空振りの独占欲
私達の乗った車は着実に彼の家へ向かっていた。車内は水を打ったように静か。エンジンと、時折ウィンカーのカチカチという音だけが響く。眉間に皺を寄せた副社長は隣でただじっと、外の対向車や流れる建物たちを睨んでいた。髪が緩いウェーブを描いて掻き上げるようにセットされているおかげで、異常に不機嫌な彼の表情がよりはっきりと確認できてしまう。
パーティーは、副社長にとっては最悪なものだっただろう。彼に声を掛けるお偉いさん方はこぞって偉大な彼の御父様を褒めちぎり、「いずれはルーファウス殿もプレジデント殿のように……」などと地雷を踏み抜く。社長に対する彼の思いを知りようもない彼らにもちろん悪気はないのだろうが、彼が良い気分でなくなることは確かだ。私は、何度となく副社長の背に触れて「堪えて」と念じることしかできなかった。会話を中断させてトップの親子関係の蟠りを示唆させては、神羅カンパニーの弱点としてどこから攻撃を受けるか分かったものではない。あの時の彼をフォローする方法は、あれしか思いつかなかったのだ。
最悪なのは、私も同じだった。お偉いさん方と同じくらい、いやそれよりも多く彼に声を掛けてきていた多数の美しい女性たち。社長令嬢、女優、モデル……煌びやかな召し物を身にまとった彼女たちは、副社長が一人である一瞬を狙ってアプローチを仕掛けてきた。秘書としてすぐ後ろに立つ私など一瞥もくれることなく、彼に媚び諂い、夜のお誘いを匂わせ、いかに自分が神羅の副社長の恋人に相応しいかをアピールした。
彼女達が彼に求めていることはネームバリューか、彼の容姿か、金か、どうせそのどれかであろうことはすぐに推測できた。そしてそれが、私は腹立たしくて仕方なかった。彼は外面よりもずっと、ずっとずっと大きな魅力をたくさん持った人だというのに。そんな彼の内側の魅力に気付かない、知ろうともしないなんて。
「副社長、到着しました。」
「……ご苦労。」
車は副社長の部屋がある大きなマンションの裏エントランスへ滑り込んだ。レノに扉を開けられて、副社長に促されるまま車を降りる。背を大きな手で押されて向かう先は、高層階にある彼の部屋へ直通するエレベーター。さすが神羅の副社長ともなれば、マンションに彼専用のエントランスとエレベーターが用意されている。背後でツォンさんの運転する黒塗りの車が遠ざかる音が聞こえる。完全にエンジン音が聞こえなくなってあたりが静まったころ、エレベーターが軽い音を立てて開いた。
エレベーターに乗り込んでからも私たちは無言だった。ぴりぴりとした空気が密室に充満して、緊張してじんわりと嫌な汗をかく。副社長は今どんな表情をしているのだろうか? 気になった私はちらりと斜め上にある横顔を盗み見る。ひんやりとしたアイスブルーの半円が私を見据えていて、ひゅっと息が詰まった。肩甲骨の間にあった掌がフェザータッチで腰に下り、ぞわぞわとしたくすぐったさに身を捩る。その手で力強く引き寄せられて私の右半身が彼の左に密着すると、恥ずかしさと緊張と少しの恐怖で、体が硬直した。俯いて、エレベーターが目的階へ到着する音を聞いた。
副社長の私室へ入るのは二度目だ。家主の帰宅とともに照明が点き、室内をぐるりと見渡すことができるようになる。大きな窓に囲まれた広い空間はミッドガルを一望でき、モノトーンのシンプルなデザインの家具たちと落ち着いた風合いの壁と床。壁の一面に取り付けられた天井まで届く大きな本棚にはたくさんの本とノートが並べられ、表立って見せない勤勉さを窺わせた。
