ラストリゾート 中 - text

 オークション会場は一見すると小さなシアターのような外観だった。絢爛豪華な黄金の刻に隠れるよう最小限の照明で、ナマエの選んだバーガンディー色のドレスは薄暗い会場に完全に溶け込んでしまっている。装飾の類が映えないのは残念だが、闇オークションで目立っても仕方ないのでかえって好都合だった。

 地下劇場に案内されアベンチュリンと並んで席につくと、ナマエは慣れない空気の中そわそわと周囲を盗み見ている。その緊張は隣のアベンチュリンにまでばっちり伝わっていた。


「心配ないよ。僕たちはその順番が来るまで、ただの傍観者でしかないからね」
「わかってる。わかってるけど……なんか、やけにオムニックが多くない?」


 それはアベンチュリンも会場に入った瞬間から感じていた。受付のスタッフ、監視員、席に座る参加者を含め、約半数をオムニックが占めている。元々ピノコニーはオムニックが多く訪れる地であるため街中で見かけてもおかしなことはないのだが、この小さな会場にここまで集まることがあるだろうか。偶然の可能性を捨てきれないため、ここまでアベンチュリンからあえて口にすることはなかったが。


「かなりの確率で主催の仕込みだろうけど、そもそもが闇オークションだ。何かが仕掛けられていても不思議じゃない」
「どうする?」
「様子見かな。相手の出方がわからない以上それしかない」


 ナマエが前を向くと、劇場のステージがパッと明るくなった。マイクを持ち高価そうなスーツに身を包んだ男が一人、スポットライトを向けられ中央に立っている。向こうから暗い客席はよく見えていないはずなのに、なぜか一瞬目が合った気がした。


「紳士淑女の皆様! 長らくお待たせいたしました! これよりお目にかけますは、銀河中を回っても滅多に出会えない極めて希少な品々でございます! どうか悔いのなきよう、思う存分ご参加くださいませ!」


 オークショニアの開催の宣言と共に、客席からは盛大な拍手が鳴った。場の空気に合わせた方が良いかとナマエも一瞬手を上げかけたが、隣のアベンチュリンが微動だにせず無表情でステージを見下ろしていたため慌ててぎゅっと両手を握る。


「開催におきましてひとつ注意点がございます。今回ご紹介する商品は大変貴重な品ばかりですので、警備は最高レベルに引き上げております。盗難のリスクを考慮しまして会場内から直接夢境を出ることを固く禁じ、覚醒防止プログラムを建物全域に施させていただきました。オークション終了後は後方出入り口よりお帰りくださいませ」


 オークショニアがそうアナウンスすると、ガラガラと箱の乗った荷台が運ばれてきた。オークショニアは人間だったが、運び役はオムニックだった。

 オムニックはステージの中央に箱を置くと、客席に見えるように斜めに立てかける。箱の上部は透明だったようで、中身は容易に確認できた。

 その『中身』は、ナマエから言葉を奪い去った。


「――最初の一品は、かつてカティカ・エヴィキン絶滅事件で絶滅したとされるエヴィキン人の亡骸です! 推定十二歳程度の少女とされ、落札後は冷凍状態でのお渡しとなります!」


 膝を抱えた一糸纏わぬ姿の女がこちらを見ていた。けれど彼女は、目を開いているだけで見てはいない。見ることができない。彼女はすでに事切れた後だった。冷凍処理が施された箱の中で、エヴィキン人の証である瞳を見せつけるように瞼を器具で固定されている。アベンチュリンとナマエの両目にはまっているそれが、彼女は市に並ぶ魚のようにぎょろりと生気なく見開かれていた。


「こちらは85万信用ポイントからのスタート! 入札をご希望の方は座席にお供えのスイッチからご入札ください!」


 その瞬間、アベンチュリンとナマエの座席の周囲からピロンピロンと立て続けに電子音が鳴り始めた。音と同時に座席の上空に数字のホログラムが投影される。おそらくアベンチュリンが今指をかけているスイッチを押せば、同様の演出がこの席にもなされるのだろう。観客席に次々と浮かび上がる数字を指差しながら、オークショニアは声を張り上げて値段を吊り上げていく。


「ナマエ……! あの『商品』の彼女は……!」
「…………ニア……!」


 アベンチュリンが小声で振り向く。

 ナマエの顔は暗いホールでもわかるくらい真っ青になっていた。口元を覆う両手はガタガタと震え、目の前で起こっていることを拒否するように瞳が左右に激しく揺れている。

 その反応でアベンチュリンは確証を得た。出品された彼女は、本物のエヴィキン人だ。


「ア、アベンチュリン……! どうなってるの!? ユイシャは!? なんでニアもオークションに出されてるの……!?」
「……まんまと食わされたよ。確かに僕たちは目玉商品がエヴィキン人だとは聞いていたけど、目玉商品以外はエヴィキン人じゃないとは一言も聞いていない」


 ピロンピロンと絶えず音は鳴り続ける。アベンチュリンが少し目を離した隙に価格は150万信用ポイントにまで膨らんでいた。電子音とオークショニアの応答が羽虫の雑音のように耳障りだ。

 価格が165万信用ポイントにまで上りつめた時、ナマエがアベンチュリンの腕をがしりを鷲掴んだ。


「アベンチュリン! ニアが、ニアが買われちゃう! 入札して!」
「っ、!」


 ナマエに突き動かされるようにアベンチュリンはスイッチを押した。仮にナマエが何も言っていなかったとしても、きっとアベンチュリンはこの指を動かしていただろう。アベンチュリンの上空に数字が浮かび上がる。


