一つだけ、彼女に言っていないことがある。
これは女皇と、自分だけの秘密。決して彼女に明かすことのない内緒の話。
もしも彼女がファデュイを裏切るような、もしくはそれに値する行為を働いた時には、必ず彼女を殺すように、と。
公子がマルタ・アライアと行動を共にしているのは、偏に監視目的だった。
「本日付で配属となりました、アライア0193と申します」
「……」
人間によく似たお人形さんがやってきて、何やら敬礼の真似事をしている。執行官の間では噂で持ちきりの彼女を見下ろして、タルタリヤは事前に渡されたプロフィールを思い出した。
“博士”が懇意にしていた研究所で生まれた、全193体の人工生命体、アライアシリーズ。その193人目である彼女は、アライアの終点を担っている。最後の一人にして、最期を告げる者。自分が生き残るために研究所の職員を皆殺しにし、さらに他の192人の命を奪うと宣言した背徳者。
彼女のことは、嫌いではなかった。別に好きと言うわけではないけれど。
だけどそういう貪欲な生き方はタルタリヤ好みであったし、少なくとも、地位だったり身分だったりにふんぞり返って座っているお偉いさん方よりはずっと好感が持てた。
「知ってると思うけど、俺は“公子”タルタリヤ。執行官第十一位で、今日からは君の直属の上司でもある。確か、“散兵”のところを追い出されたんだって? まあ、あそこまで恐怖政治を敷くつもりはないから気楽にね? 君が本懐を遂げるまで、道は長いんだから」
そして、彼女は自分と同じか、それ以上の争いの芽だ。
ファデュイ唯一のアライアである彼女の周辺には、必然的にアライア関連の案件が舞い込んでくる。彼女を除くアライアは192人。しかも全員、武芸においては達人レベルの腕前だという。ただひたすらに強敵との戦いを求めるタルタリヤからすれば、願っても無い好機だった。だって、全く同じ人物と192回も殺し合えるだなんて、そんな面白い機会、滅多に出会えるものじゃない。
タルタリヤは新しくできた部下を歓迎した。
君のおかげでまた楽しいことが一つ増えた。どうかこれからも、俺のためにアライアを探してほしい。君が見つけた姉は一人残らず、俺が殺してあげるから。
だけどそのすぐ後に、タルタリヤは彼女を迎え入れたことを少しだけ後悔することになる。
「それで君、名前は?」
タルタリヤがそう聞くと、彼女はわけがわからないといった顔できょとんと彼を見上げた。
「識別番号は019……」
「それは君の固有ナンバーでしょ。名前だよ名前、俺が君の事をなんて呼べばいいのかって聞いてるの。それとも、人前で番号呼びしろって?」
そんなことをしようものならファデュイ内外問わず白い目で見られることになる。至極まともな事を言ったつもりだった。自分はまだ執行官の中でも常識というネジは締まっている方なんだから。
彼女は口元に手を当てて暫く考え抜いた後、
「私はアライアですので、個体を示す固有名称はありません。どうぞ、お好きなように呼んでいただければと」
と大真面目にのたまったので、タルタリヤは先ほど脳内で彼女に向けて放ったクラッカーをいそいそと片付け始めた。
「……えっとさぁ、散兵は君の事なんて呼んでた?」
「特には。強いて呼びかけるとすれば、アライア、と」
それじゃ敵のアライアとごちゃごちゃになって指揮が乱れるだろうが。散兵め、曖昧な命令で動かされる身にもなってみろ。
賭けで仕事を押し付けたり押し付けられりが日常茶飯事な自身のことは棚に上げて、タルタリヤは少年のような容姿の執行官に向けて思いつく罵倒を一通り挙げてみた。けれど唯我独尊を地で行く彼の事だ。そんな些細な小言が飛んできたところで、蚊でも払うかのように一蹴して終わるだろう。全く腑に落ちないことに。
なので、この部下の呼び名を考えてみることにした。まさか子ができたわけでもないのに名付け親になる日が来ようとは。聞けば彼女はまだ生まれて一年も経っていないらしいので、ほとんど赤子のようなものだったが。
