悪魔も吐き出す白い空

「こういうのって、基本晴れてるのがセオリーなんじゃないかな」


 隣のタルタリヤが死んだ目で呟いたが、マルタにはそのセオリーとやらが分からなかったので黙って空を見上げた。

 岩陰から少し出た先では、手を出せばしっとりと濡れる程度の雨がさあさあと降っている。傘を差さずとも活動できなくもないが、誰も好き好んで濡れたくはない。けれど悪いことに、二人がここで雨宿りを始めてから既に十分が経過している。これでは当分の間雨が止むことはないだろう。

 そしてもっと最悪なのは、現在立っているこの場所が璃月の大地ではないということだ。


「どうしましょう。どこかに必ず出口があるとは思いますが……」
「どうも何も、このまま天候が変わらなきゃ雨の中探すしかないよ」


 はあ、を憂鬱な気持ちを吐き出したタルタリヤだったが、秘境がその願いを聞き入れることはなかった。

 事の発端はタルタリヤが道端にできていた水溜まりを踏んだことだった。それだけなら別に非は無い上に、世界中どこに行ったってよく目にする光景だ。外遊びが好きな子供なんかは雨が降るたびに雨着を羽織り水を蹴って遊んでいるのだから、特に遊んでいたわけでもないタルタリヤが文句を受ける謂れはなかった。

 畢竟、タルタリヤは運が無かったのだ。

 浅いから靴底が少し濡れる程度だろうと見立ててごく自然と踏み出した右脚が、そのままズブズブと沈んでいった。隣を歩いていたマルタが咄嗟にタルタリヤの服を掴み、は、と叫び声を上げる暇もなく飛び込んだ先が、この秘境だった。

 おそらくここは、水を司る何かの領域なのだろう。秘境自体は別空間に存在しており、現世と繋がる地点は出入り口ただひとつ。構成元素の大半が水であるため、浮世に現れるとしたらどこかの水を媒介とする可能性が高い。その入り口の方のチャンネルが、偶然にもタルタリヤが踏んだ水溜まりとかち合ってしまったらしかった。

 ここを出ようにも、まずは出口を探さない事には何も始まらない。よし、とタルタリヤは肩を回すと、雨を凌げるギリギリの場所まで進み始めた。


「出口を探してくるよ。何か見つけたら戻ってくるから、マルタはここで……」
「いえ、私もご一緒します」


 彼女にしては珍しく、タルタリヤの指示をきっぱりと断った。意表を突かれた様子のタルタリヤがぽかんと口を開けるが、それはほんの一瞬だった。すぐに険しい顔で首を振り、彼女の主張をばっさりと切り捨てる。


「駄目だ。この雨はもう止みそうにないし、もしまた……」
「……?」


 また、何だと言うんだ。自分が何を言おうとしていたのかよく分からなくなって、タルタリヤは口を閉じた。

 そしてふと、鍾離に抱えられてやってきた彼女の姿を思い出した。確かあれは、オセルが璃月に豪雨をもたらした日だ。雨なんてこれまでこれまで散々、腐るほど見てきたくせに。

 ふう、と息を吐いて、何でもなかったかのように誤魔化し話を続ける。


「……君は体が強い方じゃないんだから、風邪でも引かれたらこっちが困るってこと。君を抱えて秘境中を走り回るのなんて俺嫌だからね」
「……そういうことでしたら、問題はないかと」


 すい、と腕を持ち上げたマルタが手のひらを上に向ける。タルタリヤに手を差し伸べているようにも見えるが、決して握手を求めている動作ではなかった。

 それから瞬きの時間を置いて、顔くらいの大きさの炎が燃え上がる。パチパチと爆ぜる火が薄暗い岩場を明るく照らし、そしてじんわりと気温を引き上げた。


「この秘境、特に何もしなくとも元素が溜まっていくみたいで。敵性生物がいないからでしょうか。これなら雨の中でも火を出し続けられますし、体が冷える心配はありません」
「そりゃ、そうかもしれないけど」
「それに……」


