鳳の章 第一幕
『プレタポルテの憂鬱』
3


「ところで相棒は、犯人はどんな人物だと思う?」


 玉京台を登った先、天衡山のふもとでタルタリヤは前触れなくそう尋ねた。今度は一体何を企んでいるんだと一瞬身構える旅人だったが、これもこの奇妙な捜査ごっこの延長線上にあるのだと考えて素直に答えることにした。


「マルタに悪意があるのは確実だと思うけど……他は特に思いつかないかな。強いて言えば、結構合理主義なところはありそう」
「へえ、相棒にはそんな風に見えるんだ。ちなみに理由は?」
「感情的な人だったら、こんな遠回りをしないで真っ直ぐマルタを狙うと思うから」


 旅人が思うに、犯人は少々回りくどすぎる。マルタに怨恨があるのか、はたまた別の感情を抱えているのかは彼の知るところではない。だが単なる恨みつらみを晴らすのであれば、直接害を与えれば済む話だ。そうしないという事は、それだけの理由を抱えているということ。少なくとも、拳で解決できることは全部殴って終わらせるタルタリヤとは対極にいそうな人物だ。


「じゃあ、逆に公子はどんなやつだと思うんだ?」
「そうだな……臆病な奴、かな」
「臆病?」
「犯人からすれば、璃月港で傷害事件が起きて、その罪をマルタになすりつけることができれば後は何でもいいんだ。傷つくのが誰であろうと構わない。璃月一の富豪であろうと、日雇い暮らしの労働者だろうと、屈強な戦士だろうとね」


 けれど犯人が選んだのは、年端も行かない子どもだった。誰でもいいはずの標的の中でわざわざ少女を選んだのは、彼女が弱者だったからだ。確実に己よりも弱く、そして子どもが斬られたと発覚すればより大きな騒ぎとなる。何よりも、返り討ちに遭うことがない。これ以上ないほどの優良物件。

 旅人の考察も間違ってはいない。より確実な道を選ぶのが合理主義の極みなのだとしたら、犯人は間違いなくそれに該当する。だがタルタリヤからすれば、それは臆病以外の何物でもなかった。

 だって犯人は、自分が傷つくことを極度に恐れている。マルタを絞め殺さんとしているのにも関わらず、自分がダメージを受けることは回避しようとする。そんなの、フェアじゃない。不公平だ。誰かを傷つけるのであれば、自分自身も傷を負う覚悟をするべきだ。相手の命を欲するのならば、自分の命すら盤上に乗せる気概を見せるべきだ。そうでなければ、均衡が成り立たない。

 タルタリヤは理不尽を嫌った。スネージナヤを嫌っているわけではないけれど、あの場所は常に理不尽で満ちていたから。自分の身ではどうしようもない不幸に身を縮こませることしかできない人を、タルタリヤは何人も見てきたから。


「……そろそろ聞いてもいい?」
「何を?」
「今回の事件の犯人。タルタリヤはもう知ってるんだよね」
「……」


 どうしらばくれようかと思ったが、そもそも往生堂で鍾離に尋ねられた時に否定しなかったのも自分だ。鍾離も旅人も、とっくに気づいていた事だ。

 きっと旅人は聡いから、マルタに深く関わることだからと今まで訊いてくることはなかったのかもしれない。けれど、もうここまで来てしまった。これから犯人を確保する時には必ずその顔を知ることになる。無関係を貫くには、この子どもはあまりに近づきすぎていた。


「……まあ、いいよ。そろそろ頃合いだしね」
「頃合い?」
「こっちの話。さて、どこから話そうか……」


 少々長い話になる。時系列に沿って話すが、現状から話すか一瞬迷って、


「――アライア。それが、今回の事件の犯人の名前だ」


 最も表層に近い場所から取り掛かろうと決めた。









 他愛もない話。あえて名前を付けるとすれば、そんな感じだ。

 タルタリヤと旅人、パイモンの三人が往生堂を発ってから、もう短針は一周も二周もしている。それでもこの茶の味に飽きが来ないのは、きっと鍾離の話が面白いからだ。

 6000年。凡人には想像がつかない程の時間を過ごした彼の頭は、まさに生きる璃月史だ。魔神戦争時代の歴史はさることながら、当時一部の間で伝わっていた民間伝承、材料の不足や気候の変化から今ではもう再現不可となった料理の味まで、事細かに鍾離の口から述べられる。

 さらに語り口まで上等なもので、聞き手に自然と想像させるのも上手い。見たことも食べたこともない料理の味が舌先に転がるような感覚にマルタも何度も驚かされたものだ。例え往生堂との契約が満了し客卿という身分を失ったとしても、講談師として食べていけると思うくらいには。


「鍾離先生は、本当に色んな事をよくご存じですよね」
「何度も言うが、少し記憶力がいいだけに過ぎない。それに、物覚えが良すぎるというのも少々考えものだ」


 消したい記憶だって山ほどある。6000年、ただ道楽に費やしてきただけではないのだ。契約の名の元非道と言わざるを得ない汚れ役を引き受けたことだってあるし、同胞と呼べる者を手にかけたことだってある。鍾離が愛する璃月の大地を壊し、花を枯らし、文明を握り潰したのもかつての鍾離自身、岩神モラクスがしたことだ。それについて弁明する気も飾り立てる気もない。

 璃月の民は岩王帝君を屈強で清廉な存在だと囃し立てるが、それが真実でないことを鍾離だけが知っている。神は全知全能の存在ではない。神が本当に全ての力を手にしていたのだとしたら、帰離の原が荒廃することも荻花洲の東端が塩に呑まれることもなかった……などと感傷に浸る時期も、遠い昔に追いやってしまったのだが。


「確かに、その通りかもしれません。特技というのは必ずしも利点だけを生み出すものではありませんから」
「……ならば、お前の得手は一体何だと考える?」


 ふと突き付けられた問いに、マルタは一瞬呼吸が止まった。まるで喉元に銃口を押し当てられたみたいだ。巧妙に隠した気でいた針穴を一直線に突き刺してくる質問に、さすがは元岩神だと心の内で称賛する。