彼は依然として無言だった。パーティーで不快な思いをされたことは分かる。しかし、私を部屋に連れてきた理由と結びつかない。もしかして、テラスでキスを拒んでしまったことに怒っているのだろうか? だってあの時は私も正気ではなかった。酒に酔っている訳でもないのに、ただの秘書でしかないのに、彼に触れられて嬉しいと思ってしまった。夜景が綺麗な二人きりのテラスで、ネイビーのスリーピースを着こなしばっちりキメた格好良い副社長が、私の頬を包んで、迫ってくる。逃げだしたいくらい恥ずかしいのに、体が硬直して動かなかった。きっと彼を狙ったあの女性が突入してこなければ、流されるまま唇を受け入れていただろう。……好きに、なってしまっていた、だろう。
3人掛けの黒い本革ソファは部屋の中央にある。腰を抱く大きな手に促されるままそこに並んで座ると、副社長は突然私の顎を掬って唇を奪った。
「なまえ」
「はい、……んっ」
驚いて目を見開くと、近すぎてピントの合わないぼやけたアイスブルーがこちらを見詰めている。アルコールの入っていない私の頭では到底処理しきれないほどの衝撃、熱さ。合わせるだけだったそれは啄むように吸い付かれ、下唇を優しく食まれ、角度を変えて私を求める。
唇を合わせながら、腰を強く抱いた大きな手は首元に移動し、ファスナーをゆっくりと下ろした。胸元から腹部にかけて徐々に解放感と空気の冷たさを感じる。あらわになった背中に副社長の手が直に触れて押し倒されたとき、私は突如言いようの無い恐怖に襲われた。
「、待って…っ副社長!」
「なまえ、お前は俺のものだ。」
「んっ、いや、怖い…っ!」
恐怖の正体はきっと俗に言う「トラウマ」だろう。任務に失敗して薄暗い地下室に閉じ込められ、手足を鎖で拘束されたときの絶望感。いくら拒み叫ぼうと、お構いなしに自分の体に這うぬるぬるした舌とかさついた手の感触。準備のできていない秘部に無理やり突っ込まれ、一方的に蹂躙され、体液まみれにされた痛みと気持ち悪さ。
胸板を押してもびくともせず、顔を逸らして逃げても追いかけられる。一度起き上がって乱暴にジャケットを脱ぎ、シャツとベスト姿になった彼が再び体を倒して密着する。彼のテリトリーで、絶対に逃げられなくなって、私の声を聞いてもらえない。瞳孔が開いた副社長が私を見下ろし、強引に唇を割り開いて口内に舌をねじ込む。あの時の男達ではない、相手は副社長だ。そう頭では理解していても、ガクガクと震える体とこみ上げる涙が抑えられなかった。
「ふ、んむ…副、社長…たすけて…」
「…っ」
ごめんなさい、ごめんなさい…。キスの合間に譫言のように呟いて、ぱたぱたとソファに落ちる自分の涙の音を聞く。もはや何に対して謝っているかも分からなかった。私の慕ってきた副社長がとにかく怖くて、もとに戻りたくて。ぐちゃぐちゃの頭で、とにかく謝罪をと思いつくままに口から出ていた。
「………すまない。」
ぴたりと止まる副社長の唇と手。驚いたように目を見開いた後、みるみるうちに眉を下げて、そっと離れた。ドレスの胸元を押さえて私も起き上がると、彼は私から拳一つぶん離れて座りなおした。自分の腿に片肘をついて頭を抱える彼の表情は見えない。「シャワーを浴びて、すぐ隣の客室を使って構わない。」という彼の小さな声を聞き、私はその言葉に甘えてソファを立った。震える体は、シャワーを浴びてもなお収まることは無かった。
*
彼女が目を真っ赤に腫らして何度も謝りだしたとき、俺は「やってしまった」と思った。彼女の任務失敗の過去を知っている以上、当然そのような行為はトラウマになっているだろうことは推測できたはずだ。彼女への支配欲で膨れ上がった熱情は突如冷や水を浴びたように醒めきって、自責と後悔で彼女の顔を見ることができなくなった。
