月とアイラブユーについての考察
それは授業中、教師のちょっとした雑談だった。
夏目漱石は『I loue you』を『月がきれいですね』と訳したというのだ。出典もなく都市伝説に近いという説もある、とその教師はつけ加えた。
普段なら気にも留めない類いの話だが、耳に入ったその話題に荒北は納得がいかなかった。
「なんでアイラブユーが『月がきれいですね』になんだよ?わっかんねェー」
部室で制服を脱ぎ捨てながらぼやくと、隣で同じく準備をしていた新開と東堂が話に入ってきた。
「夏目漱石か?」
「風流ではないか」
「はァ?月がきれいだっつって告白されてると思う女がどこにいんだよ。男なら潔く告れっつーの」
荒北の言葉に、新開と東堂が顔を見合わせる。
時代背景や日本人、日本語のなんたるかは無視するとして。
「ヒュウ!靖友、おめさん男前だな」
「しっかり口にするのはオレも大事だと思うぞ!」
そうだろうと満足そうに頷きながら、荒北は着替えを進める。そんな彼に、東堂はにやりと笑みを浮かべた。
「で?そう言い切るからには荒北ははっきり告白するのだろうな」
は、と間の抜けた声を上げた荒北とどこまでも楽しそうな東堂に、納得顔の新開が口を開く。
「ああ…でも、深空さんはそういうのわかる人なんじゃないか?」
「なななな、なに言ってンだよ、深空がなんだッつーんだ!? 」
「なんだもなにも、」
「くっちゃべってねェでさっさと練習行くぞ!」
明らかに無理やり会話を終わらせた荒北の耳は赤く、新開と東堂はバレてないつもりだったのかと友の反応にこっそり笑い合った。
× × ×
午後9時も回った頃、荒北は箱根学園寮近くのコンビニに来ていた。その手には彼のお目当てのポテトチップス以外にも、カップ麺やみたらし団子が握られている。
「あれ、荒北くん?」
「深空」
かけられた声に振り向くと、カップの味噌汁とおにぎりを持った深空が立っていた。荒北の手元を見てすごい量だねと笑う。
荒北は、買いだめしていたカップ麺を食い尽くしていたんだったと今にも泣き出しそうな新開と、どうしてもみたらしが食べたいとうるさい東堂の顔を思い出し、ほぼオレんじゃねェけどなと苦笑した。
「あ、それは福富くんに?」
ちょうど今物色していた新商品のりんごがゴロゴロ入ったタルトは、彼女が言う通り福富へのお土産である。福富と同じクラスの彼女は、彼がりんご好きだと知っているらしい。
「まあ…。深空も買い出しか?」
「早めに晩ご飯食べたら今頃お腹空いてきちゃって」
そう口を尖らせる深空と一緒にレジに並ぶ。互いに別々のレジで会計を済ませ、当たり前のように肩を並べて歩き出した。
「…なにやってんだァ?」
ガサゴソとコンビニの袋を漁る深空に荒北が声をかける。焼き鳥の串を2本取り出した深空は、いつの間にと呆れる荒北へその1本を差し出した。
「いいのかよ?」
「うん、まだあるから」
細い串が深空から荒北へと渡る。荒北は少しだけ触れた指に高鳴った心臓を誤魔化すように、悪態をついた。
「…太るぞ」
「う、細身の荒北くんに言われたらなんか余計イタイ…」
言葉とは裏腹に焼き鳥にかぶりつく深空は、どう見ても楽しそうだ。
同じように荒北も焼き鳥へ歯を立て、甘辛いタレと肉の食感を楽しむ。うめェなと呟く荒北に、深空もかぶりを振った。
ふと空を見上げると、丸い月が淡く輝いている。
荒北はその月と深空の横顔を見て、むずがゆいようなもどかしいような感覚に陥った。
「つ、月がきれい、だな」
「ふふ、どしたの急に?」
「っせ」
突然の言葉に首をかしげた深空の顔をまともに見ることができず、荒北は下を向いた。隣で深空が空を見上げた気配がする。
「きれいだね。だけど、」
「あ…?」
「わたし、けっこう前から、月ってきれいだったと思うんだ」
顔を上げた荒北を見て、一体いつからだったんだろうね?と深空は柔らかく笑った。
寮の前でそれじゃあまた明日、と手を振る深空が「荒北くん、月がきれいですねの意味、知ってるのかな…」と頬を赤らめて呟いたのを、荒北が知る由もない。
「新開東堂、月は前からきれいだったってどういう意味だッ!? 」
「ん?前から好きだった…か?」
「いや、お前がいなくてもきれいに決まっている、かもしれんぞ?」
「結局わかんねェんじゃねーか!! 」
≪
Around and around*