「……どう、でしょう。何が得意で、何が向いているのかなんて、そんな判断ができるだけの時間を私はまだ生きてはいません」
「……」
「でも、強いて言うとするならば……少なくとも私は、ファデュイには向いていないんだと思います」


 以前からどことなく感じていた。明蘊村から帰る際旅人に指摘されて、核心に変わった。

 ファデュイはどこまでも理に沿って行動する。感情を置き去りにして、合理性だけを追求して。不必要な事象は全て切り捨てて、そうやって必要なものを選別していく。人も、道具も、魂でさえも。

 だからシニョーラは風神の心を強奪した。だからタルタリヤは璃月を海に沈めようとした。女皇陛下の意志のままに。スネージナヤの望むがままに。あんなにきれいな、ぴかぴかの宝石みたいに輝いていたものを踏みつけた。

 けれどマルタには、そんなの耐えられない。理屈よりも感情が優先されてしまう。たとえ女皇が不要の烙印を押したものだとしても拾い上げたくなってしまう。マルタが好きだと思ったものを、救いたくなってしまう。

 いいや、救わなければ。

 研究者数十名の命を引き換えに生まれた自分が。己を192回も殺さなければならない自分が。192人目を手にかけた後も生きているためには、あと何人救えばいい? 何人の命を救えば、“生きる価値有り”と判を押してくれる?

 救済を与えなければ。焔で照らさなければ。

 私が生きるために。私が世界に認められるために。

 彼女はきっと、怪物なのだ。心の奥底から善性――否、“承認欲求”に支配された、化け物。

 けれど、世の中は道理で満ちている。理屈で氾濫している。マルタを溺れさせるには十分すぎるほどに。


「ファデュイが嫌いなわけではありません。ファデュイを抜けたいと思っているわけでもありません。でも……」
「……」
「……方が、きっと上手くいく。ファデュイにとっても、公子様にとっても」


 公子。それは、璃月の神を殺した極悪人の名前。

 それが事実でないことをマルタは知っている。だけど彼が否定も肯定もしないから、岩王帝君という拠り所を失った民の間ではそういうことになっている。彼本人も大悪党の名を悠然と受け止めて、一滴残らず飲み干している。

 彼はこの先もそうやって生きていくのだろう。罵倒をご馳走に変えて、何もこわいものなんてありませんみたいな顔をして。

 その視界に、マルタという善人は映っていない。


「……いいえ、とても鍾離先生にお話しすることではありませんでした。どうか忘れてください」


 そう薄く笑って、マルタは茶を一口飲む。鍾離は黙って、彼女の言葉を一字一句漏らさず聞いていた。そして己の中でその意味を反芻し、そっと息を吐き出した。


「お前がそう望むのなら、俺も今の話は聞かなかったことにしよう。だからここからは俺の……お前よりも少し長生きをしている者の独り言だ」


 凡人鍾離ではなく、ましてや岩神モラクスでもなく。ただ永劫とも呼べる時間を過ごしてきただけの、生きる人類史としての話をしよう。


「俺が思うに、人間はそこまで理屈で説明がつく生き物ではない」


 塩の魔神を殺したのは誰だと思う。そう、人だ。彼女は自分の領地の民によって殺された。魔神戦争という苦しみから解放するために、彼女が愛し、そして彼女を愛する者の剣で貫かれた。

 彼らを突き動かしたのは、理屈ではなく感情だ。彼らは塩の地を去るべきだった。ヘウリアが戦えないと、ヘウリアでは自分達を守れないと判断した段階で、彼女に見切りをつけるべきだった。彼女を捨て、彼女の首を手土産に他の魔神の傘下に入るべきだった。戦争に正しさも倫理もない。生き残った方が正義なのだから、たとえそうしたとしても誰にも責められることはなかったのに。そうしなかったのは、彼らが塩の魔神を愛してしまったからだ。故に彼らは滅びの道を歩むことになった。

 理とは所詮世界を回すための歯車に過ぎない。時代を動かすのはいつだって人の感情だった。

 そして、情に取り憑かれているのは人間だけでない。仙人や魔神でさえもがそれに縛られていたというのに、どうして矮小な一個人がそれに抗えようか。


「それに今回の件で言えば、最も合理性に欠けているのは間違いなく公子殿だな」
「公子様が?」


 マルタは理解ができないと言いたげな顔で鍾離を見上げた。


「考えてもみろ。なぜ公子殿は、お前の無実を証明するためにここまで奔走していると思う」
「それは……璃月内外問わず公子様の評価が低下している今、北国銀行の信用までもが落ちぶれてしまうのはさすがに痛手になるから、では」
「ああ、その認識でも間違いではないだろう」


 実際そうだ。璃月におけるファデュイの最高責任者という座に就いている以上、北国銀行の経営に差し障りが出た場合は監督責任に問われる可能性がある。というより、十中八九問われるだろう。渦の魔神の一件も引っ張り出された暁には執行官の立場すら揺らぐことになる。

 けれど、それだけではない。それだけでは、公子の行動に説明がつかない。


「今回の事件、ファデュイならば強引に解決することもできたはずだ」


 そうしなかったのは、偏にお前を守るためだ。

 石珀が一直線にマルタの双眸を射抜く。藤紫の瞳が開かれる。どうして、という疑問を発する前に、鍾離は答えを喋ってしまった。


「ファデュイは理に沿う組織だと言ったな。もしそうであれば、最も簡単なのはお前を切り捨てることだ」


 たとえマルタが本当に何の罪も犯していなかったのだとしても、そういうことにしてしまえばいい。証拠なんて後からいくらでもでっち上げられる。ファデュイにいたってはそんなの朝飯前だ。