遠くでなまえが客間に入る音が聞こえてから、俺はバスルームに入って頭から熱い湯を思いきり浴びる。怖がらせてしまった。彼女は今回を機に秘書を辞めるかもしれない。不安で動揺するのはずいぶんと久しぶりだった。キュッと音を立てて湯を止め、ぼんやりと床を見る。ぼたぼたと髪や体から落ちる大きな水滴が、なまえのソファに落ちた涙を思い起こさせ、ぐしゃぐしゃと濡れた髪を乱して舌打ちした。
バスルームを出て寝室に入る際にふとリビングを見ると、ソファのすぐ近くに脱ぎ捨てたはずのジャケットが綺麗に畳んでソファに置かれていることに気付いた。ソファにあったはずの涙の水たまりも消えている。俺がシャワーを浴びている間、彼女は客間を出てこれらを行なったのだろうか。あれほどの仕打ちをしたにも関わらず俺を気遣う彼女に、後悔がより大きくなって俺を襲った。
寝室に入ってすぐ、ベッドに向かう足を止めた。控えめなドアノックの音と共になまえが顔を覗かせたからだ。顔だけドアの向こうから出した彼女は化粧を落としており、普段よりも幼く感じた。腫れた目元は先ほどよりは治まっているものの、まだ少し赤い。
「どうした?」
「私、副社長にきちんと謝らなきゃと…思って…。」
「………は?」
自分でも驚くほど素っ頓狂な声が漏れてしまう。私がテラスでのキスを拒んだからか、化粧室前で声を掛けられてしまったことか、パーティー出席中に私が何か粗相をしてしまったのか……。彼女は、自身の思いつく限りに俺が怒った理由をぼそぼそと呟く。どれもこれも彼女の落ち度ではないし、彼女は怒られる理由はひとつもない。未熟な俺の、一方的な独占欲でしかないのだ。
「お前は何も悪くない……謝るべきは、俺のほうだ。」
「ど、どうして…?」
「一方的な思いで連れ帰り、無理に触れてしまった。怖がらせて、悪かった。」
ベッドに座り込み、なまえに向かってゆるりと手を伸ばす。この手を跳ね飛ばして思いきり叱りつけてほしい。しかし同時に、手を取って許してほしいとも思った。余りの自分の身勝手さに嫌気がさす。
なまえは、戸惑いできょろりと視線を左右させた後、ゆっくりと扉の向こうから室内に歩を進めた。すた、すた、と床を滑るスリッパの音が徐々に近づいて、腕がゆるりと持ち上がる。そっと俺の手に重なった彼女の細い指はひんやりとしていて、俺の手から熱を奪っていった。
「なまえ」
「副社長…、仲直り、していただけますか?」
「……、お前は、優しすぎるな。」
強引にならないようそっと手を引いて、より近くへ来るように促す。なまえはその手を拒むこともなく素直にこちらへ来て、俺の隣へ腰かけた。頬を両手で包み、目尻を親指で撫でる。びくりと大げさに体を震わせたが彼女は逃げず、じっと俺の手を受け入れた。彼女の素直すぎる反応が、泣かせてしまったという事実が俺の罪悪感を増幅させて、やりきれない。もう一度謝罪の言葉を述べて、俺はそっと抱きしめた。腕の中にすっぽりと収まる彼女は脆く、こんな小さな体で俺を支えていたのかと、はっとする。
「絶対にこれ以上の手は出さないと誓う。だから、今日はこのまま…」
情けないほどに掠れた、囁くような声だった。しかし、しっかりと俺の声を拾ったなまえは何も言わず、おそるおそる俺の背に手を回した。その手が俺の着るローブを強く握りしめる。ローブを握るくしゃっという音と、俺の肩口に顔を擦りつける布ずれの音。抱きしめる力を強くして、そのままシーツに潜り込んだ。
