鳳の章 第一幕
『プレタポルテの憂鬱』
7

 マルタ、もといマルタのドッペルゲンガーが玉京台から消えて二日が経った。

 総務司は妖魔に該当する超常存在が起こした事件だと推定し、連日千岩軍による調査が行われていた。世間ではドッペルゲンガーの噂で持ちきりの状態で、突如湧いたオカルト話に皆期待半分で調査の行方を見守っている。

 しかしその調査は、あることがきっかけで打ち切られることになる。

 青墟浦東の河川で、犯人と見られる女の死体が見つかった。

 水死体となってしまっては顔の判別は付かなかった。分かったのはその死体が女であることと、背中に大きな切創がひとつ残されているということだけ。川の上流付近に血の付いたヒルチャール暴徒の斧が落ちていたことから、おそらくヒルチャールに襲われて川に落ち、そのまま水に流された状態で絶命したとされている。

 そして総務司は、その水死体の女こそが、マルタの姿で玉京台に現れた女であったと正式に発表した。

 と言うのも、その女が身に着けていた所持品の中に、犯行に使われた凶器のナイフとぴったり合う鞘が入っていたのだ。サイズや色、細部の装飾に至るまでことごとくが一致し、極めつけにファデュイのマークが彫られていると来れば、誰だってそれらがセットであると気づくものだ。

 よって総務司および璃月七星は、犯人はすでに死亡したとして強引に事件の幕を下ろした。

 しかし、いくら幽霊やら妖怪やらに慣れ親しんだ璃月人と言っても、そんな三文小説のような話を全員が全員信じているわけではない。総務司には事件の詳細を訪ねる意見が大量に送られ、総務司側は被害者家族のプライバシーに関わるからと黙秘を貫いた。けれどその一貫した態度が、さらに民衆の事件への興味をヒートアップさせてしまった。

 ある時、こんな考察がチ虎岩の井戸端会議で流れ始めた。もしかしてあの事件は、ファデュイに対して悪意を持つ連中による陰謀だったんじゃないか、と。

 その噂はあっという間に港全域に広がり、璃月の若者の間ではありもしない陰謀論で話題殺到となった。被害者やドッペルゲンガーの事なんかはたちまち人々の記憶から姿を消し、今ではすっかり忘れ去られてしまっている。

 そういうわけで、マルタが再び璃月港の橋を渡ったのは、女児傷害事件が話題としての賞味期限を切らして暫く経った頃だった。


「じゃあ、青墟浦の東で見つかった死体は偽物ってことか?」


 緋雲の丘の隅でひそひそと問いを投げるパイモンに、マルタは頷いた。

 犯人を装って玉京台を去ってから、彼女は旅人との連絡の一切を絶っていた。もちろん無事であることはタルタリヤの口から旅人へと伝えられていたので、一応生きているということだけ知ってはいたのだけど。それでも青墟浦で彼女らしき死体が発見されたと総務司から聞かされた時は肝を冷やしたものだった。


「でも、璃月港に戻ってこれたってことは、マルタへの疑いはちゃんと晴れたってことでいいんだよな?」
「はい。総務司側は既に事件の調査を終えていますし、私は事件当時モンドにいたことになっていますから」
「モンドに?」


 けれど、彼女は確かに璃月にいたはずだ。明蘊村で偶然会ってそのまま一緒に璃月港に向かったのだから、彼女がモンドにいたというのは全くの嘘である。


「ええ。これが証拠になってくれて」


 そう言って彼女が見せたのは、旅人とパイモンも見覚えのある――というより、つい数日前まで彼らが所持していた袋そのものだ。


「これ、オイラたちが採ってきた依頼品じゃないか!」


 その袋の中身を覗いて、パイモンがわっと声を上げた。琉璃百合や琉璃袋等璃月の特産品から、イグサやセシリアの花等モンドの特産品までがびっしり詰められている。どれも旅人の足で採取し、依頼品として冒険者協会に渡したものだった。あの後冒険者協会から北国銀行へ届けられたと聞いてはいたのだが、そのさらに後マルタの手に渡っていたとは驚きだ。