 全ての罪をマルタに被せ、璃月からファデュイに対し溜まりに溜まった鬱憤をマルタ一人に押しつける。今は公子が璃月一の大悪党になっているが、そうなれば次に断頭台に上がるのはマルタだ。そうしてファデュイ自らギロチンを下ろすことによって、ファデュイと北国銀行の面子は保たれる。ついでに公子もさらし台から解放される。

 全部、このマルタって奴がやったんだと。さも自分達も被害者のような顔をして、いつも通りの明日を迎える。たったそれだけでいい。

 だというのに、公子はわざわざ遠回りする方法を選んだ。本国の耳に入らないよう璃月にいるファデュイに口止めして、自分がさらし台から降ろされるチャンスを棒に振ってまで、マルタとファデュイの両方を生かすために走り回った。


「……公子様は、どうしてそんなことを」
「さてな。公子殿の行動を読むのは容易いが、俺は公子殿ではないからな」


 その裏の感情までは読み取れない。

 公子が何を考えてマルタを救おうとしているのか。推測することは可能でも、それはあくまで推測の域を出ない。実際のところ何を考えているのかなんて、本人にしか分からないのだから。

 だが、一週間前、渦の魔神が璃月を滅ぼさんとしたあの日。鍾離がマルタを抱きかかえて北国銀行にやって来た時の公子の顔を見れば、おのずと感じ取ってしまえる。

 結局、ここには人間らしい人間しかいないのだ。ただ一人、鍾離を除いて。


「……鍾離先生は、かみさまみたいですね」
「それはついこの間捨てた名だがな」


 ならば牧師か。隣国のモンドでは風神信仰が盛んだが、璃月は岩王帝君と人の距離が近いからかそこまで宗教が発展しなかった。だから璃月には、教会もなければ牧師もいない。地方に行けば小さな民間信仰もあるのだろうが、国ひとつを丸ごと包み込めるような宗教は今のところ出来上がっていない。形作られるにはまず璃月の民が岩王帝君を過去の存在にする必要があったが、当分の間は難しい。

 けれど、マルタにしてみれば神だろうが牧師だろうがどっちだっていいのだ。教えを授けてくれるのであれば何だっていい。だって、凡人は神の声を聞くことができないから。聖職者の口を通してでしか、神の導きを享受できないから。それならば神様だろうと牧師様だろうと、大した違いはない。

 神の心を手放し凡人となった。それでも鍾離はごく自然に、石ころを拾い上げるような動作で啓示を与えてしまうのだから、きっと彼はこの先も神様をやめることなんてできないのだろう。


「さて、そろそろ聞かせてもらえるか、マルタ」


 事件の真相を。

 鍾離が杯を茶托に置く。ここからは、ただありのままの事実を述べる時間だ。


「そう、ですね。ここまでしていただいたのに隠すだなんて、失礼というものでしょうから」
「……」
「ですがその前に、私と契約を結びませんか?」


 鍾離との契約はこれで二度目だ。一度目は送仙儀式の最中、鍾離がマルタに手を貸すという旨のもの。そしてそれは、渦の魔神封印と共に終わりを迎えた。

 けれどこれは、終点が存在しない契約。マルタか鍾離のどちらかが死ぬまで、と言っても鍾離の場合はほぼ不死のようなものなので、永劫に近い間付きまとい続ける契約だ。


「この件はスネージナヤの国家機密に関わります。なのでこの話を、第三者に口外しないと約束してください」


 マルタと、鍾離と、子細を知っているタルタリヤを筆頭とするファデュイ執行官だけの秘密。タルタリヤは「先生と秘密を共有するのなんて死んでも御免だ」とでも言いそうなものだが、そこはなんとか我慢してもらうとして。きっと彼も旅人には話してしまうのだろうから、これはおあいこだ。

 粛々と、儀礼を進めるようにそう述べるマルタを見て、鍾離はいつもと変わらぬ顔で承諾した。

 それからマルタは、ふう、と息を吐くと、またゆっくり言葉を並べ始めた。


「鍾離先生は、ドッペルゲンガーをご存じですか」


 鍾離以外の者が聞けば、馬鹿にしているのかと問いただしたくなる内容だろう。だが相手は鍾離で、ここは璃月だ。6000年間仙人魔神妖怪魑魅魍魎エトセトラと共に生きてきた彼にとっては、子どもの法螺話のような話でも現実となる。


「それは……璃月では離魂、稲妻では影法師とも言われる、あの?」
「はい。そのドッペルゲンガーです」


 国によって若干意味合いの差はあれど、基本的情報は変わらない。要は、自分と同じ顔、同じ姿の分身。生きた写し身のことを指す。テイワットではそれを総括して、ドッペルゲンガーという名前をつけていた。

 ドッペルゲンガーについての記録は実に曖昧だ。扱い的には幽霊のそれと大して変わらない。古今東西似たような話で溢れ切っているし、証言が食い違うこともある。一説によればそれは魂が体から分離して肉体を得たものだと言われ、別の一説によれば精神病患者が見る幻覚だとも言われている。自分のドッペルゲンガーを目撃することは死の扉を開ける前兆というのも有名な話だ。

 少なくとも、鍾離は未だドッペルゲンガーに遭遇したことはない。魂を体から分離させる仙術に心当たりはあるが、それを分身と呼んでいいのかは悩みどころだ。それはただ単に意識だけを術者の元へ引っ張ってくるものであって、その人物自体を複製できるわけではない。

 そんな鍾離の考察も置き去りにして、マルタは一方的に話を続けた。


「今回の事件は、私のドッペルゲンガーが起こしたものです。目撃された顔が同じであったのも、私の分身が犯人だったから」
「……なるほど」


 鍾離が重々しく相槌を打つ。


「お前がそういう事にしたいのは分かった」


 冷淡に、あるいは懐疑的に。他人が見れば鍾離はマルタを軽蔑したのだと思われても仕方ないほど単調に、そう言い放つ。

 だがそれを正面から受け止めたマルタは、一瞬目を見開いた後少しだけ眉を下げて破顔した。


「やっぱり鍾離先生にはかないませんね」
「……」
「ええ、そうです。ドッペルゲンガーなんて存在しません。もしかするといるのかもしれませんが、私たちがそう簡単に出会えるものではないでしょう。ただの都市伝説に過ぎませんから」