彼女の髪からは俺と同じ匂いがする。彼女が身にまとうものは俺のそれと同じ感触だ。このベッドで他人の体温を感じるのは初めてだ、と思いながら、目を閉じた。本来ならば後悔と反省に苛まれるべきはずなのに、近くに彼女がまだ居てくれることへの安心感がより強く俺の胸に残った。
パーティーは、副社長にとっては最悪なものだっただろう。彼に声を掛けるお偉いさん方はこぞって偉大な彼の御父様を褒めちぎり、「いずれはルーファウス殿もプレジデント殿のように……」などと地雷を踏み抜く。社長に対する彼の思いを知りようもない彼らにもちろん悪気はないのだろうが、彼が良い気分でなくなることは確かだ。私は、何度となく副社長の背に触れて「堪えて」と念じることしかできなかった。会話を中断させてトップの親子関係の蟠りを示唆させては、神羅カンパニーの弱点としてどこから攻撃を受けるか分かったものではない。あの時の彼をフォローする方法は、あれしか思いつかなかったのだ。
最悪なのは、私も同じだった。お偉いさん方と同じくらい、いやそれよりも多く彼に声を掛けてきていた多数の美しい女性たち。社長令嬢、女優、モデル……煌びやかな召し物を身にまとった彼女たちは、副社長が一人である一瞬を狙ってアプローチを仕掛けてきた。秘書としてすぐ後ろに立つ私など一瞥もくれることなく、彼に媚び諂い、夜のお誘いを匂わせ、いかに自分が神羅の副社長の恋人に相応しいかをアピールした。
彼女達が彼に求めていることはネームバリューか、彼の容姿か、金か、どうせそのどれかであろうことはすぐに推測できた。そしてそれが、私は腹立たしくて仕方なかった。彼は外面よりもずっと、ずっとずっと大きな魅力をたくさん持った人だというのに。そんな彼の内側の魅力に気付かない、知ろうともしないなんて。
「副社長、到着しました。」
「……ご苦労。」
車は副社長の部屋がある大きなマンションの裏エントランスへ滑り込んだ。レノに扉を開けられて、副社長に促されるまま車を降りる。背を大きな手で押されて向かう先は、高層階にある彼の部屋へ直通するエレベーター。さすが神羅の副社長ともなれば、マンションに彼専用のエントランスとエレベーターが用意されている。背後でツォンさんの運転する黒塗りの車が遠ざかる音が聞こえる。完全にエンジン音が聞こえなくなってあたりが静まったころ、エレベーターが軽い音を立てて開いた。
エレベーターに乗り込んでからも私たちは無言だった。ぴりぴりとした空気が密室に充満して、緊張してじんわりと嫌な汗をかく。副社長は今どんな表情をしているのだろうか? 気になった私はちらりと斜め上にある横顔を盗み見る。ひんやりとしたアイスブルーの半円が私を見据えていて、ひゅっと息が詰まった。肩甲骨の間にあった掌がフェザータッチで腰に下り、ぞわぞわとしたくすぐったさに身を捩る。その手で力強く引き寄せられて私の右半身が彼の左に密着すると、恥ずかしさと緊張と少しの恐怖で、体が硬直した。俯いて、エレベーターが目的階へ到着する音を聞いた。
副社長の私室へ入るのは二度目だ。家主の帰宅とともに照明が点き、室内をぐるりと見渡すことができるようになる。大きな窓に囲まれた広い空間はミッドガルを一望でき、モノトーンのシンプルなデザインの家具たちと落ち着いた風合いの壁と床。壁の一面に取り付けられた天井まで届く大きな本棚にはたくさんの本とノートが並べられ、表立って見せない勤勉さを窺わせた。
