chapter 1
01


「もう、一生笑わないで」


 女は、震える口に精一杯の力を込めてそう言い放った。

 その言葉を真正面から受け止めたのは、まだ年端もいかない、善悪の判断ですら境界があやふやであろう齢の少女である。当然少女は驚いた。何故そのような冷酷な言葉を唐突に投げかけてくるのか。それも、女が自らを生んだであれば、なおさら。


「怒らないで、悲しまないで、泣かないで、嬉しがらないで、叫ばないで、楽しまないで。貴方が感じる味覚も、触覚も、視覚も、聴覚も嗅覚も、全部全部全部、あの子はもう二度と手に入れることはできないのだから」


 ――だったら、あの子のために感情くらい、消してくれたっていいでしょう?

 “子”を理不尽に奪われた母は、数少ない“子”との繋がりを必死にかき集めようとする。けれどその繋がりすらも理不尽にかき消され、“子”は初めから存在しないものとして虚無へと還った。その時点で、女は限界だったのだろう。もはや母としての姿などとうの昔に消え去り、今はただ、唯一手元にある所有者の消えた産着を抱きしめて泣くだけの肉と化している。たとえ、が目の前に立っていたとしても。

 少女は一言も発さなかった。たった一瞬だけで、女の言葉の意味も、その裏の感情も全てを読み取れてしまうだけの頭脳を持って生まれてしまった。もう少しだけ性能を落とした脳を持って生まれていれば、きっと女の言葉の意味を理解できないままそっくり家の誰かに告げ口し、感情を理解しようとすることもなく女の消えた家でのうのうと暮らすことができたのだろう。

 けれど、少女は理解してしまった。なぜ女が泣いているのか。なぜ己の感情を差し出せと喚いているのか。その抱えている産着が、一体誰のものであったのか。

 全て。全て分かったからこそ、女の言葉に素直に頷いた。

 誰が悪いわけではない。女が悪いわけでも、もちろん自分が悪いわけでもない。。それ故に一人、死んでしまった者がいる。それだけのことだ。

 おそらくこの“同情”こそが、自分が女へと向ける最後の感情となるだろう。無表情のままくるりと踵を返すと、後ろの方から女の嗚咽が聞こえてきた。

 視線だけをそちらへ寄こすと、廊下の真ん中で蹲っている女の姿が目に入る。

 ――今一番感情が豊かなのは、きっと貴方だね。

 そう言えば女は怒るだろうか。そんな事を頭の隅で考えながら、少女はぺたぺたと足音を立てて立ち去った。沈みかけた太陽の光は窓から差し込んで女の肌をオレンジ色に染め上げたが、少女の顔を照らすことは一度もなかった。




◇◆◇





 お祖父様が死んだ。

 別に涙は出てこなかった。仲が悪かったわけではなかったけれど、特段話した覚えもないから思い入れも愛情も何もないわけで。私なんかよりも、血の繋がっていないの方が余程号泣していた。まあ、その涙が果たして本当のものなのかなんて、本人にしか分からないことだけど。

 でも、きっとこれから大変な事が起こる。大変、とまでは行かないにしても、かなり面倒な事が。お祖父様の立場との事を考えれば、察することは容易い。


「東雲識ちゃん、だよね」


 下校途中、ふと正面から声をかけられて立ち止まった。

 知らない人にいきなり話しかけられた時の対処法はどうだったか。一つ目。相手から敵意を感じれば迷わず逃げる。二つ目。そうでなくとも悪意を感じれば逃げる。三つ目。それ以外ならば警戒心を最大にして応答する。ざっくりだが、確かこんな感じだったはずだ。

 それを踏まえた上で目の前に立っているサングラスの男を一瞥し、さてどうしようかと考えた。手ぶらで、口元だけの笑みを浮かべポケットに手を突っ込んでいる姿は、初対面の女子中学生に話しかける態度としてはどう見ても不正解と言わざるを得ない。道を訪ねたかっただとか、そんな平和な案件ではないだろう。

 身長は190を超えるだろうか。まだまだ成長途中の私にとってはまるで道を塞ぐ壁のようで、何もせずとも威圧感を感じてしまった。きっと本人にそんなつもりはないのだろうけど。

 じっと観察してみるが、ここまでで彼が私に危害を加えんとする動作は一ミリもしていない。一定以上の距離に踏み込まないという配慮もきっちり感じられる。姿は怪しさ満点だが、態度はそれほどまでではない。ならば、と私は三つ目の対応を取ることにした。


