数年前まで、私はアルジュノンに住んでいた。神羅支社のあるその街はいつも物々しくて、無機質で、でもわずかに海のにおいがする。路地裏にひっそりとある酒場が、私の職場であり、家だった。神羅の兵器開発部門で働く父と、小さな酒場を切り盛りする母。私は自然と母を手伝うようになり、"看板娘"なんて呼ばれることもあった。飲みに来る人は神羅の社員さんばかりで、そのほとんどは常連。いつも会う人にお酒や食事を出しながら、たまに交わす会話は楽しかった。

そのとき、私は生涯で一度も忘れられない人と出会った。おとぎ話やフィクションの世界でしか聞いたことのないような、衝撃。一目見てから目が離せなくて、でも恥ずかしくて逸らしたいのに、体がいうことをきかない。燃えるような赤毛と、はだけたスーツ、大きな顔のパーツたちはお手本のように整って配置され、気だるそうなのに鋭い雰囲気。酒場に入ってきた彼以外が見えなくなってしまって、「いらっしゃいませ」という一言も絞り出せないくらい、立っているだけで精いっぱいだった。

その人はレノといった。初対面から気さくに話かけてくれた彼は、総務部という真面目な部署で真面目に働いているらしい。いつもはミッドガルの本社にいて、たまたま長期出張でジュノンにきているのだとか。真面目な総務部さんにしては派手だな、なんて正直な言葉が口をつくと、レノはケラケラ笑った。ギラリと尖った犬歯が見えて、ふいと視線を逸らしてしまう。レノは、これ以降常連とも呼べるほどよく店に来てくれるようになった。

ほどなくして、レノと私は"そういう"関係になった。店を閉める時間になり、お客さんはレノ一人のとき。母はいつも私に店じまいを任せて二階の我が家に帰っていて、私とレノの二人きり。最低限の照明しか点けていない薄暗い店内で。退店を渋るレノの背を押して出口まで導こうとしたのに、あっという間にその手は絡め取られて、腰を引き寄せられて、鼻先が付くほどの近さで見つめられて。恥ずかしさでギュッと目を瞑る私の唇を、彼は食むように奪ったのだ。


「オレも好きだぞ、と。」


レノはニヤリと目を細めて笑う。私、貴方を好きだなんて、一度も言ったことないのに。その自信は一体どこから来るの?けれど事実だから何も言い返せず、ただそのアルコールくさい唇に自分のそれを寄せた。ぐっと腰を抱く手の力が強くなり、私は流れのまま太い首に腕を回した。それが始まりであり、私の終わり。

それから、毎晩閉店後の店はレノとの逢引の場になった。カウンターで、テーブル席のソファで、壁に押しつけられて立ったまま……。何度も何度も体を重ねて、愛を囁き合って、お互いのすべてを教え合った。あのときの私はきっとこの世で一番幸せ者だった。

二か月ほど経って、レノは出張が終わりミッドガルへ帰ることになった。それを私に告げたときの彼はいつものようにニヒルに笑っていたけれど、どこか寂しそうに眉を少しだけ下げていたのを覚えている。私たちは互いの電話番号も、メールアドレスも知らない。知っているのは体のすべてと、名前、そして、愛し愛されているという証明の無い気持ちだけ。遠距離恋愛なんて器用なこともできず、そのまま私たちの関係は終わった。

その日のキスはいつもよりも優しく、でも貪るように舌を絡めて、そのままひとつになってしまえばと思うほどに情熱的だった。お互いの歯が唇に当たるのも気にならないくらい私達は夢中で。これが最後、レノとの最後のキスだ。そう思ったら、涙も愛も止めることなどできなかったのだ。





*





夢のようだったあの日々から数年後の今、私はミッドガルのプレート上に住んでいる。理由はごく単純で、婚約をしたのだ。ジュノン支社にいた神羅社員の男と知り合い、なんとなく恋人になり、「優しいから」という理由でプロポーズに応じ、彼の異動と共に本社近くの社宅で同棲を始めた。穏やかで真面目、神羅と言う大手企業勤めの彼は誰がどう見ても"優良物件"で、誠実に愛してくれる彼を私も愛している。このままゆくゆくは子供をもうけて、幸せな家庭を築いて、子供が巣立った頃に二人で田舎に一軒家を建ててのんびり老後を暮らすのかな、なんて未来設計を立ててみたりして。なんの障害も、不安もない、平坦な幸せのルートだ。

その日は、婚約者の彼が飲み会で深夜まで帰ってこない予定の日だった。「たまには君も羽を伸ばして、外食でもしておいでよ」という彼からのメッセージに甘えて、私は一人でカフェバーに来た。大通りの繁華街から一本奥まった隠れ家的なそこは、よく彼とデートで来ているお店。「今日はひとりなんです」と言えば、マスターは気を遣って店内から死角になる隅の席を用意してくれた。料理とお酒を楽しむのは誰かと一緒だと楽しいけれど、一人でも落ち着けていいな。そう思いながら、彼に送る用の写真を撮っていたとき。私の席を通り過ぎようとした人が、すぐ横で立ち止まった。不思議に思って横を見たその瞬間、私は、周りの音が一切聞こえなくなった。

