培養器の中で眠っているそれは、つい二週間前まで胎児の姿を取っていたものだ。今ではすっかり二十代前後の女性の形を取り、水音を子守歌に膝を抱えて瞳を閉じている。体には何本もの管が繋がれ、その管こそが彼女の生命線となっていた。
その培養器を見上げる男女が二名。両名とも少し撚れた白衣を羽織り、女の方は培養器の横の機器にもこまめに視線を配っている。
「やはり、バイタルは不安定なままですね」
画面に表示される数値を見て、女はそう告げた。男はそうかと短く返すと、考え込むように口元に手を当てる。
「いくらなんでも二週間は早すぎます。このままでは、培養器から取り出した瞬間に……」
「ああ、おそらくそうなるだろう。万が一生き延びたとしても、訓練に耐えられるかどうか……」
言葉を失った彼らの耳に、ばたばたと急ぎ足で廊下を進む足音が届いた。この研究所の職員であれば誰もが馴染み深い、よく聞く足音である。しかし今日は特別慌ただしいようで、いつもよりもほんの少しスピードが速かった。
「おい、193号の開発はどうだ!?」
「所長」
培養器の前で佇む彼らと同じ白衣を身に着けた男が、部屋に入るなりそう叫んだ。彼の額には汗が滲んでおり、いつにもなく焦っているのが一目で分かる。しかしその原因は研究者たちも理解していた。“納期”が近いからだ。
「し、指示に従い、肉体の成長スピードを通常の二倍にまで引き上げました。しかし体内器官の構築に強度が追い付かず……!」
「所長、まだ193号は外に出せる状態ではありません! 予定日を遅らせては……!」
「後ろにあと七体も控えているというのに、これ以上遅らせてどうする! ファデュイを敵に回すつもりか!」
ファデュイ。所長と呼ばれた男がその名を出した途端に、研究者たちは異議を唱えていた口をすぐさま閉ざした。それは今回の取引先となる組織の名であり、この研究所のスポンサーの名であり、そして培養器の中の女
「要は納品さえしてしまえば良いのだ! 全200体のうち、一体くらい不良品が混ざっていることは
「ですが……!」
「生命維持装置を全て切れ! アライア0193を目覚めさせる! 所長命令だ、早くしろ!」
男にそう強引に迫られ、二人は渋々培養器横の機器を触り始めた。培養器内で行われている全ての工程を強制終了させ、眠っている女を無理矢理目覚めさせる。これまでに192回繰り返した作業だったが、193回目の今日は動かす指が重かった。
外側だけ見れば、一般的な女性と何も変わらない。肌は透き通るように白く、雪のように真っ白な髪と睫毛はまるで氷の精のようだった。瞳を閉じていても端正な顔だと分かり、気を抜けばつい見惚れてしまうほどの完成しきった“美”がそこにある。まさに至高の芸術品だった。
だが、彼女達は愛されるために生まれるのではない。むしろ、恨まれるために生まれるのだ。彼女たちは、これからファデュイの命令下で死ぬまで働かされることになる。先に生まれた192体は既に“訓練”を実施済みだ。訓練と呼ばれてはいるが、実際は調教に近い。何人をも切り裂く戦闘技術を、異性を惑わせる蠱惑的技術を、心を身体に直接叩き込む。
ファデュイに送られた後は一般構成員にはすることのできない汚れ仕事をさせられ、余った分は“博士”の下でモルモットとして扱われることとなる。
しかし、培養器の中の彼女だけはそれら全て経験するに至らない。それでも、その方が幸せなのかもしれないと女性研究者は思った。
彼女達――アライアシリーズが受けている仕打ちは、非道と言わざるを得ない。倫理観からかけ離れた行為を強いられる彼女たちを生み出した者として、その一部始終の報告は余すことなく目を通していたが、正直目を覆いたくなるようなものばかりだった。非人道的な扱いを受けた末に死ぬか、何もできないまま死ぬか。二択しかないのなら、いっそ後者を選ばせてやるのが彼女なりの慈悲の表れだった。
レバーを下げ、培養液を外に放出する。193号の体に繋がっている管はとうに効力を失っており、あとは彼女の意識の覚醒を待つだけだった。
