テイワットにはドッペルゲンガーがいる。
世界中にこれだけ人口がいれば、一人や二人くらい似たような顔をした奴がいたって不思議じゃない。だからドッペルゲンガーを噂される奴の大半は他人の空似で、当然出会っても死ぬことはない。
……でも、もしもその同じ顔が五人や十人、あるいは百人いたとしたら?
そいつはもう他人の空似なんかじゃない。正真正銘、本物のドッペルゲンガーだ。
だからもしもドッペルゲンガーに出会ったら、迷わず逃げろ。振り返るな。その刃で貫き殺される前に、何としてでも生き延びろ。
ドッペルゲンガーが殺すのは自分と同じ顔の奴だけじゃない。他人だって容赦なく殺す。
だって彼女らは、他人が羨ましくて仕方がないんだから。
「おい、あそこにいるのマルタじゃないか?」
遠くに見える人影を見つけ、パイモンがそう口に出す。
璃月騒動から一週間近く経った。稲妻に渡る手段が確保できるまでは璃月港に滞在すると決めた旅人とパイモンだったが、当然その間も食費やら宿代やらと色々と金は必要になってくる。そこで住民や冒険者協会からの依頼を受け、その報酬で何とか食い繋ぐ生活を続けていた。
今日旅人とパイモンが明蘊村を訪れたのもそれが理由である。瑠璃袋を必要数採取し、ついでに付近に集落を作っているヒルチャールを掃討してほしいとの依頼を難なくこなし、あとは璃月港に帰って報告するだけの予定だった。
「おーい、マルター!」
「……えっ、旅人さんにパイモンちゃん?」
パイモンが駆け出し――物理的に地に足がついていないため走るという表現は本来不適切なのだが――マルタの元へ行くと、マルタは思いがけない人物の登場に素っ頓狂な声を上げた。
相変わらずの仮面で表情は見えないが、その奥の瞳は大層見開かれているのだろう。少しだけ狼狽えるような様子を見せるが、すぐにへにゃりと口元を緩ませた。
「こんにちは。随分と大荷物ですね?」
「採取依頼が多くて……」
旅人が抱えた袋の口を開けてマルタに見せると、その中を覗き込んでわあと小さく声をもらした。
一番上には瑠璃袋、その下には霓裳花、さらに下にはイグサやセシリアの花などが見えるから、おそらくモンドまで行った帰りなのだろう。袋の大きさからして他にもまだあるはずだ。まだ子どもの域を出ない年頃の筈なのに、その行動力と体力には驚かされるばかりだった。
「ところで、マルタはこんなところで何やってるんだ?」
「私ですか? ええと……さ、探し物……みたいなものです」
パイモンが聞いた途端あからさまに言葉に詰まり出した彼女を見て、二人は顔を見合わせた。一体どうしたというのだろう。首を傾げつつ助力を申し出たが、「いえ! 旅人さんのお手を煩わせるわけには!」と即座に拒否された。あまりにもハイスピードに断られると逆に心が痛むのだが、どうやら今のマルタはそちらの方に気を回す余裕もないようだ。
そんな彼女に助け舟を出すかのごとく、音もなくまた一人現れた。
「何してるのマルタ……って、相棒におチビちゃん。こんな場所で奇遇だね」
男は普段と変わらずへらりと軽快な笑みを浮かべて、顔の高さまで手を上げた。ここ一週間と少しで飽きるほど見かけた亜麻色の髪に、パイモンは“またお前か”と口をへの字に曲げる。その男タルタリヤは「その反応は傷つくなぁ」と困ったように笑うが、彼がこの程度で心に傷を負うなど旅人はこれっぽっちも思っていなかった。
暴力を愛し、暴力に愛された男。トラブルの神と戦場でダンスを踊ることが趣味、否、生きがいとなっている彼が、子どもの無礼程度で傷つくものか。むしろ、ダイヤモンドの精神を前に言葉のナイフが折れる方が先なんじゃないか。
タルタリヤは一週間前、璃月港に混乱を巻き起こした張本人だ。より詳細に説明すると黒幕は別にいて、タルタリヤもまた踊らされていた手駒の一つに過ぎなかったのだが、まあ直質的要因となったのは事実である。そのせいで璃月におけるファデュイの評価は地に落ち、また彼自身もファデュイ内での信用を落とすこととなったと聞いてはいたが、少しはしおらしくするかと思いきや全くそんなことはなかった。今では“黄金屋での君との戦闘が忘れられない”と旅人を見かけるたびに声をかけてくる始末である。
勝手に相棒と呼び始めたのもその頃だ。騒動前は少年と子ども扱いしかしていなかったくせに、一体誰が彼をこんな風にしてしまったんだ。
そんな話はともかく、マルタとタルタリヤが行動を共にしているのは旅人としては少々意外だった。よくよく考えれば彼女は公子直属であるため何も不思議なことはないのだが、璃月で見かける二人の仕事はまさに正反対と言ってもいい。