 旅人がセシリアの花を一輪つまんで持ち上げると、隅から隅まで観察してふと思い浮かんだ疑問を口にした。


「なんか、俺が持ってきたときより元気になってない?」


 若草色の葉はぴんと伸びており、花弁も透き通ることなく鮮やかに咲いている。その下のがくもだらんと垂れることなくしっかりと立っており、いかにもさっきまで地面に植わっていましたと言わんばかりの鮮度だ。セシリアの花だけに限らずイグサや風車アスターまでもがそんな調子で、旅人はより一層首を傾げた。彼が採取したのは数日前のことだから、ここまで鮮度を保っているのは明らかに不自然だ。


「私の治癒術、実は人以外にも有効なんです。そこで旅人さんが持ってきてくれた植物に元素を注いで、再生させてみました」
「確かに、よく見たらうっすら炎元素が付着してる」


 初めてそれを行ったのはいつ頃だっただろうか。タルタリヤの怪我を治療している時に突然琉璃百合を渡されて試したのが最初であったから、確か送仙儀式が始まるよりもずっと前のことだったはずだ。

 それを利用して、マルタはタルタリヤ経由で受け取った植物を再生させ、採取したばかりの花であると偽装した。モンドにしか自生しない植物も商品として璃月に流れてくることはあるが、そのどれもが港に着くころにはたいぶ鮮度が落ちてしまっている。だから採ったばかりの花を証拠として提示し、あとはモンドにいたファデュイの誰かに確かに滞在していたと嘘の証言をしてもらえれば、アリバイとしては十分だった。


「それって偽造証拠……」
「パイモン、しっ」


 世の中には黙っていた方が良い事もある。マルタの行いは完全にグレーゾーンではあるが、冤罪を晴らすために必要なことだと思えばここは目を瞑るのが正解な気がした。


「でも、それじゃあドラゴンスパインでオイラたちを見たって言ってたあの冒険者は一体何だったんだ? オイラたち、本当にドラゴンスパインなんか行ったことないぞ?」
「あの方はファデュイの工作員の方ですね。旅人さんを見たというのももちろん作り話です」
「もしかして、その後に来た商人二人も?」
「ファデュイの方です」
「結局全員サクラかよ!」


 ファデュイは国籍関係なく人員を募っているため、当然璃月やモンド出身の者も所属している。そういう者たちに一芝居打つよう、公子が根回しした結果があれだった。とんでもない茶番だ。振り回されていた自分が馬鹿らしく思えてくるくらいに。


「じゃあ、あの邪眼はいつ手に入れたの? 俺が見てた限り、邪眼を受け取ったりはしていなかったと思うんだけど」
「ああ、あれはモラミートと一緒に受け取りました」
「「モラミート!?」」


 旅人とパイモンの声が重なった。モラミートと言えば、タルタリヤが突然万民堂に行こうなどと言い出して人数分買ってきたあれだ。結局モラミート以外も大量に買い込んでしまったため、往生堂の客室がちょっとした宴会会場のようになってしまったが。


「まさか、マルタの分のモラミートって……」
「はい、包装紙の中身は邪眼です。おそらくどこかのタイミングで紙にくるんで混入させたのかと」


 そうでなければ、同じ味のモラミートを鍾離とマルタで区別などしない。わざわざ赤い包装の方がマルタの分であると指定してきたということは、どうしてもそちらをマルタに渡したかったということ。受け取ってすぐに食べなかったのも、中身は邪眼なのだから食べようにも食べられなかった。


「ええと、マルタが往生堂でこっそり邪眼を受け取って、その後邪眼を使って璃月港を出て、逃げたマルタを本物のドッペルゲンガーだと思った千岩軍が追いかけたけど、その先でドッペルゲンガーの死体が見つかって……うう、頭がこんがらかって来たぞ……!」
「とりあえず、もうマルタが疑われることはないってことでいいんだよね」
「璃月の人たち全員にそう思ってもらえるかは分かりませんが……ひとまずはそういうことで大丈夫だと思います」


 今ここにマルタが立っていることがその証明だった。そうでなければ今頃とっくに千岩軍に連行され、往生堂にいた時よりももっと厳しい監視を受けている事だろう。

 その時、ふと思い出したように「そうだ!」とパイモンが小声で叫んだ。


「結局、あのアライアは一体どうなったんだ?」
「…………」


 マルタは仮面の下で目を見開くと、眉を下げて表情を曇らせた。

 世の中、知らない方がいい事もある。









 澄んだ快晴の下でひそひそと言葉を交わす少年と浮遊物、そして一人の女を、鍾離は緋色の空中回廊から見下ろしていた。腕を組む彼に向けて、コツコツと足音が近づいてくる。


「鍾離先生」


 まるで来ることは分かっていたと言わんばかりに、鍾離は石珀の目をそちらへ向けた。ほぼ同じ高さにある海色の瞳は相変わらずの濁りっぷりで、それでいて子どものようなあどけなさを残している。一体どうしたらこんなにアンバランスな大人になるのかと不思議に思う程だった。

