カミツレの環



 マルタがその人物と初めて邂逅を果たしたのは、特別何か記述するまでもない、まさに何て事ない日々の一瞬だった。

 ファデュイとして璃月に派遣されてから暫く経った。戦闘能力を持たずともできるような雑務を嫌うタルタリヤに代わり、璃月七星や総務司、ファデュイと契約を結ぶ商業組織等への書類の受け渡し、所謂お使い業務はマルタの専門業となっていた。初めこそ悪名高いファデュイと警戒していた受付や商人も“高圧的”という言葉の一切を削ぎ落とした彼女の態度に徐々に態度を軟化させ、今や店先を通りがかるだけで「マルタちゃん少し寄っていかないか」「今日は良い品物が手に入ったから特別に安くしておくよ」と声をかけてくる始末である。

 特筆すべき点は、その誰もがマルタの素顔を見た事がないという事実だった。白い外套で華奢な体をすっぽりと覆い、深めに被ったフードとファデュイ共通の仮面で個性という個性を殺している。フードから外に流された髪から銀髪で腰までの長さだという事は分かるのだが、それ以外の個人を特定する情報は一切伏せられていた。それでも璃月で交流のある人々はどんな人混みの中でも一目でマルタを見つけ、日中の喧騒の中でも彼女の声を聞き分けることができる。愛されている、という言葉とはまた違うが、彼女を他のファデュイと同一視する人物の方が少ないことは確かだった。

 話は逸れたが、そんな彼女の噂はファデュイと交流が無くとも流れるところには流れるのである。あの賑やかな露店が立ち並ぶ通りの裏では、ひっそりと闇市が行われている。情報も商品として並ぶような場所では当然のようにマルタに関する話も交渉のカードとして存在していた。

 ファデュイ所属も関わらず璃月のありとあらゆる組織や商店から信頼を集め、そして何よりもあの執行官第十一位、“公子”タルタリヤの直属の部下。執行官が執るべきファデュイの表向きの業務の何割かを任され、本国と璃月の貿易や北国銀行の運営にも一枚噛んでいるのだとか。ファデュイとしては手放したくとも手放せない存在であり、彼女一人消えるだけで歯車が噛み合わなくなる可能性も否めない。

 だからこそ、彼女を付け狙う存在も少なくはなかった。上手く身柄を拘束できれば、あのファデュイをゆする切り札になるかもしれない。ファデュイどころか、北国銀行だってだんまりはできないだろう。

 璃月港で一人でいる彼女の姿を見つけた時は、ラッキーだと思った。隣に噂の公子はおらず、彼女は一応仕事の真っ最中なのだろう。商人との会話に夢中だった。璃月の闇市を目当てに埠頭に来たならず者達数名は、偶然見つけた彼女の後ろをひっそりとつけていた。彼女が商人との会話を終わらせ、少し歩いた先で裏路地へと連れ込む。その後は、仲間達と要相談だ。人質にするもよし、売り飛ばすもよし。どちらにしろ、誘拐に成功した時点で益があるのは確定していた。

 そして、とうとうその時はやってきた。彼女の横顔に商人が手を振って送る。彼女は会釈をして口元だけ微笑むと、直ぐに前を向いて足を動かした。それは、ならず者たちが動き出す合図でもあった。

 彼女の体が路地に差し掛かろうとしたところで、男の一人がぐい、と彼女の肩を掴み、路地裏へと引きずり込んだ。当然抵抗する彼女の腕を素早く拘束し、口を塞ぐ。

 男たちはこういう事に非常に慣れていた。秘訣はごく自然に日常の風景に紛れ込ませ、そして素早く行う事だ。きょろきょろと人目を気にして行うよりも、大胆に行動に出た方がかえって周囲の人物の目に留まりにくい。現に一人の女が通りから消えても、気にする者など誰もいなかった。


「大人しくしておいた方が身のためだぜお嬢ちゃん。しなくてもいい怪我はしたくねえだろ?」
「……………………」


 マルタを背後から拘束する男が耳元でそう囁く。不快感に一瞬ぶるりと体が震えたが暫し思考を巡らせて、マルタは大人しくその言葉に従うことにした。それを諦めと勘違いした男が、口元に弧を描いた。

 誘拐に成功した途端、仲間が次々と裏路地に現れる。身なりが良いとはとても言えないような格好で、何なら不衛生という言葉が似合いそうな者たちだ。マルタは璃月を特別愛しているわけではないが、特段嫌っているわけでもない。むしろ、ファデュイとして派遣されてきた国の中でも好印象を受ける部類に入る。だが残念なことに、こういった連中は何処の国にも等しくいるものなのだ。勿論、マルタの生まれ故郷であるスネージナヤにも。

 後ろ手に拘束されると、否応なしに外套の下が曝け出されてしまう。マルタの肉体は華奢という言葉が一番近いが、スタイルというスタイルに恵まれている身体でもあった。腰はきゅっと引き締まり、膝丈のスカートからのびるタイツに覆われた脚は少し握っただけで折れそうなほどに細い。それでいて、最も目を惹くのがその豊満な胸だ。外套という禁欲的な服の下に隠された原石が、男たちの情欲をくすぐった。

 それもそのはず、マルタは――アライアシリーズは、で設計されている。一般的なファデュイは基本的に民間から募った者たちであるがゆえに、あまりにも卑劣で汚れた仕事をさせるわけにはいかない。それでも、そういう仕事が必要になってくる時はある。そもそものアライアシリーズの製造目的はそこにあった。

 一般のファデュイ構成員にはさせられない汚れ仕事……時には暗殺、時にはハニートラップを。それらを考慮し、アライアシリーズは“より男性を惹きつける身体”でデザインされている。言わば計算しつくされただ。だからこそ、実は男たちの反応はこれで正解だったりするのである。

 いいんじゃないか、少しするくらい。どうせ最終的には売り飛ばすことになるんだから。

 男たちが小声でそう言葉を交わすのがマルタの耳に届く。それが一体何を意味するのか分からないほど、マルタはうぶではなかった。あまり気乗りはしないが、この際仕方ない。多少周囲が焦げてしまっても、事情を話せばなんとか理解してくれるだろう。そう思いマルタは仮面の下で男たちを睨むと、胸元の赤い宝石が微かに光を帯び――。


「そのお嬢さんから手を離してもらおうか」


 第三者の声と同時に、宝石は発光をやめた。正確には、発光が最大値になる前に目の前の男が吹き飛んだ。

 「がッ!?」と情けない声を出して男の一人が石塀に激突し、続けてその隣に立っていた男が地面に叩き伏せられる。あまりに一瞬の出来事で何が何だが男たちもマルタも理解できていなかったが、誰かが乱入してきたのだということだけは分かった。