 璃月には一応幽霊がいるらしい。らしい、というのはマルタが旅人から伝え聞いただけの話だからだ。実際に幽霊をこの目で見たことはない。例えドッペルゲンガーが幽霊同様この世に存在していたのだとしても、人の形を取っている以上その発生は人間が起源なはずだ。魂か、はたまた地に残るとされる魄かは知らないが、何にせよそうなった場合はマルタよりも鍾離や往生堂の堂主の専門となるだろう。

 けれど、これはスネージナヤの話だ。幽霊だってその寒風には耐えられないと言われる、氷山で起こった本当の話。


「私の名前はマルタ・アライア。アライアシリーズと呼ばれる193人のクローン体の、最後の一人です」









「アライアシリーズ?」


 旅人が聞き返すと、タルタリヤはそうだよと淡白に返した。

 あまり聞き馴染みのない名だが、なぜタルタリヤはそれが犯人の名だと断言できるのか。いや待て。その名を旅人は以前耳にしたことがあったはずだ。少なくともここ数日間の会話の中には無い。あるとすれば一週間ほど前、丁度璃月が混沌の中にいた頃の、と思い出し、旅人は何かに閃いたのかぱっと顔を上げた。


「もしかして、淑女が言ってた?」
「相棒よく覚えてるね」


 あの女の言葉なんか忘れても良かったんだけど、と口をへの字に曲げるタルタリヤは、ほとんど肯定しているようなものだった。

 群玉閣が海に落ちて、騒動の裏で引かれていた糸を北国銀行で鍾離が大っぴらにしたあの時。途中からエントランスにやって来たマルタに対して、スネージナヤパレスからやって来た淑女は確かに“アライアの末妹”と言ったはずだ。犯人の名前がアライアなのだとして、淑女の言葉をそのまま受け取るとマルタは犯人の妹ということになる。


「じゃあ、犯人はマルタの姉ってことか?」


 それならば合点がいく。犯人がマルタと同じ顔を被害者の兄に見せるのも計画の内だったとしても、具体的にどうやって第三者がマルタを装うのかがずっと疑問だったのだ。だが血縁者であればそれほど難しい事ではない。顔の造形が大体同じなのであれば、あとは化粧か何かで整えれば暗がりで誤認してしまう程度には似せることができる。

 しかしタルタリヤはサファイアの瞳を若干細めると、肩をすくめて否定した。


「姉は姉でも、多分相棒とおチビちゃんが想像してるのとは少し違うけどね」
「な、なんだよ……もったいぶってないで早く教えてくれよ……」


 左手を右手の肘に、そして右手を口元に当ててそう呟いたタルタリヤは、歩きながら話そうかと天衡山の中腹へ向けて坂道を登り始めた。一般人であればそんな散歩感覚で登れるものではないと億劫になりそうなものだが、生憎ここには幾度となく死地を潜ってきた戦士と冒険者と、あとはその非常食しかいない。旅人に至っては普段からやれ絶雲の間だ望風山地だと璃月からモンドにかけてを走り回っているのだから、天衡山を登るくらい造作もなかった。


「彼女はね、クローン人間なんだ」
「クローン人間?」


 つまりは複製体。元となったオリジナルの少女と髪の一本にいたるまで全く同じ遺伝子を有する、完全な同位体。スネージナヤが、ファデュイが国民に一切公表せず、秘密裏に勧めた研究の集大成。


「二年前、ファデュイではクローン人間を200人作る計画が進められていてね。その200人全体を指して、“アライアシリーズ”っていう名前がつけられた。マルタはその193人目だ」


 彼女が生まれるにあたっての経緯は一切公開されていない。執行官の権限を行使しても資料に到達することはできなかった……というより、そもそも残っていないのだろう。アライアシリーズに関する研究の一切は、彼女たちを製造していた研究所内に収められていた。そしてその研究所は、マルタの誕生と共に既に灰燼に帰している。研究資料もろとも。

 マルタよりも先に生まれた192体のアライアは、人間の生誕に当てはめれば姉という表現でも間違いではない。だが彼女らはあくまで同位体。身体的成長に一切の差がないのだから、本人たちからすれば姉妹という呼称を認めていいのかは迷うところではある。少なくともマルタは受け入れているようではあったが。


「だけどマルタはその中で特に体が弱かった。それがきっかけなのか、彼女は生まれた瞬間に神の目を授かったんだ」


 神の目を授かる経緯や年齢は所持者によって様々だ。若ければ齢が十に上がる前に認められる場合もあるし、老齢に近づいてからやっと手にする場合もある。しかし全員に共通して言える事は、神の目保有者は皆何かしらの苦境や困難を乗り越えた、もしくは何かを激しく渇望したという過去があることだ。それらを経験した上でなおその場に立っている者だけが、ある日突然神の視線を向けられる。

 マルタにとっては、生誕こそが苦境そのものだった。強制的に成長速度を早めた体では、体内器官の九割が培養器の外の世界に順応できるだけの強度を保てていなかった。だからこそ、神はマルタに注目した。

 生きていたから神の目が与えられたのか、はたまた神の目が与えられたから生きていたのかは分からない。どちらが先だったのかなんて意識が薄れていたであろうマルタにも不明で、分かるとすれば今もどこかでふんぞり返っているであろう神様だけだ。

 ただひとつだけ断言できるのは、マルタは神の目がなければ生命活動を維持できないという事。人間であればとっくに衰弱死しているところを、神の目が元素エネルギーを供給することでなんとか生き永らえている。マルタにとって神の目は、外付けの魔力器官であると同時に生命維持装置の役割も担っていた。