だが――待てども一向に動く気配がない。他の192体であれば今頃動き出しても良い頃なのに、動くどころか瞼が上がる気配も見せない。
まさか、と研究者達の脳に最悪の結果がよぎる。バイタルを確認しようにも、彼女に繋がれた管は既に切ってしまったため機器には何の数値も映し出されない。彼女の状態を確認するためには、直接脈を測り取るしか方法はなかった。
仕方ない、と所長が率先して動く。どうにか動いてくれさえすればそれでいい。どうせ不良品には変わりないのだから、せめて納品するまでの期間もってくれればいいのだ。そう思い、彼の指が彼女の首筋に触れる。
彼女の死は、既に決まっていた。超未熟児のような形で生まれた彼女にこの先の“生”を謳歌する権利は与えられず、ゆっくりと体を蝕む衰弱と共にただ死を待つのが運命だった。
それでも、彼女は人間だった。人工生命体という最初から最後まで設計図の通りにしか成し得ない体だとしても。自分と全く同じ存在が他に192体いるとしても。その生誕が禁忌に塗れ、汚泥のように他人に踏み荒らされたものだったとしても。彼女は生を渇望し、生を願った。――生きたい、と。心の底から祈った。
――次の瞬間、彼女の体から灼熱の炎が溢れ出した。
「!? ぁ、あああ、あづい!! 熱い熱い熱い!!!」
「ぜ、全研究棟へ緊急連絡を! 非常事態が……うわぁぁああ!!!」
彼女を中心として炎が奔る。床、壁、装置の全てが燃え盛り、炭と化した死体が三つ転がった。炎は酸素を求めて研究室の外へと向かい、道中の人間の悉くを悲鳴を上げる間もなく奪う。全ての研究棟が焼き尽くされるまで、そう時間はかからなかった。まるで産声を上げるかのように炎はうねり、火柱が高くそびえ立つ。建物も、装置も、人も、炎に包まれた。
――十数時間後、救難信号を受け取ったファデュイの調査員が研究所に到着した頃には、既に火は消え去っていた。あの猛るような業火をもってしても、スネージナヤの極寒にはそう長く耐えることができなかったのだろう。人目につかないよう氷山の奥深くに隠された研究所は倒壊し、見るも無残な姿と成り果てた。
まず転がっていたのは、研究所から逃げ出した研究員であろう者の凍死体だ。突然の火災に着の身着のまま、防寒具も何も持たずに外に飛び出したはいいが、スネージナヤの吹雪の洗礼に成す術もなく息絶えた。それでも綺麗な姿で死体が残るだけまだマシだ。研究所へ近づくにつれて、不自然な形で残された灰や炭、そして誰のものか判別もつかない焼死体が散乱している。逃げ遅れた者たちの末路は想像するだけで血の気が引いた。
調査員たちは研究所の奥へと進み、状況を確かめる。焦げ臭さに鼻を覆ったが、それでも足を止めることはしなかった。
報告によれば、ここは近日中にファデュイに納品される予定だった人工生命体、アライアシリーズの製造現場となっていた場所だ。既に九割近くが完成していると聞いたが、研究所内に彼女たちの死体は見当たらなかった。であれば、あの火災を逃れることができたのだろうか? そうだとしても、研究所の外の凍死体の中にそれらしき人物は見当たらなかった。人工生命体と言っても、遺伝子情報や体の造りは人間と何も変わらない。極寒の氷山の中で人間が生きていける環境はこの研究所の中だけだ。生き延びているとは考えにくい。
散乱する屍を通り過ぎ、研究所の最奥までたどり着く。どうやらここが火災の発生源のようで、床や壁の焦げ具合がこれまでとは段違いだった。焼死体が三つ、転がっている。
その部屋の中心に、女が倒れていた。焼け焦げた部屋の内部や焼死体とは違い、何も纏っていない珠のような肌には傷ひとつ付いていない。あまりに美しく――この惨状の中では、あまりに異様だった。
調査員の一人が、女の顔を覗く。瞳は伏せられているが、その造形と髪色から報告にあったアライアシリーズだと判断できた。しかし何故、この個体だけ無事だったのか?