 立っていたのは、赤墨の髪を一つに結った青年だった。瞳は石珀のように煌めき、目元に塗った紅が差し色として整ったかんばせに非常に映えている。青年が言葉を発したのはそれきりで、一息つく間もなくまた男を一人二人と叩きのめしていく。長身から繰り出される蹴りを真正面に腹に受けては、暫く動けずにいるのは当然のことだった。彼から一撃くらった者は皆起き上がることもできずに地に伏している。

 そうなると、次に動くのはマルタの番だった。


「お、おい止まれ! この女がどうなっても――」


 三文小説に登場するような安い脅し文句を吐く男のうなじに、マルタはぐるりと上体を回転させて脚をかけた。助けに来た青年が目を見開くほどの体の柔らかさだった。ファデュイを引退しても舞芸を生業にして食べていけるようなほどの体づかいである。マルタは自らを拘束していた男を足で地面に押し倒し、馬乗りになった。

 しかしマルタ程度の軽い体重では、男はちょっと重い荷物が腹に乗っかったのと大して変わらない。だからすぐに彼女をどけて自分だけでも逃亡しようとしたのだが、視界を覆った赤色に小さく悲鳴をあげると、びん、と体を強張らせた。


「宝盗団……とは違いますよね。貴方がたに指示を出した人がいるのならば、正直に答えてください」


 男の眼前に、炎が迫っていた。彼の焦りを反映するかのようにめらめらと揺れ、肌を刺す熱が危険信号を発する。

 ――しまった! 先に神の目を奪っておくべきだった!

 炎の奥では、マルタの胸元で赤い宝石が男を嘲笑うかのように光を放っていた。一瞬でも激しく動いたせいかフードは取れ、後頭部で団子状にまとめられた銀髪が日の元にさらされている。唯一ファデュイ共通の仮面の下の面貌だけが分からなかったが、その双眸がひと時も逸らさずに自分に向けられているであろうことだけは理解できた。

 彼女の右手に灯る炎はじりじりと男の顔面に近づけられ、脂汗が滲んだ。刹那、死の恐怖が男の背を伝う。あの不規則に揺れる火が一度でも肌に触れれば、たちまち全身を灼熱が襲うだろう。焼死の二文字が頭を過ぎり、男は死にたくないと震える口を必死に動かした。


「おっ、俺らはただ、情報屋からファデュイの女の話を聞いただけで……! か、金になると思ったんだ! 許してくれ!」
「はあ……また、ですか?」


 呆れた、と言わんばかりにマルタは炎を消した。それを好機と捉えた男は腹の上に座るマルタを押し、なんとか裏路地から這い出ようとする。彼の脳内はこの場から逃げる事ばかりを考えていて、仮面の下の瞳が絶対零度の冷たさを孕んでいることに気づかなかった。

 そして、つい頭から抜け落ちてしまっていた。自分の仲間たちがあっという間に叩きのめされた相手が、まだこの場に残っているということを。

 石珀色の目の青年が逃す気はないと言わんばかりに男の手を後ろに回し、他の男たちと同様地面に叩きつける。男の方がよほど恰幅のよい体つきをしている筈なのだが、青年にとっては体格差などほんの些細な問題なのだろう。汗のひとつも流さず、涼しい顔で男を拘束する青年の横顔を見て、地に座り込んだままのマルタは内心拍手を送った。


「えっと、今千岩軍を……」
「ああ、それなら必要ない。既に呼んでいる」


 え、とマルタが聞き返すよりも早く、ばたばたと騒がしい足音が路地裏に飛び込んできた。彼らは皆槍を携え、共通の服に身を包んでいる。璃月を守護する組織、千岩軍の服だ。千岩軍はのびた男たちを慣れたようにてきぱきと捕らえ、一人ずつ両手を縄で縛って何処かへ連れていく。尤も、暴漢を働いた人物の行く先など決まっているようなものだが。

 青年は男の身柄を千岩軍に引き渡すと、マルタへ近寄りすっと手を差し伸べた。


「先に千岩軍を呼んでいたら駆け付けるのが遅くなってしまった。すまない、怪我はないだろうか」
「は、はい……助けていただいて、ありがとうございます」


 彼には失礼だが、素直に驚いた。男たちを制圧した時の彼はまるで武神の如き冷淡な印象を受けたものだから、てっきり彼自身の性格もそうなのかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。思えば、人を殴ったり蹴ったりする時に喜んだり悲しんだりするのもおかしな話だ。ましてや、そこに快感を見出すなど。自身の上司の影響でとうとう自分も感覚が狂ってきているようだった。

 差し出された自分よりも一回り大きな手のひらを借りて立ち上がると、外套についた汚れを払い、ようやく青年の顔を正面から見上げる。

 彼の石珀の瞳と、マルタの仮面の下の瞳が大きく開かれたのは、ほぼ同時だった。


「貴方は確か、以前北国銀行にいらしていた……」
「む? お前は確か、公子殿の……」


 沈黙。双方の頭に、同じ人物が想起される。頭の片隅で、夕空を写し取った髪の彼がへらりと気前の良い笑顔を見せた気がした。


「申し遅れました。私はマルタ。ファデュイの一人として、今は執行官第十一位“公子”タルタリヤ様の命に従い、ここ璃月でスネージナヤに関わる業務に携わっています。貴方は、鍾離様……と、お見受けしますが」
「ああ、こちらこそ挨拶が遅れてしまってすまない。改めて、往生堂の鍾離だ」


 マルタが初めて璃月を訪れた時には、ファデュイと往生堂の関係は既に始まっていた。往生堂は、77代も続く璃月最大の葬儀業者である。しかしそれはあくまで“表向き”という注釈が入るのであり、人々の目に触れないところでどんな取引が行われているのかはファデュイも把握していないし、当然マルタも知らない。裏の世界では無容易に踏み込まないのが火傷をしない秘訣だよ、と以前タルタリヤが笑っていたのを思い出す。

 そんなわけで、ファデュイと往生堂は表面上だけの薄っぺらい友好関係を築いていた。長年続いている稼業であるが故に、往生堂の名は璃月の至る所で有効活用できる。悪名の高さではドラゴンスパインの標高にも負けないファデュイが璃月で特に大きな障害なく活動できているのも、ひとえに往生堂の名前への信頼が成せることであった。

 だから、往生堂の人間と話す時はどうか粗相の無いように。特に、往生堂の顔ともなっている客卿、鍾離に対しては……と、北国銀行の職員はマルタに何度も口を酸っぱくして言っていた。触らぬ神に祟りなし、できれば出会うことのないようにと極力接触を避けていたのだが、まさかこんな所で遭遇してしまうとは。神の導きというのは存外意地の悪いものなのかもしれない。