「……何か、ご用ですか?」


 あくまで冷静に、男から視線を逸らさずにそう言った。後ろに回した左は人差し指と中指をぴったりとくっつけて立て、術式を発動させる。これであの男が少しでもおかしな動きを見せたら、私の式神が即噛みついて迎撃するだろう。男の実力は知らないが、護身程度にはなるはずだ。

 すると男はそんな私の動作もお見通しとでも言いたげに「すっげー警戒されてんじゃん」と笑った。


「よく分かりませんが、用が無いならそこをどいてもらえますか? 今は……」
「お祖父さんが亡くなったから早く帰らなきゃ、でしょ?」


 男の口から飛び出た言葉に、私は警戒レベルをさらに引き上げた。片足を半歩後ずさり、いつでも駆け出せるようにしておく。あと一歩でも彼が私に近づけば式神が姿を現す。それがスタートダッシュの合図だ。

 お祖父さまは東雲家の当主であり、呪術界ではそこそこ名の知れたVIPなのだと聞く。実際呪術師同士の会議に何回も出席していたし、稀に顔の知らない呪術師がお祖父様に連れられて歩いていたのを見たことがある。彼の訃報を受け、わざわざ孫の私に話しかけてくる人物と言えば、高確率で呪術師だ。

 呪術師の家系に生まれた私が言う事でもないが、呪術師にロクな奴はいない。利己的と保身の極みを突っ走るような、関わらない方が人生楽しく過ごせる人物ばかりだ。……私の祖先も含めて。

 サングラスの男はお祖父様の名を出せばどうなるか既に分かっていたのか、「まあそうなるよね」と一歩だけ退いた。


「それ解いて……って言いたいところだけど、話す分には困らないし別にいっか」


 どうやら男は私が式神をスタンバイさせている事にも気付いていたらしい。彼から見て四時の方向を指差すが、すぐにその手を降ろした。サングラス越しでは視線は分からないが、おそらくその他の場所にも気付いているのだろう。尤も、呪力探知など初歩の初歩も良い所なので、並みの呪術師であれば気づけて当然の範囲なのだが。


「突然で悪いけど、こっちも時間がない。本題から入ろうか。……君ん家が管理してる宮毘羅之大蛇くびらのおろち、あれどこにやった?」
「………………」


 やはり、そう来ると思っていた。

 宮毘羅之大蛇くびらのおろち。呪術師ならば知らない者はいない、現在高専が存在を確認できている特級呪霊のひとつ。

 しかし呪霊と言っても、通常術師が祓うあの呪霊とはやや違う点もある。それは宮毘羅様が特級呪霊の中でも珍しく、呪術師によって完全に管理されているということだ。

 これが特級呪物となれば、話はやや変わってくる。有名どころで言えばかの呪いの王“両面宿儺の指”や“呪胎九相図”だろうか。それらは高専側に完全に認知され、既に複数存在するうちのいくつかはとっくに呪術師達によって回収されている。だがそれはあくまで高専が“所有”しているというだけの話。言い換えてしまえば、今すぐにでも抹消したいがあまりの強度に所有せざるを得なかったもの。つまり、あまりの強大さに持て余してしまっている状態だった。

 一方、宮毘羅様は違う。

 私の祖先が宮毘羅様と契約を交わしたのは、今からおよそ600年前。室町幕府第三代将軍足利義満が死去した頃だと推測される。その頃から今に至るまで宮毘羅様は東雲家と共にあり、絶妙な利害関係を結び続けている。呪物として封印するのではなく、あくまで一時的な協力関係として。その“一時的”を、600年以上も続けているわけだけども。

 だが、お祖父様の急死と同時に騒動の引き金は引かれた。お祖父様、つまりは現東雲家当主兼契約者の死と共に、600年間東雲家と共に在り続けた特級呪霊“宮毘羅之大蛇”が――突如失踪した。

 正直、跡継ぎ云々の話よりもこちらの方が事は重大だ。600年力を蓄えた特級呪霊が人の手を離れもしもどこかで暴れようものなら、その被害は計り知れない。呪術師総動員で祓いに行ったとしても、半数が帰ってくれば御の字だ。

 だから、高専に属する呪術師はこの事態を静観などしていられない。少しでも早く失踪した宮毘羅様の行方を掴み、祓う若しくは封印を試みなければならなかった。

 けれど、それを私に聞くのはお門違いだ。


「……残念ですが、宮毘羅様の行方を私に聞かれても無駄かと」


 だって、私は一度も宮毘羅様のお姿を見ていない。私にも呪力はあるため呪霊である宮毘羅様のお姿が見えても不思議ではないのだが、この15年間一度だって宮毘羅様を拝見したことはない。仮にどんな呪霊なのかと問われても、文献に載っている以上の事はきっと話せないだろう。