 だが、当時の彼女は元素を扱う方法を一切知らなかった。生まれたばかりで右も左も、自分の顔さえ知らなかった時期だ。自身が兵器とも呼べる代物を手にしている事など当然気づかず、ただ一心に生存を願った。

 神の目はそれに応えた。マルタを生かすべく、マルタの障害となるもの全てを灼いた。マルタを生み出した者全てを焼べた。それが、スネージナヤの氷山の奥底でひそかに起こった、死者数十名を出した火災の始まりだった。

 だが、事態がそれでだけで収束することはなかった。

 研究所が炎で倒壊すると同時に、世界に厄災が放たれた。

 マルタよりも先に産み落とされた192人のアライアたち。彼女らは迫りくる火から逃れようと、研究所を一目散に逃げ出した。押さえ込もうとする職員をズタズタに切り裂いて、建物から飛び出した。心臓が握り潰されそうなほどの寒風に耐えて、氷山を駆け下りた。訓練用に与えられていた実験段階の邪眼を手にしたまま。


「それから、彼女たちは邪眼を使って人を殺し始めた」


 研究所でアライアが受けた仕打ちは非道と言わざるを得ない。訓練と称し虐待を重ねた。練習と称し無理矢理体を暴いた。そこでは、アライアは人ではなく物だった。道具だった。駄目になったら捨てるだけの、換えの利く便利な駒。

 彼女らはファデュイを恨んだ。人を恨んだ。人の形を取って生み出しながら人としての尊厳を奪ったスネージナヤを、彼女らは許さなかった。

 だから、アライアは氷山を下りた後民間人を殺し始めた。ファデュイに生み出された自分達がファデュイを装って一般人を殺せば、ファデュイはおろかスネージナヤの外交に大きな大打撃を与えられると知って。あの雪国は平然と人を殺すのだと、そんな外聞を広めるために。


「確認できているだけで20人は彼女たちに殺されてる。実際はそれよりももっと多いだろうね。今はなんとかファデュイが裏で隠蔽小作をしてるけど、それも時間の問題だ。根本的解決をしないとまた人が死ぬ」


 ファデュイが目を瞑るのはその死によってスネージナヤに利がもたらされる場合のみだ。利どころか不利益を被る可能性がある以上、静観はしていられない。そう考えた女皇はまず、全192体のアライアシリーズの処分を命じた。あくまで秘密裏に。表舞台にはアライアという言葉すら浮かび上がらないように、彼女たちを殺せと。

 そこで話題に上がったのが、最後のアライア――アライア0193の存在だ。


「最初、マルタには処分命令が出ていたんだ。唯一ファデュイに残ったとは言え、アライアはアライア。いつファデュイに歯向かうか分からない以上生かしておくリスクも高いからね」


 論議は女皇の御前で行われた。当初は殺害するべきだという意見が大半だったが、ある時白熱する論争に一石が投じられた。

 我々はアライアの姿を知らない。何を考え、何を扱い、何をして人を殺すのかさえも知らない。彼女達の唯一の情報は、残った193体目と同じ顔という事だけだ。その最後の一人すら潰してしまえば、彼女たちに辿り着くための情報が完全にかき消えてしまう。姿も見えず、顔も分からない相手をどうやって殺せばいい?

 処分の意を示していた者の半数が押し黙り、賛成と反対で真っ二つに割れた。ならばと、女皇はある決断を0193に、マルタに迫った。

 忠誠か、死かAllegiance or death

 今この場で女皇に膝を付き頭を垂れ、命を、心を、生涯をファデュイに捧げると誓うのならば、同胞として迎え入れよう。しかしそれを拒むと言うのならば、他のアライアよりも一足先に地獄に送ってやる。

 藁にも縋る思いで死の運命から逃げ出した彼女は、逃げた先でも再び死の選択を突き付けられた。


「そうやって彼女は、ファデュイとして姉を殺すことを選んだ。いや、が正しいかな」


 女皇も執行官もそれが形式的なものでしかないと、マルタが心から誠意を示しているわけではないことを知っている。だがそれでも構わなかった。飼い犬として手綱を締め、スネージナヤの脅威をひとつ減らすことができるのであれば、それで。

 タルタリヤの長い話が終わると、旅人は「ひとつ聞いてもいい?」と重々しく尋ねた。


「192人のアライアたちは、どうしてマルタを憎んでるの?」


 だって、今の話を聞くとアライアにとってマルタは英雄だ。自分達を虐げる者達から解放した救世主だ。マルタがいたからこそ吹雪の向こうの青空を拝むことができたのに、感謝される謂れはあれど憎まれる理由はないはずだ。


「……さあ、俺はアライアの記録について喋っただけで、アライア本人じゃないから何とも言えないね。でもおそらく……」


 羨ましいんだろう。

 自分と同じ血が流れていながら、一切の暴力を浴びずに生きたマルタが。自分と同じ容姿を持ちながら、一切の辱めを受けずに生きたマルタが。

 感謝とは、たった少しの嫉妬で簡単に憎悪にひっくり返るものだから。紙一重の感情を幾つも抱えて生きているのが人間だから。


「まあ、それでもアライアの全員がってわけじゃない。いくら同じ人物でも多少の個人差はあるよ。例えば性格とかね」


 自我とは経験の中で形成されるもの。研究所にいた頃どうだったかは知らないが、あの火災から各地に散らばったアライアはそれぞれ違う経緯を辿っている。基本的な部分は同じでも、より詳細な人格は一人一人ばらつきがある。


「前にスネージナヤで会った子は好戦的で俺もやりやすかったけど、今回はかなり神経質だからね。犯人を引っ張り出すならこっちだって策を練らなきゃ」
「公子には何か案があるのか?」
「そりゃもちろん。ああ、その前にひとつ確認してもいい?」


 相棒ってさ、演技の経験とかある?