「この辺りは道が入り組んでいて、少し裏に入ると大通りから見えない上に声も通りづらい。女性一人での長時間の滞在は避けた方が無難だろう」
「はい、以後気を付けます」


 「本当にありがとうございました」とマルタが礼を述べると、鍾離はそのままどこかへと行ってしまった。凛とした背はその長身も相まって人混みの中でもよく目立つ。彼が完全に群衆に紛れることができたのは、暫くしてからだった。

 もしかして、謝礼をした方が良かっただろうか。口先の言葉だけではない、もっと実利的な何かを。マルタがそう思い立った時にはすでに遅く、鍾離の背中は完全に見えなくなってしまっていた。

 まあ、いい。幸いにも彼は往生堂で、公子とそれなりに懇意にしている仲だ。今後彼が北国銀行を訪れることもあるだろうし、逆にマルタが往生堂に赴くことも十分にあり得る。顔を合わせる機会がないわけではなかった。謝礼ならばその時にすればいいだろう。

 ……まさかその機会が、こんなにも早く来るとは思ってもいなかったが。


「鍾離様? どうかなさったんですか?」


 二日後。

 いつも通り書類を片手に璃月港を歩くマルタが見かけたのは、通りに面した商店の前で困ったと言わんばかりに腕を組む鍾離の姿だった。石珀色の瞳はマルタの姿を捉えると、「マルタ殿、丁度良いところに」と彼女の来訪を歓迎する。


「旅人、こちらはマルタ殿。公子殿直属のファデュイの一人であり、外交や事務、北国銀行の一部業務など幅広く活躍しておられる」
「え、あの公子の!?」


 この可愛らしい浮遊物にまで“あの”と言われる彼は、一体今度は何をしでかしたんだろうか。そんな疑問も精一杯飲み込み、「すでに公子様にお会いになられたんですね」と苦笑を浮かべる。

 鍾離と行動を共にしていた二人組。金髪の少年は名を空と、ふわふわと宙に浮いている少女はパイモンといった。とある目的のためにテイワットを旅している彼らは、今は鍾離と共に送仙儀式の準備に取り掛かっているらしい。

 そこまでの事情を聞いて、マルタは随分前にファデュイの同僚から聞いた話を思い出す。モンドに出張していた彼女曰く、とある旅人の来訪をきっかけにモンドを襲っていた龍災が解決してしまい、スネージナヤの外交官がモンドに突き入る隙が消え失せてしまったのだ、と。

 ではこの少年が、かの有名な“モンドの英雄”。僅か数日間で風魔龍の暴走を鎮めたという噂は、今や璃月にも流れてきていた。


「それで、何やら悩んでいたようですが……?」
「ああ、実は送仙儀式に必要な道具を揃える途中だったんだが、公子殿から貰った資金が底を尽きてしまった」
「送仙儀式の資金……? では、岩王帝君が逝去されたというのは……」


 事実だ、と鍾離は肯定した。璃月七星ですらもまだ正式に発表していないのに随分あっさり教えてくれるものだと考えていると、“人の口に戸が立てられないならこの際真実を伝えてしまえ”とのことらしい。確かに、ありもしない噂話が大量に拡散されるよりはそちらの方が幾ばくかマシだった。


「それで公子が必要なモラを全部出してくれることになったんだけど……さっきの店で他にも買いたいって人が現れて、値段を吊り上げられちまって」
「ああ、たまにありますよね。買い手が複数現れるとオークション並みに値段が膨れ上がるやつ」


 璃月の基本は契約、そして交渉だ。港で流通する全ての商品の売買は取引であり、そこではある程度の交渉が求められる。

 最も一般的なのは値引き交渉だ。全ての店がというわけでは無いが、璃月の商店は個人経営になればなるほど値引きを前提とした価格に設定されている。だから店頭価格の言い値そのままで買い取ってしまうとそこそこ財布に負荷をかけてしまうわけで、何も知らずに外国から来た観光客が観光地で良いカモにされている光景はもはや名物でもあった。

 まあそんなことは旅人らもタルタリヤから既に聞かされていたため大した問題にはならなかったのだが、一番の問題は自分たち以外の買い手が現れたこと、つまりはライバルの出現だった。

 商売人としてはより高い価格で売りたいという気持ちが勝るもので、旅人よりも高い値段で買い取ると言う人物が現れれば自然とそちらに契約が傾くのも無理はない。けれど、旅人も旅人で岩王帝君の送仙儀式準備という大役を担っている身であった。亡き岩神に捧げる品物で譲歩する訳にはいかない。

 もしもライバルが璃月の人間であれば事情を話して円満解決にまで導けたものだったが、不幸なことに相手はフォンテーヌからやってきた観光客である。彼らにとって送仙儀式とはあまり馴染みのないものなので、事情を説明しようとしても聞く耳を持たなかった。

 仕方ないので彼よりも高い値段を提示すれば、彼はそれよりも高い金額を提示し、さらに旅人は値段を上げ、彼はもっとモラを積み上げる……大通りの小さな商店が、オークション会場へと変わった瞬間だった。

 旅人たちは公子から値引き交渉の話は聞いていたものの、オークションの可能性などこれっぽっちも聞いていない。そして、オークションでの駆け引きの方法も。

 そういうわけで、彼らはタルタリヤから貰った資金を全て使い切ったのである。用意しなければならない道具はあといくつも残っているのに、だ。


「すまないがマルタ殿、公子殿の居場所は分かるだろうか。彼がどこにいるのかさえ分かれば、直接行って追加の資金を貰ってこれるんだが」
「公子様の居場所、ですか……ごめんなさい。近頃は公子様もお忙しいみたいで、北国銀行にはいないということしか」
「ファデュイで公子の部下なのに、公子が何やってるのか全然知らされてないのか?」
「私はあくまで、ファデュイの表向きの業務を執り行うことが主なお仕事なので。公子様の執行官としてのお仕事の内容は後から聞かされることの方が多いんです」
「ってことは、裏の仕事があることは認めるんだ」
「そこはほら、ファデュイですから」


 空の反応を見るに、彼らと接したタルタリヤが何やら腹に隠しているという事には気づいているらしい。子どもの目は本当に鋭いな、とマルタは苦笑した。

 モンドの英雄で西風騎士団の栄誉騎士ともなれば、ファデュイがモンドでどんな行いをしていたのかはとっくに気づいているだろう。もしかしたら、モンドに赴いた執行官の誰かとも既に出会っているかもしれない。