 タルタリヤは鍾離から視線を外すことなく、自身の左耳から垂れ下がったピアスをちょいと指先でつつく。ああ、と鍾離はその意味を察すると、すっと瞼を下ろして意識をそれに集中させた。その僅か数秒後に、タルタリヤのピアスから琥珀色が剥がれ元の赤い宝石へと戻る。まるで魔法が解ける瞬間のようだった。


「とりあえず、これで俺から鍾離先生に頼んでたことは全部かな。後で往生堂に代金を振り込んでおくよ」
「ああ、胡堂主と渡し守のお嬢さんには俺から話をつけておこう」


 タルタリヤが鍾離へ持ちかけた頼み事は二つ。

 一つは、往生堂に匿われたマルタの護衛。そしてもう一つは、その間鍾離の耳に入った聴覚情報を直接タルタリヤの脳に流し込む仙術を施すこと。いずれも事件が幕を下ろしたことで満了し、あとはタルタリヤがそれに見合うだけの代金を支払うことで契約は果たされる。

 代金と一言で言ってもその額は目玉が飛び出るほど膨れ上がっているのだが、300万モラを右から左へポンと流せる資産を持っているタルタリヤからすれば財布を少し小突かれたようなものだ。むしろこんな額で元神様を動かせたのだから安いものだ、と悦に入る始末だった。

 それじゃあ俺はこれで、とそそくさと立ち去ろうとするタルタリヤに向け、公子殿と呼び止める。タルタリヤは心底嫌そうな顔を一瞬浮かべたが、契約とはいえ散々こき使った相手に対し何の説明もしないというのもひどい話だ。仕方ないので鍾離から二、三歩離れた所で欄干に背を預け、腕を組む。


「青墟浦で死体が発見されたとの話だったが」
「ああ、千岩軍が見つけたってやつだね。ドッペルゲンガーも死んだら死体になって残るなんて初めて聞いたけど……」
「その死体は、一体誰のものを使った?」
「…………」


 鍾離の視線には、一種の警告が含まれていた。神の座を降りたとはいえ、鍾離は変わらず璃月を愛している。もしもファデュイが保身のために璃月に生きる誰かを殺めたのであれば、決して見過ごすことはできない、と。

 タルタリヤは肩をすくめて、観念したように語り始めた。


「……アライアの死体を利用させてもらった。無関係の人を殺したわけじゃないよ」


 アライアシリーズを表舞台に出してはいけない。それはつまり、彼女達からアライアである証を奪ってしまいさえすれば問題ないということだ。

 水死体になればまず顔は分からない。璃月の検死技術がどれほど発達しているのかはタルタリヤの知るところではないが、おそらく損傷の激しい死体を綺麗さっぱり元通りにする技術は、未だ形作られていないだろう。エンバーミングだって完全ではない。顔を失えば彼女はそこらの人間と何も変わらなかった。

 そしてタルタリヤにとって、アライアは殺すべき相手だ。どうせ死体になるのだから、有効活用させてもらうに過ぎる。


「だが、凝光はどう黙らせた? あの死体と犯人との関連性は、凶器と対になる鞘を所持していたことだけだと聞いた。本来七星がそれだけで調査を終えるとは思えないが」
「ハハハ、今日の先生は詮索が好きだね」
「俺だけではない。事件の話を聞き齧んだ者なら誰だって疑問に思うだろう」
「はいはい、そういうことにしておくよ。……先生は、被害者の兄の男の子を覚えてる?」


 当然、鍾離の記憶にも残っていた。両親と共に北国銀行に現れ、衆目の前でマルタが犯人だと叫んだ幼子。ある意味、今回の騒ぎの発端ともなった少年だ。


「犯行時刻は深夜一時過ぎ。そんな時間に親も連れず、子どもだけで璃月港を出ようとしてたのがずっと気になっていてね。部下にあの家を探らせたんだ。そしたらわんさか出てきたよ、父親から子どもへの虐待の証拠が」
「……そうか。やはりな」
「鍾離先生も気づいてたの」
「確証はなかったがな。父親がマルタを殴ろうとした時、ひどく怯えているのが見えた。当時は単純に驚いているだけかと思ったが、今思えば、あれは普段から暴力を目の当たりにしている者の目だった」