「170万! 170万です! 他にいらっしゃいませんか!」


 オークショニアが叫んだ次の瞬間、ピロンと電子音が重なる。


「175万!」


 負けじとアベンチュリンが入札する。


「185万!」


 電子音が鳴る。


「190万!」


 ふう、とアベンチュリンは額に汗を滲ませた。致命的な出費になるわけでないが、本来の目的であるユイシャの予想価格が不明であること、またアベンチュリンの考えている仮説の正誤がまだ確定していないからだ。

 もう一度、アベンチュリンはボタンを押す。今度は価格を入札価格を調節するダイヤルを回した。


「230万! 230万です! 他にいらっしゃいませんか!」


 思わず客席がどよめくのをよそに、変わらず電子音は鳴り響いた。


「235万!」


 さらに客席が騒がしくなった。

 今度はアベンチュリンは動かなかった。ボタンから指を外したアベンチュリンを見て、ナマエは裏切られたように顔を歪ませる。


「……どうして? アベンチュリン……」
「この競売会は茶番だ」


 ナマエが何かを言う前に、アベンチュリンはピシャリと言い放った。他の客とは座席が離れているため、おそらくこの会話は聞こえていないのだろう。このような事態も想定して、主催側があえて客同士を離す配置にしていたのかもしれない。


「僕の入札から次の入札があるまでの時間を数えていたんだ。僕の入札は三回。その三回ともきっちり二秒、5万信用ポイントずつ上乗せされて入札されている。わかるかい? 最後の40万上乗せにも動じず、きっちり二秒だ。人間ならもう少し狼狽える。おそらく会場にオムニックが多いのはそのためだ」


 無機生命体であるオムニックの思考は全てプログラムだ。感情とは分離し、『二秒後に現在の価格に5万上乗せして入札する』というプログラムを事前に仕込んでおけば、あとは勝手にオートで動く。


「八百長とでも言えばいいかな。どの商品が誰の手に渡るかは主催と取引した側であらかじめ決まってるんだ。大方、どこかの星の犯罪組織同士が禍根を残さないよう、オークションの形式を取ることで取引してるんじゃないかな。僕たちのような無関係の人間まで参加できるようになってるのは、取引の証人にでもしたいんだろう」


 どれだけアベンチュリンが入札をしても、無限に金額を上乗せされる。これでは落札は不可能だ。オークションの主催は、最初からアベンチュリンら外部の者たちにエヴィキン人を渡す気はないのだから。

 打つ手はない。そうアベンチュリンに宣告され、ナマエはきっと眉を上げた。


「……もういい。オークションとか八百長とか、そんなくだらないゲームに付き合ってなんかられない」
「! 駄目だ!」


 ナマエが立ち上がろうとした瞬間、アベンチュリンは彼女の肩を押さえつけた。腕で席の背もたれに縫い止め、必死に叫ぼうとする彼女の口を塞ぐ。暴れる彼女をなるべく音を立てないように抑えるので精一杯だった。


「今は我慢してくれ……! 君の友人はカンパニーが必ず探し出す。だから今は耐えてくれ! じゃないと、友人にもユイシャにも会えなくなる!」


 アベンチュリンの手のひらを噛んで抵抗していたナマエが、ユイシャの名を聞いてはたと動きを止めた。頭に上っていた血が一瞬でさっと引いていく。全身から力を抜いたナマエにアベンチュリンが一息ついたのも束の間、ガベルが振り下ろされた。


「それでは265万信用ポイントで落札となります! 続いても、同じくエヴィキン人の品です! 少々『中身』が足りていませんので、こちらは70万信用ポイントからのスタートとなります――」


 アベンチュリンはナマエの口を塞いでいた手をそのまま両目にスライドした。


「ア、アベンチュリン?」
「……見ない方がいい」


 ナマエは子供と呼べる年齢だが、何も知らずにいられる平和な星では生きていない。足りていない『中身』が何なのか、アベンチュリンが自分に見せないようにした理由はすぐに察しがついた。まるで自分一人を放り捨てて白熱する入札のラッシュに、ナマエは指先からゆっくりと凍っていくようだった。


「ナマエ。頼みがある」


 アベンチュリンはナマエから手を離さずに告げた。


「僕が手を離したら、君は目を開けずに後ろを向いて立つんだ。僕たちが入ってきた扉は覚えているね。振り返らずまっすぐ外に出て、夢境から出てくれ。ホテルに着いたら、ロビーにカンパニーの制服を来た人がいる。その人たちに『ポーンショップヒスイ』の場所を聞いてくれ」


 ナマエが言い慣れない言葉を復唱した。


「ポーンショップヒスイ?」
「ああ、そうだ。ポーンショップヒスイ。そこの女主人に会えたら、僕のチケットを見せてこう伝えてくれ。『アベンチュリンが金を欲してる。代価はアベンチュリンの命』――って」


 そう言ってアベンチュリンはナマエの手にチケットを握らせた。同行者は二人まで認められている。ナマエの他にあとひとつ枠が空いているため、彼女を招待することは可能なはずだ。万が一ナマエの身に危険が及んでも、無事女主人ジェイドと合流さえできれば保護してもらえるだろう。

 仮にアベンチュリンが出せる信用ポイントの全てを最後の目玉商品に集中投下するとして、その額は計り知れない。主催にしてみれば良いカモだろう。この競売を計画した者たちにとっては、入札額などただの数字の看板でしかない。実際に落札額通りの金銭が取引されるかは、両者の間でしかわからないのだ。だから客席のどこかにいる八百長相手は、無限に金額を吊り上げられる。たとえ落札額が天文学的な数字になったとしても、実際に支払う額は事前の打ち合わせの通りなのだから。

 ならば、アベンチュリンがユイシャを落札するためには、とことんまでカモに成り下がるしかない。主催が取引相手を裏切り、アベンチュリンに売った方がより良いリターンがあると思わせる。そのためには、アベンチュリンの他にもあと一人出資者が必要だ。