 もしも最初に出会った執行官が公子であるなら、それはそれでラッキーだ。彼は暴力を愛しすぎてはいるが、暴力に呑まれてしまっているわけではない。必要があれば暴力以外の手段に出ることもあるし、一般人、特に戦う手段を持たない者はなるべく巻き込まないようにするという信条も持ち合わせている。それに年下にはかなり甘い。彼の障害とならない限り、公子と旅人が衝突するようなことはまずないだろう。

 でも、もしも散兵と出会ってしまったら最悪だ。執行官第六位、“散兵”スカラマシュ。マルタもほんの少しの間だけ彼の下にいたことはあるが……この話はやめておこう。あまり良くない記憶が掘り起こされそうだ。


「あの……問題なのは、資金だけなんですよね?」


 それなら、お役に立てるかもしれません。そうマルタが述べた瞬間、パイモンの目つきが変わった。「本当か!?」と目を輝かせる彼女に相談してみますねと笑いかけ、彼らが立ち止まっていた店の店主の元へ歩み寄る。

 幸いなことに、ここの店主は以前にもマルタがファデュイの仕事の一環で訪れた店だ。やはり人脈というものは大事である。旅人たちが購入しようとしていた品物の金額を聞いて一瞬目を見張ったが、脳内で電卓を打ち、一息吐く。


「良かった。この金額なら何とかなりそうです」
「本当に!?」
「はい。店主さん、こちらを後ほど北国銀行の受付に渡してください。同じ額のモラを受け取れるはずですから」


 マルタは懐から取り出した紙に金額とサインを書き込むと、それを店主に渡した。ファデュイと北国銀行の間だけで使用できる、言わば小切手のようなものである。

 本来であればマルタの階級では手にすることもできない代物ではあるのだが、公子から事務やら何やらの仕事をぽんぽん投げられるうちに持っていた方が色々と都合が良いという結論に至り、特例としてマルタも所持していた。最初期こそ他のファデュイの反発や反感があったものの、その業務量の多さにとうとう嫉妬よりも同情の方が勝ってしまったらしい。今では文句の一つ飛んでくることはなかった。

 しかし、今回ばかりはそこにちょっとだけ手を加えている。いくら送仙儀式のためとはいえ、知人の買い物を経費で払うのは横領に足を踏み込んでしまうだろう。なので今回は、引き出す口座をファデュイの法人口座ではなくマルタの個人口座へと変更済みだ。後でタルタリヤに報告して、経費から補填してくれるというのであればそれでよし。そうでなくとも、鍾離への恩を返すことができるのならば全額マルタが支払う事になっても別に構わなかった。幸いな事に金だけはたくさん持っているのだ。何せファデュイは高給なもので。

 店主は小切手を確認すると、快く承諾してくれた。旅人が注文した品物を埃一つ被せることなく丁寧に包み、彼に手渡した。


「礼を言うマルタ殿。おかげで無事送仙儀式を進められそうだ」
「いえ、お礼だなんて。私の方こそ鍾離様にはご恩がありますから」


 その会話にパイモンが「ご恩?」と疑問を口にしたので、「以前暴漢に襲われていたところを助けていただいたんです」と簡潔に述べた。鍾離は大それたことをしたわけではないと謙遜するが、実際彼に助けられたのは紛れもない事実である。あの場から切り抜ける方法といえば、男たち諸共周囲一帯を焼け野原にするくらいしか思いつかなかった。

 だが鍾離の方は少々不満があるらしく、わずかに眉をひそめて腕を組んだ。


「しかし、これではマルタ殿の代価の方が上回ってしまう。今回は契約を結んでいないが、謝礼や代価は過不足なく対等であるべきだ」


 パイモンが「始まった」と頭を抱える。これには空も腰に手を当てて苦笑する他なかった。

 彼は森羅万象あらゆる物事の価値を尊重し、契約を重んじる几帳面さから何事にも対等を要求する性格でもある。鍾離は以前マルタを助けはしたが、その働きはマルタが鍾離のために支払った数十万モラには到底かなわないものだと判断したのだろう。


「さて、何か頼み事や困り事はないか? 生憎手持ちのモラがなくてな。金銭が絡むものであれば数日待ってほしいのだが」
「いえ、気になさらないでください! 私が鍾離様へのお礼として勝手にしたことなので……」
「む? しかしそれでは対等性が……」
「マルタ、これは話がループするやつだと思う……」


 空の一言がこの場の一切を言い表していた。鍾離の几帳面さ、律儀さ、として頑固っぷりは岩よりも硬い。マルタ一人ではそれを砕くこともできず、当然のことながら最終的に折れたのはマルタの方だ。


「はあ……わかりました。でしたら、今度同じように困っていたら、また助けていただけますか?」


 眉を下げてそう述べると、鍾離は「ああ、契約成立だ」と頷いた。マルタとしては別に契約でなくても良いし、そもそも礼を返してもらう必要性も全くなかったのだが、鍾離がそうしたいと言うのであれば止める理由はない。次に同じようなことが起こるかどうかは不明だが、このままなあなあで済ませるという結果でも別に問題はなかった。


「それでは、私はまだ業務が残っているのでこれで。送仙儀式をつつがなく終えられることをお祈りしていますね」


 彼らと言葉を交わすのはとても愉快ではあったが、一応マルタはファデュイの仕事の一環として北国銀行から出てきたに過ぎない。仕事部屋には大量の書類がマルタの帰りを待っているため、ここで時間を費やすわけにはいかなかった。そしてそれは、送仙儀式を進める彼らも同じである。

 マルタが別れを告げ、それから彼らとは反対方向に歩き始める。数歩進んだとことで背後から「ありがとなー!」とパイモンが声を張り上げて手をぶんぶんと振っていたので、振り返りざまに手を小さく掲げて振り返した。

 遠くなるマルタの姿を見て、あんまりファデュイに見えなかったなとパイモンが率直な感想を述べていたのを、マルタは知らない。









「俺が帰ってくるまで、絶対に北国銀行の外に出ちゃ駄目だ」
「え?」


 帰ってくるなり、タルタリヤは部屋のドアを乱雑に開けてそう言い放った。彼の姿は毎度の如く傷だらけではあるが、この日は特に酷かった。よほどの相手と刃を交えたのだろうか。普段はいくら血に染まっていても平然と笑みを浮かべているのに、今日はその余裕もなく肩が上下している。

 そんな様子のタルタリヤが突然部屋に転がり込んできたものだから、マルタとしては大混乱だった。持っていたペンを滑り落とし目を点にしてタルタリヤを見るが、彼の視線は険しくなる一方である。いつもであれば“何その間抜けな顔”とからかってきそうなものではあるが、今の彼にはそんな冗談を言う余裕もない様子だ。