 モンドの大地を流れる風のような笑みでタルタリヤが旅人に問う。ぴんと向けられた人差し指の先には、これまでの冒険で何度も目にしたことのある石が天衡山の草原の中でぽつんと立ち尽くしていた。









 自分よりもはるかに大きな巨体が右腕を振るう。拳が急接近し、なんとか自身の顔面に激突する寸前でしゃがんで回避した。だが止まることのない連撃は容赦なく旅人に襲い掛かり、ひとつふたつと風圧で飛んだ小石がきめ細やかな肌に小さく傷を作る。少しだけ痛かったが、一度立ち止まった暁にはさらに大きな激痛がやって来ることを知っていた。小さな傷はとことんまで無視。大きな攻撃だけを的確に避ける。

 けれど決して円滑にならないように。自分は一般人だと、武器を持たない弱き民だと自分に言い聞かせて、偶に足をもつれさせながら旅人は地脈鎮石から一定以上の距離を取らないようにぐるぐると周囲を回り続ける。そんなことをもうかれこれ十分は続けていた。

 そしてそんな旅人の奮闘を木の上から見守る影が二つ。タルタリヤはパイモンの口を押さえ、旅人に襲い掛かるヒルチャール暴徒に気づかれないよう極限まで気配を押し殺していた。

 つまるところ囮作戦だ。

 アライアは現在璃月港に頻繁に出入りする事ができない。もしも立ち入ってうっかり千岩軍に顔を見られでもしたら、マルタに罪を着せようとしたこれまでの計画が全て水の泡になるからだ。今の璃月にはアライアの顔はマルタ一人でなくてはならなかった。

 そうなると、当然向こうはマルタが既に千岩軍に拘束されていることを知らない。その場合、彼女が取る行動は三つに絞られる。

 一つ目は静観。これ以上余計な行動に出ることなく、ただマルタが裁かれるのを待ち続けるだけ。しかし事件が傷害である以上、現在の璃月の司法ではマルタが死かそれに近い罪に問われることはない。ファデュイとしてもただマルタを切り捨てれば良いだけなので、特に痛手になることはない。動機が怨恨である彼女のことを考えるとこれだけで我慢できるとは思えない。

 二つ目は襲撃。マルタが拘束されている場所を調べ上げ、警備の目を掻い潜って彼女を襲う策。この場合は全くもって問題がない。何せ今のマルタに監視という名目でつけられている護衛はあの鍾離だ。神の心を失ったとはいえ武神としての権能は未だ健在である。武芸で名を馳せるタルタリヤでさえ引き分けに持って行くのに獅子奮迅の動きをしなければならない彼が、アライア一人に打ち破れるとは到底思えなかった。

 三つ目は再犯。タルタリヤはここに全チップを賭けた。

 犯罪において、起こした事件が多ければ多いほど罪が重くなるのは至極当たり前のことだ。マルタを限界まで追い込みたいのであれば、璃月中が震撼するほどの凶悪犯罪者に仕立て上げればいい。大悪党公子ですら霞んで見えるくらいの極悪人に。

 そのために、彼女はもう一度同じ罪を犯す。確実に発覚するよう璃月港の近くで、戦う術を持たない子どもを狙う。ならばそれを利用してしまえばいい。子どものふりをして彼女を誘き出せばいいのだ。その囮役こそが、現在ヒルチャール暴徒と防戦一方の戦いを繰り広げている旅人だった。

 彼は確かに子どもだが、ただの子どもではない。黄金屋では奥の手である魔王武装まで見せたタルタリヤを退けた男だ。ヒルチャールやアライアにどうこうできる相手ではない。

 なかなか様になっている一般人の演技を見下ろしながら、タルタリヤは眼球を上下左右にくまなく動かした。

 地脈鎮石は魔物を惹きつける力を持つ。それに釣られてのこのことやってきたヒルチャールにわざと襲われ、無力で非力な一般人であるとどこかにいるであろうアライアに見せつける。ここまでが旅人の役目。そして旅人に狙いを定めて姿を現したアライアを拘束するのが、タルタリヤの役目だった。

 ヒルチャール相手に後れを取ることはないが、死角から挟み撃ちをかけられた場合は旅人もそれなりの傷を負うだろう。彼が五体満足で作戦を終えられるかどうかはタルタリヤにかかっていた。

 さあ、出てこい。尻尾を見せろ。お前がお望みのか弱い子どもはここにいるぞ。

 普段の闘争に身を滾らせるタルタリヤが血肉を求める狼だとしたら、今の彼は獲物を隅々まで観察する猛禽類だ。カディス・ブルーの瞳にスネージナヤの氷を貼り付けて、その奥に激情と興奮を隠している。まるで氷雪の下でぐつぐつと煮え滾る溶岩のように。

 その時、旅人の遥か後方から光が見えた。一秒にも満たないその光は既に空気の中に溶け、完全な沈黙を貫いている。それから約二秒。タルタリヤは咄嗟にパイモンから手を離し、両手で弓をつがえた。


「相棒、動かないで!」


 その顔は敵の登場に警戒を押し出したようにも見えるし、待ち焦がれた相手に歓喜するようにも見える。おそらくは半々だった。

 え、と旅人は振り返りかけるが、彼が動くなとわざわざ忠告したのだ。巻き込まれるのはごめんだと直前で踏みとどまる。それに潜伏していた彼が声を発したということは、つまりはそういうことだ。もう弱者のふりをする必要もない。元素を集めて剣の形を取り、ヒルチャールの拳を受け止める。

 そして狙ったように、旅人の背後で閃光が走った。切っ先は旅人に照準が定められている。びりびりと紫電を纏うそれはおよそ人間の目で捉えられるものではなかった。不可視。それをこの世で可能にするのは、神からの贈り物のみ。