「ね、ねえ。わけわかんないよ。代価って何? その間あんたはどうするの?」
「説明してる時間がない。お願いだ、今は何も聞かないでホテルに行ってくれ。――僕は、必ず君をユイシャと合わせる。約束する」


 チケットを握るナマエの手に己の手を重ね、ぎゅっと力を込める。

 これは賭けだ。彼女がジェイドを連れて戻ってくることができなければ、アベンチュリンとナマエの目的は達成できない。危険な場から一人放り出す彼女の無事を祈る手でもあり、震えを隠す手でもあった。

 アベンチュリンの切迫した雰囲気に飲まれる形で、ナマエは「わかっ、た」と答える。指先を動かし彼女が瞼を下ろしていることを確認すると、アベンチュリンはすっと手を離した。


「行って」


 同時に、ナマエは席から立って脇目もふらず走り出した。アベンチュリンの言いつけ通りにステージから目を背け、後方の出入り口に向かう。履き慣れない靴とドレスで足がもつれそうになるのを、「だから嫌だって言ったんだ」と脳内で愚痴を零す。その間も背後からの電子音と金額の嵐は鳴り止まない。

 出入り口の扉を抜け地上への階段を登ろうとしたところで、スーツを着たオムニックに止められた。


「お客様。どうされましたか?」


 ナマエの行く手を阻むように立ち塞がった彼に一瞬たじろいだ。


「ちょ、ちょっと忘れ物しちゃって……」
「それはそれは。ですが、競売中の会場の出入りは規則で禁じられております。チケットにもそう表記しているはずですよ」
「はあ!? そんなのどこにも……」


 アベンチュリンと会場に来る前、チケットに記載されている文字は全てアベンチュリンが読み上げてくれたが、そんな内容は一切書かれていなかった。かといってアベンチュリンが見落としたとも、わざと読み上げなかったとも考えにくい。混乱するナマエにオムニックは無表情で告げた。


「チケット裏面の右下に書かれていますよ。まあ、0.006ポイントの印字は人間の視力では少々読みづらかったかもしれませんが……」
「詐欺でしょそんなの!!」


 解読不可能な状態の規約など無効になって当然だが、人身売買を生業にしている者たちに何を言っても無駄だった。聞く耳を持つ必要はないとナマエは無理矢理横をすり抜けようとする。


 その腕をオムニックは掴んだ。


「お客様。席にお戻りを」


 およそ客にする態度とは思えない骨が軋みそうなほどの力を込め、オムニックがくり返す。


「お客様。席にお戻りを」
「お客様。席にお戻りをを」
「お客様。席ににににににお戻りお戻りお戻りをををををををを」


 オムニックの四肢がガタガタと震え出した。まるで糸が絡まった操り人形のように挙動がおかしくなり、はずみでナマエから手を離す。自由になったはずが、ナマエの両足は地面に杭で打ち付けられたように動かなかった。ガシャンガシャンと人間では到底ありえない方向に関節が曲がるオムニックを、ただ見ていることしかできなかった。

 その時、突然オムニックの動きが止まった。エネルギーが切れたようにぷつりと静止したオムニックに、ナマエはわけがわからないとその場から離れようと足に力を込める。

 けれど、それが叶うことはなかった。

 オムニックの顔が半分に割れた。額から鼻筋を通って顎の先まで、縦にぱっかりと開く。金色の面の右半分が地面にカツンと落ちた。


「ひっ……」


 割れた中身が露わになる。ノイズまみれの液晶に般若の表情が映し出された赤い筐体はナマエも見覚えがある。ナイトメア劇団だ。テレビに四肢が生えた姿で外を走り回っていたそれが、体中をあべこべに拉げられてオムニックの頭部に収まっている。

 彼はオムニックではない。オムニックの体の内部構造を全て抜き取り収まった、ナイトメア劇団だ。

 逃げなければ。ナマエは重い足を動かして階段を通り抜けようとするが、ドレスの裾を掴まれ会場の出入り口付近まで投げ飛ばされる。受け身も知らずに床に叩きつけられたナマエはごろごろと通路を転がり、脇腹を抑えながらよろよろと立ち上がった。アベンチュリンに渡されたチケットだけは決して手放さずに。

 そしてほとんど同時に、シアターからも悲鳴が聞こえ始めた。会場にはオムニックが多かった。もしかすると、ナマエが対峙している異変と同じことが場内でも起こっているのかもしれない。

 と、なると。アベンチュリンが危険だ。彼は武装らしきものを何ひとつ持っていなかった。もしも場内にいた全てのナイトメア劇団オムニックが暴れているのなら、彼も今すぐにここを離れた方がいい。
 ナマエは踵を返してシアターに向かった。一緒に逃げよう。そう言うために、アベンチュリンの言いつけを破った。

 しかし、ナマエがシアターに足を踏み入れる直前で無慈悲にもその扉は閉められた。扉を閉じたのは、他でもないアベンチュリン本人だった。


「アベンチュリン! オムニックがおかしい! 中身がナイトメア劇団になってる! アベンチュリンも逃げないと!」
「僕のことは気にしなくていい! それより君は先に早くホテルに向かってくれ!」


 ナマエが扉をこじ開けようと全身全霊の力で押すが、一瞬軽く隙間が開くだけでそれ以上は動かなかった。隙間から彼の高級そうな腕時計がちらりと見えたので、向こう側で彼自身が押さえているのだろう。彼は特別体格が良いわけではないが、成人男性の力にナマエが叶うわけもなかった。


「こっちにもオムニックが一人いるの! 道が塞がれてて外に出られない!」
「……っ、大丈夫だ! くらいならなんとかなる! どうにかして突破してくれ!」
「む、無茶言わないでよ……!」