彼は依然として無言だった。パーティーで不快な思いをされたことは分かる。しかし、私を部屋に連れてきた理由と結びつかない。もしかして、テラスでキスを拒んでしまったことに怒っているのだろうか? だってあの時は私も正気ではなかった。酒に酔っている訳でもないのに、ただの秘書でしかないのに、彼に触れられて嬉しいと思ってしまった。夜景が綺麗な二人きりのテラスで、ネイビーのスリーピースを着こなしばっちりキメた格好良い副社長が、私の頬を包んで、迫ってくる。逃げだしたいくらい恥ずかしいのに、体が硬直して動かなかった。きっと彼を狙ったあの女性が突入してこなければ、流されるまま唇を受け入れていただろう。……好きに、なってしまっていた、だろう。
3人掛けの黒い本革ソファは部屋の中央にある。腰を抱く大きな手に促されるままそこに並んで座ると、副社長は突然私の顎を掬って唇を奪った。
「なまえ」
「はい、……んっ」
驚いて目を見開くと、近すぎてピントの合わないぼやけたアイスブルーがこちらを見詰めている。アルコールの入っていない私の頭では到底処理しきれないほどの衝撃、熱さ。合わせるだけだったそれは啄むように吸い付かれ、下唇を優しく食まれ、角度を変えて私を求める。
唇を合わせながら、腰を強く抱いた大きな手は首元に移動し、ファスナーをゆっくりと下ろした。胸元から腹部にかけて徐々に解放感と空気の冷たさを感じる。あらわになった背中に副社長の手が直に触れて押し倒されたとき、私は突如言いようの無い恐怖に襲われた。
「、待って…っ副社長!」
「なまえ、お前は俺のものだ。」
「んっ、いや、怖い…っ!」
恐怖の正体はきっと俗に言う「トラウマ」だろう。任務に失敗して薄暗い地下室に閉じ込められ、手足を鎖で拘束されたときの絶望感。いくら拒み叫ぼうと、お構いなしに自分の体に這うぬるぬるした舌とかさついた手の感触。準備のできていない秘部に無理やり突っ込まれ、一方的に蹂躙され、体液まみれにされた痛みと気持ち悪さ。
胸板を押してもびくともせず、顔を逸らして逃げても追いかけられる。一度起き上がって乱暴にジャケットを脱ぎ、シャツとベスト姿になった彼が再び体を倒して密着する。彼のテリトリーで、絶対に逃げられなくなって、私の声を聞いてもらえない。瞳孔が開いた副社長が私を見下ろし、強引に唇を割り開いて口内に舌をねじ込む。あの時の男達ではない、相手は副社長だ。そう頭では理解していても、ガクガクと震える体とこみ上げる涙が抑えられなかった。
「ふ、んむ…副、社長…たすけて…」
「…っ」
ごめんなさい、ごめんなさい…。キスの合間に譫言のように呟いて、ぱたぱたとソファに落ちる自分の涙の音を聞く。もはや何に対して謝っているかも分からなかった。私の慕ってきた副社長がとにかく怖くて、もとに戻りたくて。ぐちゃぐちゃの頭で、とにかく謝罪をと思いつくままに口から出ていた。
「………すまない。」
ぴたりと止まる副社長の唇と手。驚いたように目を見開いた後、みるみるうちに眉を下げて、そっと離れた。ドレスの胸元を押さえて私も起き上がると、彼は私から拳一つぶん離れて座りなおした。自分の腿に片肘をついて頭を抱える彼の表情は見えない。「シャワーを浴びて、すぐ隣の客室を使って構わない。」という彼の小さな声を聞き、私はその言葉に甘えてソファを立った。震える体は、シャワーを浴びてもなお収まることは無かった。
*
彼女が目を真っ赤に腫らして何度も謝りだしたとき、俺は「やってしまった」と思った。彼女の任務失敗の過去を知っている以上、当然そのような行為はトラウマになっているだろうことは推測できたはずだ。彼女への支配欲で膨れ上がった熱情は突如冷や水を浴びたように醒めきって、自責と後悔で彼女の顔を見ることができなくなった。
