ」と返した。
「本来のみょうじさんはあかるくて感情豊かなんだってわかったしね。なにも引け目にかんじなくてもいいと思うけどな」
彼の口調はいたって軽い。悪い意味ではなく、彼にとっては日常会話の延長線上のようなものなのだろう。深刻にとらえる必要などないと思っているのだ。
「幸村くんは、誇張しすぎてるよ。そんなのはほんの一部だけで、ほんとうの私は全然そんなのじゃないんだよ」
彼に背中を向けているからかろうじてまともに振る舞えているだけで、もしもはじめから真正面で向き合っていたなら、いまみたいにうまく話せた自信なんてない。むしろもっと粗雑な態度をとっていたかもしれない。
クラスメイトの声が耳に入ったあの瞬間、自分のなさけない部分が露呈したようだった。結局は、背中を向けてでしか堂々といられない自分。いまもそう。他人を目の前にしたら、どうやって話せばいいかわからなくなる。私がどう思われるかばかりが先行して、相手のことを考える余裕がない。上手な返し文句も、笑いかたも、気の遣いかたも下手くそで、そんな自分が嫌になって、つねに距離を置いている。これ以上傷つかないように。自分を守るために、虚勢を張りながら。
私はいつまで隠しつづけるんだろう。いつになったら、まともになれるんだろう。
「的外れなら悪いのだけど」
「?」
「会ったばかりのみょうじさんは、他人にどう思われてもいいやって思っているように見えたんだけど……違うかな」
どきっと胸が跳ねた。確かに、あたっている。
そして、また矛盾に気づいた。誰に気づかれない、しんだようにいきていけばそれで構わないと思っていながらもうだうだ考えつづけている。ずっとこの繰り返しだ。彼と出会ってから、顕著になった。このままでいいと思っている自分とこのままじゃいけないと思っている自分とが、介在するようになったのは。
「でも、いまそれだけ悩んでいるってことは、変わろうとしているんだね。そうやって変わろうとしているひとは尊敬できるよ」
そう話す彼の言葉は、実直だった。
「俺もときどき周囲が思う俺とほんとうの俺がかけはなれている気がするけど、まぁそれもいいかなって思っているしね」
「幸村くんが?」意外だと思って尋ねてみたら「みょうじさんのとはまた違うかもしれないけど」と、彼がつづける。
「テニスのことでみんなはすごいって言ってくれるけど、別にそんなことないんだよ。俺はただ、テニスにふれていた時間がひとよりちょっと長かっただけなんだ」
ちょっと長いだけで全国区に選ばれるものじゃない気がするけれど……と、思ったが、彼の言い振りは本心のように聞こえた。さらりと言いのけるからには、彼にとってはそれが当然の世界で、しかしきっと、『ちょっと長い』には計り知れない重みが隠されている。放課後、フェンス越しに映る彼をながめていると、そう思う。天才だ優秀だのと持て囃される彼は、もちろんそなえられた才能のおかげもあるのかもしれないが、しかしそれ以上に、想像もできないほどの努力を培ってきたはずだ。
「それでもやっぱり、幸村くんはすごいよ。そういうちょっとは私には……誰にでもできることじゃないから」
「俺にはできなくても、君にはできることだっていくらでもあるよ」
「そんなこと、あるのかな」
とても存在するとは思えない。
しかし彼は言い切った。
「気づいてないだけだよ。君が教えてくれたことも、それでよかったこともわかったことも、たくさんあるんだ」
この場所でいったい、彼はなにを見つけたのだろう。私は彼に、なにができたのだろう。
「卵焼き、つくれるようになったもんね」
と言えば、
「ほんとうだね」
彼が笑った。
たったそれだけのことが、くすぐったくて、あたたかい。
「悩んでいるなら、変われるよ」
彼が言うと、ほんとうにその通りになりそうだと思えるから、不思議だ。
「確かにはじめの頃の君はなかなかつめたかったけど、あのときはあのときでいい味が出てたと思うよ」
「それって褒めてる? 嫌味?」
「今後に向けて期待はたんまりかけないとね」
「性格悪い」
「あははっ」
もしもあのときの私に会える機会があるなら、びっくりしないように教えてあげたい。一緒にお昼を食べる。会話する。笑う。悩みごとを話す。そして、すきなひとができる。たくさんの宝ものに巡り会えて、ちょっとずつあなたの持論はくつがえされるんだよ。そう言ってあげたい。
これはひとりごとだから気にしないんでほしいんだけど、と、彼が添える。
「俺しか知らない君がいるっていうのも、それはそれで結構好きなんだ」
