4.事の発端


それは、今から3カ月ほど前の出来事――。

その日も深空はいつも通り出社し、普段通り職務をこなしていた。
仕事が一段落し、コーヒーでも飲もうと給湯室で準備をしていたところへ、1人の女子社員が飛び込んできた。

「深空先ぱぁい…!」

「ど、どうしたの?」

「あ、あたし、どうしたら…」

深空の後輩である彼女は、顔色を失くして小さく震えていた。手にしたウッドトレーの上のカップがカタカタと音を立てている。
深空はトレーを受け取ると、とにかく落ち着くようにと淹れたコーヒーを手渡した。

「どうしたの?」

彼女がコーヒーを一口飲み、震えが止まったところで深空は聞いた。

「今、ブルーデザインの方がいらっしゃってて、あたし、コーヒーのおかわりを出してきたんですけど…」

ブルーデザインというのは、正式名称を(株)ブルーデザインファクトリーという。日本で有名なデザイン会社で、そこの社長と当社の会長とは家族ぐるみの付き合いということだった。最近着物のデザインも手掛けるようになったその会社に、会長が作製を依頼したのだという。
社内で1度話題に上っただけの話を深空が覚えているのは、巻島との繋がりがブルーデザインにあったからだった。

そして今日、その着物の話で来社していることは深空も聞いていた。

「それで、カップを代えるとき、隣の会議室にその着物があるって話だったから、ちょっと気になって」

「見に、行ったの?」

「そうなんです。ちょっと見るだけのつもりだったんです!」

そう言って彼女はくしゃりと顔をゆがめた。

「きれいな帯が置いてあって、ぼんやり見てたら突然ドアがノックされて、あたしびっくりしてカップを倒しちゃって。そ、そしたら、残ってたコーヒーが跳ねて」

「え、もしかして…」

「帯にかかっちゃったんですぅ!! ちょっとだけなんですけど、絶対バレちゃいます…!どうしよう…!」

「……」

深空は困った。できればそんなこと避けて通りたいところだが、「どうしよう」ととうとう泣き出してしまった彼女を放っておくことはできなかった。
幸いにも…というべきか、ノックをした人物は場所を間違えていたらしく入ってくることはなかったという。


「ああ、なんでこんなことに…」

その会議室に向かいながら、深空は自分の足が重くなっている気がしてならなかった。「わたしがなんとかするから」といった手前対応するほかないのだが、クビという情けない考えが頭をよぎる。

会議室のドアを緩慢な動作でノックするが、返事はなかった。

「どうかしましたか?」

「っ!? 」

どうしようかと足元に視線を落としていた深空に声をかけたのは、社内で見たことのない人物だった。ブランド物の高そうなスーツを着込んだその男の左目の下には、ほくろが一つあった。

「あ、あの…?」

「申し遅れました。ブルーデザインの、」

「あ!す、すみません!あの、わたし、その」

会議室内で帯を見た、ブルーデザイン社長の息子で、デザイナーをしていると名乗ったその男は顔を顰めた。

「わたしが誤って染みを作ってしまって…本当に、申し訳ございませんっ…!! 」

「……」

何も言わない男に、深空は頭を下げ続けた。とても長く感じる沈黙を、ふうと男のため息が破った。

「大丈夫ですよ」

優しくも聞こえる声音に顔を上げると、男は微笑んで深空を見ていた。

「なかったことにしてあげます」

「あ、ありがとうございます!」

「ただし――」

今度は感謝の意味で頭を下げた深空の前で、男は笑みを嫌なものに変えていた。

「ボクとお付き合いしていただきます」

「え…」

「嫌なら弁償してくださいね。500万」

にこりと笑った男の言葉を拒否することも、普段の深空ならできただろうが、深空はその申し出を黙って受け入れた。自分でも笑ってしまうほどささやかな繋がりを、男が持っていたからだ。この男と一緒にいれば、いつか巻島へ辿りつくのではないかという細い細い願いだった。そこまでするのならこちらから連絡を取ればいい話ではないかと、誰しも笑うかもしれない。
しかしあくまでも受動的な態度をとることで、学生時代の想いを未練がましく引きずっている自分を、深空は否定したかったのだ。


数日後、勤務時間が終わった職場の前には、あの男の車が止まっていた。

「おとがめなしであんな素敵な人とつき合えるなら、あたしちゃんと謝りに行けばよかったですよぉ…」

あの男が最低な人間だと知らない後輩は、残念そうにそう口をとがらせた。好きなときに呼ばれ、まるで他人に見せびらかすためだけのブランド品のように扱われる。こちらのことなど気にかけることもしなければ、絶対に逃げないからなにをしてもいいと思っている。そんな男だと知っても同じことが言えるだろうか。
深空はそんなことおくびにも出さず、笑って「お疲れさま」と彼女に声をかけた。

2人の繋がりを知った男がコンペの妨害を命令するまで、まだもう少し、深空は耐えなければならなかった。
目の下のほくろに重ねた面影だけが、唯一の希望だった。

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