詳細を調べようと調査員が女の体に触れようとした直前に、他の調査員が慌てた様子で待てと制止した。
「こいつ――“神の目”を持ってるぞ」
耳を疑った。神の目の存在はテイワット中の誰もが知っている。実際ファデュイにも神の目を所持する人物は何名も在籍しているが、全人口からするとその割合はわずか数%にしか満たない。まさに神の注目を受け、祝福を授かった者の証である。
動揺を隠せない調査員の視線を追うと、女の手の横に何かが落ちているのが見える。そこでは、真紅の宝珠が灰を被った床と彼女の肌の表面を反射し、ほんのりと空気を照らしていた。
静謐な部屋に、カリカリとペンを走らせる音だけが響く。デスクワークは決して楽な時間という訳でもないが、特に嫌いなわけでもない。少なくとも、上司と共に山々を駆け回ってあれやこれやと任務をこなすよりはよほど適性があった。どちらか選べと言われたら、迷わず机に噛り付くことを選択するくらいには。
流石はテイワット経済の心臓と言うべきか、璃月は良くも悪くも慌ただしい街と言える。商人が集い、冒険者たちで溢れ、右から左へ次々と人とモラが流れる。けれど北国銀行の奥の一室だけは、浮世から離れゆったりとのどかな時間が流れていた。
しかしそんな清閑も、ノックもなく扉が開かれる音で一気に打ち壊される。
「やあマルタ、進捗はどうだい?」
まるで作家の元に押し掛ける担当編集かの如く、彼はそこに立っていた。声色は上機嫌そのものであり、こういう時は大抵何かしらの厄介事を引き連れてやってくるんだよなとマルタは肩を落とした。
机の上には以前山のような書類が積み重なっており、マルタの頭上に影を作っている。正直、これ以上の仕事はオーバーワークだ。脳内に“残業”の二文字がちらつき、できれば顔を上げたくないと現実を拒み始める。それでも彼は直属の上司だ。上下関係を重視するファデュイで彼を無視するなどあり得ることではない。
「……公子様? どうかなさい……」
ました、と動かす予定だった口は動力を失ったようにぴたりと動きを止めた。握っていたペンがするりと手から滑り落ち、作成途中だった書類に小さな染みを作る。ああ、これでまた書き直しになってしまったという嘆きも、今は頭から抜け落ちていた。
執行官第十一位、“公子”タルタリヤ。執行官の中で最も若く、最も危険と称される男。そんな彼が、壁に背を預けて笑っている。……何故か、血まみれの状態で。
「本当にどうなさったんですか!?」
「騒ぐような事じゃないよ、半分以上はただの返り血だから」
それはつまり、半分は生傷ということだ。ガタ、と勢いよく立ち上がると、マルタは適当な長椅子に座るようタルタリヤを促した。
派遣されてきたファデュイに貸すための部屋ではあるが、さすがはテイワット最大級の金融機関と言うべきか家具や内装に至るまでの大半が一級品の品々で揃えられていた。金に困った時は一部屋売り払うだけで当分の食費には困らないだろう。そんな財が血で汚れてしまうのは少々心が痛まないでもないが、優先順位は金ではなく人命だ。汚れてしまった分の交換費用は、後で経費で落としてもらうことにしよう。
「隣、失礼しますね」