「なにそれ」
「なんだろうね」
彼はちいさく笑っていた。私にはよくわからなかった。
「俺もきっと、君の前だと全然違うんだろうな」
どういう意味なのか訊ねてみたけれど「いろいろだよ」と、機嫌のよい返事しかなかった。やっぱり、わからなかった。
「おいでよ」
彼が腰を浮かせて、スペースを空けるようにして横へずれた。なんとなく断る気にもなれなくて、彼のいるベンチへと回る。こうして隣に座るのは今日がはじめてだ。
誰かのそばにいるのは苦手だ。いつなにがあっても身構えられるように気を張り続けないといけない。
「たまにはこっちもいいだろう? そっちは暗いうえに湿気ているし」
「私にはそっちのほうが似合ってるよ」
「そう卑屈にならなくても」
たとえ隣にいるのが彼でも、こわかった。それでも
「たまには、いいかな」
こんな日が増えていけばいいな、と思えただけでも、とんでもないことなのかもしれない。
「明日植えたいものを選んでくるから、一緒に考えてくれるかい」
「幸村くんの好きな花でいいんだよ」
「せっかく君もいるんだから、君の好きなものにしないと」
「せっかく?」
「そう、せっかく。あ、そうだ。そろそろ下の名前で呼んでもいいかい?」
「どうぞ」
「君は?」
「え?」
「呼んでくれないのかい」
「私はいいよ」
「遠慮なんてしなくていいのに」
「その、呼んでくれるのはうれしいけど、幸村くんの周りがややこしいというか、なんというか」
「ややこしい? よくわからないけど、ややこしくなんかないよ」
「ややこしいの。私も呼んでみたいとは、思うけど」
「あ、呼びたいんだ」
「は?」
「呼びかたなんてどうでもいいでしょとか言いそうだと思ったけど、そうでもなさそうなんだね」
「私のモノマネ全っ然似てないから」
「やっぱり最近のなまえ、素直になったよね」
「あ、あのね! というか、名前……!」
「どうぞって言ってくれたじゃないか。あと、もう少しこっちを見てほしいのだけど」
「いまはだめ」
「だめ?」
「だめ」
「さびしいな」
「思ってないでしょ」
「だってせっかく隣にいるのに」
「せっかく?」
「そう、せっかく」
分厚くて真っ白な雲に、真っ青な空。
それからも彼とはとりとめのない話をしていた。
せっかく、ふたりでいる景色を想像しながら。このさきもずっと光のかたまりみたいな時間がつづいてくれますようにと願って。
第二章
いつかこうなるだろうとは予想していたけれど、体感してみると思っていたよりもずっとくるしい。いままで耐えてこられたのが幸運だったのかもしれない。
走っている途中、倒れかけた。どうにか倒れるまでにはいたっていない。
あらかじめ相談の上、私は例外的に体育でもマスクをつけてもいいと許してもらっていて、それはかなりありがたいので文句は言っちゃだめなんだけど、実は結構つらい。準備運動の外周はやっと慣れてきたとはいえ、いまだに球技系のハードな運動にもなるとかなり息苦しい。酸素不足なのかめまいが襲う瞬間も度々あって、それでもどうにか堪えてきたのに、今日は調子が悪かった。朝ご飯、食べそびれたからかな。
ぐらつく視界のなか、重い足取りで保健室にたどり着く。保健室の先生のやさしさに甘えて、しばらくは寝させてもらうことにした。ほんのりとただよう消毒液の匂いが不思議と癒してくれる。家のベッドとは違っていかにも無機質で固い感触なのに、横たわればあっけなく意識ごと沈み込んだ。
――ここには俺もいるけど、君もいるんだから
彼の思ううつくしい景色には、私もいる。
うれしかった。たとえかなわなくても、そう思ってくれただけでほんとうにしあわせだった。
かなわなくても。
彼の願っている景色に、私はふさわしい対象物にはなれない。私を覆うこれをとってしまったら、たちまち彼の理想とかけ離れてしまうのだ。
ほんとうの私を見たら、彼はどう思うだろう。
ゆったりと、瞼を開く。遠くのほうからチャイムの音が聴こえる。保健室の外から生徒のさわがしい声もする。いつのまにか休み時間になっていたようだ。
おぼろげな頭で白い天井を見つめる。こうしてぼうっとしていると起き上がるのがめんどくさくなってくる。つぎはなんの授業だっけ。そういえば英語だったような。あの先生、出席番号であてるから今日は私が指名されそうだ。うーん、もうちょっと寝ちゃおうかな。一応体調不良者だし。とか言ったら怒られるかな。誰にだろう。
邪な考えが横切ると、瞼を閉じるまでにそう時間はかからなかった。だって疲れてるもん。寝なきゃもったいないもんね。