マルタはファデュイの表向き業務、つまりはファデュイと提携している各商社や組織との連絡役や書類仕事が主であり、基本的に璃月港を留守にすることはない。対してタルタリヤの仕事は、北国銀行の債務者の元へ取り立てに向かったりファデュイとしての任務で魔物を倒すべく山々を駆けまわったり、最も最近の例だと岩神から神の心を奪うべく策略を巡らせたりと、マルタと比較して活動的なものが多かった。もっとも、取り立てに関しては本来執行官の仕事ではないのだが。
だから組織内でも接点は少なそうに思えたのだが、意外とそんなこともないらしい。暫し考えた後、パイモンが「あっ!」と何か開見えたように口を開いた。
「もしかして、またファデュイが何か企んでるんじゃ……!」
「ははは、おチビちゃんは疑り深いね。でも仮にそうなら、わざわざ俺が姿を見せると思う?」
「それは……確かに……」
送仙儀式の準備期間中、彼は手助けをするように見せてこっそりとその動向を監視させていた。もしも水面下で動くのならば、ここで旅人の前に現れる必要性はない。
「じゃあ、なんでこんなところに公子とマルタがいたんだ? マルタは探し物っていってたけど」
「それは……」
明蘊村は滅多に人が近づくことはない。来たとしてもその大半が冒険者か宝盗団で、そんな場所にファデュイの二人組が訪れるなど怪しいにも程がある。
しかしパイモンの疑問にタルタリヤがすんなりと答えることはなく、ちらりとマルタに目配せをして口を閉ざしてしまった。マルタもどう説明したらよいか迷っている様子で、あちこちに視線を泳がせる。何か事情があるのは確実なのだが、それを言えない事情も同時に存在しているようだった。
「ごめんなさい。一応秘匿事項が絡んでくるので、詳しくお教えできないんです」
「そっか……ファデュイの秘密っていうのも気になるけど、また何か悪さしようとしてるわけじゃないんだよな?」
「はい、そこは誓って。むしろ、被害を出さないためのものでもあるので……」
「?」
困ったように目を伏せるマルタの姿に絶えず疑問は湧いたが、聞いても答えられないというのであればこれ以上の問答は無意味だ。
するとタルタリヤは何か妙案を思いついたように顔を上げると、「もしかして昨夜は璃月港に帰ってない?」と旅人に尋ねた。
「おう! 昨日は瑠璃袋を集めるために野宿したからな!」
「それなら、早めに帰ってみるといい。きっと面白いものが見られるよ」
旅人の代わりに返事をしたパイモンに対し、タルタリヤはそう言って目を細めた。瞬間、二人の背筋に悪寒が走る。揉め事を愛でる彼の言う白いは絶対に信用してはいけない。この男、璃月で散々やらかしておいてまだ懲りてないのか。
パイモンと旅人の意見は即座に一致し、瑠璃袋がパンパンに詰まった袋を掴んで明蘊村を出ていってしまった。向かう先は言うまでもなく、璃月港である。
「帰るのは君もだよ、マルタ」
「え」
思ってもみなかった言葉にマルタは瞠目した。
「でも、捜索がまだ……」
「それは俺一人でも十分だし、君は北国銀行の仕事がまだ残ってるでしょ。エカテリーナ達を過労死させるつもり?」
きっぱりとそう告げられ、マルタは視線を落とした。今も北国銀行内で忙しなく動いている彼女らの名前を出されては、マルタも強気には出られなかった。
けれどマルタとしては自ら調査を進めたいというのが本音である。なぜならこれは自分に直接関わりのある問題で、自分がファデュイとして生きる理由と言ってもいい。北国銀行から一人欠けることで同僚には迷惑をかけてしまうかもしれないが、それでも自分が出なければならないと考えた。
おそるおそる、仮面の隙間からタルタリヤの顔を覗き見る。
「……」
視線こそ合わなかったが、深海のような瞳はまっすぐにマルタを見下ろしていた。
マルタはその目に弱い。強情さを前に甘やかしたくなってしまうという意味ではなく、無言の威圧を前に萎縮してしまうという意味で。有無を言わせぬ視線に押し負け、マルタは即座に白旗を掲げた。
「とにかく、執行官としての命令だ。大人しく北国銀行に帰還。分かった?」
「……はい。公子様……どうかお気をつけて」
マルタが一礼をし、その場を去っていく。
誰に向かって言ってるの、という軽口を叩いて無駄に引き止める気にはならなかった。今明蘊村を出れば、先に戻った旅人らと璃月港に着く前に合流できるだろう。
彼女の背中が豆粒大にまで小さくなったのを見届けてから、「さて」とタルタリヤは振り返った。
「そろそろ出てきたら。ずっと隠れてるのも退屈でしょ」