「――マルタ」
ふと脳裏をよぎった言葉を口にする。
「とりあえず、今はそう名乗っておくといい」
それは、かつてタルタリヤが父親から聞いた冒険物語に出てくるヒロイン――の、飼い犬の名前。
執行官の面前で女皇に跪くあの姿が、ヒロインに怒られてしゅんと尻尾を下げる犬によく似ていたからという、古今東西老若男女どこで誰に言っても非難を浴びそうな理由だった。
「あいつが有罪になるよう協力しろ。その代償として、お前の望みを叶えてやる」
冗談だろ、と思った。どうして自分が、アライアと手を組まなきゃならない。そんな拒否感丸出しの態度は、きっと彼女に伝わっていた事だろう。
けれど、あくまで執行官として。表面上は冷静を装って、タルタリヤは口を開いた。
「……俺の望みは、君の首なんだけど」
「なら好きにしろ。ただし私を殺すのはあいつの失墜を見届けてからだ」
「彼女が有罪になったところでファデュイは痛手を受けない。ファデュイを憎む君たちからすれば意味のない自殺だ」
「お前たちを殺すのは他のアライアたちが引き継ぐ。私である必要はない。だが、今あいつの首に手をかけているのは私だけだ」
タルタリヤはそこで、自分が思い描いていたアライアという人物に疑念が生じた。姿を見せず、一方的に弄ることしかできない臆病者。それが今回璃月に現れたアライアなのだと、勝手に思っていた。
けれど、この違和感は何だ。怨恨と呼ぶには潔すぎる。けれど単なる執着とも言い切れない。てっきり命乞いでもするのかと思いきや、予測もつかなかった大胆不敵な手を打ってきた得体の知れない女。
「……君の提案は整合性に欠けるな。彼女の身を脅しておいて、俺に彼女を付き落とす手伝いをしろって?」
「ああでも言わなければお前は間違いなく私を殺していたからな。少しでも時間を稼ぎたかった」
「……」
ただひたすらに、不愉快だった。
見透かされているようで。お前の考えている事などお見通しだと、掌の上で転がされているようで。何よりも、マルタの名前を出せばタルタリヤは手を止めると、そう考えられていたことが一番腹立たしかった。
ああ、殺してやりたい。今すぐその頸をかき切ってやりたい。そっちの方が簡単なのは明らかなのに。ふつふつと煮え湯のように沸く怒りが目頭を熱する。
タルタリヤは特別我慢強い性格ではない。もしもそんな殊勝な性格であれば、こうしてファデュイに放り込まれることもなかっただろう。そうして入った結果なんやかんや上手くやっているのだから、今となっては結果オーライとも言えるが。
だが、たまに他の執行官のような辛抱強さが羨ましく思えることもある。きっと彼らにとっては我慢も計画の一つで、耐え忍ぶことそのものに対する苦痛も少ないのだろう。女皇が絡まなければ猛犬のようにあっちこっちに噛みつくタルタリヤには到底真似できなかった。だから今だけは、モンドでの騒動が収まるその瞬間まで息を潜め、嵐のように現れては去っていった淑女を心から尊敬した。
アライアの首を掴む右手に力が込められる。このままぎゅっと握りしめたら、きっと二分と経たずに意識が泥の底に落ちていってしまうのだろう。それでもいいかもしれない。むしろ、そうしたい。自分でも笑ってしまうほど殺意に満ち溢れていた。
その時、タルタリヤの脳がある声を拾った。
『それに今回の件で言えば、最も合理性に欠けているのは間違いなく公子殿だな』
男の声。タルタリヤは一切口を開いておらず、当然アライアのものでもない。この場には二人しかいないのだから、第三者が声を投げかけているわけでもない。
けれどタルタリヤは、それが一体何なのかよく分かっている。自身の左耳に下がっている石珀色のピアス。音の発生源はそこだ。と言っても、ピアスが物理的に空気を揺らして音を鳴らしているわけではない。なのでこれは、タルタリヤの脳内に直接注がれる、タルタリヤにしか聞こえない声だ。