そのまま意識を手放そうとしたときだった。丁寧なノックが鳴った。
「失礼します」
急激に頭が冴え渡った。
彼の声だ。
なにやら保健室の先生と話しているみたいで、さらに耳をそばだててみると、「みょうじさんは……」彼が私の名前を口にしているではないか。保健室の先生も、あっちのベッドで云々などと説明している。
えっ、わざわざ見に来たの? 彼のクラスも合同で体育をしているのは知っていたけれど、さすがに私の存在には気づいていないと思っていた。そんな大袈裟なことじゃないのに。
ぐるぐる考えているうちにカーテンが開く音がする。ひとつ大きく、胸が跳ねる。
これは、彼の気配だ。横たわる私を見下ろしている、のだろうか。いまわかったことだけれど、いつも背中越しで会っているからか顔を見ずとも気配だけで察知できるという特技を知らないうちに習得していたみたいだ。すごく気になるのに接着剤で塗られたかのように瞼が開かない。視界を閉じているぶん、一段と神経が研ぎ澄まされているような気がする。
ベッドのスプリングが微かに軋む。頭のそばでシーツが僅かに沈みこむ。瞼から広がっていくかのように、じっくりと全身が硬直しはじめた。彼が、ベッドに座っているんだ。唾を飲み込みたいのにその音さえも彼に聞こえてしまいそうで憚られる。どうしよう。タイミングを逃してしまった。でも起きるならいましかない。自然をよそおって、たったいま目を覚ましたふりさえすれば。
そう思った矢先だった。
とん、と、額にひとの体温が伝わる。多分これは、彼の指。熱を測るために皮膚全体で押しつけているわけではなく、確かめるためだけのふれかた。日頃からラケットを握っているからだろうか、繊細そうな指さきに見えるのに想像よりもかたい感触がする。さらりと前髪がはらわれ、額から頬へながれていく。マスク越しでも骨のかんじがよく伝わるから、きっとこれは、指の背。こわれものにふれるみたいに、不安になりそうなくらい、やさしくて慎重な手つき。
撫でられるように指が降っていく。唇の上で、静止した。
脈拍が最高潮に達している。このままおさまらなかったら、しんじゃいそう。
もしかして、幸村くんじゃないの?
空調の唸る音。先生が引き出しを開ける音。
誰も来ないで。私はなぜか、祈っていた。
「好きだよ」
消えてしまいそうな、低く掠れた声。かたどるように、唇のうえを指さきが滑る。
ベッドの軋んだ音が鳴ると同時に、気配が遠ざかる。先生に断りをいれた声のあと、扉の閉まる音がした。
どれくらい時間が経ったのだろう。
ゆっくりと瞼を開く。さっきと同じ景色のはずなのに一気に光が飛び込んだみたいに視界がちかちかする。しばらく目を慣らして、ぎこちなく上体を起こした。
いったい、なにがどうなってああなったんだっけ。
「……うそ」
マスクの上から、彼がふれたパーツをたどっていく。おでこ、頬、そして。まるで彼の体温が直に伝わって、一極に集中してじんじんと熱を帯びているみたいだ。
つけていてほんとうによかった。そう思うことがあたりまえだったのに。
「うそ……」
つけていないほうが、よかったかもしれない。そんなふうに思ってしまうなんて。
ばふんっと音が鳴るくらい勢いよく布団を頭にまで被る。枕に顔を埋めてうつ伏せになり、心臓をぐっとシーツに押しつけた。いっそこのままつぶれてしまって、さっさと鳴り止んでくれたほうがいいかもしれない。
これから、どうしたらいいの?
結局、英語の授業はサボってしまった。
第二章
いつかこうなるだろうとは予想していたけれど、体感してみると思っていたよりもずっと大変だ。いままで耐えてこられたのが幸運だったのかもしれない。
走っている途中、倒れかけた。どうにか倒れるまでにはいたっていない。
あらかじめ相談の上、私は例外的に体育でもマスクをつけてもいいと許してもらっていて、それはかなりありがたいので文句は言っちゃだめなんだけど、実は結構つらい。準備運動の外周はやっと慣れてきたとはいえ、いまだに球技系のハードな運動にもなるとかなり息苦しい。酸素不足なのかめまいが襲う瞬間も度々あって、それでもどうにか堪えてきたのに、今日は調子が悪かった。朝ご飯、食べそびれたからかな。
ぐらつく視界のなか、重い足取りで保健室にたどり着く。保健室の先生のやさしさに甘えて、しばらくは寝させてもらうことにした。ほんのりとただよう消毒液の匂いが不思議と癒してくれる。家のベッドとは違っていかにも無機質で固い感触なのに、横たわればあっけなく意識ごと沈み込んだ。