 ぞわりと背筋が凍り、無意識下でマルタは両手を握る。その様子を見てタルタリヤはふと両目を見開くと、はあ、とため息をついてマルタから視線を外した。


「とりあえず、忠告はしたからね。君に自殺願望があるなら止めはしないけど」
「あ、あの、ちょっと……!?」


 そう一方的に告げて部屋を出ていったタルタリヤを追いかけたが、マルタが廊下に出た頃には既に彼の姿は忽然と消えた後だった。結局、彼の態度や発言の理由は謎のままである。


「出るなって言われても……」


 眉を下げつつ、先ほどまで仕事をしていた机を見る。机上にはまだまだ書類が積み重なっており、残業になるかどうかギリギリのラインだ。そして当然、外に出て各所に届けなければならないものもある。今日中に終わらせるためには今から外に出ないといけないものばかりだ。

 それに、彼が言った自殺願望という言葉の意味も分からずじまいだった。言うまでもなくマルタに自殺願望なんてものは存在しない。自身のファデュイとしての役割を終えるまでは死ねないと考えているし、死ぬとしても自殺だけはあり得ない。他殺か事故死か、まあ今のところは他殺の方が可能性としてはあり得そうだ。

 単純に考えると、外に出たら死ぬぞと警告しているようだった。彼は今から璃月に槍でも降らせようとでも言うのだろうか。そんなことをしようものなら璃月七星や仙人が黙っていないし、そもそも璃月中の建物諸共人が死ぬ。

 まさかと思いつつ、妙に不安な気持ちになって窓の外を覗いてみる。けれど何度見てもいつもと変わらない璃月で、天候が優れない事以外は特筆すべき点は何もなかった。

 ……少し気がかりではあるが、公子が出るなと言ったのだ。何かしらの事情があるのだろう。

 所詮一ファデュイでしかないマルタは、上司命令に逆らうことなどできなかった。仕事の続きをと思いデスクに戻り、椅子に腰かけたその時。


「おい、なんだあれ!?」


 部屋の外からかすかに聞こえてきた声に、反射的に顔を上げた。

 マルタは基本的に内勤勢ではあるのだが、戦闘訓練を受けていないわけではない。非常時には衛生兵として戦場へ出ることだってあるし、むしろ神の目保有者であるという事実から進んで送られる時も多い。

 だから自然と、異変を察知する能力だけは身についていた。ペンをほぼ投げ捨てるように机に置き、駆け足で廊下へ出る。

 廊下の端、丁度海側に面した窓の近くに人だかりができているのが見えた。状況を確認しようと集団に割って入り、なんとか最前列まで漕ぎ着く。そうして窓の外の上空を見上げ、瞳を驚愕の色に染め上げた。

 暗雲に覆われた鈍色の空からは止めどなく雨が降り続け、雫が窓に叩きつけられている。これ以上強まればそのうちヒビでも入ってしまうのではないかと思うくらいの威力だ。

 しかし、それはこの際大した問題ではない。今この場で最も目を引いたのは、海上にそびえるそれだった。


「……渦…………?」


 北国銀行からはるか遠くの璃月の海。普段ならば商船や客船が多く行き交うその場所から、五本の渦が重力に逆らい天へ向かって伸びていた。それらに呼応するように雨雲は集い、雷鳴は響き、雫は地上へぼたぼたと落ちる。渦はまるで生きているかのようにうねり、竜巻を侍らせて璃月を見下ろしていた。

 それらを見上げ、璃月に生きる人々は皆悲鳴を上げて屋内へと逃げ込んだ。あれが自然現象であれ何であれ、自分たちに害をなすものであると本能的に理解できてしまっていた。逃げなければ死ぬ。そう判断した者から屋内へ逃げ込んだり、また少しでも距離を取ろうと璃月を出て山へ向かった者もいる。

 その光景を見て、マルタはふとタルタリヤが言い残した“絶対に外に出るな”と言う言葉を思い起こした。もしかして、彼はこの状況を予期していたのだろうか。尋ねようにも、彼は既に北国銀行から姿を消してしまっている。外がこんな惨状だと言うのに一体どこへ向かってしまったのだろう。

 何かをすることもなくただ目を見開いて窓の外を見上げていると、一人の男が北国銀行の裏口から飛び込んで来た。


「マルタ! すぐ港に来てくれ!」
「えっ?」
「スネージナヤから来たファデュイの船が、海のあれの出現に巻き込まれたんだよ!」


 男の一言で、マルタと共にいたファデュイたちに戦慄が走る。遠く離れた北国銀行から見ても、あの渦の異形は規格外の大きさだ。その出現に巻き込まれた船と乗っていた構成員が五体満足でいられる筈がない。事実、連絡を寄越した男によれば、船はなんとか璃月港までたどり着けたものの負傷者が続出し、動かすのも危険な者たちで溢れかえっていると言う。

 そこでマルタに応援要請がかかった。マルタが神の目を所持していることは璃月に滞在しているファデュイ全てが把握しており、その性能が治癒であることも理解している。

 衛生兵の役割も担うマルタは男から場所を聞き出すと、タルタリヤの忠告も忘れて北国銀行の外へ飛び出した。ついでにファデュイの仮面も着けるのを忘れていたが、今の璃月の街を歩く者は誰もいない。混雑している時は満足に歩くことさえ難しい大通りも一人の影なく姿を消している。強い雨がマルタの体を服の上から叩き体温を奪ったが、そんなことを気にする余裕もなかった。

 男から聞いた場所へ向かうと、情報通り多くの人が苦痛の表情を浮かべて倒れ込んでいた。出血が止まらない者、四肢があらぬ方向へ曲がってしまっている者もしばしば見られ、一刻も早い処置が求められている。


「元素力で治療します! 下がってください!」


 マルタがそう声を張り上げると、先に応急処置を施していたファデュイが手を止めて一歩二歩と下がる。その間にマルタは胸元の神の目を左手で握り、右手を高く持ち上げた。

 刹那、彼女の手のひらに熱が集まる。熱気は徐々に拡張し、炎として視認できるようになる。マルタが最大出力で生み出した火はこの豪雨の中でも消えることなく、負けじと吠えるようにうねっていた。

 マルタのを生まれて初めて見たものが小さく悲鳴をあげた。彼女の手の中の火球はみるみるうちに膨れ上がり、雨粒の水元素を相殺してふしゅうと音を立て始める。やがて火球が彼女の頭よりも大きくなった時、火球は手を離れて負傷者の倒れる石畳へと着地する。

 次の瞬間、巨大な火柱が彼らを囲うように璃月の港に立った。暗雲で太陽を閉ざされた今の璃月にとって、眩い光を放つそれはまるで暗闇の中で咲く花火のようだ。

 雨で冷やされていた空気が火柱の温度で膨張し、小さな爆発が起こる。マルタと救護班は水蒸気の圧に押されそうになるも、腕で頭を覆い片足を下げることでなんとか吹き飛ばされずに済んだ。

