所詮死ぬまでエキストラ - text
夕食後の食器を片付け勢いよく流れ出る蛇口を締めた時、新名は先ほどまで聞こえていた紙を捲る音が止んでいるのに気付いた。時事系の情報収集目的で流していたニュース番組が終わりドラマやバラエティの時間帯になってしまったからとテレビを消したのが十分ほど前。キッチンからリビングに視線を向けると、ソファに沈むように腰掛けている恩田の瞼が完全に下ろされ、ゆったりと胸が上下しているのが目に映る。彼が今日買ってきたばかりの新品の文庫本は膝の上で親指だけ挟んだ状態で伏せられていた。寝落ち自体何ら珍しいことではないし、このままでも一向に構わない。だがうっかり本が滑り落ちて角が傷ついたり、ページがよれてしまったと気づいて悲しむのは恩田だ。それで気に病むほど神経質ではないと理解しているが、恩田が悲しむような事象は何を賭しても潰さなければならない。新名は濡れた手を拭き足早にキッチンを出たが、その途端視界の端で何かが青く光ったような気がして足を止める。
発光の正体は考える間もなく判明した。リビングと玄関を繋ぐ廊下の壁にかけられたモニター付きのインターホン。その通話ボタンのランプが青く点滅している。おそらくあと一、二秒もしないうちに、あれは寝ている人間も叩き起こす勢いでけたたましく鳴り響くだろう。その瞬間、新名の優先順位は玉突きのようにすげ替えられた。足音を消しつつ駆け寄り、スピーカーが微かに震えたタイミングで通話ボタンを押す。
「……」
急ぎのあまり、新名はモニターに映る人間を一切見ていなかった。この時間なら宅配業者はないだろうし、そもそも対面で受け取る心当たりもない。ならば誰が、と改めて画面を確認した時、新名は自分の瞼が一瞬ピクリと痙攣するのを感じた。
「………………灯世が寝た。用なら小声で手短に言え」
『赤子を寝かしつけた後の親みたいなこと言わないでもらえるかしら?』
さも自分の来訪を受け入れるのが当然のような顔で、カメラの向こうのナマエはむっと眉を寄せた。普段ならば腹立たしいとも気の毒とも思わないその表情を、新名は氷のような瞳でじっと見つめる。
「……後ろの男は、お前の知り合いか?」
『! へぇ、話が早いじゃない。もちろん、あたしにあんな友人はいないわ。たぶん、駅からずっとつけてきてる』
「そうか」
マンションの玄関に佇むナマエ。その十数メートル後方、画面の端に映る木の陰に一人が身を隠している。ちらりと覗く体格から男であるのは間違いない。カメラの画質が荒いため一般人ならば簡単に見落とすだろうが、新名の目はまるで透かして見たかのようにはっきりと捉えていた。
いつもはこの近辺に近寄らない彼女がわざわざこんな時間に、突然訪問してきた時点である程度危険を伴う可能性は察していた。一瞬で張り詰める空気に動揺を滲ませることなく、新名はマイクに向かって息を吐いた。
「今から開錠する。開いたら左側の……」
「左側の階段を駆け上れ。行けるか」
突然新名の隣からのびた黒手袋が、インターホンの横の壁にトンと触れた。僅かに見開かれた新名の双眸がリビングのソファと、インターホンのマイクに顔を寄せる恩田の横顔を行き来する。彼が読みながら寝落ちしていた本はソファとテーブルの間の床に転がっていた。
『あ、あたしに貴方たちのいる階まで上れって言うの……!?』
「四階まででいい。あとは俺と有で対処する」
ほんの数秒前まで夢の中にいたとは思えないほどの恩田の眼光も知らず、スピーカーから「わ、わかったわ」とナマエのあわてたような返事が聞こえてくる。それを合図に恩田は一瞬新名と視線を合わせると、開錠ボタンを押してナマエと同時に駆け出した。
