獣医新開
駅から徒歩5分のところにある『うさきち動物病院』。名前からは小動物専門の病院にも見えるが、大体の患畜は多くの動物病院と同じく犬猫である。
その院内では、今日はいつもよりのんびりとした時間が流れていた。
制服であるネイビーのワンピースの上に白いカーディガンを羽織った蒼は、30分ほど前に診察の終わった患畜のカルテを片付け、定位置の受付へついていた。
本来患者の場所である待合室のソファーには、同じくネイビーのスクラブに白いドクターコートを羽織った獣医の新開が座っている。雑誌をめくる新開の視線が本から離れたのを見計らって、受付で肘をつく蒼が声をかけた。
「今日は患者さん少ないですね」
「だな。まあスタッフも少ないし助かったかな」
「…それは先生がみんなを休みにしちゃったからじゃないですか」
呆れた蒼に、新開は苦笑を返す。予定が被るときには被ってしまうらしく、もともと休みだった数人に加え、できればでいいからと申し出た者みんなに休みを与えたのは他でもない新開だった。今日は新開以外の獣医師も休みの日なので、元よりそこまで人手が必要なわけではないはないのだが。
「いやあ、蒼ちゃん1人いればどうにかなるかなと思って」
「わたし、AHTでもトリマーでもないので、頭数に入れないでください」
「謙遜するなよ。蒼ちゃん一通りなんでもできるじゃないか。今日はオペもないし」
確かに新開の言う通りではある。ただ受付事務を専門とする蒼からすればあまり多大な期待はしないでほしいというのが本音だ。
「というか、名前で呼ぶのはどうなんですか。下手したらセクハラですよ」
「ダメかい?同年代の蒼ちゃんなら大丈夫かと思ったんだけど」
若い子や年上の人には本当にセクハラになっちまうと新開は言うが、蒼はそんなことはないだろうと思う。むしろそう呼ばれた日には、みんな勘違いしてしまうだろう。ここに来る飼い主さんの中にも、わざわざ彼に会うために遠くからやってくる人もいるというのは公然の事実だ。気づいていないのは当人だけである。
もしくは、わざと気づいてないふりをしているとでも言うのだろうか。ふと浮かんだ考えに、あり得なくはないなと思う。
気のないふりはしているが、蒼とて彼のことが気にならないわけではない。けれど変に期待はしたくないし、働きにくくなるのは困る。
蒼が返事に窮していると、掛け時計がお昼を知らせた。
「お、もうこんな時間。蒼ちゃん、近くにハンバーグ専門店できたの知ってる?」
「え、知らないです」
ぱちんと瞬く蒼に、新開は続ける。
「いい匂いのする分厚いハンバーグに、ナイフを入れるとジュワッと肉汁が溢れてきて…デミグラスソースも最高なんだ…」
恍惚と語る彼に一緒に行く?と聞かれれば、知らずごくりと唾を飲んでいた蒼は頷くしかない。
チーズや和風もいいなと頭をハンバーグ一色にし、さっそく準備をしようと立ち上がった。
「蒼ちゃん着替えておいで。オレ閉めとくから」
「え、そんな!」
「大丈夫だって。看板と鍵と電気だろ?任せな」
指折り数えてそう笑う新開に申し訳なく思うと同時に、準備が終わるまで待たせてしまうよりはましだろうかと考える。どちらにしても心苦しいのなら、素直にお願いするべきかもしれない。
「すみません…それじゃあお願いします」
困ったように頭を下げる蒼を、真面目だなあと微笑ましく思いつつ、新開は午前の診療終了の看板を出し、入り口のドアに鍵をかけた。パチンと電気を落とし、院内をぐるりと見渡してから、新開も2階の更衣室へ向かう。
「すみません、お待たせしました!」
準備を整えた蒼が声をかけると、新開はあれ、と首を傾げた。蒼も自然に同じ仕草になる。
「どうかしました?」
「いや、髪あげてるの珍しいなと思って」
「せっかくハンバーグ食べに行くのに、髪の毛邪魔になったらいやじゃないですか」
「ははっ、蒼ちゃん本気だな」
「当たり前です」
真面目腐った顔で頷く蒼に、新開も頷き返す。
「新開先生は相変わらずスクラブの上から服着ちゃうんですね」
「ダメか?」
「いえ、なんでもいいです」
なんでそんな恰好まで似合うんだ、と内心悪態をついた蒼の気も知らず、じゃ行こうか、と新開は手の中で裏口の鍵を鳴らした。わざわざ事務室から鍵まで持ってきてくれたのかと、蒼はまたしても申し訳ない表情になった。
「何から何まですみません…でも、閉めるのわたしたちの仕事なのに、なにするかよく知ってますよね」
「ん、ああ、たまに手伝うからな」
「え、あ、そうなんですか?」
2階の裏口の鍵を閉め、螺旋状になっている階段を下りる。相変わらず裏通りのこちら側には、人の姿はない。
前を歩きながら、先ほどの新開の言葉に、先生に手伝わせていいのか否か、いや、でも彼なら当たり前のようにやってくれそうだけど…、と考えていた蒼の足が階段を踏み外すのは、ある意味必然だった。
ぐらりと視界が揺らぎ、自分が目をつぶったのか見開いたのかさえわからなかった。
思ったのは落ちるということだけだった。
「っ、」
「蒼ッ!」
名前を呼ばれるとほぼ同時に、がくんと落下が止まった。
「は、…」
どくどくと煩い心臓に、詰めていた息を吐き出す。自分の体に回された腕が助けてくれたのだとわかったのは、数秒経った後のこと。
さっき自分の名前を呼んだ声は、いつもの新開らしからぬ鋭い声だったななどと思った矢先、ピリと首筋に刺激が走った。
「ひっ…」
蒼の白い首筋に誘われるようにかぷりと噛みついたのは、他でもなく新開だった。厚い唇に何度も柔らかく食まれる感覚にぞわりと体が震え、蒼はたまらず声を上げる。
「せ、先生…なに、してるん、ですか…」
「…こんなときに『先生』って、なんかエロいな」
「ちょ、ちょっとふざけないでください、完璧にセクハラですよ…!」
首筋にかかる吐息に真っ赤になって振り向くと、口元に手を当てて珍しく照れた顔の新開がいた。初めてみる新開の表情に、蒼は恥ずかしさも忘れてぽかんと口を開けた。
さっきの軽口は照れ隠しだったのだろうか。
「……ごめん、つい」
「〜〜〜〜っもう!お昼おごってくださいね!」
ずんずんと歩き出した蒼の後ろから、わかったから気をつけてくれよと心配げな、だがどこか楽しげな声が投げられる。
「蒼ちゃん、うさぎも交尾のときオスがメスの首噛むって知ってる?」
「知ってます!」
さっきの照れた顔はなんだったんだと、なぜか満足げな新開に蒼は頭を悩ませる。
せっかく楽しみにしていたハンバーグも、きっと味わうどころではないのだろうと、確実に元凶である男を前に諦めるしかなかった。
(おいしかったけど、やっぱり味あんまりわかんなかった…)
「なあ蒼ちゃん。首、出さないほうがいいかも」
「?」
「キスマークついてる。と言うかつけたと言うか」
「な、な、〜〜〜っ!? なんで今頃言うんですかーー!! 」
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Around and around*