もちろん、明蘊村に巣食うヒルチャールに向けて放った言葉ではない。そもそもここにいたヒルチャールたちはつい一、二時間前に全て掃討済みだ。よって、タルタリヤの言葉の送り先は別に存在することになる。
返事はない。吹き抜ける風の音だけがタルタリヤの鼓膜を揺らし――たった今、その気配すらも消えた。
はあ、とため息をつき、彼は額を押さえる。
これはまた、随分と臆病な相手が来たものだ。
「そういえば、体調はもう大丈夫なの?」
璃月港へ帰る道すがら、旅人は隣を歩くマルタにそう尋ねた。
「はい。あの事件の後だいぶ休暇を頂いたので、今はもうすっかり。でも……」
「でも?」
「休んでしまっている間の周りの負担を考えると、申し訳なくて……」
「社畜か!」
思わずパイモンはそう叫んだ。旅人も概ね同意見だったが、ここはもう少しオブラートに包んで仲間思いと言っておくべきか。
しかし彼女が所属するのはあのファデュイだ。ファデュイは上下関係の厳しさはあれど、基本的に根性論精神論の類とは正反対の方向にある。たとえ同僚であっても仲間意識など所詮雑草程度の認識だろう。
それでもマルタが仕事を休んでしまったことに罪悪感を感じているのは事実のようで、彼女は終始眉を下げていた。これが俗に言う“ワーカホリック”というものだろうか。社会の一員とは言い難い年齢と立場である旅人にはどうにも想像できなかったが。
するとマルタは胸元の赤い宝石――神の目に触れ、そっと呟いた。
「私の神の目の作用が治癒に特化していることは、旅人さんもご存知ですよね」
彼女の言葉に旅人が頷く。
モンドの教会にも回復を得意とする牧師がいたが、マルタの神の目はそれに匹敵するレベルで治療に極振りされていた。彼女が復帰してからは普段の仕事に加え先遣隊やデットエージェントの傷を癒している姿も度々見かけ、璃月に駐屯するファデュイ専用医務官のような立ち位置になっているということも既に知っている。
「でも、私が渦の魔神の元素圧に当てられてしまったせいで、他のファデュイの方々の治療が遅れてしまって……そのせいで公子様にはご負担をかけてしまっていて」
負傷者多数による人員不足。それを何とか乗り切るために、騒動以降タルタリヤは昼夜問わず働きっぱなしだった。時には下級構成員のするような雑務にも彼自ら手を出し、それで何とか管轄内を回している。だがそれが続けば続くほど、彼に疲労が蓄積されていくのは事実だった。
さらに、例の騒動の影響で公子の評価は組織の内外問わずガタ落ちしている。その二重苦により、タルタリヤは着々と首を締め付けられている状態にあった。
「でも、それは別にマルタのせいじゃないだろ! 元はといえば公子が原因なんだし、自業自得じゃないか?」
「それは、そうなんですけど……でも私は、彼に返しきれないほどの恩がある身なので」
「恩?」
「はい。ファデュイに入ってからは……本当に、色々ありましたから」
――脳裏に、ある女の断末魔が響く。それはマルタとそっくりな声で、もしかしたらマルタの口から出ていたかもしれないものだ。そしてその悲鳴を彼女から引き出したのは、二対の水刃を握る公子タルタリヤ。マルタでは絶対に成し得ない所業だった。
「なんていうか、ますますマルタはファデュイっぽくないよな」
パイモンの言葉に、マルタはしばし立ち止まった。どうしたのかと旅人が尋ねるが、すぐになんでもありませんと足を踏み出す。
「まあ、仮面以外はファデュイ指定の服装じゃないですもんね」と苦笑すれば、「そういう天然っぽいところも含めてね」と旅人から鋭い指摘が飛んでくる。自覚はないが、他人からはそう見えているらしかった。
「服装と言えば、マルタはいつも仮面を着けてるよな? なあ、ちょっと外してみたりとかしないのか?」
そんなマルタの態度に悪戯心が芽生えたのか、パイモンは顔をにんまりと緩ませてマルタの仮面に指を向けた。
マルタの目元は、常にファデュイ共通の仮面で覆われている。硬質な素材で作られたそれは左目の部分に赤い線が添えられており、奥の瞳は完全に隠されていた。
そのためパイモンも旅人も、マルタの瞳の色を見たことがない。気になって以前タルタリヤに尋ねてみたことがあったが、「勝手に言ったら俺が彼女に怒られちゃう」と述べるばかりで教えてはくれなかった。
だからまあ、ほんの軽い気持ちだったのだ。まるで今日の晩御飯の献立を聞くように尋ねれば、相手も同じような感覚で軽く返してくれるのだと思っていた。
しかしパイモンの思惑は外れ、マルタは無意識下で指先を仮面に当てると、神妙な面持ちで「ごめんなさい」と言葉を吐いた。