ロングスカートを片手でまとめて持ち上げながら階段を一段飛ばしで上る。ナマエがちらりと背後を確認すると、下から誰かが駆け上ってくる重い足音が響いていた。住民ならばエレベーターを使えばいい話なので、おそらくは駅からナマエを尾行していた男で間違いないだろう。着実に距離は縮まっているが、追いつかれることはないという不思議な自信はあった。ナマエの体力を考慮したうえで恩田がはっきりと「四階」と断言したのなら、きっとそれに間違いはないはずだ。
息も絶え絶えのナマエがやっと四階の廊下にたどり着くと、見知った人物が待ち構えていたことでそれは確証に変わった。
「有! あとは、どうするの……!?」
「もう終わった」
表情を変えずに返された言葉の意味を思わず聞き返す。「え?」とナマエが呟いたのとほぼ同時に、ナマエの背後からぶわりと風が巻き起こった。何か重いものが上から下に落ちたような、風を切る音。そしてその直後、「ぎゃっ」と潰れた蛙のような悲鳴が階下から聞こえた。
ナマエがおそるおそる振り返り下を覗き込むと、見知らぬフードの男を取り押さえる鉄のような瞳と目が合った。
「怪我はないか」
「寿命は縮んだわ」
幸いなことに、恩田が取り押さえた男はナマエを狙った裏稼業の人間ではなく、駅でナマエを見かけて事に及んだただの迷惑な一般人であったらしい。ナマエにとっては警察沙汰にするのもかえって面倒な事態になりかねないため、新名がきっちりと"話し合い"をすることで穏便に解決することにした。去り際の怯えた表情ではもう再犯することもないだろう、というのが恩田の見立てだ。
「――痛った! ねえ見てこれ、擦り傷できてる! やっぱりあたしが"お願い"してやればよかったわ!」
「やめておけ。お前は加減を間違える」
「滞在するホテルまで送る」と恩田が運転する車の後部座席に座ったナマエが左の手のひらを指差して言い放つ。それにルームミラー越しに目をやってすぐに視線を戻した恩田が、冷たいとも言い切れない声色で短く返した。
プライドも社会的立場も全てへし折られ、失うものが何もない人間の行動は恩田にも予測がしにくい。新名はそうならないよう上手く調節ができるが、ナマエは昔からそれが苦手だった。だからこそ、名前を捨てた今も絶えず追われる身になっている。それは本人も自覚はあるようで、痛いところをつかれたとナマエが言葉を詰まらせた。
「手加減って嫌いなのよね。どんな問題でも五対五の引き分けにできるのって稀じゃない? 穏便に済ませようとすると、いつもこっち側が割を食うんだもの。そのせいで殺されてちゃ世話がないわ」
「逆に、そのせいで火に油を注ぐ場合もある。俺や有なら対応できる範囲でも、お前は違う。あまつさえ、俺が常に駆け付けられるとも限らない」
「駆け付け……? 限らない……? 空調が悪くて聞こえないわ」
「論理が破綻しているように思えるが」
基本的に恩田と新名以外に乗る人間のいない車の車内環境整備は運転席と助手席周辺で完結している。後部座席はほぼ荷台と化しているため、エアコンの修理も後回しにされていた。そのいつも埋まっている助手席がぽっかりと空いているのを感じながら恩田が告げる。
「なら助手席に座ればよかっただろ。今日は有がいない」
「嫌よ。服に煙草の匂いがついちゃうじゃない」
「……ああ、そうだったな」
事後対応を全て新名に預けてきたため、恩田はてっきりナマエが助手席に座るのだとばかり思っていたが、彼女が選んだのは運転席の真後ろだった。エアコンの効きが悪いと知りながらも、彼女は足を組み我が物顔で着席している。その原因である灰皿に自然と意識が向いた。
ナマエは重度の煙草嫌いだ。恩田の服からほんの微かに漂ってくるだけで小言が両手の数ほど飛んでくるため護衛代行の際は事前に消臭を徹底していたが、今回は急だったせいかすっかり頭から抜け落ちていた。常日頃の喫煙で煙草の匂いが染みついている車内は、彼女にとっては鼻を覆いたくなるほどだろう。
(それにしては……大人しいな)