 ドンドンとナマエが扉を開く合間にちらりと振り返るが、顔面の半分が外れたオムニックはじりじりとこちらに歩み寄ってきている。小柄なナマエなら隙を見て通り抜けることは可能な程度の幅はあるが、実戦経験のない一般人の子供にその隙を見極めるなんて到底無理な話だった。

 だが直感していた。何もしなければ、自分はあのオムニックに殺される。あの機械は場内にいる人間を一人残らず虐殺する気でいる。そんな殺気は腐るほど経験した。戦火の中を裸足で逃げ回った時に、嫌というほど。
 ナマエは動きにくいドレスの裾をビリビリと破いた。ナマエにとっては笑えないほど高価なものだが、命と天秤にはかけられない。

 近場にあった調度品の花瓶を手に取ると、オムニックの顔面に投げつける。有機生命体とは違い無機物で構成された体には大した傷もつけられないが、それでも飛来する物体に対しての防御本能は残っているらしい。オムニックが頭を逸らした隙に、ナマエは兎のように飛び出した。頭を低くしてなるべく捕まらないように、チケットを手放さないように、階段だけを見つめて足を動かす。

 けれど、そんなものはたった一瞬の、些細な足止めにしかならない。振り返ったオムニックは逃げたナマエを追いかけ手を伸ばす。その手のひらが割れ、顔面に埋まったそれと同じナイトメア劇団のぎらりと光る鋭利な爪が飛び出した。反射的にナマエは首だけで振り返り、自身に迫る凶刃を目前にぎゅっと固く目を瞑る。

 爪がナマエの両目を抉る直前、瞼越しでもわかるほど周囲が突然明るくなった。うっすらと目を開くと、自分を守るように金色のスートが浮かび上がっている。アベンチュリンが持っているダイスと同じ模様だ。それがナマエとオムニックの間に障壁を築き、オムニックの攻撃を防いでいる。

 だが、それは完全に威力を殺し切れるものではなかった。ナマエの足元にピキンとヒビが走る。え、と思った頃には一足遅く、ナマエを中心に床は音を立てて割れた。瓦礫と共にナマエの身体は傾き、地下シアターのさらに地下へと落ちていく。抵抗はできない。アベンチュリン、と呼ぼうとした声も出なかった。ただ重力に従って、気持ちの悪い浮遊感に身を任せる。

 やがて暗闇がナマエの全身を包み込み、姿を隠した。





「ねえナマエ。ちょっとお願いがあるんだけど」


 青空の下。施設の庭。木陰で本を膝に乗せてページを捲っていたナマエの手が止まる。ちらりと見上げると、自分と同年代の少女が立ってこちらを覗き込んでいた。着ているワンピースや靴は全てお揃いで、その上二色の瞳すらも複製品のように全く同じだが、胸につけられたタグの文字だけがそれぞれ違う。彼女はナマエが気づいたことで特徴的な瞳をにこりと細めると、何も言わず隣に腰を下ろした。


「あんまり興味ないかな」
「まだ何も言ってないでしょ〜!? そうやってわざと人と距離取るのよくないと思うな〜消極的すぎ」
「ニアが社交的すぎるんだよ。それにわたしは今本を読んでるの」
「文字が読めないのに? みんなあなたも文字を読めないことくらい知ってるんだし、それって『私はあんたらとは違うんだから近寄らないで〜』って言ってるようにしか見えないと思うけど?」


 図星を刺されたナマエはぐっと口を固く結んだ。ナマエが開いている本は絵本や図鑑などではなく、文字の羅列が九割以上を占める難解な書籍だ。文字は読めないが絵を見て楽しむ、なんて手法は絶対にできない。そんなことは隣のニアにも、他の子供たちにも明白だった。


「読めないけど、読もうとしてるの! これは学習! 一定の間隔で文字の法則性があることはわかってる。あとは単語の意味を少しでも挿絵から解読できれば、芋づる式に読めるようになるかもしれない……」
「ね〜それ楽しい? 文字が読めるようになる必要なんてあるの? ここに文字が書かれてるものなんて、ナマエが躍起になって読んでるそれくらいだよ?」


 この箱庭に他の本はない。文字を読む機会もなければ、教えられることも、必要性もない。一人一台持っているスマホに入っているのも、文字のないアイコンと子供向けの動画ばかりだ。だからここにいる同年代の子供たちは広い芝生で追いかけっこをしたり、身の丈ほどの大きなブロックを積み上げて遊んでいる。それがここでの常識だった。

 ニアは少しうんざりしたような顔で尋ねた。ナマエは自分の胸をちょいと指しながら答える。


「あるでしょ。もういっこ」


 ここにいる子供は、生まれた時に服にタグがつけられる。書かれている何かはつい最近までただの模様だと思っていたが、どうやらこれは文字であるらしい。この文字は子供たちそれぞれで似ているが少し違う形をしていて、全く同じ文字の人間は誰もいない。

 だが最後の行に書かれているマークは数人ごとに共通の子供たちがいる。ナマエの調べではそれらは四つに分類され、書き表すならば『A』『B』『O』『AB』だ。ナマエのタグには『B』が、そしてニアのタグには『O』が書かれているが、クラス分けとも違うらしいそれが何を意味するのかは誰も知らない。

 けれど、このタグに興味を持っているのはこの場所でナマエ一人だけなものだ。ここには二十数名ほどの子供がいるが、皆生まれた時につけられたタグの存在など一切気にせず毎日自由に暮らしている。輪に入らず読めもしない本を読み続けるナマエの行動は他の子供たちからすれば奇行とも呼べる行いで、今ではこうして話しかけてくる子供はニアくらいしかいなかった。


「あ〜はいはい、タグの文字を読むために文字を勉強するのね。でも今は、私の話を先に聞いて」


 あ、と言う間にニアはナマエの本を無理矢理閉じ、自身の膝上に乗せた。突然本を奪われたナマエは少々不機嫌そうだったが、友人の傍若無人さは今に始まったことではないので今回も目を瞑ることにした。