 炎を生み出すのと反対側の手が、全く別の方向を指さした。


「先へ進むには、炎のギミックを解除しなければいけないみたいです。どちらにしろ、私が行く必要があります」


 雨で木も葉っぱも湿っていて、火を起こすなんて確実に不可能だった。それこそ、炎の神の目でもなければ。


「……はぐれないでついてきてよ」


 子供のように手を繋ぐなんて論外だが、また裾を掴まれて服が伸びるのもごめんだった。


「はい。ご心配ありがとうございます」


 このやり取りのどこをどう聞いたらそう結論づけられるのか、タルタリヤには到底理解できなかった。どうやらこの美しい生き物の頭の中は、タルタリヤの想像もつかない程突飛な次元に位置しているらしい。









「なんか、楽しそうだね」


 タルタリヤがほんの少し先を歩くマルタに向けて呟いたのは、元素装置に火を灯して歩いた少し後だった。


「そう、見えますか?」
「本気でそう聞いてるなら君はもう少し自分の表情筋と連携を取った方がいいよ」


 彼女の指先が自身の頬に添えられる。笑っているという自覚はなかったのだろう。感情が表に出やすいくせにその機微には人一倍鈍かった。


「少しだけ、スネージナヤの空を思い出していました」
「スネージナヤの?」


 空、という単語につい上を見上げてしまう。視界一杯に広がったのは、晴天とは程遠い鈍色のテクスチャだ。最悪の曇天日和とも言える。

 マルタの言葉の意味がすんなりと理解できたのは、タルタリヤが彼女と同郷であるからだろうか。雪国の空は冬だと常にこんな感じで、太陽なんて雲の奥に引きこもったままだんまりを決め込んでいた。曇りの日は総じて気分も重くなるのが一般的だが、いっそ寒さが極まるとそれが逆転するのだ。暖かい空気は上へ上へと昇っていくから、雲で蓋をされていない日はあっという間に暖気が空へと逃げて行ってしまう。晴れの日は寒くなる、なんて故郷では常識中の常識だった。

 まだタルタリヤがその名ではなかった頃、朝の身を刺すような冷気に目を覚まして窓の外を見上げると、大抵濁った白ではなくほんのりと淡いシアンが空を染めていた。真ん中にひとつ、美しいスポットライトを置いて。それを見てタルタリヤは、どうりで寒いわけだ、とこの後運ぶことになる薪の量を計算するのが日課になっていた。


「璃月とスネージナヤでは雨の質が違います。ここ最近は暫く璃月にいるので、スネージナヤで降るような小雨を浴びるのは随分久しぶりに思えてしまって」


 思えるどころか、実際マルタはもう何ヶ月もスネージナヤに帰っていなかった。上官であるタルタリヤが本国から遠い場所に飛ばされ続け、それに付き添ってマルタもテイワット中を移動している。鎖国中の稲妻を除けば、ほとんどの国に一度は足を踏み入れていた。

 それを聞いてタルタリヤは、少しだけ意外だと目を丸くした。

 彼女はその短い人生の大半を故郷以外で過ごしている。だからあの雪国の空なんてとっくに忘れてしまっていると思っていたし、万一覚えていてもきっと思い出したくないのだろうとも考えていた。

 彼女は雪の降る日に生まれた。彼女が初めて人を焼いた時、きっと空は今よりももっとくすんだ鈍色だっただろう。もしかすると、吹き荒れる雪の中で空すら見えなかったかもしれないが。けれどそれは彼女にとって、あの日を象徴するひとつのシンボルのようになっているはずだ。いい思い出なんて、何ひとつ想起されないだろうに。

 それは少し、もったいない気がした。

 どうせ曇天なら、面白い記憶の方がいい。朝起きて空を見上げて、雪原と大差ない真っ白な視界を前に、ああ、今日は少しだけ暖かいなと思うような。

 きっと、彼女に寒さは似合わないだろうから。


「……ここでの仕事が落ち着いたら、俺、一度スネージナヤに戻るよう言われてるんだよね」
「はい、存じています」
「どうせ戻っても他の執行官の小言を聞き流すだけだし、いっそ家族の顔を見に行こうと考えてるんだけど……」


 よければ一緒に来ないか、と突拍子もない事がぽろりと口から出そうになったその瞬間、タルタリヤが踏み出した足がガクンと下がった。つま先から膝までをすっぽりと咥えているのは、既に一度見た水の溜まり。

