※ケーキバースです。ご注意ください。






正確な時期は覚えがないが、ルーファウスは自分が特別な存在であることを早い段階から自覚していた。自分が成長し子供から男になるにつれて、明らかに周囲の様子が変わったからだ。そういった意味では、むしろ「自覚せざるを得なかった」という表現が正しいかもしれない。表情に出ることはなかったが、ルーファウスは当然、困惑した。


「良い香りだな」
「食べてしまいたいわ」


それは世辞でも比喩でもない。彼もしくは彼女らにとってはそのままの意味だ。

この世には「ケーキ」と「フォーク」、そしてそのどちらでもない人間が存在する。食べられる者と食べる者。「ケーキ」と呼ばれる存在は、生まれた時から甘く美味な人間だ。唾液や涙などのあらゆる分泌物、皮膚、血、肉、骨、そのすべてがケーキのように甘い。「フォーク」にとっては。彼らは次第に味覚を失い、しかし「ケーキ」の極上の甘い香りと味だけを感じることができるようになる。「フォーク」だけが感じる甘い匂いと味は理性で押さえられないほどに食欲をそそり、文字通り、食べてしまえるのだ。

自分が前者であると気付いたとき、ルーファウスが始めたことは自分を鍛えることだった。簡単に他の人間に食べられぬよう、自分の身は自分で守れるように。そうして身についた護身術と銃のスキルで、ルーファウスは今の年齢になるまで近寄ってくる数多の「フォーク」達を危なげなく退けることができた。


「……はあ、」


ルーファウスの恋人兼秘書のなまえは、キッチンのシンクに手をついて震えていた。カウンターの向こう、リビングのソファで本を読むルーファウスをちらりと一度見て、顔を落とす。

いよいよ自覚してしまった、となまえは思った。味覚がだんだん鈍り、どんな高級料理もファストフードもおいしく感じない。こと食べ物に関しては嗅覚まで衰えていた。すぐ横にある珈琲ですら、その香りと苦みを最後に感じたのはいつだったか。

それは突然だった。今朝まで何も感じなかったというのに、まさにちょうど今、異様なまでの甘い香りが鼻を刺激したのだ。食べ物に反応することがほとんど無くなった自分の嗅覚が甘いそれを察知して、思わずこみ上げる涎を飲み込んだ。これが噂に聞く「ケーキ」の香りだと、なまえが気付くのに時間はかからなかった。「そちら側の人間」にしか感じることのできない、誘惑的で甘美な。

なまえは、自分が食べる側の人間である事実に必死に目を背け、自分は普通であると言い聞かせ続けた。そして周囲に、特にルーファウスに隠し通した。そうでなければ、彼の傍に居られないと思ったのだ。自分がどちらでも無い人間だからこそ、「ケーキ」であるルーファウスの秘書であり、恋人でいられる。バレてしまったら、彼は私を遠ざけ、二度と近づけないようにしてしまうだろう。誰だって自分が物理的に捕食されることなど考えたくもないし、そのような危険因子は忌避して当然だからだ。


「なまえ、どうした」


遠くから漂ってくるだけだった甘い香りがだんだん近づいてくるのをなまえは感じた。いつもの香水と、男らしい彼自身の匂いに混ざる、甘ったるいキャラメル。香りが強くなるほどくらくらして、彼が隣に立った頃には、シンクに身体を預けなければならないほどの強い眩暈に襲われた。


「大丈夫、なんでもないの」


平常なふりをして、彼の声に応える。しかしルーファウスは納得しない様子で一度顔を顰め、そしてニヤリと笑った。


「……俺が気付いていないとでも?」


なまえは背筋が凍った。シンクのシルバーを見ていた視線を上げれば、ばちりと透き通ったブルーと絡み合う。ルーファウスの大きな手がなまえの肩に回ると、びくり、となまえは大げさに反応してしまった。彼は知っていたのだ。自分の恋人兼秘書が「フォーク」であり、それを隠していたことを。

しかし、対するルーファウスは美しく微笑むばかりだった。やっと堕ちた、とさえ思った。なぜルーファウスがなまえを秘書に迎え、篭絡したか。

彼女が味覚の異変を感じるずっと前から、感づいていたのだ。そして、その疑念は次第に確信へと変わる。香りの強い菓子に顔を近づけてすんすんと鼻を鳴らす姿、彼女の口に合うだろう食べ物への興味の薄さ、料理の感想がたまに的外れになること。普通を取り繕う彼女の横で、ルーファウスは一人、「やはり」と胸を弾ませていたのだ。

「フォーク」は犯罪者予備軍。己の食欲のために人間を襲い、バラバラにして骨の髄まで食べ尽くす、非道な連中。そんな風潮の世界に彼女一人を放り出せば、あっという間に迫害を受けることは目に見えている。

誰も、本人すら気付かぬうちに俺が囲ってしまえば。いつかなまえが自覚したときに、「ケーキ」である俺から離れられなくなる。愛や恋慕だけでなく、本能としても俺を求めるようになる。

そしてなまえは、まんまとルーファウスの思い通りになったのだ。


「なまえ」


力の入っていない軽い身体は簡単に抱き上げることができた。膝裏と背中に回した手から感じる僅かな震えが、ルーファウスは愛おしく、そして情欲を掻き立てられる。味覚も嗅覚もゼロに近いほど鈍ったなまえが、自分の匂いだけを敏感に感じ取り、求めている。そう思うだけで背筋がゾクゾクし、喉が鳴った。