「サウスのことは知ってる?」
「サウス? あの『レベッカの子』の?」
「そう、そのサウス。彼が今大変なの。なんとかしてあげたくて」


 どこまでもお人好しなニアの提案にナマエは嫌な顔を隠そうともせずあんぐりと口を開けた。


「あいつが夜中にこっそり抜け出して遊んでたのが悪いんでしょ? ほっときなよ、そういう奴は風邪は治っても馬鹿までは治らないって」
「ち〜が〜う〜の! 私だってサウスが風邪引いたことなんてどうでもいいって! 私が言ってるのは、彼が自分のタグを門の向こう側に落としてきちゃったってこと!」


 なおのことどうでもいい、とナマエは話を突っぱねようとしたが、ニアの口からはつらつらと滝のように言葉が流れてくる。おしゃべりな彼女はこうなったら止まらなかった。


「タグを失くしたり傷つけたりしたら大人たちにとっても怒られるでしょう? サウスは今月で三回目だよ? さすがにかわいそうじゃない?」
「月に三回も怒られてるのはあいつくらいだし自業自得。本人の責任」
「一回目と二回目は他の子を庇って代わりに怒られたんだよ! でも大人たちはそんなこと知らないから、三回目の今回はきっと痛い目に遭っちゃうかも……!」


 だとしても、彼は三回目だとわかっていながら自らの意思で夜に外出してタグを落とし、本人は高熱を出したのだ。彼に責任があることは否めないとナマエは感じたが、ニアはどうやら違うらしい。


「いっそ、どんなに痛いことをされても眠り続ける薬とかないかな!? 紙で指を切っちゃった時も、寝てしまえば一瞬で塞がってるでしょう?」
「そんな薬があったら寝たまま起きない奴らだらけになるよ。生き物が眠るのは苦痛を忘れるため。ニアが指を切った後寝るのは、寝て治すんじゃなくて睡眠を鎮痛剤にしてるだけ」
「? ……? 言ってることがよくわかんない。あ〜あ、やっぱりここで一番頭がいいナマエは言うことが違うな〜! ……ナマエくらい頭がよかったら、サウスのタグも簡単に見つけてくれると思ったのに」


 ニアがむくれたように頬を膨らませる。やけに賢明な様子の彼女をふうんと観察した。


「ニア、サウスのこと好きなんでしょ」
「なっ……!」


 ぎくりと肩を揺らした彼女は面白いくらい顔を赤く染め上げた。したり顔のナマエは「ははぁなるほど」と続け様に憶測を並べる。


「どうせ一回目と二回目庇ってもらったのはニアなんでしょ。あんたら最近仲良いもんね」
「も、もう! もうもうもう! そこまでわかってるんなら協力してってば!」


 ぽかぽかとナマエの肩を叩くニアに、ナマエはやってやったと舌を出して笑った。


「仕方ないな……門の外のどこ?」


 ナマエが立ち上がってワンピースについた汚れを手で払う。するとすかさずニアも立ち上がり、汚れを落としたばかりのナマエの右手を両手で包み、ぶんぶんと上下に振った。


「ありがとう! 本当にありがとう! さすがナマエ! 『ユイシャの子』!」
「……やめてってば。たかがクラス分けの名前に何の意味があるの」
「でも大人たちはいつも言ってるよ? 『ユイシャ』はツガンニヤ-Yっていう場所の生まれで、ナマエは『ユイシャの子』だからトクベツなんだって。いいなぁ。『ユイシャの子』はナマエ一人だけだもんね」
「ニア……。……あんたとサウスは『レベッカの子』なんだし、いつも一緒にいられていいんじゃない?」
「もう! 話を蒸し返さないでってば!」





「この辺りのはずなんだけど……」


 ニアが鋼鉄の壁と床をきょろきょろと見渡す。ナマエは面倒くさがりながらも視線は床の隅々まで向けながら、ひたすら長い通路を歩いていた。

 二人が暮らす施設と庭がある広い空間は、門と柵で囲われている。施設を管理する大人の許可なしに外に出ることは許されていないが、特別な監視があるわけではないため柵を越えるのは容易い。今まで何人も柵の向こうに遊びに出ては、帰ってきて大人にこっぴどく叱られていた。

 ナマエが柵を越えるのはこれが初めてだ。今まで文字を解読することに夢中で外の世界には憧れどころか興味すら抱いていなかった。しかし一年中緑と青空に覆われた場所を抜けた先が金属の天井と床になっているとは思いもせず、新鮮な思いがナマエの胸に僅かな風を吹かせていた。


「ね、ねえナマエ。一度戻らない? 何か変だよ。大人たちがこんなにいないなんて」


 ニアが控えめに提言する。正直に言うと、ナマエは「はあ?」と言いたい気分だった。


「どうして? 最初に一緒に探して欲しいって言ったのはニアでしょ?」
「それは、そうだけど……何だか嫌な予感がする。ナマエは何も感じない? 大人たちはいつも門の向こうからやってくるのに、門の先には誰もいないなんて」


 ニアの述べたことは事実だ。ナマエやニアら子供たちが暮らす施設を管理する大人は、常にこの通路を通ってやってくる。てっきりここには大人が常にいて、彼らから身を隠して進むことになると思ったのに、いざ門を越えてみると人ひとりいない伽藍堂の空間が広がっていただけだった。おかげで探し物がしやすいが、違和感は拭えない。

 けれども、ナマエはニアのおどおどとした態度に苛立ちを感じていた。先にサウスのタグを探そうと言い始めたのは彼女の方だ。自分は無茶なお願いを聞いてやった側なのに。せっかく、門の外にほんの少し楽しみを見出していたところだったのに。彼女を責め立てる言葉が頭の中にたくさん浮かんでは消えてを繰り返した。


