おそらく、ファデュイという組織はテイワット内でも比較的高給に分類されるのだろう。所属して一年が経っても未だ貧乏なんですという構成員はマルタは見たことがなかったし、現に自分も働き始めて二年が経過しているが毎月それなりのお金が舞い込んでくる。預金明細はみるみるうちに丸の数が増え、執行官クラスには遠く及ばないもののそこそこ裕福に暮らすことはできていた。
その上マルタはとにかく出費が少ない。服も食事も必要最低限の量で収めていたし、一級品のものでないと満足できない性格でもない。余った金は全て貯金に回すため、資産だけが順調に増えていった。
そんなある日、鍾離とばったり出くわした。
璃月を襲った騒動の後も多少のしこりは残ったものの、ファデュイと往生堂の付かず離れずの関係は変わらず続いている。だからマルタもファデュイからの使者としてよく往生堂を訪れ、鍾離もファデュイないし北国銀行に用があるときはまず彼女に話を持ち掛けるようにしていた。
そのうちプライベートでも交流を持つようになり――凡人となった彼の代わりに各種支払いを受け持つようになったのは、丁度その頃からだ。
旅人はマルタのことを“鍾離先生の第二の財布”と呼んだ。実際そう呼ばれても文句は言えないほど彼に金を注ぎ込んでいるのだから、マルタとしては反論の余地もなかった。
第一の財布は、ここ暫く港外で宝盗団やアビスの背中を追いかけ回している。そうして公子が璃月港を離れている数日間、マルタが鍾離と行動を共にする回数は飛躍的に増加した。
「お支払いですね? 任せてください!」
「鍾離先生、今日はどんなお買い物をされるんですか?」
「鍾離先生」
「鍾離先生」
「鍾離先生――……」
「君、鍾離先生に貢ぎすぎじゃない?」
第一の財布が何を言う。そんなマルタの視線を無視したタルタリヤがいい加減耐え切れないとばかりに苦言を呈したのは、マルタの預金明細から桁が一つ消えた頃だった。
「……貢いでいるだなんてそんな。そう見えるでしょうか……?」
「そう見えるんじゃなくて貢いでるんだよ。君、この二日間だけでいくら鍾離先生に使った?」
「20万ほど」
「それを世間一般では貢いでるって言うんだ」
マルタの仕事部屋の長椅子に悠々と座るタルタリヤは呆れたように大きなため息をついた。
確かに彼の言っていることにも一理あるかもしれないが、マルタなんかよりもタルタリヤの方が鍾離に金を使っていることもまた事実である。第三者視点からすると完全に“お前が言うな”案件でしかないことは彼にも自覚はあったので、指摘されるよりも先に「わざわざ俺が言う事でもないけど」と述べてはおいたが。
それでも、タルタリヤにとってこの状況には些か不満があった。彼女が個人的に誰かに貢ぐ分には一向に構わないし、部下のプライベートに関わる事なので触れずにいようと思っていた。それで彼女が破産しようがタルタリヤには一切関係がないことで――まあ、もしも、万が一助けを乞われた場合は、仕方なく手を差し伸べてやっても良いとも思っているのだが、それはさておき。相手が
鍾離は往生堂の客卿であり、ファデュイにとって大切な影の下を歩くお友達でもある。公子と鍾離の付き合いは璃月に駐屯している下っ端のファデュイですらも把握していたし、それは往生堂でも同じことだ。
そんな相手だからこそ、
璃月に滞在しているファデュイの中で一番の金持ちは、比べるまでもなく執行官たる己だった。そんな自分よりもその部下の方が気前よく往生堂に金を使っているとなれば。なんだかそれって、この公子タルタリヤが金を出すのを渋っているようにも見えないか。
だから、タルタリヤはわざわざマルタの元へ足を運んで伝えに来たのだ。そろそろ第二の財布役を引退してもいい頃合いではないかと。あとは第一の財布に任せておいてもいいのではないかと。
しかし、昨今は上司が部下のプライベートにまで口を出すのは禁忌となっている。マルタはあくまで個人的に鍾離にプレゼントをしているに過ぎず、上官命令で無理矢理それを止めさせるとなると、彼女が言わずとも彼女の周りが何と言い出すかわからない。主にあの金髪の子どもと、その隣の白い浮遊物が。
自分としても、部下にはできるだけフランクに接していたいという思いはあった。やろうと思えば散兵のようにパワハラと圧政の二重苦で雁字搦めにすることもできたが、うちはうち、よそはよそということで。
マルタは暫しの間首を傾げて考えると、ゆったりと口を開いた。
「……そうですね。あんまり差し出がましいのも鍾離先生のご迷惑になるかもしれませんし」
察しの良い部下を持ってタルタリヤは大変満足だった。話が早くて助かる。
内心ガッツポーズを作り、「そう? まあ俺はどっちでもいいんだけどね」と、胡散臭いと評判の笑みを作った。自分がどれだけ面倒くさい人間であるかは自覚していた。頭の片隅で「なんか自主退職させようとする嫌な上司みたいだな」という浮遊物の声が聞こえたような気がしなくもないが、タルタリヤはまるきり無視することにした。
しかし心配の種がひとつ消えるだけで、人間不思議と気分が良くなるものだ。手持ち無沙汰になった手でそこら辺に置いてあった万年筆をひょいと摘まみ上げ、大道芸士も驚愕の腕前でくるくると器用に回し始める。武芸から舞まで、体を動かすことに関しては何でも器用にこなしてしまうタルタリヤにとって、ペン回しなど朝飯前だった。何なら目を瞑ったってできる。
「ちなみにこれはただの興味なんだけど、君って20万も一体何に使ったの?」
「ええと、指輪を買うために」
する、とタルタリヤの手から万年筆が滑り落ちた。
北国銀行の備品であろうそれは自由落下の末床に叩きつけられ、カツン、と硬い音だけが部屋に響く。
平常心。タルタリヤは先程までの有頂天じみた思考の上に、ひたすらその三文字だけを書き殴っていた。元々表情や感情が表に出にくい性格で助かったと思う。勝手に回され、勝手に落とされた万年筆を拾い上げる間も、一切変わらない笑顔を浮かべていた。
「……んー? ちょっと聞こえづらかったかな。誰が、誰に、何を買ったって?」
「ですから、私が鍾離先生に指輪を」
ボキッ!