「見ない方がいいと思うんです。世界を旅する貴方なら特に」
「?」
旅人とパイモンはいよいよ訳が分からなかった。見ない方がいい顔とは、一体どんな顔なのだろう。
もしや他人が見た瞬間発動する呪いにでもかかっているのだろうか。そんな呪いが実在するのかどうかも知らないため完全な当てずっぽうなのだが。しかし、もしもそうならば、既に彼女の顔を知っているタルタリヤが呪われていてもおかしくはない。彼が今も五体満足でいるということは、きっとこの考察ははずれだ。
思考の溝にはまってしまった旅人とパイモンを引き上げるように、あっもうすぐ璃月港ですねとマルタが両手を合わせた。うわずった声色から話題を逸らすために咄嗟に出た言葉なのだろうとすぐにわかる。あからさますぎだろ、というパイモンの呟きを無視し、マルタは若干頬を引き攣らせながら璃月港まで足を動かした。
相も変わらず、この港は騒々しさに包まれていた。テイワット一の貿易港であるこの場所では、日が昇って沈むまでずっとこんな感じだ。人もモラも右から左へと絶え間なく流れ、対して日が沈むと、一部を除いてしんと静まり返る時がやって来る。提灯や灯篭の淡い光がぽつぽつと港を照らし、その瞬間が璃月の最も美しい時間だと話す者もいる。
しかし、今日の璃月は少し様子がおかしい。活気あふれる商人の空気はどんよりと重く、すれ違う人々も皆不安を抱いて歩いているように感じられる。月が昇る前なのにもう店じまいのような顔をして、ベールがかけられたように輪郭が曖昧なままだった。
「皆どうしちまったんだ? なんだか浮かない顔してるな……」
「公子が言ってた面白いものって、もしかしてこれのことかな……?」
「だとしたら相当趣味が悪いぞ!」
依頼のため昨夜璃月港を不在にしていた旅人とパイモンは当然事情を知らず、一体何があったのかと周囲を見渡している。この場で唯一真相を知っているマルタはあえて口にすることなく坦々と歩く。この場で説明しなくとも、おのずと分かるだろうと思ったからだ。
予想通り、璃月港を進むにしたがって陰鬱とした雰囲気の中に罵声が響き始めた。それも、北国銀行の看板の真下で。
「やっぱりファデュイの仕業なんだろ!? それもこれも、公子が全部企てたに違いない!」
「帝君の暗殺に続いて罪のない子どもを傷つけるだなんて、なんておぞましい!」
三十路を過ぎたくらいの歳の男女が一名ずつ、玄関前のファデュイにそう叫んでいた。二人はおそらく夫婦なのだろう。女の隣にはそっくりな顔をした五、六歳ほどの男の子の手がおり、終始不安そうな顔で母親の手にしがみついている。
対して銀行の守衛当番だった彼女はですから我々は無関係ですの一点張りで、それがさらに夫婦の火に油を注ぐ形となっていた。ファデュイは自分達の利とならない者に対し温情を与える組織ではない。彼女の応対は一応マニュアル通りではあるのだが、それで大人しく引き下がる者は少なかった。
偶然銀行に居合わせた利用者や通りがかった者がなんだなんだと集まり、夫婦から少し距離を置いて人だかりができてしまっている。これでは千岩軍が来るのも時間の問題だ。
パイモンと旅人は同時に目を丸くし、マルタに事情を尋ねる。
「どういうことだ? オイラたちが璃月港を離れてる間にいったい何が……」
「……昨夜、あの夫婦のお嬢さんが何者かに切られる傷害事件が起こったんです。お嬢さんの命に別状はなかったんですけど、犯行に使われたとされる凶器のナイフにファデュイの紋が彫られてあって。それで、今朝からあのように」
父親の手には布に包まれたナイフが握られ、刃を覆う布は赤黒い染みをつくっている。マルタが述べたとおり、グリップの部分には旅人もよく目にするファデュイのマークが描かれていた。なるほど、あれがくだんの凶器なのだろう。血痕の量からして、その女の子はかなり深い傷を負ったはずだ。
そのナイフを見て、旅人は考える。
「でも公子は女の子を意味なく傷つけるような人じゃないと思う」
彼は争いを愛している。血の滾るような闘争に、命を天秤にかけた駆け引きに、死神とダンスを踊るスリルに心の底から魅入られてしまっている。それは旅人の危険信号を鳴らすと共に、一種の信頼を勝ち取っていた。
裏を返せば、タルタリヤという男は戦いにしか興味がない。強者は好きだ。だが弱者は好きでも嫌いでもない。これっぽっちも関心を持てない。だから、殺さない。刃を抜こうという気にもなれない。そんな男が、果たして自分よりも弱い幼い少女を手に掛けようとするだろうか?