 だから、宮毘羅様の行方を聞かれたところで答えられるはずがない。お父様にも、高専のお偉い方々にも掴めない宮毘羅様の動向を、どうして私が掴めることができるだろうか。


「でも普通、宮毘羅は契約者が死ぬとその子供に契約が引き継がれる。契約者と当主は兼任するのが通例だから、当代の契約者は君のお祖父さんだ。けど、お祖父さんが死んでも君のお父さんの元に宮毘羅は現れなかった。もちろん君のところにも」
「だから高専は私とお父様の両方を、宮毘羅様を容疑者として注視しているんですよね。他に東雲家の人間はいなくて、宮毘羅様に干渉できるのは私たちだけだから」
「……いや、うん。合ってる。合ってるんだけどさぁ」


 「君、本当に中学生?」と若干引き気味の男に、私は「そうですけど」とさらりと返した。


「呪術師の家系に生まれて、肉体年齢と精神年齢が一致したまま育つ方がレアだと思います」
「んーまあそれもそっか」


 呪術師としての歴史が長ければ長いほど、それは顕著になりやすい。「貴女は東雲家の血を引いているのですよ」というお付きの人の言葉を、この年になるまで何百回聞かされただろう。15年もまあ飽きないなと思いつつも、それでも東雲はまだマシな方なんだなと思う。風の噂で聞こえる御三家、特に禪院家なんてひどいものだ。あれに比べれば、東雲の取り巻き達の小言なんて可愛く思えてくる。


「とにかく、私は宮毘羅様の件に関して一切関与していませんし、宮毘羅様の行方も知りません。他にも何か?」
「いーや、それが分かれば他は別に。
……?」


 何やら含みのありそうな言い回しだ。訊き返しても男はひらひらと手を振るばかりで答える様子はない。その態度が少しだけ腹立たしかったが、それを表に出すのは私の信条に反する。

 すると男はすんなり帰るようで、くるりと背を向けて来た道を戻り始める。慌てて「あの、」と呼び止めると、男はぴたりと足を止めた。


「いいんですか? 私が嘘をついてる可能性もありますよね?」
「何、識は僕に嘘ついてるの?」
「いや、そういうわけじゃ……ないですけど……」


 私が実は宮毘羅様を隠した張本人で、保身の為に白を切っているとは思わないのだろうか。

 振り返った男にサングラス越しにじろりと見つめられたような気がして、泳ぎに泳いだ私の視線は最終的にコンクリートに落ちた。その様子を見て男は口を覆って笑う。肩がプルプルと震えており、そんなに笑われるほどかと苛立ちが増した。


「いや、今ので分かったよ。君絶対嘘つけないタイプでしょ」
「………………」


 否定は……できない。今まで生きてきた中で嘘をつかなければならない瞬間なんて出会うこと自体稀で、偽るということに苦手意識を抱いていることは紛れもない事実だ。こうしてすぐに看破されてしまうくらいには。


「ま、ひとまずは安心してよ。宮毘羅の居場所を君に聞いたのはあくまで。知ってたらラッキーくらいにしか思ってなかったから」
「適当……」


 それでいいんだろうか。まあ本人が言ってるんだし、きっといいんだろうな。彼の周辺人物は随分苦労してそうだけど。

 でも、絵に描いたような軽薄さを体現していても何故か安定感があった。弱々しくもなく、かと言って強気でもなく。自身に絶対的な自信を持っているが、余裕と警戒のバランスを保つのが異様なほど上手い……と言ったところだろうか。

 彼は再び帰ろうと足を動かしたが、「あ、そうだ」と呟いて足を止めた。動き出したり止まったり忙しない人だ。


「僕は五条悟。近いうちに君のご実家にお邪魔することになると思うから、まあ覚えておいてよ」
「………………えっ」


 何度目の正直か、今度こそ遠くなる背中を見つめたまま情報を理解しきれずその場に立ち尽くした。

 五条悟。御三家の中の一つ、菅原道真公を先祖とする五条家の人物で、数百年ぶりの“六眼”と“無下限術式”の抱き合わせというまさに奇跡のような存在。そしてを代名する男。私とは似ているようで全く違う世界に生きている人だ。


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