タルタリヤが答える間もなく、すとん、と彼の隣に腰かけた。普段は外套に覆い隠されている手がオレンジの照明に照らされ、指先がそっと彼の腕に添えられる。真っ白な肌はタルタリヤが少し掴んだだけで痕が残ってしまいそうなまでに細く、きっと折る事だって容易いだろう。
きょとんと眼を丸くしたタルタリヤだったが、その直後に視界に映った赤色で全てを理解した。マルタの指先から、炎が生まれる。炎は吸い寄せられるようにタルタリヤの腕の傷口まで届き、彼の肌を焼いた。他者が見れば仰天しそうな光景だが、タルタリヤにとっては割と日常に近い場面ですっかり慣れ切ってしまっている。
熱くはない。熱が無いわけではないが、じんわりと温かく、むしろ心地が良い。
塞がっていく傷口を眺め、タルタリヤは思わず笑みをこぼした。
「何度見ても笑えてくるね、これ。肌を焼いてるのに火傷になるどころか傷が治っていくなんて、絵面的には最悪だよ」
「はあ……これを笑い飛ばせるのは公子様くらいだと思いますが」
負傷したファデュイがマルタ行きだと告げられた時の表情は、袋小路に追い詰められた鼠のようであった。それもそのはずだ、とマルタも理解はしている。自分が逆の立場になったとしても御免被りたいものだ。
マルタの炎元素の術には高い治癒効果が含まれているが、それを利用して他者を治療する場合は必ず患部に炎元素を付着させなければならない。端的に言えば、患部を燃やすと治る。けれどその光景は中々にショッキングで、例え痛みはないしむしろ傷が治っていくのだと頭で理解はしていても、体……というよりは本能が拒絶するケースは多々存在した。
あるファデュイ構成員が任務中に腕を骨折した際には、「任務失敗という汚名を被ってもいいからマルタの元にだけは送らないでくれ」と懇願したらしい。その他にもトラウマを植え付けられた者は多く、中には万民堂の調理台の火を見ただけで震え上がる者もいるとか。それ故、璃月に滞在中のファデュイには通じて“絶対に怪我をしない”という石珀よりも硬い決意があり、マルタの派遣以前と比べて負傷件数が大幅に下がったという事例がある。広い目で見ると良い傾向ではあるのだが、マルタとしては少々複雑だった。
そんな話をしている間、タルタリヤの肩は常に上下に振動していた。とうとう耐え切れなくなったのか声をあげて笑う彼の横顔にマルタが呆れ顔を向けるが、彼には全く効果が無かった。
「あっははは! まあ、彼らの気持ちも分かるよ。君、スネージナヤの連中よりもよほど拷問の才能があるんじゃないか?」
「そんな才能いりません!」
タルタリヤの「冗談だよ」という言葉を幕引きに治療が終了した。手を開いて閉じてを繰り返し傷の治りを確かめる彼だったが、ふと思い立ったように口元に手を当てる。
「そういえば、マルタはごく自然に人間の傷を治すけど、花を再生させることはできる?」
「……はい?」
急に何を言い出すのかと思えば、タルタリヤはそう尋ねてきた。
――え、花? 骨の髄まで危険物が詰まっているような彼が、花?
思ってもみなかった台詞の真意を考えていると、「ただの興味だよ」と口に出すよりも先に補足が返ってくる。曰く、「君は他の奴らよりも考えていることが表情に出やすい」らしい。そうだろうか……?