往生堂を出る直前、鍾離と交わした契約。タルタリヤが外で調査を行っている間、鍾離と聴覚を共有すること。
タルタリヤだって別に好きでそんなことをしているわけではなかった。しかし、女皇から直々にマルタの監視を命じられた身だ。可能性は低いだろうが、もしもマルタが怖くなって逃げ出した場合、ファデュイを離反したと見なして彼女を殺しに行かなければならない。そうなった時のための、保険のつもりだったのだ。
『考えてもみろ。なぜ公子殿は、お前の無実を証明するためにここまで奔走していると思う』
ふと、タルタリヤの頭に疑問が生じた。
はて、自分はどうしてこんなにもアライアに振り回されているのだろう。
タルタリヤの心は、三分の一を女皇への忠誠が、もう三分の一を家族への愛情が、そして残りの三分の一を戦いへの昂ぶりが占めている。マルタはそのどこにも所属していない筈なのに。
「……」
以前から考えていたことがある。
女皇とマルタ、どちらかを選ばなければならない時、どっちを選ぼうかと。
そんなの、決まり切っている。
タルタリヤは自身の忠誠と命を女皇に捧げてしまった。自分の大事なもののほとんどを氷の神にあげてしまった。邪眼を授かったあの日からずっと、タルタリヤは女皇の飼い犬なのだ。どちらの手を取るかなんて、そんなの分かりきっている。
けれど、タルタリヤは決めていたのだ。
どちらの手も取ってみせるって。
執行官として女皇に従うのは当然だけれど、己よりももっと強大な相手に囲まれて、理不尽な選択を突き付けられてもなお折れることのなかったあのちっぽけな手を、せめて自分だけは最後まですくい上げてやるんだって。彼女を見捨てて女皇を選ぶのは、きっとそれからでも遅くはないはずだって。
そう思い始めたのは一体いつからだっただろう。群玉閣が落ちたあの日、鍾離が抱きかかえてやって来た彼女の姿を見たその時だったかもしれないし、あるいは璃月に来るよりもずっと前だったかもしれない。少なくとも、倒れた彼女の仕事を引き受けて柄にもなく奔走していた頃にはもうすでに手遅れだった。
だから、タルタリヤは考えた。女皇を裏切らず、マルタの名誉を守る方法を、謀が苦手な頭で必死に練った。暫く額を押さえた後、絞り出すように言葉を述べた。
「……わかった。君の要求を呑もう」
きっと、マルタはひどく傷つくだろうけれど。それでも仕方のないことだ。タルタリヤは壊れ物の扱いが神様の次に下手くそだった。
ふっと姿を消した殺意にアライアが緊張を緩める。
「なら契約は成立だ。お前はこのまま璃月港に……」
「その前に」
「? ……っ!」
タルタリヤの指が頸部から離れ、そのままするりと布越しに肌を這った。蛆虫を見せられた時のような嫌悪感が背筋を走るが、それでも男の指は下へ下へと移動していく。首筋から鎖骨をするりと撫でられる感覚は二年前に受けたあの屈辱を想起させた。ゆるやかな指圧はやがて人並以上に張った双丘の直前でぴたりと止まり、それから間を開けずにがちゃんと音がした。
「前金代わりにこれは貰っていくよ」
そう言って離れていった体温を目で追うと、男の手のひらに小さな宝玉が収まっているのが見えた。紫のそれはついさっきまでアライアの胸元で輝いていたもので、中心には彼女が忌む紋章が刻まれている。扱いに馴染みのあるタルタリヤならば見間違えるはずもない、まごうことなき本物の邪眼だ。
「か、返せ!」
「だーめ。言ったでしょ、これは前金だって。俺は女皇様からの信用がかかってるんだから、これくらいないと割に合わない。それに、もうすぐ死ぬ君には不要なものだろう?」
それを拒むと言うのなら、自分には死ぬ気が無いと言っているようなもの。つまりは、全てが終わった暁に命を差し出すというタルタリヤとの契約を破る気でいると意思表示しているに等しい。もしもそうならば、契約を破られたタルタリヤはこの場で首を掻き切る権利が発生した。