旅人の意見に、マルタは頷いた。
「ええ。旅人さんの仰る通り、公子様は無実です。でもあの方々を納得させるには証拠が足りなくて……」
「あっ! 公子とマルタが明蘊村にいたのって、もしかしてそのためか?」
「……まあ、そんなところです」
ひらめいたと言わんばかりにパイモンの顔が明るくなった。彼女の言う通り、タルタリヤとマルタが明蘊村を訪れたのは事件の真犯人を確保するため。要はタルタリヤに掛けられた疑いを晴らすためだ。
タルタリヤ本人はそんな容疑を吹っかけられたなんだ、傷害よりもっと人には言えないようなことをこっちは散々やっているんだとどこ吹く風であったが、璃月におけるファデュイの最高責任者という重役を預かっている以上おざなりにするわけにはいかなかった。何せ渦の魔神の一件の後だ。ファデュイと北国銀行の信用がかかっている。
そしてもう一つ。この事件には、別の案件が関わっていた。タルタリヤとマルタにしてみれば、こちらの方がよほど厄介であった。
「なら、マルタは真犯人にもう目星がついてるの?」
「ええっと、それは……」
「おい、それ本当か!?」
マルタの言葉を遮って割り込んできたのは、今の今までファデュイに掴みかかる勢いだった父親だ。彼とマルタ達の間にはそれなりに距離があったはずなのだが、偶然耳に届いてしまったのだろう。
父親はずいとマルタに近づき、「犯人が分かってるのか!?」と問い詰める。母親もそんな父親の後ろ姿越しにマルタを睨み、幼い息子は母親の影に隠れた。
「分かってるなら教えてくれ! いったい誰が娘にあんな酷いことをしたんだ!」
「あの、ちょっと待ってください、」
「よく見たらお前、ファデュイの仲間じゃないか!? お前の姿見たことあるぞ! まさか、ファデュイは犯人をわざと隠してるんじゃないだろうな!?」
「待て待て、それはさすがに言いがかりだろ!」
半狂乱の父親とマルタの間に旅人とパイモンが割り込むが、それでも父親が止まることはなかった。彼の脳内では、ファデュイが子供を傷つけそれをファデュイが隠蔽しているという図式が完成してしまっている。明確な証拠を提示できないうちはそれを覆すことは難しい。
武術に長けていると言えども、旅人はまだ少年だった。旅人よりもひと回り以上大きな体躯との力比べでは圧倒的に劣る。「どけ!」と旅人を押しのけた父親はマルタへと突き進み、鼓膜がちぎれんばかりに声を飛ばした。
「だから前々からファデュイは気に食わなかったんだ! 大体なんなんだよその仮面は! 顔を隠して、俺たち璃月人を見下してるんだろ!?」
「おい! それは今は関係ないだろ!」
「うるさい! やましい事がないなら、仮面を取ってみろよ!」
ますますヒートアップする父親の怒号は、もはや手の施しようがなかった。暴れる寸前の彼を止めるのであれば、同じ体格の男があと二人は必要だ。もしくは戦闘訓練を受けたファデュイを呼んで来るか。
しかしファデュイを呼ぶというのは即座に却下された。今マルタが踏みしめているのは他でもない璃月港の土地だ。北国銀行内部であればいざ知れず、璃月の大地で璃月人とファデュイが揉め事を起こすと二国間の外交に亀裂が生じる。
強硬手段に出た結果総務司を引っ張り出してしまうのは、北国銀行としては最も避けたい結末だ。総務司や千岩軍がファデュイの味方をしない事は重々理解している。銀行は信用で成り立つ商売なのだから、マイナスな印象を植え付けられるのは御免こうむりたい。
だから、父親が拳を振り上げてもマルタは反撃に出ることができなかった。以前暴漢に襲われた時のように、相手が一人だけであればマルタでも基本対応できる。けれど今この場で行使してしまえば、璃月とスネージナヤその関係は落ちるところまで落ち切ってしまう。どうするか迷って、回避する方向に頭を切り替えた時にはすでに一歩遅れていた。
「!」
父親の手が、硬い板を側面から掠った。衝撃でそれは重力に従って落下し、からんと高い音を立てて石造りの地面にぶつかる。マルタがそれを追って視線を下げると、ほんの一秒前まで自身の目元にあったそれ、左目に赤い一閃が塗られたファデュイの仮面と目が合った。
頭部を覆っていたフードも外れ、長い間人目にさらされていなかったかんばせが衆目の中であらわになる。
眉目秀麗。つづまやかなその一言に、全てが詰め込まれていた。
新雪のようにやわらかく真っ白な肌はいつもの事ながら、最も目を惹くのは今まで誰の視線も受けることのなかった大きな双眸だ。菫畑の中に東雲をぽたりと一滴垂らした瞳は大きく見開かれ、子鹿のように長い睫毛をふるふると震わせている。透き通るような銀髪は後ろでひとつにまとめられており、日の光を反射してまるで宝石のようだった。