ふむ、と少し考えてみる。花を癒したことはないが、理論上不可能ではない。花だって植物、立派な生命だ。やってみなければ分からないというのが本音だが、やってできないことはないだろう。勿論、花の状態にもよるが。
そう伝えると彼は上着のポケットの中身を探って、はい、とマルタに差し出した。
「これは……瑠璃百合、ですか?」
「玉京台以外で咲いているものは珍しいんだってね? 摘んでみたはいいけど片手が塞がった状態じゃ弓も持てないし、何より相手に失礼だろう? 俺はいつだって、戦闘には真摯でいたいからね」
「それで、無造作にポケットに突っ込んだんですね……なんというか……」
この瑠璃百合が可哀想だ。タルタリヤの言う通り、自然の中で咲いている天然の瑠璃百合は極めて希少だった。それなのに、周囲に仲間もいない中でたった一輪健気に咲いていたところを摘み取られ、挙句ポケットの中でもみくちゃにされてきたとは。瑠璃百合保護の会の人間に見つかれば非難は免れない。マルタだってこの瑠璃百合に同情の念しか湧かなかった。
手の中の花をじっと観察する。玉京台で咲いているもののような凛々しさは見る影もなく、花弁も茎もしわくちゃになって哀愁を漂わせている。企業や組織に酷使され続けた労働者のようだ。そう思うと、どこか自分と重なって他人事のように思えなくなってしまった。
きっと公子のポケットの中は厳しい環境だっただろう。よくぞ耐えてくれた。後は任せて欲しい。
刹那、一輪の瑠璃百合を炎が包み込んだ。
「ははは、もはや何でもありだね」
「さすがに蘇生は無理ですけど、この程度ならいくらでも」
炎が消えた後の瑠璃百合は、まるで別の個体のようにぴんと花弁の先まで芯が通っていた。タルタリヤのポケットの中で過ごした時間が嘘のようで、たった今地面から摘んだばかりだと説明すれば誰もが納得するだろう。半信半疑で試したものだったが、無事成功できたことにマルタは胸を撫で下ろす。
「あの、公子様。この瑠璃百合は、何かに使用するものでしょうか?」
「いや、ただ単に気が向いただけだから、特に使う予定はないよ」
「でしたら……この瑠璃百合、私にいただけませんか?」
顔色を伺いつつそう尋ねると、タルタリヤは意外だったのか大きな瞳をさらに大きくしてマルタを見下ろした。
「別に構わないけど……君に花を愛でる趣味があったとは意外だね」
「趣味……まあ、はい。花は好きです。……故郷では、花はおろか植物さえも育ちませんでしたから」
マルタの真意としては、このままタルタリヤに返すと花瓶に生けることさえされずに枯れ果ててしまうだろう、の方が正しかったのだが、口から出た言葉も間違いではない。
一度足を止めてしまえば、震え上がるほどの冷気が全身を突き刺す氷山地帯。到底人間や植物が生きていける環境ではないそこに、あの研究所はあった。
同じスネージナヤで育った身として、タルタリヤもそれは簡単に想像がついた。タルタリヤの故郷もマルタの研究施設があった氷山ほどではないにしろ、植物に囲まれていたとは言い難い。人生で初めてモンドのどこまでも続く草原を見た時は、幼い頃に見た本の中の情景が思い浮かんだほどだった。
だから、マルタの気持ちもわかる。分かるのだが……スネージナヤ本国で囁かされる彼女の人物像と目の前の人物像の食い違いに、タルタリヤは笑いをこらえきれなかった。
「あっははは! まさか君からそんな言葉が聞けるなんて、夢にも思ってなかったよ!」
「えぇ……? えっと……?」
タルタリヤの突拍子のない言動に、マルタはひたすら戸惑いの視線を投げるしかできなかった。今日の彼は少しテンションが高いらしい。思えば、服にべったりと血が付くまで戦うというのも珍しい事だった。
彼は根っからのバトルマニアで、頭のてっぺんからつま先まで戦闘という快楽にどっぷりと浸かってしまっているような人物だが、それは強者との戦闘に限る事。敵が自分よりも弱いとすぐに判断がついた場合は大抵初撃で終わらせてしまう。だから、ここまで傷を負うことも返り血だらけになることもないはずなのだ。
一方、マルタからの怪訝な視線に気づいたタルタリヤは息を整えつつ、再度彼女の姿を見下ろす。
――曰く、スネージナヤで噂されるマルタ・アライアとは氷のような鋭い目を持ち、自らの生みの親たちと共に自身の心までもを焼き尽くしてしまった業火の魔女らしい。何かを愛する心も大切に想う気持ちも、全てあの氷山に落としてきてしまった