「…………っ、好きにしろ」
アライアがくちびるを噛んで視線をそらすと、タルタリヤは一瞬で興味を失った。彼がアライアに熱心になっていたのは、彼女たちが自分を凌駕する可能性を秘めた強者だからだ。牙を抜かれ、抗う意思を放棄した今の彼女が戦士であるとは、タルタリヤには到底思えなかった。
木から木へ、岩から岩へと足場を移し、痕跡を消す。空にはすっかり青黒い帳が下りていて、外灯のない場所では月明かりだけが頼りだった。
行き先に青墟浦をほのめかしたから、おそらく千岩軍はそこを視野に入れて捜索をするだろう。けれどマルタが現在潜伏しているのは璃月港のすぐ裏、天衡山の中腹だ。
いっそ遠くまで逃げることも考えた。邪眼さえあれば神の目を持たない小隊の追跡など余裕で振り切ることができる。
もっとも、それは自身の身体が邪眼に耐えられる場合に限る話だ。
「……っ、う、」
むせかえった咳の中に血が混じっている。吐いた液体がマルタの外套の上に落ちて、真っ白な布にぽつんぽつんと赤い染みを広げた。
邪眼は神の目をも凌駕する力を与える代わりに、命を大きく削るものだ。争いの境地に立つタルタリヤでさえ、邪眼を使用した直後は動けなくなるのに、戦士どころか一般人よりも脆弱なマルタがどうして邪眼の侵食に打ち勝てようか。これで千岩軍から逃げきるだなんて、笑い話もいいところだ。
適当な岩場に身を隠すと、草むらにぺたんと座り込む。千岩軍の声も足音も、もう聞こえない。湿った岩肌に背を預けると、火照った体が冷やされて心地よかった。気づかないうちに発熱までしていたらしい。
休息をとって落ち着いてくると、思い浮かぶのは玉京台での出来事ばかりだった。
傷つかなかったと言えば嘘になる。彼の意図に気づくまでは豹変した態度に戸惑うばかりで、頭なんてろくに回りもしなかった。せいぜいナイフについて反論するくらいで、それすらも彼の計算に織り込まれていたようだけれど。
本当は、気付いていたのだ。
自分がなぜ淑女でも散兵でもなく、公子の元へ預けられたのか。
彼ならば、あと腐れなくアライアの末妹を殺せそうだから。
他の執行官はどうやったって損得を計算してしまう。殺すことによって得る利害と、生かすことによって得る利害。秤に乗せて判断を下したとしても、それによって生まれた損失が後々足を引っ張ってしまうかもしれない。先のことまで事細かに見通しが効く頭であればあるほど、殺す時に迷いが生じてしまう。謀ってそこが厄介だ。
だけどその点、公子という男ははっきりしていた。一度でも背いたら、裏切ったら、離反したらすぐに殺す。だって女皇が殺せって言ったんだから。
例えマルタを殺してアライアに関する情報が途絶えたところで、彼は両手を叩いて大喜びするだろう。彼は厄介事を愛していた。トラブルに恋をしていた。他の執行官であれば一瞬の躊躇を見せるであろう場面でも、彼は嬉々として刃を振り下ろすだろうと、そう信用されていたから、マルタは公子の元に配属させられたのだ。
大半の生物にとって、死とは恐怖だ。マルタだって例外ではない。彼から向けられる笑顔に棘が隠されていると気づいたときは気が気ではなかったし、いつか彼に殺されるのかもしれないと考えて眠れない日もあった。
だけど、マルタはタルタリヤを信用している。
彼は約束を守る人だ。だからきっと、どうしても殺さなければならなくなった時以外に命を奪うことはないと。自分がファデュイに対して反抗さえしなければ、彼が剣を抜くことはないと。玉京台で彼の策に乗ったのは、その信頼があったからだ。
瞼が落ちる。震えるほど寒くて、頭ががんがんと痛むのに、どうしようもなく眠たかった。岩肌に体を預けて座るマルタは無防備としか言いようがなく、今ならば例え幼子であっても簡単に殺せるだろう。