ナマエは必要以上の言葉を発さず、窓を流れるネオンをじっと眺めている。タクシーを呼んで帰ることもできただろうにわざわざ苦手な匂いの充満する車を選んだのは、彼女の瞳に浮かぶ疲労が理由かもしれない。
「ナマエ」
恩田が突然名前を呼ぶと、彼女ははっと驚いた様子で運転席に目を向けた。
「先ほどの話に戻るが、護衛代行中なら俺はお前の身の安全を保証できる。だが代行以外の時、必ずそうとは断言できない。今回はたまたま、運が良かっただけだ」
「…………」
「ホテル暮らしは何かと都合がいいが、従業員の質は場所によって違う。いくらセキュリティシステムが良くても、従業員がきっかけで居場所が割れる可能性は否定できない」
ナマエが異変に気づいたのが恩田と新名の住むマンションの最寄り駅で、その時ちょうどマンションに恩田と新名の両名が揃っていたのはほとんど奇跡のようなものだ。代行依頼で他県に出払っていることも多く、突発的な事態にはなかなか対応できない。だからせめて、生活圏の特定を避けるために一定期間で場所を変えるホテル暮らしを提案したのは他でもない恩田だった。しかしそれにも、目を瞑るにはやや大きい欠点が存在することを知っている。
「だから、一緒に住むか」
「……………………は、………………え?」
風船から空気が抜けるような掠れた息がナマエの肺から口までを一気に通り抜けた。まるで車ごと宇宙空間に放り出されたような、脳が理解を拒む空気がナマエと恩田の周辺に流れている。一瞬「冗談でしょ?」と言いかけたが、恩田がナマエに冗談の類を口にしたことはこれまでで一度もない。彼は本気だ。本気で、正気で、大馬鹿者だ。
その証拠に、彼の刃物のような銀色の瞳がナマエの目とルームミラー越しにしっかりとかち合った。その瞬間、ナマエはぎゅんっと音が鳴りそうな勢いで首を回し、たいして面白みもない窓の外に視線を右往左往させる。
「なっ、…………ばっ…………! い、いや、どうしてそうなるの!?」
「強いて言うなら、その方が護衛がしやすい。最新の設備と口の堅い従業員だけがいるホテルに永遠に住めるならそれに越したことはないが、その条件に合致する宿泊施設は数えるほどしかないだろう」
「だからって…………っ、……!! それって、あたしと……!」
舌がうまく回らない。いつもなら考えつく限りの長文で恩田に反論の隙も与えないところだが、ナマエの脳にはあらゆる言葉が浮かんでは消えを繰り返していた。さながら同じ範囲をループし続ける壊れた機械のように。だとすれば、顔が沸騰するようにあついのも、ある種の知恵熱のようなものかもしれない。空調の効きが悪いせいで頬を窓にぺっとりとくっつけることでしか熱を冷ませないのが恨めしい。
「もちろん、有の意見も聞く必要はあるが」
「……………………………………」
その一言を聞いた途端、ナマエの全身を駆け巡っていた謎の興奮は急激に引いていった。脱力したようにドアに寄りかかる彼女に恩田は「どうした」と全く意味を理解していない様子で問うだけで、これと言って別の意味が含まれていないことは明白だった。
そんなことは百も承知だ。彼の言葉には表も裏もない。
新名が自分をどう思っているかなど、とっくに知っている。彼は恩田と、恩田の周囲の世界に対して一定の優しさを持っているから、言葉にはしないだけで。
「もしそんなことになったらあたし、きっと殺されちゃうわね……」
「? そうならないように一緒に住むか、という話だったが」
「はいはい、そうね。そうよね。お断りよ。あたしが、貴方たちみたいな肺の汚れ切った男と一緒に生活なんてできると思って?」
「そうか。無理強いはしない。忘れてくれ」
そう言って、恩田はそれ以上この話を広げることはなかった。おそらく、彼は本当にこんな話をしたことすら忘れるのだろう。さっさと忘れろという思いと、忘れられるのかという思いがナマエの胸中でぐるぐると渦巻く。願わくば彼が忘れるよりも早く、自分がこの記憶を消せるようにと祈るばかりだった。