0.0:Nice to meet you


今日からここが自分の居場所だと、レンガ造りの外観がこじゃれたマンションを仰ぎ見る。うん、悪くない、……はずだ。

業者が来るまでに軽く掃除だけはしてしまおう、なんて考えながら、事前に受け取っていた鍵を鍵穴に突っ込んだ。
がちゃりと重みのある音とともに開錠された扉を引けば、真新しい匂いがした。

キャリーバッグの中から雑巾にしようと持ってきたタオルを取り出し、風呂場の蛇口をひねる。
実家にいるときはなにも思わなかったけど、水道も電気もガスも湧いて出てくるわけじゃないし、当たり前だけどお金だって必要だ。生きるってたいへん。

――ピンポーン

突然鳴った呼び鈴に息を飲んだ。思った以上に大きなその音は心臓に悪い。慌てて水を止めて息を殺す。

業者にしては早い時間に、なんとなく不安になってのぞき穴から覗いてみると、そこにはくま…のような男が立っていた。
買った家具や電化製品の配送だろうか?
こんな時間を指定した記憶はないけど。

「あの…どちらさまでしょうか…?」

チェーンをかけて薄く開けたドアからは、くまサンの他にあと2人、男物の靴が見えた。

「え、えっとお、オレはその」

「………」

なにがしか言いたいのだろうが整理がつかずもごもごしている。あやしい。

「部屋、間違えたんじゃないっショ?」

しょ…?1歩前へ出てきたのは長髪の男だった。色はなんと緑だ。しかも服の袖の色が左右違う。語尾も髪も服も全てがおかしい。

「す、すまん金城、頼んだ!」

くまサンが数歩下がり、代わりに坊主頭にサングラスの男がわたしの前に立った。
三者三様、1度会ったら忘れらない強烈さだ。

「すみませんが、深空蒼さんのお宅はこちらでしょうか?」

「あ、わたし、ですけど…」

「なーんだ、やっぱり間違ってなかったじゃねェか!」

ずいと戻ってきたくまサンに、だから誰だよと小さく呟くと、母ちゃんが連絡したって言ってたんだけどなと首をひねって、彼は田所迅と名乗った。


すっかり忘れていたけれど、新天地での生活が決まり、諸々の手続きがやっと終わり残すは引っ越しだけとなった頃、母方の遠い親戚のおばさんから連絡をもらった。小さい頃会ったことがあるらしいが、それを覚えていないわたしからすれば、母の葬儀のときに初めて会ったも同然の人だった。
父も亡くなって両親がいなくなったわたしに、お悔やみの言葉といつでも頼ってほしいというような内容だったように思う。
引っ越しには息子を手伝いに行かせると言ってくれたのは、ただの社交辞令だと思っていたのだけど。

今のこの状況を見る限り、どうやら社交辞令ではなかったようだ。

「あー、その、なんだ、大変、だったな…」

視線を彷徨わせて、どんな顔をすればいいのかわからないと思いっきり顔に出ている田所サンに、ああこの人いい人なんだろうなあと自然に笑みが浮かんだ。


「けっこう広いっショ…」

キャリーバッグだけが真ん中にぽつんと置かれた部屋を見て、先ほど金城サンと共に田所サンの友人だと自己紹介を受けた緑の彼、巻島サンが呟いた。

「なにもないから余計、ですかね」

「これからどんどん増えていくさ」

サングラスを外した金城サンの声に慰められた気がしたのは、わたしがどこかで寂しいと思っているからだろうか。

男手があってよかったと思ったのは、購入した家具が到着したときだった。実家から持ってきたものは引っ越し業者が設置してくれたが、組み立て式の家具はそうもいかない。
本棚と食器棚を2手に分かれて組み立てながら、1人じゃけっこうな時間がかかっただろうなと思う。突っ張り式の本棚は、残すは立てて固定するだけだ。田所サンと金城サンの食器棚もほぼ完成している。
床から天井までのこの本棚を見上げ、本が詰め込まれたところを想像して嬉しくなった。

「…楽しそうだな」

「あ…こういう本棚、憧れてたんです」

「上の方、取れるんショ?」

最後の仕上げと、手を伸ばして天井辺りのネジを回す巻島サンが首を傾げた。わたしが本棚を支えるのに徹しているのは、背が届かないからに他ならない。

「脚立あるし…最悪なにか小物でも置きます。あー…そしたら、すぐいっぱいになるかな…」

「足りなくなって同じの買ったときは、また呼べばいいっショ」

作り方覚えたからなとどこか自慢げな巻島サンに、口数も少ないし無理やり連れてこられたのかなと申し訳なく思っていた気持ちは霧散していった。


「今日はありがとうございました」

マンション前で頭を下げる。3人のおかげで、わたしの部屋は最初の殺風景さが嘘のようだった。

「いいか蒼、なにかあったらすぐオレでも母ちゃんでも金城でも巻島でも――とりあえず誰でもいいから連絡しろよ?」

「はい」

「愚痴や弱音や…ただ話したいだけでもいいんだぞ?」

「はい」

「…ショ」

「ふふ」

知り合いのいない新天地で、頼れるのは自分だけと思っていたのに、蓋を開ければそんなことはまるでなく。
こんな身の上にも関わらず、しあわせ者かもしれないとさえ、思ってしまった。

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