眠っちゃだめだと理性が叫ぶ。だが三大欲求は普段のそれからは考えられない程主張が激しくて、マルタの弱々しい危険信号なんかはあっという間に陥落してしまった。近くにヒルチャールがいて、彼らに殺気を向けられでもすればまた話は変わってくるのだが、幸か不幸か周辺にヒルチャールは存在していなかった。何せ昼頃に旅人とタルタリヤが一匹残らず一掃してしまったのだから、近くには壊れた暴徒の斧がひとつ残されているだけだった。
天衡山の中腹で、すう、と女の寝息が聞こえた。どこからか舞い落ちた木の葉が女の頭を撫でて、草むらの上にふわりと被さる。
それから間もなくして、木の葉が無慈悲にも踏みつけられた。
さくさくと草をかき分けて歩くその姿は、当然タルタリヤのものではない。さらに言えば、その顔はマルタと瓜二つだった。一歩、また一歩と近づく右手には、すらりとむき出しになったつるぎが握られている。地中深くで蠢く泥のような殺気は、一度意識が落ちてしまったマルタには届くことはなかった。
マルタの首筋に、つるぎの先端が触れる。透き通るような肌に赤く小さな蕾が咲いて、そこからつう、と血が垂れた。あとほんの少しでも刃が突き刺されば、マルタは眠ったまま二度と目を開くことはないだろう。まるで童話に出てくるプリンセスのように。その死体は、童話に出てくるそれよりもうんと悲惨なものになるけれど。
つるぎを一度引く。そして再び、今度はもっと奥の方まで刺し貫こうと右手に力を込めて、
「それは、契約内容とちょっと違うんじゃないかな」
暗闇から聞こえた声に弾かれるように飛びのいた。
直後、立っていた筈の場所を左から右へ風が真横に通り過ぎる。反射的に目で追うと、水を纏った一矢が延長線上にあった岩を打ち砕く様子が視界に映った。あれが直撃していたら、きっと矢が刺さるなんてものじゃない。肘から下が抉り取られるだけなら御の字、もしかしたら胴に大穴が空いて即死していた可能性だってありえる。
水元素を宿した砲丸のような矢は、つい最近見たばかりだ。
「“公子”タルタリヤ……!」
女――アライアの正面にすっと現れたタルタリヤは弓をつがえたまま彼女と対峙すると、一瞬視線を外して遠くで座り込んでいるマルタを確認する。ぐったりと動かない彼女を見て一瞬肝を冷やしたが、微かに胸が上下しているから一応生きてはいるらしい。
「契約を先に違えたのはお前だろう。さっきのあれは何だ。どうしてこいつがここにいる」
「ああ、君見てたの」
玉京台は天衡山の麓だ。会話は聞こえずとも、様子を伺う程度であれば港に入らずに見下ろせる。当然、マルタが邪眼の力で千岩軍の包囲を突破する場面もアライアは目撃していた。
「一応こっちは約束を守ったつもりなんだけど? 璃月では今回の事件の犯人はマルタってことになってる……まあ、正確にはマルタのドッペルゲンガーなんだけど」
「ドッペルゲンガー? そんなふざけた話が通用するとでも?」
「俺もそう思うけど、どういうわけか信じちゃうんだよね、璃月の人たちは」
同じ人物が二ヵ所同時に現れて、そして似たような話が何件も上がってきたのだとしたら、人は全ての事件にありもしない関連性を疑ってしまう。加えて璃月は古くから妖魔が跋扈する土地なものだから、なおの事超常現象ミステリーとして受け入れやすくもあった。さらに後押しするように鍾離がドッペルゲンガーの存在を断言してしまえば、あとは世論が勝手に事件の真相を決めつけてしまうだろう。
犯人はマルタではなく、マルタのドッペルゲンガー。人の認知の外側の存在が、事件を起こしたのだと。そのピースのほとんどが、タルタリヤによって用意されたものだと知らずに。
勿論、それは事実とかけ離れた想像に過ぎない。だけどタルタリヤは、璃月の人々を騙すことに対する良心なんてこれっぽっちも持ち合わせていなかった。