「ここに来てまだ全然時間経ってないのに? サウスのことはどうでもいいんだ?」
「そういうわけじゃないよ! でも……」
「もういいよ。ニアは帰りなよ。わたしは探すから」


 どうすれば良いかわからず立ち尽くすニアを残して、ナマエは引き続き通路を歩む。つかつかと足早に歩く音が長い廊下にはっきりと響いた。サウスがどこでタグを落としてきたかわからないため、道中の部屋を虱潰しにに捜索するしかない。ナマエは近くにあった自動開閉ドアに近寄り、中に足を踏み入れようとする。

 だが、その一歩目は踏み出される前にその場に下ろされた。部屋の中は三歩先も見えないほどの暗闇で、明かりがなければまともに歩くことさえ困難な状態だった。

 少し考えるナマエの肩から、やっと追いついてきたニアがひょこりと顔を出す。そしてパッと顔を明るくさせ、ある一点を指さした。


「ナマエ! あれ! サウスのタグだよ!」


 部屋の隅に蛍光緑の光がぼんやりと小さく浮かんでいた。ナマエたちのタグの端には蓄光材が取り付けられており、暗闇でうっすらと光るのだ。遠目でもあれが自分と同じタグだと一目でわかる。


「私、ここで見張ってるから! ナマエは何か明かりになりそうなもの持ってきてくれない?」
「そうやって、いつも人使いが荒いんだから……」


 笑顔で指示をされたナマエだったが、先ほどとは違いあまり嫌悪感は持たなかった。やはり彼女はこうでなくては。もしかすると、友人の表情が元に戻ったことを自分は喜んでいるのかもしれない。「はいはい仰せのままに」と部屋を離れるナマエを、「待ってるからね〜!」とニアは手を振って送り出した。

 明かりを探すといっても何から手をつけたらよいものか。懐中電灯があれば充分だが、さっきの一部屋以外煌々と照明がついているこの場所で懐中電灯を探すのはかえって難しい。そもそもあるのかも怪しいくらいだ。
 だが悩んでいても事態は進まない。とりあえずナマエは足を動かすことにした。いくつかの部屋を回ってみたがこれといって使えそうなものは見つけられなかったため、思い切って隣の区画へ移る。

 そこは今までの空気とは一変した、ずいぶんと広い部屋だった。最も目立つのは中央にそびえる円柱状の機械。その中心部分に、球状の光がふわふわと浮かんでいた。光の周囲には粒子が飛び交い、まるで吸い込まれるようなオーラが漂っている。

 こんなにも美しいものを見たのは生まれて初めてだ。ナマエはつい見惚れてしまった。だが数秒立ち尽くした後、いけないと思考をリセットする。

 自分は明かりになるものを探しにきたのだ。こんなところで時間を無駄にするわけには――


「……あんじゃん。明るいもの」


 目の前のそれに近づく。これの正体が何なのか、なぜこんな場所に保管されているのか、ナマエは全く知らない。だが懐中電灯よりも遥かに強い光を放つこれなら、ひとつの部屋の照明を担っても余りある。

 何よりも、ここまで歩いて少し疲れていた。これからあるのかもわからない懐中電灯を探して歩くのは億劫だった。

 ちょっと借りるだけだ。そう思い、ナマエはその光に手を伸ばした。

 それが後に『星核』と呼ばれるものであることは露知らず。





 走った。とにかく走った。足の裏が瓦礫の破片で切れても、炎が足の皮膚を炙っても止まらず走り続けた。自分がどこから来て、どこまで逃げればよいかわからないまま。


(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)


 数え切れないほどの後悔が後ろから手を伸ばして、ナマエの首を締め上げる。

 あんなもの、触るんじゃなかった。おとなしく懐中電灯を探すべきだった。

 自分たちが青空だと思っていたものは、スクリーンに投影された映像でしかなかった。地上は度重なる戦争で荒れ果て、僅かに残った資源を奪い合っていた。そのほんの少し残っていた財産すらも、星核は一瞬で消し飛ばした。

 戦火が家を焼き、草木を燃やし、人々や動物を塵にした。どこから湧いたのかわからない悍ましい羽音の蟲が降ってきて、残った者を全員殺した。

 逃げてくる途中、たくさんの怒号を聞いた。「ペルドのやつらめ! 火を使うなんて、どれだけ卑劣なんだ!」

 一方で、こんな叫びも聞いた。「フラティカの野郎! 火で敵味方まとめて自滅する魂胆かよ! 死ぬならお前らだけ一人で死ね!」

 事実、どちらが火を放ったかなんてわかるはずもない。だけど互いに、相手が先に火を使ったと憎み合っている。本当に一人で死ぬのは、勝手に戦争を始めた大人ではなく無辜の民だというのに。

 だけど、ナマエは自分が無辜の民なんかじゃないということを痛いほど理解していた。

 ナマエが指先で触れた瞬間、星核は暴走した。後から知ったが、星核が保管されていた施設は戦争をする両国のちょうど中間地点にあったらしい。あれには触らない。それが停戦の条件だった。

 だけど、ナマエは知らずにそれに触れてしまった。運悪く蟲が両国の主要機関を襲い、運悪く地下施設の全システムがダウンしたその瞬間、運悪く。

 その責任を両国は互いに押し付けあった。互いに自分たちはやっていないと主張しており、事実その通りなのだから当然だ。

 その結果が、この戦火だ。戦争の引き金を引いてしまった。この、自分が。

 破片や銃弾が散乱する地面を火傷だらけの足で走り続けて、とうとう体力が尽きた。瓦礫の陰に身を隠し、仰向けに寄りかかる。鈍色の空が雲なのか、それとも煙なのかも判断できなかった。大柄な男をたったひと噛みでくびり殺した蟲の羽音が遠くでブゥーンブゥーンと鳴っている。ただひとつ、ここが己の墓場になるだろうことだけはぼんやりとわかっていた。