遠くでなまえが客間に入る音が聞こえてから、俺はバスルームに入って頭から熱い湯を思いきり浴びる。怖がらせてしまった。彼女は今回を機に秘書を辞めるかもしれない。不安で動揺するのはずいぶんと久しぶりだった。キュッと音を立てて湯を止め、ぼんやりと床を見る。ぼたぼたと髪や体から落ちる大きな水滴が、なまえのソファに落ちた涙を思い起こさせ、ぐしゃぐしゃと濡れた髪を乱して舌打ちした。
バスルームを出て寝室に入る際にふとリビングを見ると、ソファのすぐ近くに脱ぎ捨てたはずのジャケットが綺麗に畳んでソファに置かれていることに気付いた。ソファにあったはずの涙の水たまりも消えている。俺がシャワーを浴びている間、彼女は客間を出てこれらを行なったのだろうか。あれほどの仕打ちをしたにも関わらず俺を気遣う彼女に、後悔がより大きくなって俺を襲った。
寝室に入ってすぐ、ベッドに向かう足を止めた。控えめなドアノックの音と共になまえが顔を覗かせたからだ。顔だけドアの向こうから出した彼女は化粧を落としており、普段よりも幼く感じた。腫れた目元は先ほどよりは治まっているものの、まだ少し赤い。
「どうした?」
「私、副社長にきちんと謝らなきゃと…思って…。」
「………は?」
自分でも驚くほど素っ頓狂な声が漏れてしまう。私がテラスでのキスを拒んだからか、化粧室前で声を掛けられてしまったことか、パーティー出席中に私が何か粗相をしてしまったのか……。彼女は、自身の思いつく限りに俺が怒った理由をぼそぼそと呟く。どれもこれも彼女の落ち度ではないし、彼女は怒られる理由はひとつもない。未熟な俺の、一方的な独占欲でしかないのだ。
「お前は何も悪くない……謝るべきは、俺のほうだ。」
「ど、どうして…?」
「一方的な思いで連れ帰り、無理に触れてしまった。怖がらせて、悪かった。」
ベッドに座り込み、なまえに向かってゆるりと手を伸ばす。この手を跳ね飛ばして思いきり叱りつけてほしい。しかし同時に、手を取って許してほしいとも思った。余りの自分の身勝手さに嫌気がさす。
なまえは、戸惑いできょろりと視線を左右させた後、ゆっくりと扉の向こうから室内に歩を進めた。すた、すた、と床を滑るスリッパの音が徐々に近づいて、腕がゆるりと持ち上がる。そっと俺の手に重なった彼女の細い指はひんやりとしていて、俺の手から熱を奪っていった。
「なまえ」
「副社長…、仲直り、していただけますか?」
「……、お前は、優しすぎるな。」
強引にならないようそっと手を引いて、より近くへ来るように促す。なまえはその手を拒むこともなく素直にこちらへ来て、俺の隣へ腰かけた。頬を両手で包み、目尻を親指で撫でる。びくりと大げさに体を震わせたが彼女は逃げず、じっと俺の手を受け入れた。彼女の素直すぎる反応が、泣かせてしまったという事実が俺の罪悪感を増幅させて、やりきれない。もう一度謝罪の言葉を述べて、俺はそっと抱きしめた。腕の中にすっぽりと収まる彼女は脆く、こんな小さな体で俺を支えていたのかと、はっとする。
「絶対にこれ以上の手は出さないと誓う。だから、今日はこのまま…」
情けないほどに掠れた、囁くような声だった。しかし、しっかりと俺の声を拾ったなまえは何も言わず、おそるおそる俺の背に手を回した。その手が俺の着るローブを強く握りしめる。ローブを握るくしゃっという音と、俺の肩口に顔を擦りつける布ずれの音。抱きしめる力を強くして、そのままシーツに潜り込んだ。
彼女の髪からは俺と同じ匂いがする。彼女が身にまとうものは俺のそれと同じ感触だ。このベッドで他人の体温を感じるのは初めてだ、と思いながら、目を閉じた。本来ならば後悔と反省に苛まれるべきはずなのに、近くに彼女がまだ居てくれることへの安心感がより強く俺の胸に残った。