 少年が母親から離れず、父親に一切近づこうとしなかったのも、きっとそれが原因だろう。あの事件は、そんな父親から逃げだそうとした時に起こったものだ。暴力から逃げた先で更なる暴力に遭遇してしまうのだから、なんとも皮肉な話だった。


「父親の方は他国から銀を輸入する商売をしていて、“天権”が今懇意にしてる取引相手らしい。そんな奴が日頃幼い子どもに向かって暴力を振るっていたなんて世間一般に広まれば、そいつに投資していた天権の信用も落ちることになる。だから俺は、ちょっとした相談を持ち掛けただけだよ。“お互いにこれ以上踏み込むのはやめましょう”ってね」


 つまりは脅しだ。もしも七星がこれ以上事件の真相を追い求めるのであれば、ファデュイが手に入れた父親に関する情報を然るべき場所に売る、と。

 凝光はその巧みな手腕で璃月の実質的な統治者に君臨しているが、それ故に彼女を付け狙う輩も数知れない。完璧な“天権”のイメージに少しでも傷がついたとしたら、彼らはこぞってその座から引きずりおろそうとするだろう。避けられるリスクは可能な限り避けておくべきだった。


「それにほら、マルタってファデュイにしては意外と外部の味方が多いんだよね。千岩軍も総務司も、七星が捜査を打ち切るって決めた段階で特に何も言わず冤罪として処理したみたいだし」


 マルタ自身は気づいていないが、璃月内における人望は比較的高い。それは事件現場にいた千岩軍との会話でも分かることだ。きっとファデュイという組織が人望ゼロどころかマイナスに振り切っているため、倫理観的にはプラスに寄っている彼女は飛び抜けて見えるのだろう。


「あの父親の取り乱しようは娘を傷つけられた怒りではなく、捜査が長引いて虐待が発覚する恐れがあったからこそか。そうなると、そもそも事件の存在を公にしたことに疑問が生じるが……」
「十中八九、モラだろうね。ファデュイをゆすれば大金が手に入ると思ったんでしょ。総務司の調査で虐待がバレるよりも、目の前の金に目がくらんだんだ」


 弱みに付け込まれるなんて、ファデュイはもう何百回も経験している。その対処法も、相手の黙らせ方も、分厚いマニュアルになって本棚を守っていた。例え父親が極秘裏にファデュイを脅してきたとしても、大金の代わりにダイナマイトを持たされて帰る羽目になっていたはずだった。


「ま、あの天権が腐った芽を放置しておくとは思えないし、今頃商人と手を切る手筈でも整えてるんじゃないかな。あと数日もすれば、虐待の容疑であの銀商人が逮捕されたって璃月中が騒ぎになるよ。そうなれば、みんなドッペルゲンガーのことなんて忘れてるだろうね」
「……なるほど、それが目的だったか」


 随分と遠回りな事をする男だ、と思った。もっと単純明快で、それこそ拳に物を言わせる決着の付け方だってあっただろうに。


「公子殿。今後舞台を手伝うよう頼まれても、黒子役だけは引き受けない方がいい。舞台そのものを壊してしまいかねない」
「それ喧嘩売ってる? 裏方が下手くそな自覚はあるけどさ」


 きっと自分は、脚本家には向いていないのだろう。他人の為に踊るのは大得意だが、他人を躍らせる事には全くと言っていいほど慣れていない。この事件の報告書を大真面目に書いたところで、淑女に鼻で笑われるのは目に見えていた。

 それでもタルタリヤは、マルタという人間がかき消えるのを見たくはなかった。だってここは璃月だ。スネージナヤの氷雪が届かない場所だ。彼女の愛する花が芽吹く地だ。いつだって狂瀾怒濤を体現していた自分がここに来て“不変”を求めたのだから、淑女でなくとも笑ってしまう。

 視線を下に動かすと、旅人に別れを告げる彼女の姿が見下ろせた。

 いつか、彼女が顔を隠すことなく、堂々と日の光を享受できるように。

 ただの任務にそんな緊張感のない目的がくっついてしまったのだから、マルタという女は案外人を狂わせるのが得意なのかもしれない。


「公子殿にとって、マルタはどんな存在だ」
「え、何その質問。気持ち悪……」


 離れた場所から飛んできた爆弾のような質問に、タルタリヤは毛虫の詰まった瓶を見せられた時と同じ表情を浮かべて退いた。鍾離はというと、異郷の若者をからかって遊ぶのがお気に召したのか珍しく目尻を下げて微笑んでいる。まるで思春期の子供で遊ぶ老人だ。鍾離の年齢を考えると、タルタリヤは子供どころか胎児でもおかしくはないのだが。