「君、ファデュイとしての役目を終えたらスネージナヤで花でも育てて暮らしたらどう? 何なら、その時は業者を手配して温室でも建てさせようか。きっと他のファデュイも驚くだろうね」
自分の本国での評価が一体どんなものになっているのかなど知りもしないマルタは、タルタリヤの言葉の意味が微塵も伝わってこなかった。自分はただ、花が好きだと話しただけだ。育てるのが好きだと言った覚えはない。まあ、嫌いという訳でもないのだが。
彼の思考が理解できず、マルタは手の中の瑠璃百合に視線を落とした。こんな微妙な空気の中でも、マルタが治癒を施した瑠璃百合は元気に花を開かせている。その姿は業火の魔女でも人ならざるものでもなく、ただの花が好きな一人の女だった。
――ああ、そうだ。彼女は間違いなく人間だ。食するわけでも共生関係でもないのに花を愛する生物なんて、人間くらいなものだ。
偶然スネージナヤで耳にした彼女への噂を、タルタリヤは脳内で紙に包んで塵箱に放り込んだ。全く持ってくだらない。そんなことよりも、もっと楽しい事を考えよう。そう、例えば先日戦った遺跡守衛が非常に面白い動きを見せてくれた話だとか、璃月から遠く離れた遺跡でアビスの魔術師が集まっている話だとか、今日遭遇したマルタ・アライアの
けれど、それを彼女に話すのは今日はやめておこうと思う。特に最後の話題については、また時間があるときにするべきことだ。
「――じゃ、そういうわけで追加の書類も頼んだよ、マルタ」
「…………えっ?」
今、聞きたくない声が聞こえた。追加の、書類。ああ、何度聞いても不吉な発音だ。世界で一番嫌いな言葉かもしれない。
マルタの頭が真っ白になったところで、二回ノックが鳴った。タルタリヤとは違いきちんとノックをするという習慣がついているあたり礼儀が身についていると言えるのだが、今のマルタにとってはその音が悪魔の鳴らす鐘の音にしか聞こえなかった。
「失礼します。ご指示通り、書類をこちらの部屋までお運びしましたが……」
「ご苦労様。彼女の机に上げておいてくれ」
部屋の主たるマルタを無視して、タルタリヤは満面の笑みでそう告げた。片手で書類を抱えたファデュイ構成員の彼は言葉通りどさりと書類を置き、一礼して部屋を出ていく。
公子タルタリヤという男は、戦闘に興味はあれど外交やら策謀やらデスクワークやらとは基本的に関わり合いになりたくない男だった。しかし璃月にスネージナヤからの使節として派遣されている以上、それらの仕事からは逃れることができない。それでも執行官の肩書きが必要になるのはほんの一部で、それ以外は誰が行ったとしても大差はない。
そこで彼は、どこかで聞いた“適材適所”という言葉に倣って考えた。そういう自分にとって面白みもないただただ面倒なだけの仕事は、自分よりもそれに向いている人物――つまりはマルタにやらせた方がよほど効率が良いのではないかと。
「あ、あの……? 私、昨日も一日中書類作成だったような気が……?」
「大丈夫、追加分は全部表向きの仕事だから。ああ、君が俺の代わりに行ってくれるって言うなら話は別だけど」
「ど、どこに……?」
「青墟浦にアビスの魔術師が集まっているという報告があって……」
「いえ、結構です。頑張ります……」
せめてもの抵抗も虚しく、マルタは玉砕した。戦闘に不向きな己では、アビスの魔術師数体を相手にするのはデスクワーク以上に骨が折れる。大人しく部屋に籠ることを選択した方が、自分も周りも被害を最小限に留めることができた。
タルタリヤは最初から結果が分かっていたかのように「そう?」と満面の笑みで答えると、それじゃあよろしくとひらひらと手を振って部屋を出て行った。さあて、どう調理してやろうか。相手が炎元素なら比較的簡単に済むが、相手が自分と同じ水なら少し手こずりそうだ。まあ、その時は邪眼の使用も視野に入れるだけのことだけど。マルタの執務室から五歩離れた頃には、タルタリヤの脳内はもうすっかりアビスの魔術師で埋め尽くされていた。
遠ざかっていく足音を聞きながら、マルタはがっくりと肩を落とした。ああ、これで今日も残業確定だ。明日は万民堂で少しだけ高い料理を頼もう。長椅子から立ち上がって、業務を再開する前にまずは瑠璃百合を何とかしようと花瓶を探しに部屋を出る。あの身震いするような氷山で“生きたい”と必死に願った彼女は、今や立派な社畜へと成り果てていた。