「私に荷物?」
「ええ、スネージナヤからね」
同僚にそう告げられ、マルタはペンを走らせる手を止めた。
わざわざ遠方まで荷物を送ってくるような知人に心当たりはない。本国から派遣という名の厄介払いを受け続ける上司に付き添って国境を越えること幾回、既に生まれ育った雪国で過ごした時間よりも異国の大地を踏む時間の方が圧倒的に長くなっていた。
滞在している璃月ならば数人ほど思い当たる人物はいるが、なぜスネージナヤ? と首を傾げる。だが一応名指しで送られたものだ。確認しない訳にはいかない。
届いた荷物は北国銀行のバックヤードに放置されていた。ファデュイの拠点ともなっているここはスネージナヤの使者宛てに手紙やら包みやらが多く送られてくるため、荷物がテーブルの上にぽつんと鎮座していてもそこまで珍しいことではない。これが公子宛てともなれば中身の検閲が始まるのだろうが、一般構成員相手にそこまで慎重になる理由もなかった。
送り状の氏名欄には確かに『マルタ様』と書かれているが、差出人は空白。匿名で届いたものになる。
一抹のがよぎる。もしも中身が爆発物の類で、開けた瞬間ドカン、となってしまっては笑い話もならない。それで笑えるのは執行官クラスの者だけだろう。
開けずに処分するのは簡単だ。この場で箱もろとも燃やしてしまえばいい。だがもしも名前を開示せず密かに送られてきた密書の類であった場合、全責任はマルタに降りかかることになる。
開けようか、開けまいか。少しだけ悩んで、開封することにした。念のためいつでも神の目を使える準備だけ整えて。
が、マルタが箱の綴じ口に手を伸ばしたその時、
「あ、悪い!」
肩に何かがぶつかった。衝撃自体は小さなものだったので怪我にも入る事はなかったが、代わりにぱしゃりと水が右手にかけられる。驚いて真横を見上げると、同じファデュイの男がやってしまったばかりにとぽかんと口を開けて立っていた。握られた花瓶の口からは水滴が垂れており、何が起こったのかは一目で察した。
「すまない、悪気があったわけじゃないんだ」
「いいえ、構いません。貴方にお怪我は?」
マルタがそう尋ねると、男は首をふるふると横に振った。仮面の下の顔が若干青ざめていたので、おそらく過失なのは本当だろう。双方被害らしい被害もない。あると言えば右手が若干濡れた程度だが、そこでいちいち騒ぎ始めるほど狭量な人間ではなかった。
男は再度謝ると、マルタの傍からそそくさと離れていった。なぜかマルタではなく、マルタの後方にちらちらと視線を送りながら。
去っていく男の背中を少しだけ見送ると、すぐに手元の箱に視線を落とす。右手が湿っているが箱や中身が駄目になるほどではない。
この時ちゃんと炎で右手を乾かしていれば面倒な事態にならずに済んだと言えるのは、これが過去の出来事だからだ。
男と入れ替わりで、別の男がやって来た。名をタルタリヤ。璃月で公子と言えば子どもでも「悪党だ!」と意味も分からずに声を大にする、ネガティブな方向で人気急上昇中の人物である。
「なんか、さっきすれ違った奴がすんごい顔で離れていくのが見えたんだけど?」
「ええと、少しぶつかってしまっただけの筈なんですが……」
「少しぶつかっただけであれ?」
疑いの眼差しだった。と言ってもファデュイの業務に直接関わりのない事なので、疑い半分からかい半分というのが正しい。
執行官に凝視されるというのはたとえ何ひとつやましいことが無くともどきりと心臓が鳴ってしまうものだ。けれどマルタもその『すんごい顔』とやらを見ているわけではないので、説明のしようも弁明の方法もない。苦笑いで誤魔化していると、タルタリヤは「まあ別に俺には関係ないからいいんだけど」と溜息を吐いた。
「それより、その箱は?」
彼の視線がマルタの手元に落ちる。
「スネージナヤから届いたものです。中身は不明ですが」
「君宛てに?」
「はい、私宛てに」
「ふうん……?」
不審に思ったのはマルタだけではなかったらしい。差出人不明でわざわざ海を越えて届いたともなれば誰だって疑うはずだ。だがプライベートというものもある。必要以上に部下の事情に首を突っ込まないことを徹底しているタルタリヤにとって、中身を詮索するのはご法度だった。
ナイフで封を切り、閉じられた蓋を開ける。タルタリヤは黙ってそれを眺めていたが、その手が内蓋に迫った時、突如声を荒げた。
「待て!」
タルタリヤの手が伸びる。だがそれが間に合うことはなく、「え?」と豹変した彼の様子に多少驚きながらも二つ目の蓋を開けてしまった。ほんの数秒の差で、タルタリヤは敗北した。
刹那、マルタの右手に紫電がはしった。肌についた水滴を頼りに稲妻が腕を駆け上がる。悲鳴を上げたマルタが手を離し、後ろに飛びのいた。
肉の焦げる匂いがした。
「だから、怪しいと思ったら元素視覚を使えって俺前に言ったよね……!?」
全く持ってその通りです。返す言葉もございません。組んだ膝に頬杖をつくタルタリヤの隣で、マルタは粛々と右手に包帯を巻いていた。
スネージナヤから届いた荷には内蓋を開けた時に雷元素が放出される仕掛けが施されており、マルタはそれに綺麗に引っ掛かってしまったのだ。不運なことに、直前に花瓶の水をかけられたことでマルタの手には水元素が付着していた。そこで感電反応が起こり、現在治療の真っ最中である。