 そして、流星が落ちた。タルタリヤの弓から放たれたそれは彗星のように碧色の軌跡を描きつつ雷電へと向かう。ちょうど旅人から五歩ほど離れた場所で、小さな爆発が起こった。

 煙の中心に、少女が立っていた。右手で握った剣には未だ紫電が残留しており靄の中でもその存在がはっきりと主張される。漆黒のスーツは体にぴったりと密着し、凹凸のあるボディラインが浮き彫りになっていた。絹のような銀髪が風で乱れているが、それすらも絵になる美しさがある。そして極めつけは、見た者の意識をも取り込んでしまいそうなアメジストの瞳。


「……マルタ…………?」


 彼女がマルタではないことなど理解している。マルタは今往生堂にいるはずで、目の前にいる彼女はマルタと同じ顔をした姉なのだと。頭では理解している筈なのに、反射的に口から出た言葉は彼女の名だった。

 唯一違うのは、石英色の髪がマルタと違い顎のラインで短く切りそろえられているということだけ。それがなければ見分けすらつかなかっただろう。

 あれが、アライア。192人いるとされる、マルタのクローン体。


「相棒、後片付けは頼んだよ」
「え、ちょっと!?」


 タルタリヤ、と旅人が呼びかけるよりも先に彼は枝から飛び降りてアライアへと突き進んだ。手にしている得物はいつの間にか弓から双剣へと切り替わっており、水元素が辺りに振りまかれる。

 一人飛び出して行ってしまったタルタリヤを追いかけようにも旅人の行く手をヒルチャールが阻み、パイモンが慌てて止めに入る。後片付けってこれのことか。地脈鎮石を薄く睨むと、旅人は使い慣れた片手剣を握り直した。

 その後方で、水刃と剣が触れ合った。ガチガチと鍔競り合うそれぞれの剣を間に挟んで、深海と藤の瞳が至近距離で重なる。まるで舞踏会のダンスのように。


「やあ、明蘊村ぶりだね? あの時は姿すら見せてくれなかったからちょっと寂しかったよ」
「黙れ。お前と話す事なんて何もない」


 マルタと全く同じ声で突き放され、つれないなと溜息を漏らす。双剣を横に払い空いた腹に追撃を仕掛けるが、彼女は難なくこれを躱した。マルタが極端に虚弱体質なのであって、身体能力だけならタルタリヤに匹敵するのがアライアだ。見え透いた攻撃など目を瞑っていても避けられる。


「それにしても君も雷なんてね。同じ邪眼同士の殺し合いもなかなか悪くない!」


 返答はない。

 タルタリヤの攻撃を右へ左へ躱しつつ後方へ下がる彼女は、既に撤退する方向に頭を切り替えていた。初撃を外した時点で逃げると最初から決めていたのだろう。仕掛けるのは常にタルタリヤで、彼女はそれを受け流して退路を進んでいく。

 でも、それじゃあ面白くない。

 弓に持ち替え、矢を穿つ。当然剣で跳ね返されたため、続けて二本三本四本と矢を打ち続ける。目にも止まらぬ弓裁きを見せるタルタリヤの腕前もだったが、それら全てを的確に捉えて防ぐアライアの動体視力も目を見張るものがあった。彼女に打ち返された矢は高く跳ね上がり、近くの倒木やら何やらに突き刺さる。

 それでもタルタリヤは矢を穿ち続けた。彼女は剣を振るい続けた。攻撃と守備がきっぱりと分かれた戦いはやがて場所を変え、璃月の盤石に囲まれた洞穴内部へと入り込む。先に顔色を苦に染めたのはアライアの方だった。


「しつこい男は、嫌われるぞ!」


 これで最後、と言わんばかりに彼女の手から紫電が生まれ、タルタリヤに向かって放たれる。避けるのは容易かったが、それが攻撃狙いでないことは彼も理解していた。耳の横を掠めた一閃はタルタリヤの背後で垂直方向にぐるんと曲がると、洞穴上部の岩肌に激突した。

 直後、タルタリヤの足に微弱な振動が届いた。それだけではない。亜麻色の髪めがけぱらぱらと砂が落ち、小さな地鳴りが鼓膜を揺らす。

 崩れる。

 タルタリヤが確信するよりも早く、アライアが笑った。勝利を確信した時の笑みだった。

 だがタルタリヤも同じく笑っていた。勝ちを確信したのではない。

 悪いけど、とその薄いくちびるの隙間から声がこぼれる。


「しつこさで俺に勝てる奴はそうそういないよ」


 タルタリヤの腰の宝玉が光った。刹那、洞穴を包み込んでいた揺れはさらに強度を増し、アライアがバランスを崩してたたらを踏む。身体能力は互角でも体幹や筋力に違いはあるせいか、タルタリヤの立ち姿が揺らぐことは無かった。

 なぜ急に。アライアが仕掛けた一撃だけではここまでの揺れは引き起こせない。

 まさか、と思い光の差し込む入り口を見る。遠くのほうで、小石に混ざって木片が落ちるのが見えた。逆光の中タルタリヤのサファイアの瞳が細められる。

 先に仕掛けたのはアライアではない。タルタリヤだった。

 神の目所有者の中で射手はごまんといるが、彼ら彼女らが元素を纏わせるのは必ずしも矢尻と決まっているわけではない。タルタリヤが洞穴の手前で放った数発の矢には、矢尻ではなく矢羽付近に元素が込められていた。それこそがタルタリヤの放った本命。他の数十発は全て細工を隠すための攪乱用だ。

 軌道を支えるための羽に元素を纏わせることで、跳ね返された後もある程度コントロールが効くようになる。数多の矢の中でたった数本のみをそうして密かに操り、狙った数ヵ所に打ち込んだ。羽に残留した元素は矢を伝って被矢地点に流れ込み、暴発する。時間差で発動する起爆装置のようなものだ。