(ニアやみんなは、ちゃんと逃げられたかな……)


 箱庭のあった地下から地上へ出るまでにニアとは逸れてしまった。他の子供たちも散り散りに逃げたため、行方はわからない。ナマエは一人孤独に、戦争を起こしてしまった大罪を抱えて死んでいくしかない。


(……それでもいいか…………)


 『ユイシャの子』は特別なんだ。『ユイシャの子』だからすごいんだ。そう大人たちが繰り返すのを真似して、周囲の子供たちに何度言われたかわからない。だけど外に出たらそんなものはちっとも特別なんかじゃなかった。行き交う銃弾と飛来する爆弾を『ユイシャの子』は防いでくれなかった。

 一体何がそんなに特別だったのか。『ユイシャ』がいるのなら聞いてみたい。ツガンニヤで生まれたことの何がそんなに特殊なことだったのか。

 瞼を下ろす。遠くでドンと衝撃音が聞こえたが、もうどうでもよかった。ここから一歩たりとも動く気力がなかった。

 今はただ、安らかな日陰で眠りたいだけ。


「――エリオの脚本には、私たちは間に合わないと書かれていた」


 コツ、とヒールの音が響く。それはナマエの目の前まで歩いてきて止まった。艶のある女の声が上から降ってくる。


「だけど、間に合わないものが星核の暴走なのか、最後の一人の命なのかは書かれていなかった。君はどう思う、サム?」


 女がそう声をかけた時、彼女の背後に一騎の鉄塊が降り立った。全身を白銀の鎧で覆った鉄騎は落ち着いた声色でこう語る。


「脚本に書かれていないことには二つの意味があります。ひとつは私たちの選択そのものが脚本に組み込まれている可能性。もうひとつは、この選択が重要ではないということ。ならば深く思考することに意味はありますか? カフカ」
「だけど、エリオの脚本にはこうも書いてあった。『私たちが到着する前に、カルベルカ・ネロのペルド・フラティカ人は全滅する』って。なのに、この子はまだ生きている」
「……脚本に矛盾が生じている、と?」


 鉄騎が問う。だがその正解は彼女にもわからない。彼女はふわりと微笑んで肩をすくめた。


「エリオの脚本は絶対よ。でも、余白はある。……君は、その余白で息をしているのかしら?」


 女は再度ナマエに目をやる。銃声や爆発音とは違った騒がしさにナマエは瞼を半分のみ開いた。一人の女性と一騎の機体を視認するが、もう驚いて飛び上がる力も残っていなかった。死ぬ前の道楽にぼそぼそと口を動かす。


「……あんたらは、どこから来たの?」
「銀河から。空の上、このカルベルカ・ネロと呼ばれる星の外には果てのない宇宙が広がっていて、君や私と同じような人間が生きている。そこから来たと言ったら、わかりやすいかしら」
「…………不思議……ここが空の上だと思ってたのに、もっと上があったんだ……」


 天井のスクリーンに映る青空を本物の空だと思い込み、生まれてからずっと地下で生活させられていた。そのことに何の疑問も持っていなかった。戦争が始まり地上に逃げ、空には上があることを知った矢先に、今度はさらに上からやってきた人間に出会うとはなんと滑稽な話だろう。


「星核を活性化させたのは君?」
「地下にあったあれを星核って呼ぶなら、そう」


 女は妖艶な微笑みを一度も崩さず、淡々と確認する。ナマエはようやくはっきりと女の顔を見た。吸い込まれそうな瞳と目が合う。


「……なるほど。ようやくエリオの脚本の意味を理解したわ。『カルベルカ・ネロのペリド・フラティカ人は全滅する』……けど、ツガンニヤ-Yのエヴィキン人の血が流れてる君はその条件に該当しない」


 ナマエの瞳を見て、女は興味深そうに述べる。


「確か、ツガンニヤ-Yからカルベルカ・ネロまでは少なくとも五回の跳躍が必要よね? そんな場所にエヴィキン人が移り住んでるなんて聞いたことがなかったけど」
「知らない。わたしが聞きたいくらい。ねえ。空の上から来たっていうなら教えてくれない? エヴィキン人であることってそんなにすごいの? ツガンニヤのエヴィキン人は今何をしているの?」
「その質問には答えられないわ。だって、答えを知ってるエヴィキン人は全員死んでるもの」


 死人に口はない。エヴィキン人の何がそんなに凄いのか。それを知っている当の本人たちはとっくにこの世を去っている。この星同様、対立する種族同士の争いによって。だから、銀河中を探したってこの質問に答えられるものはいないのだ。

 ナマエはあまり驚かなかった。自分でもやけに冷静だとまるで他人事のように思う。


「…………もういっこ、聞いてもいい?」
「何?」
「この戦争、わたしのせいだと思う?」


 ――大地は枯れ、街は壊され、人々は皆死に絶えた。何百年何千年と続いた星が、たったの数日間で全てを失った。自分が、星核に触れてしまったせいで。

 女は首を縦にも横にも振らなかった。ただ記録を読み上げるような淡白さで「ある意味では」と返す。


「君の言う通り、この戦争は君のせいで起こった。けど、彼らはずっと戦争をしたがっていた。宣戦布告の口実を常に探していたの。だからこそ、地下に封じた星核のセキュリティを全てオフにしていた。誰かが犯したほんの些細なミスを、敵国の侵攻だと言い掛かりをつけられるように」
「……でも、大人たちは大きな蟲が国の大事な施設を襲ったせいだって」
「スウォームのこと? 奴らが来たのは星核が活性化された後のことよ。十年間この星を覆っていた酸の雲が星核の活性化によって取り払われ、同時に惑星周辺を飛び回っていたスウォームが星核に引き寄せられたの」
「………………星核は、あの後どうなったの?」
「私たちが回収したわ。もうスウォームが襲ってくることもないでしょうね」
「…………そう……………………」