 治療と言うにはあまりに荒々しい。これならば火葬と言った方がまだ納得できる。しかし火が消えたあとの負傷者を見てみるとあれだけ流れていた血がピタリと止み、骨折も完治しているわけではないが腫れは治まっていた。元素力を行使し終えたマルタは一息つくと、「応急処置をしただけです」と救護班に告げた。


「避難を最優先します。揺らさないよう、重傷の方から順に北国銀行まで運んでください」


 マルタの指示に従い、水を打ったように静まり返っていた救護班の人間はわたわたと動き始めた。やれ応援要請を、追加の担架をと忙しなく動く彼らに移動を任せ、マルタはふと海上の渦を見上げた。

 天高くそびえる五本の渦の間近に、群玉閣が浮かんでいる。おそらく璃月に出現した異形を相手に、早くも“天権”凝光が手を打ったのだろう。彼女の策があの渦を鎮められるかどうかマルタにはまるで分からなかったが、ひとまずあの異形がすぐに璃月港に上陸することはなさそうだ。

 負傷者を連れて去っていった救護班の後を追いかけて踵を返そうとしたマルタだったが、直後に背後から聞こえた轟音で瞬時に振り返った。


「え……?」


 五本の渦のうち三本が、大きな口を開けて水元素を収束させる。まるでマルタがたった今見せたものと同じように、水元素はみるみるうちに膨れ上がって巨大な水球の形を成した。水球ははるか上空へ弾け飛ぶと――群玉閣を撃ち落とさんと、数多の矢となって璃月の海に降り注いだ。

 その光景を見てやっと、マルタはあの渦の異形の正体について仮説が立った。

 あれほどまでの高威力な元素を扱える規模の生物となると、およそ今のテイワットに生息しているものではない。そして璃月には、かつて岩神モラクスが討伐しきれなかった魑魅魍魎や魔神が数多く存在している。その中でも水、そして渦を司るものと言えば。

 はるか昔に岩神の槍に貫かれ、今は孤雲閣の下で眠るとされる災厄――渦の魔神オセル。


「!?」


 その瞬間、マルタの膝からがくんと力が抜け、水溜りの広がる石畳の地面に手を着いた。四肢は震え、立ち上がろうとしても体が全く言うことを聞かない。骨が軋み、息苦しさで顔を歪ませる。

 ――元素とは、テイワット中に溢れる七種のエネルギーの総称である。それらは炎、水、氷、雷、風、岩、草にそれぞれ分かれ、神の目に選ばれた者はそのうちの一種類を自由自在に操る権利を与えられる。しかし属性同士でも得手不得手が存在し、有利となる属性や不利となる属性が各々存在していた。

 そのうちの一つが、マルタの“炎”と渦の魔神の”水”。両者は合わさると蒸発という元素反応が起こるが、基本的に水元素は炎元素に対して有利に働くようになっていた。

 そして元素とは使いようによって治癒の効果を与えられるものではあるが、あまりにも強すぎるそれは人間の体にとってはでしかない。


「……あ、ぐ…………っ!?」


 渦の魔神は太古の昔から存在している魔神だ。その元素力は人間のそれと比べ物にならない。

 通常の人間であれば、多少立てなくなるくらいで済んだのかもしれない。しかし、マルタの体はある意味特別製だった。培養期間を短縮したことで極端に虚弱化してしまった体は、当然元素への耐性が人よりも脆い。自身の神の目から供給されるエネルギーと治癒でなんとか人並みの生活を送れている彼女にとって、上古魔神の元素圧は劇薬でしかなかった。

 下手をすると、このまま死ぬ。元素に潰されて死ぬというのが一体どのような死なのか想像もつかないが、安らかという単語から程遠いということは想像に難くない。

 ならばこちらも炎元素を駆使して水元素を打ち消すか? 答えは不可だ。先程マルタの炎が雨に消されなかったのは、溜め込んだ元素力を瞬発的に解放することで威力を上げる、所謂元素爆発を使用したが故の結果だ。今のマルタにはそれをもう一度使うだけの元素は残っておらず、これ以上酷使すると体の維持に使用する分の元素が枯渇する。

 なるほど、タルタリヤが外に出るなと忠告していたのはこういうことだったのか。自嘲する余裕もなくマルタはそう考える。

 北国銀行の中にさえいれば、とりあえず雨に濡れることはない。オセル出現と同時に降り出したこの雨の中にも、きっと微弱ながらオセルの元素が混ざり込んでいたのだろう。マルタも気づかないうちに雨がマルタの元素耐性を削り取り、オセルが大きな術を放ったことをきっかけにギリギリのところで耐えていた体が破られた。タルタリヤの言いつけを無視した段階で、こうなる可能性は十二分にあり得たのだ……と、今更気づいたところでもう遅いのだが。

 本当に、あの公子は一体どこへ消えてしまったというのだろう。璃月港全体を巻き込んだこの騒動が彼の差し金によるものであれば、今もどこかでオセルと群玉閣との攻防を見下ろしていることになる。そしてきっと彼の目には、こうして今にも死にそうな弱者の姿など入っていないのだ。それが氷の女皇に忠誠を誓った執行官としての彼で、“公子”タルタリヤなのだから。

 いっそ全身の力を抜いて地面に倒れ込んでしまった方が楽なのだが、マルタはそれだけは避けようと必死に腕に力を入れる。そうしてしまうと、つい命の糸がぷつんと切れてしまいそうで。生に貪欲で、生に傲慢なマルタ・アライアが折れてしまいそうで。

 もはややけくそ状態で踏ん張っていると、どこからか声が降ってきた。


「本当なら、手を出すまいと決めていたんだがな」


 声の主はマルタの隣で膝をつくと、マルタを支えるように肩に手を置いた。


「だがどんな事情があれ、契約の神自身が契約を破るなどあってはならない。従って、契約に則り貴殿に再び力を貸そう」


 彼がそう言うと、不思議なことに瞬時に雨が止んだ。しかし雫が空から降り注がなくなったわけではない。雨は引き続き水溜りに次々と波紋を広げ、徐々にその領域を拡張している。

 だが、マルタの体には一滴も水が当たっていない。水どころか、オセルから発せられる元素圧もぴたりと止んだ。息苦しさは消え失せ、どういうわけか重石を取ったように体が軽くなっている。

 顔を上げると、自身の周囲に半透明の障壁が張り巡らされているのに気づいた。何やら文字のようなものが浮かんではいるが、これは璃月古来の文字だろうか。マルタには読むこともできない。しかし直感的に、この障壁が自分を渦の魔神の元素から守っているのだと理解できた。