利き手の中を見ると、ものの見事に万年筆が真っ二つに割れていた。可哀想に、雑に扱われた上にペンとしての寿命もここで断ち切られるとは。いくら北国銀行御用達の名店から取り寄せた品物だとしても、かつて深淵を覗き、武の境地に立った執行官の握力には耐えられなかった。
けれど今のタルタリヤには、そんな戯言を考えている余裕すらもなかった。
指輪? え、指輪って、あの指輪?
クエスチョンマークが山のように浮かんでは消えを繰り返している。彼は博士みたいに機械類に詳しい人間ではないが、ひょっとするとこれが機械で言うところの“バグ”という現象なのかもしれないと思ったりもした。
「……なんで?」
「え?」
「なんで、指輪?」
そう聞くのは野暮なのかもしれないと、非難を受けるのも覚悟のうえで一応聞いた。そしてすぐに、聞かなくても良かったと後悔した。
「璃月では冠婚葬祭に指輪を使用する場合もあると鍾離先生が仰っていて、それで」
数秒前の自分を殴りに行きたい気分でいっぱいだった。仮に何らかのきっかけで時空を飛び越えることができたとして、きっと数秒前の自分は未来の自分からの襲撃に大喜びで応戦するという自信はあったので、ストレートに拳をぶつけられるとは思わなかったが。それでもそういう余計なことは聞かなくていいのだと、わざわざ自分の首を締めるようなことを言わなくてもいいのだと叫びに行きたかった。
というか、自分がいない数日間の間でいつの間にそんな関係に。鍾離先生、あんた一体何したんだ。
「へ、へぇ〜、でも、さすがに指輪を女の子に買わせるのは、いくら鍾離先生でもちょっと、あれじゃない?」
「私が好きで買っただけなので。それに、葬儀用の指輪ですし」
「……葬儀用?」
タルタリヤは瞠目した。思ってもみなかった使用用途に思わず聞き返すと、マルタは不思議そうな顔をしながらコクンと頷く。
「璃月の葬儀って珍しいですよね。結婚式はともかく、葬儀の際はアクセサリーなどを控えるのが一般的だと思っていたんですが、意外とそうえもないみたいで」
……冠婚葬祭って、
そういえば、送仙儀式のときも香膏や鈴を使っていたんでしたっけ、と鍾離から聞きかじったことをぺらぺらと喋るマルタの声を右から左に聞き流し、タルタリヤはようやく自分がおかしくなっていたのだと気づいた。
普通に考えれば分かることだ。鍾離は往生堂の客卿。つまりは葬儀業者。本来冠婚葬祭とは人が生涯で行う様々な儀式のことを意味するが、夫婦の契りよりも生の終わりに関わることの方が圧倒的に多い彼の言う冠婚葬祭は、高確率で葬儀の方を指す。
大方特級品の指輪でも見つけた鍾離が、これは冠婚葬祭共通で使えるものだが特に葬儀の場合はうんたらかんたらと言葉を並べたのをマルタが聞き、じゃあこれをプレゼントするのでそれで素敵な葬儀を行ってくださいねなどと20万をぽんと差し出したというオチだろう。
いやそれなら最初から葬儀用って言えよ。
若い男女が二人で結婚とは正反対の会話をしているとは、なんとシュールなことか。ここ半月分の疲れがどっと襲ってきたような感覚だった。終始振り回されっぱなしだった気がするが、それはマルタの説明不足が引き起こした事故だと考えて、タルタリヤはふと疑問に思った。何故自分が、こんなに疲れなきゃならない。
別にいいじゃないか。マルタと鍾離が、結婚したとしても。自分は上司で、彼女は部下。自分と鍾離はただのお友達。だから二人で結婚式を上げようが葬式を上げようが、自分には大して関わりのないことで。仮にそう報告されたとしても、ちゃんとおめでとうと祝福できるはずで。
「……インクで手が汚れたから、ちょっと洗ってくる」
たった今自分が追ってしまった万年筆を握りしめたまま、タルタリヤはふらりと逃げるように部屋から去っていった。
残されたマルタは、あの万年筆使っていないやつだから中にインクが入っているわけがないのだと疑問に思いつつ、まあ上司の思考を探るのも無意味な事だからと業務を再開した。