美しいという言葉は彼女のためにあったのかと錯覚するほどに、日の下の彼女は美麗だった。あまりに可憐で、あまりに神々しい。人形というよりは、絵画や彫刻のようだ。
誰かの息を飲む音が聞こえる。花より団子を地で通すパイモンですら目の前の白薔薇に感嘆の声をもらし、それきり言葉を失った。
そんな永遠であり一瞬でもある時間も、母親の手を握る少年の「あっ」という声で打ち砕かれる。
そして一言、
「妹を斬ったの、こいつだよ!」
という言葉で、金槌で殴られたような衝撃が走った。
母親のえっ、という声を皮切りに、野次馬達にも動揺が広がる。ざわめきが波紋を呼び、それを後押しするように、少年は「おれ見たよ! こいつがナイフで妹を斬ったの! 本当だよ!」と懸命に訴えかけた。
不安。疑念。驚愕。恨みや妬み。人々の視線は全てマルタの元へ飛んで行き、マルタはそれらから逃げるようにさっとフードを被りなおした。下を向く彼女の肩は小刻みに揺れ、縋るようにフード端を掴む。今はもうその顔を見ることはできないが、フードを被る直前に見えた額は真っ青に染まっていたからきっと今もそうなのだろう。
「おい待て待て待て! まだマルタが犯人だって決まったわけじゃないだろ!?」
「でも、被害に遭った子のお兄ちゃんが見たって言ってるんだろ?」
「およしよ! マルタちゃんがそんな子じゃないってあんたも知ってるだろ!」
「みんなだって彼女に傷を治してもらったことがあるはずだ!」
「そんなの分からないだろ! いい奴そうなふりをして、俺たちが油断するのを伺ってたのかもしれない!」
ギャラリー内の意見は真っ二つに割れた。少年の供述を信じ、マルタが犯人であると断定する者。そして、マルタがこれまで積み上げた信用から犯人ではないと否定する者。旅人とパイモンは当然のように後者である。
そして、少年の両親は前者だった。
「お前が、娘にあんな傷を負わせたのか……?」
ゆらりと父親の体が揺れる。その顔は鬼のように険しく、怒り以外の一切の感情がそぎ落とされている。
「地獄に落ちろ!」
父親の拳が再び振り上げられる。しかし前回とは違い、マルタは何の反応も示さなかった。防御も回避も無意味であると、甘んじてその痛みを受け入れようと瞼を降ろす。
けれど、その拳がマルタに届くことはなかった。
「子供の前だ。どうか怒りを抑えてくれないか」
父親の振り上げた手を、横から伸びた長い手が掴んでいた。邪魔をするなと父親はその腕を辿って顔を上げるが、凛と佇む石珀の瞳の気迫に押されうっと力を緩めた。ちらりと後方を見てみると、少年は完全に怯えきった様子で母親の後ろに隠れていた。それもそのはず、まだ五、六歳程度の小さないのちだ。父親が誰かを殴る姿なんて見たくもない。大人だって嫌がる光景なのに。
鍾離、と旅人とパイモンが駆け寄ると彼は掴んでいた父親の手を離し、ああお前たちかと目を向ける。マルタは一瞬だけ顔を上げ彼と視線をかち合わせると、すぐに下を向いてしまった。
鍾離はそのまま父親に向き直ると、極めて平坦な声色で言い放つ。
「話は全て聞いていた。だが、目撃情報のみで彼女を犯人とするのは早計だろう」
「なら、お前は息子が嘘をついていたとでも言うつもりか!?」
「そういう意図はない。俺はただ現段階での結論を述べたまでだ。今回の件は千岩軍に委ねるのが妥当だろうな」
正論だった。傷害事件の被害者と重要参考人の両方が揃っていて、尚且つ犯行が璃月の地で行われたのであれば、千岩軍ないしは総務司に預けるというのが通例だ。
煮えくり返っていたはらわたも鍾離の冷静さに徐々に温度を下げ、父親はすごすごと手を降ろす。しかしマルタに対しての怒りが完全に鎮火したわけではなく、その間もずっと彼女を呪い殺す勢いで睨み続けていた。
だが話は未だまとまっていない。今後の処遇について話し合わなければと、鍾離は口を開いた。
「千岩軍と総務司だが、準備が整うまでには些か時間がかかるだろう。よってその間、彼女の身柄は往生堂が預かろうと思うがどうだろうか」
総務司は璃月七星の下部機関であり、七星が政を行うのであれば総務司はその実行役だ。七星から下された方針を直接民に伝え、反対に民の声を七星に届ける役割も担っている。また、璃月における司法の役目を担っているのも総務司だった。だから何かしらの事件が起こると、大抵の場合は総務司の人間が立ち会って裁判を開き、判決を下す。
しかし総務司は一年中多忙を極める機関だ。と言うのも、広い璃月の大地に対して総務司の仕事は多すぎる。千岩軍は武を主軸としているが、総務司の仕事は武以外の全てと言わざるを得ない程に幅広い。政策実行、裁判、商人の取り締まり、税の徴収、住民からの要請、千岩軍へのサポート、各種要請の確認その他諸々と、まさに総務の名にふさわしい働きっぷり。これでは全てに手が回らないのも納得だった。