 驚くマルタと青ざめるタルタリヤを置きざりに、水はズブズブとタルタリヤの体を呑み込んでいく。だが二度目ともなれば、黙っていいようにされるわけもない。

 どこにいるのかも、どこに繋がっているのかも分からない秘境で分断されるよりはよほどいい。そう考えて、タルタリヤは隣で驚愕する彼女の手を引いた。

 わざわざ腕の中に収めたのは、ただ単に、服を掴まれるのが嫌だったからだ。









 数秒の息苦しさののち、ぷは、と水面から顔を上げた。目を開いて最初に飛び込んできたのは、暫くご無沙汰だった太陽と、雲一つない晴天の空だ。

 戻ってきた。

 瞬時にそう判断した頭は安堵の息をつくよりも早く、自由な片腕と両足を動かして岸まで泳ぐよう命令を下した。陸地にマルタを放り出し、自分は腹まで水に浸かったまま両手を地面について息を整える。両者ともに頭からつま先までびっしょりと濡れていて、ぽたぽたと滴る水滴が土に染みを作って広げた。

 ここはどこだ。二人がたった今水中から這い出てきた池に蓮の花が浮かんでいたので、おそらく璃月内のどこかだとは思うのだが。

 思考を生存優先に振り切っていた脳が状況整理のため動き出したその時、一連の摩訶不思議な体験のせいで敏感になっていたタルタリヤの耳がある足音を拾い上げた。ひとつひとつが重く、間隔も広い。おそらくは成人男性のそれだ。


「公子殿、マルタ。ああ、出口はここだったか」
「鍾離先生……」


 何度も聞き馴染んだ音だったのでもしやと思った予感は、見事なまでに的中していた。長い漆の髪を揺らして歩く男は涼しい表情のまま二人を見下ろす。まるで、今まで二人がどんな事態に陥っていたのかを全て把握しているような顔で。


「まさか、鍾離先生が」
「いや、俺ではない。おそらくは水妖に目を付けられたな」
「水妖……水に住む妖怪、ですか?」
「ああ。具体的にどの水妖だったかを特定するのは難しいが」


 妖怪と縁の深い璃月だ。母数自体が膨大なものだから、そこから水に関連するという特徴だけで絞り込むのはほぼ不可能だった。


「で、鍾離先生はどうしてここが分かったの」
「先ほど……おそらく二人が水妖に連れ去られた一瞬、璃月港にも雨が降った。その際、水妖独特の気が雨に混ざっていることに気付き、念のため周囲の水辺を回っていたんだ」
「はあ、さすがは神様ってわけか」


 よ、とタルタリヤも池から軽い動作で陸地に上がり、たっぷりと水分を吸い取った上着の裾を絞る。シャツがべっとりと肌に張り付いて不快感しかなかったが、さすがに異性がいる目の前で上裸になる気にはなれなかった。


「そういえば先程“目を付けられた”とおっしゃっていましたが、一体どういうことでしょう?」


 同じくずぶ濡れでも大して気にもしていないのか、マルタが鍾離の言葉を聞き返す。


「言葉通りだ。その水妖が公子殿を気に入り、水を介して自身の領域に連れ込んだのだろう」
「なんで俺?」
「さてな。ただ、水妖には女の姿をしたものが多く、連れ去られる者の大半は若い男だ。狙いは公子殿で、マルタを引き込んでしまったのは完全に誤算だったんだろう」
「あーなるほど、そういうことね」


 つまりはその水妖とやらに見初められてられてしまった、単なるもらい事故だ。タルタリヤは特に驚くこともなく、まるで他人事のように頷いた。

 自身の顔が世間一般ではそれなりに整っている部類に分けられると自覚はしている。執行官に昇りつめる前はその容姿から異性には恋慕を、同性には嫉妬を腐るほどもらっていた。そのうちタルタリヤが内に秘める戦闘への愛情が曝け出されると、もれなく全員軽蔑の表情を浮かべて去って行ったが。


「ところで公子殿」


 鍾離が腕を組み、タルタリヤと同じくらい美丈夫なのにどこか子どものような顔でそう尋ねた。


「水妖は基本的に、引き込んだ相手は興味を失くすまで領域内に閉じ込める。この速さで秘境から追い出されたとなると、公子殿が何かをしたと考えるのが妥当だが」


 タルタリヤを見つめる鍾離の視線が、すい、と斜め下――何を言っているのかさっぱり分からないと言わんばかりのマルタに注がれた。


「何をした?」
「するわけあるか!」


 第一、最後まで言わせてすらもらえなかったものを。

 ふっと笑う六千歳の爺と何も理解していない二歳の子どもを見て、タルタリヤはがしがしと頭をかいた。
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