目的はあくまでマルタを磔から降ろす事。その後で事件がどうなろうが、偽物騒ぎで璃月の人々が疑心暗鬼になろうが、一向に構わなかった。例えタルタリヤが即興で作り上げた稚拙な脚本が彼の手元を離れて璃月史に残ることになっても、それはそれで数年後に酒の肴にはなる。
「契約を交わす時に言っただろう。私を殺せば、こいつの無実を証明する手段が減るぞ」
「そっちはもう問題ないよ。既に部下を動かして手筈は整えた。あと必要なのは、君の死体だけだ」
「そうか」
アライアが呟く。
「お前は最低だよ、公子」
マルタを騙し、璃月の民衆を騙し、アライアを騙した男が、“公子”だなんて気高い名前であっていいはずがない。この極悪人。大悪党め。
タルタリヤはふっと笑って、
「ああ、俺はひどいやつだよ」
と言って矢を穿った。
それが合図だった。
アライアの姿がタルタリヤの視界から消える。銀の髪が軌跡を描き、真横に伸びる。向かう先は同じ髪を垂らして眠っている自身の同位体。右手に握られたつるぎは未だ健在だ。
タルタリヤはすぐさま照準をマルタの一歩手前にずらした。アライアとマルタを繋ぐ一直線上。最短距離で彼女の首を取ろうとするならば、間違いなくこの場所を通過するだろうと一瞬の勘で判断して。タルタリヤのセンスは執行官としての誉を授かるにふさわしかった。タイミングを計算して矢を放つと、予測通りその場所に現れたアライアと重なった。
だが、アライアはそれを予期していたような動作でぐるりと体を回し、矢を避ける。そのまま流れるように地面を蹴り、剣を持たない左手がマルタの懐へと伸びた。
わざと剣を見せたのはブラフだ。タルタリヤが弓から双剣へと持ち替えて距離を詰めるが、アライアは今度は岩を蹴ってタルタリヤとすれ違うように宙を舞う。月を背負った彼女を振り返り、邪眼で生成した双刃刀を回転させて放つ。紫電を纏ったそれを受け止めたのは、同じ色の雷だった。
なるほど、目的はマルタが持っていた邪眼か。
元々アライアが持っていたものだから、自分の所持品を取り返したとも言える。タルタリヤがアライアから奪い、璃月港でどういうわけかマルタの手に渡ったもの。タルタリヤは神の目と邪眼の二つを持っているのに対し、さすがに丸腰ではかなう筈もないという判断だった。
アライアに跳ね返されたあとブーメランのように戻ってきた双刃をキャッチして、再びタルタリヤが攻撃を仕掛ける。二回、三回と刃が交差し、その度に電流が互いの腕を刺したが、両名共に自身の傷など眼中になかった。
その髪も、目も、声も、鼻筋も、全てがマルタと同じだった。けれどどうして、“似ている”という感想が微塵も湧いてこないのだろう。
「一つ、聞いてみたかったんだ。どうして君は、そんなに彼女を恨んでいる?」
ガチガチと鍔競り合う中で、ふとタルタリヤが尋ねた。以前天衡山で旅人に聞かれたものと全く同じ質問だった。アライアの性格を考えて無視されても不思議ではない問いであったが、気が向いたのか「決まっている」と端正な顔を歪めて答える。
「私たちはあいつが憎い! 私たちと同じ存在でありながら、一切の泥を浴びることなく平然と生きているあいつが、憎くて憎くてたまらない!」
「でも、君たちを解放したのもマルタだ」
「それは結果に過ぎない。私たちが職員を殺して逃げださなければ、あいつは私たちも殺していた!」
「だから、恩人を殺しても問題はないって?」
無言は肯定の意だった。
アライアがつるぎを払う。受け止めるのは少々困難だったので、後ろへ下がって距離を取った。
そこでようやく、タルタリヤが合点がいった。同じ人間であるはずの二人が、なぜこんなにも違って見えるのか。
タルタリヤはアライアに問いを投げかけたが、別にその問いに対する答えが聞きたかったわけではない。彼女達がなぜマルタを憎んでいるのかなんて、そんなことはどうでも良かった。
彼女は、一度も“私”と言わなかった。