今回の事件での死者はおらず、被害者も命に別状はなく、重要参考人は捕捉済み。殺人事件ならばすぐにでも動くのだろうが、当件の優先度は比較的低い案件だ。千岩軍が現場とマルタへの調査をしたら、総務司が動き始めるのは早くても明日以降になるだろう。
だからそれまでの間、マルタを保護する役目が必要だ。保護とは名ばかりの、言わば監視である。彼女が璃月の民であれば一度自宅に返して千岩軍の見張りを付けるなり何なりできたのだが、彼女は外つ国から来訪したファデュイの使者だ。住居は北国銀行内部のファデュイ区画であり、一種のスネージナヤ領土でもあるそこでは千岩軍もそう易々と立ち入ることはできない。
そこで鍾離は、往生堂の客室を利用することを考え付いた。往生堂は璃月内でも規模の大きな葬儀屋だ。弔いの準備をするため遺族が泊まる部屋も完備されており、マルタが今日一日過ごす程度であれば何も支障はない。正真正銘璃月の土地でもあるので、千岩軍でも何でも好きに出入りすればいい。
そう鍾離に尋ねられ夫婦は多少不服の色をにじませながらも、このままファデュイに帰すよりはと了承した。
往生堂は璃月の業者でありながら、ファデュイとも親交がある。ある意味この場で最も公平な立ち位置にいるのが彼、鍾離だ。少なくとも、ファデュイに手を貸さないスタンスを貫いている総務司よりはよほど。
だからマルタも、鍾離の提案を受け入れる他なかったのだ。
タルタリヤが往生堂に到着したのは、日が天頂よりも少し傾いた頃だった。
「エカテリーナから聞いて帰ってきたはいいけど、どうしてこうなったの?」
タルタリヤの目前では、三人と一匹が茶と菓子が並べられたテーブルを囲っていた。さすがは往生堂と言うべきか茶菓子のどれもこれも名の知れた高級品ばかりで、庶民派代表である旅人とパイモンが月に一度出会えるかどうかの気品溢れる甘い香りをただよわせている。
マルタ達が通されたのは、往生堂内でも最もグレードの高い客室なのだろう。彼女らが囲む円卓の後ろには天蓋付きの、いわゆる璃月式のベッドである牀が置かれ、北国銀行に用意されたタルタリヤの私室と同等かそれ以上の質を輝かせている。繊細な金の刺繍が施された絨毯はふかふかとやわらかく、どこぞの巨匠が描いたのだとされる夕焼けの孤雲閣を写した絵がこれまた細部まで造り込まれた額縁と共に飾られている。
正直、こんな部屋であればタルタリヤも一度泊まってみたいと思う。往生堂で葬式をあげればこんな部屋に泊まれるのなら、今度誰かが死んだときにはそうしてみるのもいいかもしれないと不謹慎かつ倫理観ゼロの思考を持つ程度には。勿論、その誰かに家族は含まれないのだが。
あれこれと手を伸ばしては舌鼓を打つパイモンを眺め、鍾離は静かに茶をすする。マルタも素顔をさらしその光景を微笑と共に見守っている。実に平和な、穏やかな昼下がりだ。……扉の向こうに、千岩軍さえいなければ。
ひたすらため息を吐くタルタリヤに、「先ほど説明した通りだ」と鍾離は茶を嚥下した。
「明日以降の取り調べまで、マルタは往生堂で預かることになった。その間彼女は建物外に出ることはできないが……まあ北国銀行に被害が及ぶことはない。安心していいぞ」
「いいわけないでしょ先生。俺の容疑を晴らすために出かけたのにマルタが容疑者になってるって笑えないんだけど」
タルタリヤ本人は鍾離に対して棘を放ったつもりだったのだが、鍾離本人が特に何の反応も示さないのでその棘は途中で折れ曲がってマルタに突き刺さった。
彼が述べたことは何も間違っていない。十割事実であり、全ては一瞬の判断ミスが生み出した結果だ。
「ごめんなさい……」
マルタが小さく呟く。
ちゃんと回避できていれば。仮面なんて落とさなければ。
深く被ったフードがへたりと垂れ、顔からは一瞬で笑みが消え去ってしまった。元々本心から笑ってなどいなかったのだろう。ただ楽しそうに茶請けを食す旅人とパイモン、それに鍾離の雰囲気に合わせて無理矢理笑っていただけで。寸前で耐えていたそれは、タルタリヤの言葉でがらがらと崩れ去った。
パイモンと旅人の手が止まり、タルタリヤの蒼海の瞳は大きく見開かれる。6000年生きる者の特権なのか、鍾離だけは一切表情を変えなかったが。
「だ、だってほら、全部が全部マルタのせいじゃないだろ? ファデュイが殴れないって分かってて先に手を出してきたのは向こうなんだしな!」
「目撃情報だって、きっとあの子が見間違えただけだよ」