 タルタリヤが元素入りの矢を打ち込んだのは、洞穴入り口付近で倒れかかっていた大樹。それから岩壁の小さな隙間。いずれも長年の風化で脆くなっていた場所だ。小さな衝撃でも複数箇所同時に与えられた場合簡単に崩落する。――二人が現在立っている洞穴もろとも。


「お前……心中でもする気か!」
「心中? まさか」


 内部からも外部からも鼓膜を破る勢いで轟音が響き、その度に大きな揺れが二人を襲う。駄目押しとばかりにタルタリヤは双刃形態に切り替え、その切っ先を大地に突き立てた。女皇から賜った邪眼の力をたっぷりと注ぎ込んで。そこを起点にビキビキと亀裂が広がり、アライアの足元まで及ぶ。

 もはや洞穴の倒壊は避けられない。入り口をタルタリヤに塞がれている状態では脱出することも不可能だ。そう判断したアライアは、真っ先に自身を守ることに専念した。両手を交差させ、落下物が頭部を直撃しないよう防御の構えを取る。

 岩が落ちる。木が崩れる。砂と埃が視界を塞ぎ、太陽の光は遮られた。アライアはよろめきながら身を硬くするが、死が刻々と迫っていることを確信していた。けれどそれは派手な心中自殺を図ったこの男も同じはずだ。痛みに耐えながらなんとか瞼をこじ開け、タルタリヤの立っていた方向を見る。

 彼は、一切の防御を手放していた。迫る死を恐れることも無く落石を次々と避け、立ち止まったアライア目掛けて一直線に突き進んでくる。

 そこにいたのは、獲物を仕留めんとする一匹の飢えた獣。彼岸と此岸を渡り歩く、死神の姿だった。

 アライアが空足を踏んだ瞬間に、隙だらけの胴にタルタリヤの拳がめり込む。


「か、はッ……!」


 例え女であろうと、例えマルタと同じ容姿であろうと、タルタリヤは一切躊躇しなかった。アライアの殺害はスネージナヤの氷神から命じられたもの。つまりは女皇陛下の意志だ。彼は執行官としての責務を果たす。ただそれだけのこと。

 意識が一瞬途絶え脱力したアライアを片手で支えると、タルタリヤは進行方向に大きく踏み出した。直後、二人が立っていた場所に最も大きな岩石が落ちる。何が起こったのかアライアには分からなかった。アライアを支える手とは反対の手に握られた雷光だけが暗闇を照らして進んでいく。

 その後も崩れ続ける岩々をタルタリヤは彼女を抱えたまま華麗なステップで躱していく。右へ左へ、アライアの体が揺れる。やがて逃げ場という逃げ場が全て潰えた時、双刃が光を増した。

 紫電一閃。タルタリヤの雷が、岩壁を穿った。

 璃月の日差しが二人を温かく迎え入れる。湿った土の匂いから深緑の香りへ一変。その瞬間、背後で岩壁が完全に崩壊する音が聞こえた。

 脱出した。そう考える間もなく、アライアの体は草原の上に叩きつけられた。世界が二、三回反転し、近くに生えていた大木の根にぶつかったところで止まる。殴られた腹の痛みが消え去っていない状態では受け身を取ることもままならなかった。それから間髪入れずに肩を押さえつけられ、体が悲鳴を上げる。


「ぐ、ぅ……!」
「さすがに相棒にこんなところは見せられないからね。ちょっと手荒な真似をさせてもらったよ」


 アライアはなんとか肩に置かれた手をどかそうとするが、力の抜けた腕ではどかすどころか少しずらすことさえも難しい。もっとも彼女が五体満足の状態であったとしても、戦士として鍛えた彼の筋力に真正面から勝てる道はなかった。

 屈辱の色に染まった彼女の顔を見下ろして、タルタリヤはその細い首筋に双剣の片方を突き付けた。日輪を背景に影を被った瞳はまるで奈落の底で、目が合っただけで沈んでしまいそうだ。

 彼はそのまま右手に握った剣を掲げ、頸部を目掛け振り下ろす。彼女を殺すために。タルタリヤの髪に、頬に、腕に鮮血が飛び散る未来が見えた。

 殺意が蔓延し、ぞわりと肌が鳥肌が立った。アライアは一層眉を寄せ、ぐるぐると思考を巡らせる。襲い来る刃を回避する方法を。数秒後も酸素を取り込むための手段を。この男を押し止める何かを。そう考えた時、とっさに言葉を吐き出した。


「私を殺せば、0193あいつを救う道は潰えるぞ!」


 ――ぴたりと。その先端が肌を裂く直前で、タルタリヤは手を止めた。

 冷や汗が滝のように流れ、浅い呼吸を繰り返す。震える声を精一杯振り絞った。


「私が今死ねば、今璃月にいるアライアはあいつただ一人になる! そうなれば無実を証明する手段が消えることになるぞ……!」


 死人に口なし。死体となった者は自白も供述もできないが故に、犯人であるという証拠を提示することが難しい。例えタルタリヤが彼女の亡骸を璃月に持ち帰ってこいつが真犯人だと千岩軍に突き出したとしても、それがマルタの冤罪をひっくり返す決め手になるかどうかは微妙なラインだ。いくら証拠を見繕っても、公子が部下を救うために証拠を死んだ後にでっち上げたと言われてしまえばそれまでのこと。かえってタルタリヤの方が人殺しだと糾弾されることになる可能性だってある。

 今この場で殺して犯人に仕立て上げるつもりだった。けれどもしもの可能性を突き付けられてしまえば、ほんの少しの迷いが生まれてしまう。タルタリヤが黙り込んだのをいいことに、アライアはさらにひとつの提案をした。


「私と、取引をしないか?」
「……取引?」


 思いがけない言葉に目を見開く。その反応はアライアの心に余裕を生み、先ほどよりも少しだけ流暢に続きを述べる。


「あいつが有罪になるよう協力しろ。その代償として、お前の望みを叶えてやる」


 その言葉に転がされるように、タルタリヤの水刃が歪んで消えた。
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