 そして横を向いて、目を大きく張った。


「え……!? どうしてここに……いえ、それよりも、“契約の神”って……!?」
「消耗が激しい。今はひとまず休むべきだ」


 その人物はマルタの問いをまるで無視し、肩に置いた手をするりと頬へ移動させる。東雲を写しとったようなマルタの瞳と彼の視線がかちりと合わさり、そして――マルタの体から、ふっと力が抜けた。

 支える力を失った肉体は重力に沿って倒れ込むが、その前に彼の腕がマルタを受け止める。背も低く肉付きも華奢な彼女を支えるなど、長身の彼に取っては至極簡単なことだった。

 腕の中でぐったりと脱力し意識を閉ざしたマルタを見下ろし、その背と膝裏に手をさし込み抱き上げると、彼は――鍾離は、真っ直ぐに北国銀行への道を歩き始めた。









 瞼を上げると、毎日目にする見慣れた天井が映り込んだ。空は相変わらずの曇天で日差しが差す隙間もないせいか、部屋全体が薄暗い。ここが北国銀行の一室、自分の生活用に割り当てられた部屋だと理解すると、マルタはまだ倦怠感の残る状態をゆっくりと起こした。

 記憶が正しければ、自分は璃月港で鍾離の姿を見た途端、意識を失ったはずだ。それなのに今北国銀行にいるということは、彼がここまで運んでくれたのだろうか?

 いや、そんなことよりも、あの渦の怪物は一体どうなったのだろう。こうして北国銀行が何の変化もなく無事でいるということは、凝光は討伐に成功したのだろうか。

 部屋の中で一人考え込んでいても、答えが返ってくることはない。マルタはベッドから足を下ろし立ち上がると、近くの椅子に引っかかっていた外套を羽織って部屋の外へ出た。

 廊下は閑散としていて、自分の人影とすれ違うことはなかった。いくらファデュイ専用区画とはいえ、ここまで静かなことはそうそうない。壁に手をついて歩くマルタは疑念を抱きつつ、北国銀行のエントランスへ向かった。事の顛末を尋ねるのならば、どこにいるのか分からないファデュイよりも北国銀行で待機していた銀行員に尋ねる方がずっといい。

 歩き慣れた道をしばらく進むと、やがて誰かの話し声が聞こえてきた。


「……はあ、噂をすればってやつかな」


 マルタがエントランスに足を踏み入れると、数人の視線が一斉にマルタに注がれた。その先頭に行方をくらましていたタルタリヤ、旅人とパイモン、なぜか鍾離までが混ざっており……スネージナヤにいるはずの“淑女”シニョーラまでもが北国銀行に立っている。


「あら。誰かと思えば、公子に殺されかけたっていうアライアの末妹じゃない」
「淑女様……!? 申し訳ありません、おられるとは知らず……」
「別にいいわ。久しぶりに笑わせてもらった事だし、少しくらいの不敬は見なかったことにしてあげる」


 右目を仮面で覆った淑女が愉快そうに目を細めてタルタリヤに視線を向けると、彼はばつが悪そうに目を逸らした。一体どんな話をしていたというのだろう。マルタがきょとんとした顔でその様子を眺めていると、タルタリヤは階段を降りるマルタの元へ行き手を差し出した。

 彼が突然紳士的な振る舞いを見せたことにマルタは瞠目するも、「ありがとうございます」とその手を取る。

 しかし態度とは裏腹に、彼の口から飛び出たのはマルタの行動に対する皮肉だった。


「俺は忠告したはずだよ、北国銀行から出るなって。でもまさか、君に本当に自殺願望があったなんてね」
「えっ」
「おい公子! 部下に八つ当たりは大人気ないぞ!」


 咄嗟にパイモンが抗議の声をあげるが、彼は浮遊物の叫ぶ些事などものともしていない様子である。


「別に責めてるわけじゃない。執行官としての命令だったわけでもないしね。……それで、怪我は?」
「え……えっと、元素圧の負荷が原因なので、特に外傷の類は」


 マルタが辿々しくそう答えると、彼は「そう」と短く返してマルタの手を引いた。一応病人であるという意識はあるのか、まるで赤子の手を引くようにゆったりとした足取りである。

 階段を降り切るとすぐにその手は離れ、タルタリヤは近くの壁に背を預ける。その光景を見て淑女はくつくつと笑うと、スネージナヤパレスに戻ると言ってその場を立ち去ろうと足を動かした。が、北国銀行を出る直前でマルタに向かって振り返る。


「もし公子の下が嫌になったら私のところへ来なさい? 歓迎するわ」
「ちょっと、そういう引き抜きを上司の目の前でやらないでもらえる」


 マルタが口を開くよりも早く、タルタリヤが言葉を挟んだ。その態度もまた淑女のお気に召した――というよりも、最初からマルタのスカウトではなく彼のその姿が見たくて口を出したようで、気分を良くした彼女は軽い足取りで北国銀行から姿を消す。二度と来るなと言わんばかりの恨みを孕んだ視線を送るタルタリヤも、その対象が消えたことでようやくため息をついた。


「公子様? どちらへ……」
「部屋に戻る。君も適当に話したら早めに休んだ方がいい。どうせ暫くしたら負傷者の手当てで忙しくなるんだからね」


 眉を下げるマルタに見向きもせず、タルタリヤは北国銀行の奥、ファデュイ区画に引っ込んでしまった。やけに不満そうではあったが、璃月で起きた騒動の顛末を知らないマルタにとっては訳がわからず困惑する一方である。

 「何か公子様の機嫌を損ねるようなことをしてしまったんでしょうか」と俯く彼女とタルタリヤの見事なまでのすれ違いに、鍾離といえども苦笑を漏らさずにはいられなかった。


「そう心配することはない。どちらかといえば、のは公子殿の方だからな」
「え、え……? あの、私が眠っている間に一体何が……?」


 マルタがそう鍾離に尋ねると、鍾離と空、そしてパイモンはここ数時間の出来事を掻い摘んで説明した。

 簡潔に述べれば、あの渦の怪物はマルタの予想通り渦の魔神オセルで間違いなく、それを復活させたのがタルタリヤ、鎮めたのが凝光を筆頭とした璃月七星と仙人たち、旅人、それら全てを璃月港で見ていたのが鍾離ということだった。

 そして――今目の前にいる鍾離こそが、数日前の迎仙儀式で暗殺されたという岩神モラクス本人であると。


「……そうなると、私は岩神様に対してとんだご無礼を働いたことになるのでは」
「いや、お前で無礼になるならオイラたちは相当……」


 なあ?とパイモンは空を顔を見合わせた。送仙儀式の準備を巡っては、鍾離の人間とはかけ離れた金銭感覚が原因でかなり不敬に当たる物言いをしてしまっている。おそらく、岩神モラクスを岩王帝君と呼び敬愛する璃月民に聞かれれば、即座に野山に叩き出される程度には。