旅人の言葉に反応して、マルタは顔を上げた。
「いえ、おそらく見間違いではないんです」
「見間違いじゃない……?」
「……」
憂いに満ちた横顔は芸術家が見れば思わず詩を詠んだり絵筆を走らせる衝動に駆られるものであったが、生憎旅人は芸術に関してそれほど造詣が深いわけではない。あってもこの空気の中で紙を取り出す気にはなれなかった。
しかし、それはいったいどういうことか。傷害は事実無根の冤罪であるというのに、少年の目撃情報は見間違いなどではないと言う。しばし思考を巡らせてみるが、旅人の頭脳では答えを導き出すには至らなかった。
無言を打ち払うように鍾離が言葉を紡ぐ。
「公子殿も来られたことだし、早速本題に入るぞ。マルタの今後についてだ」
茶を置いた鍾離と入れ替わるように、タルタリヤが空いていた旅人の隣の席に腰を下ろした。その様子を横目で見つつ、鍾離は続ける。
「今一度確認するが、マルタは事件の犯人ではない。そうだな?」
「……はい」
「彼女は事件当時北国銀行で仕事をしていたはずだよ。俺が保証する」
タルタリヤの証言により、マルタのアリバイはとりあえず成った。マルタへの容疑は言ってしまえば少年の目撃情報だけなのだから、それと矛盾するアリバイが形成されたのは非常に心強い。
「だが、それだけでは決定打に欠けるな。目撃情報を覆せるだけの証拠を揃えるか、もしくは……」
「真犯人を捕まえてくる、とか?」
「……その様子だと、公子殿はすでに心当たりがあるようだが?」
えっ、と旅人とパイモンがぎょっとした顔でタルタリヤを凝視する。鍾離の探るような石珀色とタルタリヤの瑠璃色が重なり合うが、「まあね」と簡潔に返すといつものようにゆるやかな笑みを浮かべた。そして同時に、マルタの睫毛がガラス玉のような瞳にかすかに影を落としたのを見て、鍾離は声もなく察した。ああ、やはり彼女関連であったか、と。
タルタリヤも今この場で全てを洗いざらい話す気はないのか、菓子皿の上にかろうじて残っていた焼き菓子に手を伸ばし口に放り込む。甘味が好きなわけではないが、風味ある上品な甘さはタルタリヤの舌を程よく楽しませた。それに、これから頭を使うという時には甘いものは最適だ。
「それじゃ、善は急げって言うしね。鍾離先生、ちょっと」
「? 俺か」
タルタリヤが席から立ち上がって鍾離に手招きすると、二人はそのまま部屋の外に出て行ってしまった。残されたマルタ、旅人、パイモンがきょとんと顔を見合わせるが、まあ分かるはずもなく。終ぞその行動の意味を理解する事がないまま、数分程経って二人は戻ってきた。
おまたせと出て行った時と変わらない表情を浮かべるタルタリヤに何を話していたのかとパイモンが尋ねるが、彼は内緒と言うばかりで教えてはくれなかった。鍾離に聞いても「契約だからな」と黙秘される。送仙儀式が終わってもなお秘密が多い男たちだ、と旅人は呆れたが、無理に探ろうという気にはならないので見なかったことにした。
「それじゃあ俺はちょっと出てくるよ。鍾離先生、彼女のことよろしくね」
「ああ、請け負った。傷ひとつつけさせないと約束しよう」
「……そんな重たくなくてもいいんだけど」
タルタリヤがため息をついた理由に鍾離は見当がつかず、む、と小さく唸った。何を話したのかは知らないが、鍾離に対して期待する方が間違っているのだと旅人は思う。6000年生きたおじいちゃんは人間の心の機微には鈍感なのだから。
「犯人探しに行くならオイラたちも手伝うぞ!」と手を振るパイモンに、相棒が来てくれるなら心強いとタルタリヤが笑う。あっけらかんとした笑顔に本当にそうかと疑いたくもなったが、ひとまず同行の許可は下りた。乗り掛かった舟でもある。送仙儀式でマルタに借りがある身としては、このまま彼女に冤罪がかけられてしまうのは見過ごせなかった。
去っていく彼らに、あ、とマルタが声をかけようと手を伸ばしかけるが、その腕が完全に伸び切ることはなく途中で降ろされる。
意外にも、それにいち早く気づいたのはタルタリヤだった。部屋を出る直前で彼は立ち止まると、振り向かずに淡々と告げる。
「すぐ戻るよ」
その言葉はマルタに対してなのか、はたまた隣の鍾離に対してなのか。はっきりと断定することもできないまま、彼は足早に往生堂を出ていった。
こんな事態でも璃月の空は雲ひとつなく晴れ渡っている。それがなんだか、やれるものならやってみろという天からの挑戦状のように思えて、タルタリヤは期待に心躍らせた。売られた喧嘩は買うしかあるまい。公子とはそういう男だった。
「さあて、犯人探しといこうか」
ぎらりと闘争心を宿した深海の瞳を見て、あ、やっぱりついてこない方がよかったのかなと旅人は思った。