「そうだなあ」


 欄干に肘を付き、笑顔のひとつも見せずに言った。


「ナイフみたいな子かな」









 階段を下りると、旅人を見送るマルタと目が合った。と言っても彼女のラベンダーの瞳はファデュイの仮面で覆われているので、正確には「あ、こっち見た」程度の感覚だったが。


「公子様」


 そう正面から呼ばれるのは、随分久しぶりのことのように思えた。オセルの一件からタルタリヤは汚名返上のために走り回っていたし、マルタはマルタで暫くぶりの休暇を半強制的に取らされていた矢先に、今回の事件だ。久しぶりというのはあながち間違いでもない。


「相棒は?」
「冒険者協会の方に用があるそうです。それから、ドラゴンスパインに行く準備もすると」
「相棒、さては勝手に名前使ったこと根に持ってるな……」


 正解だった。ファデュイの工作員によってまんまとタルタリヤの作った盤上に乗せられてしまったことが、旅人的には気に入らなかったらしい。そんなにドラゴンスパインに行ってほしいならお望み通り行ってやる、よろしいならば耐寒薬剤作りだと言って去っていったから、きっと明日には璃月中の霧氷花という霧氷花が狩りつくされているだろう。

 しかし旅人に借りがあるのもまた事実だ。会えたら何か美味しいものをご馳走しようと思っていたのだが。


「そうだ、とりあえず君にとっては朗報。被害者の女の子だけど、総務司が腕利きの医者を手配したおかげで傷はだいぶ良くなったらしい。元々命に関わるような怪我じゃないから、あと一週間もすれば動けるようになるって」
「! そうですか。良かった……」
「……君の事だから、直接会いに行って治そうとか考えてたんだろう?」


 タルタリヤに図星を刺され、マルタは小さく唸った。けれど外套の裾をきゅ、と握ると、顔を下げて静かに呟く。


「そうしようかとも考えましたが……私が会うことで事件の記憶を思い出して、心に大きな傷を負ってしまうかもしれませんから」


 体の傷ならば、マルタはいくらでも治せる。だけど心の傷だけは、炎ではどうすることもできなかった。

 被害者はまだ幼いから、事件のこともアライアの顔も綺麗さっぱり忘れられるだろう。だが今再び彼女の前に現れて、それがきっかけでトラウマとして残ってしまったら、それは一生彼女を蝕んでしまう。知らない方が幸せなことは、この世にたくさんあるのだから。


「それにきっと、彼女のお兄さんもご両親も、私の顔を恨んでいるでしょうし。そんな相手が会いに行ったところで、面会を受け入れてもらえるとは思えません」
「……父親はともかく、あの男の子はどうかなぁ」
「?」


 あの父親が虐待を行っていて、凝光の準備が整い次第総務司の調査が入るであろうことは、マルタもタルタリヤから聞かされている。それ故に、被害者に変わって事件の聞き込みをするとの名目で、彼を家族から引き離して隔離しているということも。なので今あの家には、子供たちを脅かすものは何ひとつ無い。

 アライアという女は、子供たちにとっては救世主だった。

 マルタが研究所を燃やしてアライアを解放したように、アライアが事件を起こしたことがきっかけで子供たちは暴力から解放された。方法こそ同じ暴力にまみれていたけれど、その一瞬の苦しみでこの先何年も続く理不尽を殺すことができるのであれば、おそらく二人は過去に戻ったとしても同じ選択をするだろう。

 あの少年の告発は彼の放ったSOSで、その救難信号を否定せずに受け止めたマルタは、きっと彼にとっては聖女様だ。だって、凡人は神に直接声を届けることができなくて、非力なる人々の声を聞き届けるのはいつだって聖職者の役目なのだから。


「……公子様」


 神妙な面持ちでマルタがタルタリヤに向き直る。そして両手を揃えると、深々と頭を下げた。


「今回の騒動は、全て私の不注意が招いた結果です。処罰は何なりと」


 往生堂に匿われた時から覚悟していたことだ。事件についての概要は、璃月港に住む者皆に知れ渡ってしまった。容疑をかけられたのがマルタであるとは知らずとも、それがファデュイの一人であると風の噂が流れるまでそう時間はかからないだろう。