自分を指す一人称は全て“私たち”だ。タルタリヤはご丁寧に“君は”と主語を明確にしたはずなのに、アライアはさも自分と他191人の総意であるかのように述べた。実際、総意であるのは間違ないのだろう。
それから、タルタリヤがアライアと仮初の契約を結んだ時。目の前の彼女は抵抗するかと思いきや、いとも簡単にタルタリヤに命を差し出した。ファデュイへの復讐という大望は、他のアライアが果たすと信じて。
だから、確信したのだ。
「君たちに、個という意思はないんだね」
彼女たちは、アライアシリーズというひとつの生き物だと。
人を殺し、束縛から逃れた彼女達には自由という言葉が似合うように感じられるだろう。しかしそれは、アライアシリーズ全体で見た時の話だ。192人それぞれにあるのはファデュイとマルタへの憎しみのみ。蟻や蜂のように、複数体でひとつと見なされる超個体のようなもの。
そしてそれを、おそらく全員が無意識のうちに自覚している。だからその憎しみはアライアシリーズのものであって、今タルタリヤの目の前にいる彼女が保有しているものではない。
タルタリヤという男は、言ってしまえば人の感情が大好きだった。
何かに突き動かされる激情が大好きだ。それが好意であれ憎しみであれ、悦びであれ怒りであれ、タルタリヤにとっては全部ご馳走だった。
だけどアライアは、肝心な部分が空っぽだ。復讐に燃えているように見えて、根っこの部分は真っ白なままだ。アライアという集団の意思を反映させているだけの鏡に過ぎなかった。きっと、彼女達とマルタの相違点はそこなのだろう。
だってマルタは、感情に振り回されている。ファデュイという感情と対極にある組織での立ち位置に迷っている。
往生堂での鍾離の声が聞こえていたということは、当然マルタの声も聞こえていたということだ。だから彼女が何を考え、何に悩んでいたのか、タルタリヤは知っている。盗み聞きという極めて趣味の悪い手段ではあったけれど。
「その太刀筋は面白いけど、やっぱり君のことは好きになれそうにないかな」
「必要ない。お前と慣れ合う気は……」
「それと、もう少し周りに気を配った方が良い」
「……!?」
ハッと何かに気づくと、アライアは必死に眼球を動かして視界の中を見渡した。
気を失っていた筈のマルタがいない。
そう思って振り返った時には、炎は目前に迫っていた。
「ぐっ……!」
回避に間に合う時間はすでに過ぎた。顔の前で腕を交差させて、灼熱を全身で受ける。
痛みが肌を突き刺す――かと思いきや、刺激は一向に訪れない。不思議に思って目を開いてみるが、目の前はしっかりと炎の赤で覆われていた。微塵も熱さを感じない。それどころか、じんわりと傷が癒えているように感じて心地良い。
それから一秒遅れて、何か鋭利な物が背中を斜めに引っ搔いた。
「……は…………」
ぱしゃん、と水の音が聞こえる。タルタリヤが使う水元素の双剣の音だとだった。だけどそれに混ざって、別のものが音を鳴らしている。これは、血が落ちる音だ。
その血は、アライアの背から滴っている。ぼたぼたと落ちる紅が若草を真っ赤に染め上げて、水溜まりを作ることなく地面に吸い込まれていった。
続けて、口から血の塊が飛び出す。鉄の匂いでむせ返りそうだったがなんとか踏みとどまった。背中に感じる激しい痛みは全身を駆け巡って、もはやどこが痛くてどこが痛くないのかさえも分からない。叫び出しそうだった。けれどその力も、塵となって消えていく。
視界がぐわんと歪む。月が軌跡を描いて天頂まで昇って、月が昇っているのではなく自分が落ちているのだと気づいた頃には、すでに頭が地面に叩きつけられていた。背中を切られて頭を打ち付けられて、全身痛くない場所はないと言えるほど血を流しているのに、どうしてかすっと晴れたような気分だった。
冷たくなっていく指先を、憎たらしいくらい綺麗な手が包み込む。
「…………」
同じ手なのに体温には天と地の差があった。