 もう考えるのも阿保らしかった。ナマエが目にするもの、ナマエが聞く情報の一切がでたらめのちぐはぐで、これまで詰み上げてきたものががらがらと音を立てて崩れていくようだった。


「それで、君はこれからどうしたい? 生きたい?」
「……」


 ナマエは首を横に振った。きっとニアもサウスも死んだ。放置すればいずれ壊死するだろう火傷だらけの足ではどこにも行けない。本物の空を見ながら苦しんで死ぬよりは、いっそここで終わりにしたい。


「そう。じゃあご希望通り、そうするわね」


 女はあっさりと刀を抜いた。紅色の刀身がきらりとエヴィキンの瞳を反射させる。それからしなやかな動作で、刃をナマエの首筋に当てる。


「――待ってください、カフカ」


 その行いに静止をかけたのは、今まで沈黙を貫いていた鉄騎だった。女は意外そうに刀を下ろし、鉄騎を背後を振り返る。

「君が止めるなんて珍しいわね」
「カフカ。あなたのエヴィキン人についての説明はひとつ欠けている情報があります。それを知らせずに選択を迫るのは公平とは言えません」
「……君が公平性を重視するタイプとは思わなかったけど」
「彼女は足に深い火傷を負っています。そしてこの戦火は、私とスウォームの交戦で発生したもの。ならば、彼女は私からも情報を聞き出す権利があるでしょう」


 無機質な声に感情はない。秤が物理法則に沿って傾くように、そうであって当然だと語っているだけ。
 しかし女は、鉄騎の性格をよく知っている。きっと、彼女の横に落ちている焦げたを発見したのだろう。そこに書かれている内容もしっかり読んだはずだ。とすると、この行動にも合点がいく。

 鉄騎は一歩前に出てナマエを見下ろした。


「私は以前、ピノコニーという星に任務で向かいました。そこはあらゆる娯楽に満ちた華やかな夢の地ですが、極秘裏に違法オークションが開かれることがあります。そして私は以前、このような噂を耳にしました。次のオークションでは、エヴィキン人が出品される――名前は、『ユイシャ』」
「!」
「カルベルカ・ネロとピノコニーの星間距離では時間の流れに差があるため今から跳躍しても間に合わないでしょうが、精神のみハッキングで侵入すればオークションの直前には到着できるでしょう。その上で再度問います。あなたはどうしたいですか?」


 『ユイシャ』はピノコニーと呼ばれる星のオークションに出品される。ならば今、彼女はこの星にはいないはず。

 『ユイシャ』は生きている。

 途端に、ナマエの視界に色が返り咲いた。これは自分が縋れる最後の蜘蛛の糸だ。息絶えるまでの数日間、ただひとつ手にできる希望だ。


「……行く。わたしをピノコニーに連れていって」
「……だそうよ、銀狼?」


 女は隣の鉄騎ではない誰かに視線を向けた。ナマエの位置からは見えなかった建物の陰から少女が一人、風船ガムを膨らませながら出てくる。見た目はナマエやニアと同じくらいか少し年上に見えた。彼女は女と鉄騎、さらに仰向けに倒れ込むナマエを順番に見たあと、「本気で言ってる?」とやや鬱陶しそうに返す。


「あら、できない?」
「冗談。私を誰だと思ってるの? ただ、前のピノコニーの騒動で、カンパニーの通信監視もファミリーのセキュリティシステムも強化されてる。ピノコニーの中に入ってからの安全は保証できないけど」


 新たに現れた少女はこれまでの二人よりもだいぶ感情が読みやすかった。一応、警告はしてくれている。おそらく親切心というわけではないだろうが。


「別にいい。わたし、どうせもうすぐ死ぬんでしょう? このままここで空を見上げてじっくり死ぬよりは、まあ満足できるんじゃないかな。それに……考えがないわけじゃない」
「文字通り人生最後の大博打ってこと? へえ。結構嫌いじゃないかも」


 少女は軽く笑うと、手を横に振ってホログラムのキーボードを出現させた。ポシェットから「まあこれでいっか」と片耳のイヤホンを取り出し、ピコピコと何かを入力していく。指がそれぞれ独立した意思を持っているかのような凄まじい速度のタイピングが終わると、そのままイヤホンを女に投げて寄越した。


「夢境の中までのハッキングはあなたにはリスクが高いから、座標は現実のホテルレバリーにしておいた。チェックインシステムも書き換えて一般宿泊者として登録してある。目が覚めたら自分でホテルにチェックインして、ドリームプールを使って夢境に入って。あとは好きにしたら?」
「……ありがとう」


 無表情のままナマエが述べる。彼女は何も答えなかった。ふいと目を背け、再び風船ガムを膨らませる。


「言い忘れてた。もしピンチになったら、上着の内ポケットに入ってるを使うこと」


 そのとやらが何なのか終ぞ教えてくれないまま、「じゃ」と短く告げて彼女は近場の瓦礫に座り携帯ゲーム機を取り出してしまった。タイピングと同じように激しくボタンを押す彼女は、もうナマエと言葉を交わす気はないだろう。
 女は少女から受け取ったイヤホンをナマエの左耳に近づける。ナマエは眠りにつくように、静かに目を閉じた。

 イヤホンが耳にはめ込まれ意識が途切れる直前、彼女はこう囁いた。


「いってらっしゃい――君の最終手段ラストリゾートを楽しんで」

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