燃えるような赤毛と、はだけたスーツ、大きな顔のパーツたちはお手本のように整って配置され、気だるそうなのに鋭い雰囲気。あの時より少しだけ顔つきが落ち着いたけれど、ざらざらとした低い声は変わっていない。レノが、驚いた顔をして立っていた。


「なんで、ここに……。」
「……そりゃ、こっちが聞きたいぞ、と。」


なんで、も何もない。普段は本社勤務だと聞いていたレノもミッドガルのどこかに住んでいるのだと、本当はいつもいつも気にしていた。本社ビルに近づくことがあれば、思わず赤い頭を探してしまっていた。でも私はもう婚約してしまっているし、レノにも新しい相手がいるかもしれない、だから頑張って心の隅に押しやっていたのに。

二人掛けのソファに座っていた私を奥へ押し込んで、横に座り込んできた。私を見つめるアクアマリンの宝石のような瞳が、暖色の間接照明と反射してキラキラ揺れる。私のテーブルに置かれた左手にレノの大きな右手が重なって、カツン、と小さく音がした。私とレノの薬指に嵌った指輪。やっぱり、レノにも新しい相手がいるのだ。あの時のように、なんの心配もせずに求めることなど、もうできなくなってしまったのだ。


「恋人?」
「ああ。……お前も?」
「……婚約者。」
「そ、か。」


それ以上何も言わず、俯いて重なった手を見た。レノの指輪は真新しいシルバーで輝いていて、ああ、買って間もないんだな、とぼんやり思う。そこに嵌るものが、もし私のとお揃いだったら……。叶いもしない願望がふわっと浮かんで、ぶつりと消えた。

掠れた低い声で名前を呼ばれる。手に向けていた視線を上げると、熱に浮かされたように切ない顔をしたレノが私を見つめていた。そのまま吸い込まれるように互いの顔が近づいて、一瞬唇が重なった。触れるだけのそれはすぐに離れて、額を合わせて見つめ合う。壊れてしまうのではと思うほどに心臓が音を立てて、「は、」と息を荒げるレノが扇情的で耐えられない。ぐい、と乱暴に首の後ろを引き寄せられて、また唇が合わさった。下唇を甘噛みして、上顎をなぞって、舌をずりずりとこすり合わせて。私の甘いカクテルとレノの苦みのあるお酒の、香りと味が混ざり合う。アルコールの酔いと息苦しさで眩暈がするけれど、止めることなどできなかった。

唇を貪りあいながら、重なったレノの手がするりと離れて、親指と中指で私の指輪を挟む。そのままゆっくりと指先に滑らせて、シルバーのそれを抜いてしまった。ちゅ、と音を立てて顔を離して手元をみようと俯こうとすれば、首裏を掴んでいた手が顎をすくって強制的に目を合わせられる。細められた目は不機嫌で、嫉妬の炎が燃えていた。


「今だけは、オレに集中しろよ。」


視線を合わせたまま再び重なる唇はやけどしそうなほどに熱い。私も同じようにレノの右手から指輪を引き抜いて、テーブルに抛った。むき出しの首に腕を回して抱き着く。レノは、キスをしながら満足げに唇を弧にした。腰を引き寄せられて、互いの上半身はぴったりと隙間なく重なる。抱きしめ合ったときのフィット感も、体の熱も、キスの仕方も、あのときと全然変わらない。変わったのは、お互いの人間関係だけだ。

ブーッとテーブルに置いたスマホのバイブが音を立てる。ロック画面に現れたメッセージは婚約者からのもので、「今から帰るよ。君はもう家?」という優しい束縛の言葉。帰らなきゃ。こんなこと、あってはいけない。そう思うのに、体がいうことを聞かなかった。


「っは、ぁ……なぁ、このまま駆け落ちするか。」
「ん、ぅ…っダメ、だよ。」
「……だよな。じょーだん。」


じょーだん、なんてからかうように言うけれど、その前の言葉は切羽詰まった声だったし、本気の顔をしていたよ。ねぇレノ、もし私が頷いたら、貴方は本当に連れ出してくれたの?だってレノには大切な恋人と仕事があって、私には愛する婚約者がいて。一時の衝動でかなぐり捨てて良いものではない。でも、本当に、もし、そんなことができてしまったら?思いを馳せずにはいられない。だって、一緒にいたいの。離れたくない、このままでいたい、愛してる、レノ、レノ。


「やっぱ、あのとき攫ってきちまえばよかった。」


もうおそいよ。馬鹿な私たち、かえらなきゃ。