月が眩しい夜のことだった。

「ヨルウサギさん」
「何?」
「感情に色ってあると思いますか?」

 私が振り返ると、ちょうどヨルウサギさんの前に立っていた男の人が崩れ落ちていったのが見えた。男の人から一歩後ろへ離れたヨルウサギさんは笑顔で首をかしげる。

「これで完了っと。……で、質問の答えだけど、普通に答えればいいのかな?」
「ヨルウサギさんの普通というのがわからないのですが、そうですね。お好きなように答えてください」
「んー」

 ふらりとヨルウサギさんが前へと歩き出す。周りに人形のように転がっている屍の中、憎めない笑顔で歩く彼はもしかしなくても異質なのかもしれない。彼と出会ってから、何が悪で何が善なのかも忘れてしまった。

「知らないし、興味もないね」
「そう言うと思っていました」
「じゃあ、何で訊いたんだよ」
「何となくです」
「ふーん」

 ぴちゃり。水音に思わず視線を下へと向ける。まだどこか温かい血だまりを踏んだ音だった。また顔を上げると、ヨルウサギさんの大きな背中とぴくりとも動かない十を超える死体が見えた。“ヨルウサギ”なんていう可愛らしい偽名を使っている割に、殺し屋稼業を営んでいる彼の後ろ姿を見て、少しだけ乾いた笑みを零した。

 幻想的な月明かりの下で、この光景に慣れてしまったのはいつ頃からだっただろうか。太陽の光から見捨てられたこの世界の中でも、笑顔を崩さない彼にこんな甘ったるい感情を抱いたのはいつ頃だっただろうか。もうそれすらもわからない。

 今日の仕事なんて、ヨルウサギさんからしてみれば簡単なものだろう。裏切り者の排除なんて、殺し屋一の腕前を持つ彼からしてみれば、赤子の手を捻るより楽な話だろう。そんなヨルウサギさんに恐れ慄く人は少なくない。でも、彼には悪意はない。彼をこの行為に駆り立てるのは、この状況を楽しむどこまでも純粋な欲求なのだから。はたして、その色は何色だろうか。

 鼻歌でも歌いだしそうな足取りで、どんどん歩いて行くヨルウサギさん。彼を見失うわけにはいくまいと、また私も再び歩き出す。大学を卒業して、普通のOLとなるはずだった私は、何かの手違いでこんな色白美青年な殺し屋のところに派遣されてしまった。以来、彼の背中を追い続けてしまっている。その理由もやっぱり私にはわからない。

「ねぇ、アザミ」

 ふいに声をかけられて、私は一度考えを止める。ヨルウサギさんが、肩越しに振り返って私を見ていた。くるん、と大きな青い目と目が合う。

「さっきさ。感情に色はあるかのかどうかって、言ってたよね」
「はい」
「お前はあると思っているの?」

 驚いた。興味ないと言っていたのに、私にそんなことを尋ねるなんて。私は少しの間俯いて考えを巡らせると、もう一度顔を上げて肯定の意思を示す。それを見て、ヨルウサギさんは素っ気なく「そう」と呟いただけだった。

「……満月ですね」

 特に話す事のなくなった私は、何となくそう口にする。具体的な意図なんて、これっぽちもないから、本当に気まぐれな独り言だった。だから、ヨルウサギさんが「そうだね」と言ったときには驚いて、余計なことを口走ってしまった。

「本当に今日は月が綺麗ですね」

 ヨルウサギさんは何も答えない。私と同じように月を見上げていた。笑顔はなかったが、殺伐とした雰囲気ではなくてきょとんと不思議そうな表情をしていた。ヨルウサギさんは夏目漱石のことなんて知らないんだろうな。本を読む人には見えない。でも、彼が夏目漱石の本を読んでいなくて良かったと思う。この言葉に込められたもう一つの意味を知られてしまうから。

「アザミって、意外とそういうこと言うんだ。そんなキャラじゃないと思ってたけど」
「私だって、月が綺麗だと思うことぐらいありますよ」
「へぇ? ……さて、行くか。うるさい上司に小言をもらわないうちにね」

 また歩き出したヨルウサギさんに、私は大人しくついていく。彼に対するこの感情を悟られないように唇を固く結んで。

「あのさ、アザミ」
「……何でしょうか」
「アザミは、感情には色があるって言ったよね」
「言いましたね」
「じゃあ、お前の俺に対する感情って、何色なの?」

 まるで、天気の話でもしているかのようだった。不自然なほど自然に訊いてきたヨルウサギさんを見つめるも、彼はこちらを振り返らない。もしかしたら、彼は「月が綺麗ですね」という言葉に隠されたもう一つの意味を知っていたのかもしれない。私が彼に告白したのかと思われたかもしれない。だとしたら、誤解だ。いや、誤解であって誤解ではないのだ。確かに彼を想っていることは確かだ。けれど、先ほどの言葉はそういう意味を込めたわけではない。

 なんて、こんなことをぐるぐると考える私は、やっぱり動揺していたのかもしれない。そんなことを冷静に思っていると、ヨルウサギさんがとうとう振り返った。銀色の月明かりをその背中に受けた彼の表情は、逆光のためわからない。

「ねぇ、アザミ?」

 やんわりと答えの催促をする彼に、私は迷いながらも口を開く。この答えに、彼はどんな顔をするのだろうか。上司と部下という関係である私たちは、何か変わってしまうのだろうか。

「きっと、兎色だと思います。それも、夜に生きている兎の色です」

 そう呟いても、やっぱりヨルウサギさんの表情はわからなかった。
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