 冤罪だったとはいえ、一度落ちた評価はそう簡単に覆ることはない。ましてや北国銀行は金融機関だ。信用を商品として扱う商売で悪評を叩かれることが、一体どれほどの損失になることか。それが分からないマルタではない。

 そんな彼女を見下ろして、タルタリヤため息をひとつ吐いた。


「俺は散兵じゃないんだから、ミスひとつでいちいち処分なんて下さないよ。そんなことしてたらキリがない」


 公子直属は何もマルタ一人ではない。末席ではあるが執行官に名を連ねている以上、部下の人数は顔と名前を覚えられるかどうかも怪しい桁まで膨れ上がっている。その一人一人に処分を言い渡していくなんて、とてもできたことじゃない。やる奴がいるとしたらよほどの暇人か、単にそれが趣味なだけの人物だ。当然タルタリヤは暇な執行官でもなければ、マニアックな趣味嗜好を持っている人間でもなかった。


「でもまあ、それで君の気が収まらないって言うなら、ひとつ頼まれごとをしてくれないかな」
「頼まれごと、ですか?」
「そう。相棒とおチビちゃんには世話になったからお礼に何か奢ろうと思ったんだけど、俺、店決めるの苦手なんだよね」


 突然の告白にマルタは顔を上げ、ぽかんと小首をかしげた。この話の流れで店? と不思議に思うマルタをよそに、タルタリヤは「ほら、俺ってわりと早くに出世しちゃった方だし」「幹事とかも引き受けたことあんまりないしさ」「そもそも璃月の料理の良し悪しは俺にはわからないし」などと聞いてもいない理由をつらつらと並べている。


「だから、マルタが適当に見繕ってくれない? 瑠璃亭でも新月軒でも、君の好きな場所ならどこでもいいよ」


 そう言ってタルタリヤはマルタから視線を外し、道行く適当な人の姿を目で追い始めた。おおかた無意識化だろうが、その手は不自然に首の後ろをかいている。“公子”に相応しい普段の小粋な立ち振る舞いは、どうやらここにきてストライキし始めたらしかった。

 とはいえ、マルタも璃月の食に精通しているわけではない。こういう文化に関わることは自分ではなく鍾離に聞いた方が良いのではと思いつつも、脳内で知っている料理屋を三、四軒思い浮かべる。


「でしたら、万民堂を」


 少し悩んだ末に出た提案に、タルタリヤは目を丸くした。


「お嫌ですか?」
「いや、別に嫌なわけじゃないよ。あそこの料理は俺も美味しいと思うし。でも、君が万民堂を選んだのが少し意外だっただけ」


 彼女のことだ。性格上高級料理店を選択肢から排除するであろうことは予想していたが、てっきり静かな個室で食べられる場所を好むと思い込んでいた。それで言えば、万民堂は間違いなく正反対だろう。あそこは安さと騒がしさが売りの庶民食堂だ。


「私も、香菱さんの料理はどれも大好きですから。それに……」
「それに?」
「……私だけ、まだモラミートを食べられていません…………」


 食事への維持を見せてしまったことへの照れ隠しか、はたまた仲間外れにされたことへの嫉妬の表れか。両の指先で口元を隠したマルタの頬がほんのり色づいていることを発見したタルタリヤは、面白おかしさからつい吹き出してしまった。


「ハハハ、君も相棒と同じく、案外根に持つタイプだな……!」
「そ、そこまで笑わなくとも……」
「はあ、いいよ。万民堂にしようか。たしかに、あのおチビちゃんを連れていくなら万民堂じゃないとちょっと危険かな」


 先日の食いっぷりを瑠璃亭や新月軒で再現されては、タルタリヤの財布だって小言を言いたくもなる。とはいえ執行官の稼ぎはそれを黙らせられるだけの力をしっかり持っているので、その気になれば両店舗をはしごすることだって簡単にできてしまうのだが。せっかく部下の珍しい顔を見られたのにふてくされてもらってはもったいないので、あえて口にはしないでおく。

 そうと決まったら、善は急げだ。旅人とパイモンが霧氷花を求めて璃月マラソンを始めてしまう前にと、二人は冒険者協会までの道を並んで歩き始めた。
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