傷も泥もない柔らかな手のひら。暴力の痕を残さない真っ白な肌。純潔を残した穢れを知らない身体。誰からも拒まれることのない陽だまりの中の居場所。
その全てが、羨ましい。
「……ねえ」
かひゅう、と息に交じって、震える声を上げた。夜風の流れるこの場所では簡単に吹き飛ばされてしまいそうなほど小さくて、見上げた彼女に聞こえたかどうかは分からない。だけど微かに耳を口元に寄せたから、きっとこの声は伝わっているはずだ。
「大、嫌い」
言ってやった。
192人のアライアを代表して、ずっと言いたかったことをついに言ってやった。
藤の瞳が大きく見開かれたので、アライアはここぞとばかりに笑った。これは呪いだ。自分の屍を踏みつけて、次のアライアを殺しに行く死神への、呪い。
握っていた筈の手がぽとりと草の上に落ちた。お揃いの瞳は曇りガラスのように濁っていて、光はない。ゆっくりと指を首元に沿える。脈はなかった。
確実に息を引き取ったことを確認し、その白い頬をそっと撫でる。決して安らかな死出の旅路ではなかったけれど。せめて彼女が、死後の世界では何にも脅かされずにすみますようにと、そう願って瞼を下ろしてやった。
「マルタはさ、ちょっと優しすぎるよ」
草原に膝をつくマルタの後ろから、たった今一人の女を殺した男がやってきて声をかけた。血の付いた双剣を元素へ還し、宙に放り出された血液だけがぼたぼたと地面に落ちる。
「そう、でしょうか」
「焼死と失血死じゃ死ぬまでの苦痛が段違いだからね。君が本気で彼女を殺そうとしていたなら、さっきの炎で焼き殺すことだってできたはずだろう?」
マルタの炎に治癒効果が備わっていることは周知の事実だが、普通の炎が出せないというわけではない。アライアを殺す事だけが目的であれば、彼女の背後を取った時点で既に可能だったはずだ。
けれどマルタは彼女を焼かなかった。焼死が苦しいものだって、誰よりも知っている。肌が焼ける痛みは想像を絶するものだ。全身を炎が包み込んだら、次は酸素を取り込めなくなる。そうやって激痛と酸欠の中でもがきながら絶命していくのが焼死だ。
「……アライアを殺すのは私の使命です。だから、自分の手で渡す“死”に差をつけてはいけないんだって、そう思ってはいます」
「……」
「でも……なるべくなら、苦しまずに死んでほしいとも、思ってしまうんです」
「……ハハ」
突然笑い出したタルタリヤに、マルタは目を丸くした。今の話の中に、彼の笑いのツボを刺激する何かがあっただろうか。ざっと思い返すが、これといって心当たりはなかった。
「いや、うん。君、やっぱりファデュイに向いてるよ」
「え……」
そんなことを言われたのは初めてだった。氷のような心なんてどうやったって持つことができなくて、非情になろうと心がけてもいつもどこかで氷を溶かしてしまう。それがマルタ・アライアという人間で、女皇の配下としては不出来な方だと思っていたのに。
だけど、考えてみればとんでもなく身勝手な話だった。アライアたちが殺されるのはマルタとスネージナヤの都合だ。彼女達が民間人を殺しているという罪を問うにふさわしい理由はあれど、それだって元を辿れば研究所の問題点しかない教育に行き着く。その彼女たちを追い詰めて、居場所を奪って、最終的に命をも奪うと決めたのに、死ぬときは安らかに、なんて。
タルタリヤの目の前に、怪物がいた。自分勝手に生殺与奪を決めて、そのくせ奪った命を嘆く傲慢さ。本人に自覚がない分なおさらタチが悪い。そんな化け物、ファデュイで飼わずしてどうする。
この最悪な死神業を今後も続けるのなら、きっと感情なんて削ぎ落した方が楽になるのだろう。何せアライアは192人もいるのだ。マニュアルに従って淡々と死を与えていく方がよほど負担が少なくて済む。
けれど、それでも彼女にはこのままでいて欲しいと、一人を殺す度に苦しんでいて欲しいと本気で思っているのだから、やはり公子という男は大悪党に違いなかった。