ぐるぐると包帯を回していくが、利き手とは反対の手でとなるとなかなか普段のようにはいかない。む、と顔をしかめながらもう一度巻き直す。
感電した場合の人体への影響は痙攣や呼吸不全、最悪の場合心肺停止等があるが、今回はあくまで嫌がらせの類のようなのでそこまでには至っていない。精々右手の指先から肘にかけての一時的な麻痺と、接触部分の火傷のみだ。
それだけであればマルタの得意技で治療してしまえば良かったのだが、元素反応が感電だというのが少々難点だった。神の目だって使うにはある程度の集中力や体力を使う。一部が麻痺した体では自身と神の目が上手く接続できず、元素エネルギーを上手く流せなかった。流そうと思えば流せるのだが、その場合炎に治癒という特性を上乗せすることができず、マルタの腕もろとも北国銀行が燃える。
結論、感電反応と麻痺が消え去るまは常人と同じ治療法をあてがうしかなかった。
「……って、君今神の目が使えないんだよね? 大丈夫なの?」
つらつらと流れるように苦言を放っていたタルタリヤが、思い出したようにそう尋ねる。
マルタの神の目は生命維持の役割も担っている。本来であれば死んでいてもおかしくないほどの虚弱体質を今日まで支えているのは、他でもない彼女の神の目だ。神の目から元素エネルギーを直接体に供給して、生命活動を続けている。その神の目が機能不全に陥った場合、彼女は酸素にも等しい元素をどうやって補給しているのか。
「ああ、それは問題ありません」
ぐるぐる。マルタが包帯を巻き直しつつそう答える。
「神の目にはある程度の元素エネルギーが蓄積されているので、それを少しずつ消費しています。症状が治まるまででしたら何ともないかと」
どうやら酸素ボンベのように動いているらしい。元素爆発でもしないかぎりは余裕だと述べる彼女の言葉にタルタリヤは内心胸を撫でおろす。こんなことで死なれては目覚めが悪い。
ぐるぐる。包帯を巻き直す。
「はあ……今日明日は休みにしておくから、ゆっくり休暇でも満喫したら」
「でも……」
ぐるぐる。包帯を巻き直す。
休暇を取るという行為に抵抗感のあるマルタがささやかな抵抗を見せるが、タルタリヤの正論が覆い潰した。
「どうせその手じゃペンも持てないし、神の目が使えないんじゃ治療もできないでしょ? それならいっそ休暇を消費してくれた方が余程いい」
海灯祭も近づいてきている。当日は北国銀行の仕事が増える上に休暇申請も多く出てくるだろうから、その時になってから不満を言われるよりはいっその事今休んでもらった方が都合がいい。もっともマルタは海灯祭のシーズンも休む気などさらさらなかったのだが。ファデュイで根付いた社畜根性は伊達ではなかった。
ぐるぐる。包帯を巻き直す。
「……わかりました。それでは、お言葉に甘えます」
彼女がやんわりと笑う。
ぐるぐる。ぐるぐる。
「…………あ〜〜〜もう、貸して!」
我慢の限界だった。
だん、と足音を立てて立ち上がると、マルタの正面に回り込んで彼女から包帯を奪い取る。右手を掴み、中途半端に巻かれていた包帯を解き始めた。
「こういうのはとりあえず巻いてあればいいんだって。なんでいちいち巻き直すかなあ……!」
タルタリヤとの会話中ずっと巻いてはほどいてを繰り返していたマルタだったが、包帯の状態はそこまで酷いものではない。むしろ利き手とは反対で巻いたにしては比較的綺麗にできていた方なのだが、それで妥協できなかったのはマルタの几帳面さがゆえだ。治療は正しく、細部まできっちりと。普段の完璧さを比較にしたのが問題だった。
患部に触らないよう優しく手に触れたタルタリヤは、先ほどまでのマルタと同じように順番に包帯を巻いていく。触感が鈍りきっている腕ではその手袋のぬくもりも感覚も分からなかったが、随分と慣れた様子で治療を施しているという事だけは分かった。
「……慣れて、ますね」
「そりゃファデュイなんてやってたら怪我くらいざらだしね」
ファデュイ執行官、第十一位。その座に登るまで間に、一体どれだけの血を流した事だろう。自分も他人も真っ赤に染め上げて、高く積み上げた屍の上に座り込んで、その頂からはいったい何が見えるというのだろう。
ただひとつ分かるのは、こんな小さな火傷だなんて視界に入る事すらないということだけだ。
「それに……」
「それに?」
「……妹によく、こうしてやったことがあるから」
あの国では、火傷よりも凍傷の方が多かったが。
スネージナヤの冷気は幼い子どもであろうと平等に襲い掛かるから、暖を取っていなければあっという間にしもやけになってしまう。痛みに泣きじゃくる弟妹を大丈夫だよと慰めながら包帯を巻いたのが遠い昔のようだ。
「はい、終わったよ」
きゅ、と端を結び、腕を離す。手袋以外で皮膚が隠された右手は何とも新鮮で、つい凝視してしまった。
「……何? 俺の手当てに不満でも?」
「いいえ、まさか!」
軽い冗談のつもりで言ってみたのだが、本気と捉えられてしまったらしい。相変わらず仮面の奥の瞳は見えないが、否定するのに少し慌てている姿がタルタリヤの心のやわらかい部分をつついた。くすぐったい。
「……こういうのは公子様が初めてだったので、つい」
「……あのさあ」
そういう台詞、やめてよね。
その言葉の意味も、タルタリヤの耳が赤くなっている理由もなんにも分かっていないマルタは、きっと脳みそまで痺れている。