 しかし鍾離は、さっと青ざめたマルタとパイモン、空を安心させるかのようにそれを真っ向から否定した。


「岩神が死んだ迎仙儀式の日をもって、俺は一介の凡人となった。今はこうして神の座からも下りている。お前たちが何と言おうと、誰も咎められまい」


 彼の言葉を聞き、パイモンが「そ、それもそうだよな」とぎこちない笑みを浮かべた。

 鍾離が――岩神モラクスがその証である“神の心”を手放したのは、マルタがここに来るほんの数分前の出来事だったらしい。淑女シニョーラが北国銀行を訪れたのも氷の女皇の使者としてであり、マルタが璃月に派遣されるうんと前から秘密裏に鍾離と氷の女皇との中継役を担っていたと言う。

 つまり、今この場に立っている鍾離は紛れもなく凡人と化した鍾離であり、岩神モラクスだの岩王帝君だのは一切関わりのない存在なのだと。そう彼は言いたいのである。


「では……鍾離様。命を助けてくださったこと、感謝いたします」


 マルタは彼に対し、深々と頭を下げた。そして続けて一言。


「あの、お礼としてできることはありませんか? 私の力が及ぶかどうかはわかりませんが、何なりと……!」
「おい! この流れもう一回やるのか!?」


 間髪入れずにパイモンのツッコミが飛んできた。これではいつかの送仙儀式の準備中に行ったやりとりの繰り返しである。そして鍾離も鍾離で、


「気にするな。俺はあくまで契約に則って助けたに過ぎない」


 とあの時の両者を逆にしたような台詞を言うものだから、空はパイモンの隣で頭を抱えた。もしかしてこの二人、結構似た者同士じゃないだろうか。


「いえ、でも今回は命を救っていただいていますし、契約とその代価は対等なものだと鍾離様は仰いました。……命の価値はモラでは測れませんから」


 鍾離がマルタを暴漢から守り、マルタはその代価に金銭を支払った。そしてその礼として鍾離は契約を結び、マルタが支払った数十万モラの重さの分として今回マルタの命を救った。

 キリがないと空とパイモンは口を揃えて言った。鍾離もそう思う。だから丁重に断ろうとしたのだが……けれど、ふと考えがよぎった。

 契約と代価は対等。それは璃月の基本原則であり、3700年間守られてきたルールでもある。

 それを踏まえた上でマルタの謝礼を断り契約に終止符を打つということは、マルタの支払った数十万モラと鍾離が救ったマルタの命はと認めることであり――彼女の命はたった数十万モラの価値しかないと、そう告げることになるのではないか。

 鍾離は岩神モラクスとして6000年にも渡る時を生きてきた。長い時間の中で、人々の暮らしや苦しみ、モラの価値、契約の重要性は重々理解している。そして、人の命の尊さも。

 だからこそ、マルタは何かを彼に捧げなければならない。自らの命はモラで測れるものではないのだと。たった数十万のモラで釣り合うものではないのだと証明するために。

 それを止めるというのは、鍾離が彼女に送る最大の侮辱でもあった。


「……いいだろう」
「鍾離!?」
「ただし、この契約で最後だ。以降は全て新規の契約として結び直し、今回に関わる一切の出来事は持ち越さない。それでいいな?」
「はい、構いません。何なりと」


 マルタは鍾離の提示した条件を承諾した。泣いても笑っても、これが彼と結ぶ最後の契約である。パイモンは“最後だからってすごく重い要求してきたらどうしよう”と空に耳打ちし、空は「さすがにないよ……ないよね?」と固唾を飲んで見守っている。

 しかし鍾離の口から出てきたのは、思わず拍子抜けしそうな内容だった。


「その、“様”という敬称をやめてはもらえないだろうか」
「……敬称をやめる、ですか?」


 思わず聞き返したマルタに、そうだと鍾離は腕を組んだ。


「今の俺は往生堂の客卿だが、様付けされるほどの立場の者ではない。他の者と同じように、鍾離と呼び捨ててもらっても構わない」
「おいおい、数十万モラの上乗せ分がそんなものでいいのか?」
「一般社会において呼称は重要だ。ただの鍾離が凡人として生きるには、身分に適した呼称が望ましい」


 ファデュイ執行官である公子や淑女、璃月七星の天権や玉衡ならばともかく、鍾離は往生堂に勤める一般人だ。客卿として迎えられているものの、その立場は親交のある公子と比べるとはるかに劣る。稼ぎも璃月の平均年収をわずかに上回るだけで、“鍾離様”などと呼ばれるほど高貴な身分であるとは到底言えなかった。

 かと言って、そう簡単に呼び捨てにできるものではない。パイモンは気にしない性格だからごく自然に鍾離と呼べるが、生まれてからずっとファデュイという身分社会に生きるマルタとしては他人に対し最大限の敬意を払うのが当たり前の認識だ。彼自身が許可しているのだとしても、敬称なしで呼ぶのはかなり躊躇われた。

 そこで、マルタはある人物を思い出した。


「でしたら、あの……私も、“鍾離先生”とお呼びしてもいいですか?」


 ある人物とは、十中八九タルタリヤである。

 “先生”という言葉は、璃月においてはそれほど格式高い敬称ではないと聞く。強いて言えば特定の職種に就いている人、博識な人を差す言葉であり、どこそこの誰々さんと呼ぶのと対して変わりはしない。タルタリヤもよく彼のことを“鍾離先生”と呼んでいた。今では旅人もつられてそう呼んでいるくらいである。

 マルタの提案に、鍾離は首を縦に振った。


「ああ、それで構わない。ではマルタ殿、これで契約は……」
「あの、私のことはどうかマルタとお呼びください。私だけが敬称を使われては、その……少し、落ち着かなくて」


 彼女の言葉に、パイモンは「確かに、マルタ殿じゃおさまり悪いもんな」と同意を示した。

 鍾離が公子よりも低い立場にあるとすれば、マルタは鍾離とどっこいどっこいかさらに下である。以前から“マルタ殿”という呼称には少々おもはゆさを感じていたため、この際それも一新してもらおうという魂胆だった。鍾離もそんな彼女の心境を察したのか、特に反論することもなく分かったと了承する。


「これにて契約は完了した。改めて礼を言う――マルタ」
「はい。こちらこそありがとうございました、鍾離先生」


 鍾離の石珀の瞳と、マルタの藤の中に夕焼けをぽとりと落としたような瞳がかち合う。そんな二人を見て、空は「すごく絵になる二人だな」などと考えていた。
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