「俺が欲しいか」


色を含んだテノールが、なまえの耳から脳を揺さぶる。ベッドに寝転がされ、顔の横に両肘をついて覆い被さられてしまえば、見えるのは整いすぎた彼の顔とぼやけた天井。なまえは聴覚と視覚、そして嗅覚が半ば強制的にルーファウスだけを感じるようになった。


「ルー、が、ほしい」


はしたない女だと思われる、彼が引いてしまう、「フォーク」でごめんなさい。自責と謝罪の気持ちが溢れて止まらないのに、口をついて出たのは、ルーファウスを求める本能の言葉だった。

なまえの唇を行き来する親指すら、少し焦がしたキャラメルの匂いがする。下唇を左から右、端まで着いたら上側を右から左。ゆっくりとなぞるそれは、なまえを誘惑するようだった。

鼻腔を甘くくすぐるそれを、もし口に入れてしまったら。思い浮かんでしまえば最後それをしなければ気が済まなくなって、その親指をぱくりと捕まえて口内に招き入れた。衝撃的な甘さと美味。指一本、たったこれだけで涙が出るほどおいしくて、口が、全身が喜びで震える。久しぶりに感じる匂いと味に、なまえは一瞬で夢中になった。彼が離れないようにその手首を両手で掴んで、じゅるじゅると舌を指に押し付ける。舐めれば舐めるほど感じる極上の甘味を己の唾液と混ぜ合わせ、シロップのようになったそれを必死になって飲み込んだ。


「ふあ、う、んん…っ」
「なまえ、口を開けろ」
「んぁ、ぁ……」


口内で弄ばれ少しふやけたルーファウスの親指が、ぐい、と上顎を押し上げた。必然的に開く口に、近づいた彼の顔。そのまま唇が降ってきて、舌が絡められるだろう。想像だけで期待が膨らみ、思わず彼の手首を握る力が強まった。いつもなまえを蹂躙する長く器用な舌が伸びて、彼に教え込まれた通りになまえも舌を出す。あともう少し、数ミリで触れる。しかし、ルーファウスのぬらぬらと光る舌はそれ以上動くことはなかった。


ぽた


焦れる思いに顔を歪めたのも束の間、ルーファウスからなまえの舌の腹にもたらされる唾液。重力に従って舌先から滴り、つつ、と銀糸が二人を繋いで、ふつりと切れた。それは、ぐつぐつと煮立てた砂糖水のように甘くて、熱い。嚥下すればじんわりと全身に広がって、幸福感に包まれた。もっと欲しい。たくさん感じたい。途切れた銀糸が口元から顎に落ち、それすらもったいなくてべろりと舌で追いかける。それを見たルーファウスはギラリと目を輝かせて、熱く息を吐いた。


「 はあ、るー、もっと……」


細い腕がルーファウスの首に回り、強引に引き寄せられた。抗うこともせず、抱き締めるようにして顔を落とし、舌同士を絡め合わせる。無遠慮に擦りつけ、舌を喰んで吸い上げる彼女は、まるでいつもルーファウスにされていることを真似ているようだった。呼応するように舌を動かして唾液を送り込むと、なまえは嬉しそうにそれを何度も何度も味わっていた。


「ふ、可愛いな、なまえ」
「るー、はぁ、あ、るぅ」


ふにゃふにゃと自分の名を呼ぶなまえの声に、腰回りがずんと重くなったのをルーファウスは感じた。今のなまえは、ルーファウスがぐずぐずになるまで甘やかし、快楽の頂点に何度も達させた時の状態に近い。理性を飛ばし、恥も外聞もなく自分を求める姿。顔を真っ赤にして蕩け切った、最もルーファウスが彼女に欲情する痴態。いつもはゆっくりと時間をかけてここまで堕とすというのに、彼女が「フォーク」であると自覚した瞬間、指一本を少し銜えただけでこうなってしまった。これは、早いうちから彼女を縛り付けておいて正解だった、とルーファウスは過去の自分の行動に感謝した。


「ん、んぁ、るー、たべたい……」


それは衝動だった。長い時間合わさり続けた粘膜同士を離し、なまえは彼の肩口に顔を埋めた。いつもの香水と、いつもの彼の男らしい匂い、いつもは感じない甘ったるく重いキャラメルの香り。首と肩の境目をべろりと舐めると、ルーファウスはぴくりと小さく身体を震わせた。

きっと彼の血はどろりと胸焼けするほど甘くて、肉はケーキのように美味しいのだろう。彼が、食べたい。欲しい。骨の髄まで食べ尽くして、彼を私の中に取り込んでしまいたい。彼が他の「フォーク」に食べられてしまう前に。こんなに愛おしくて、美しくて、美味しそうな彼を独占してしまいたい。私だけの、ルーファウスに。

「フォーク」としての本能に逆らえぬまま、ガリ、と彼の肩に歯を立てた。わずかに感じる鉄の匂いは脳内で甘い何かに変換され、舐め取れば言いようの無い美味で興奮する。

ルーファウスは突然の痛みに一瞬顔を歪めたが、くっと喉の奥で笑った。それほどまでに俺が欲しいか。自分に向けられた彼女の異常な独占欲と食欲に満更悪い気がしなかったからだ。がぶがぶと歯を立てて血を舐め続ける彼女を制するように、ルーファウスは耳元で囁いた。


「本当に食べたら、一生俺を味わえなくなるぞ?」


それはなまえにとっては地獄のような脅しだった。自分が欲望のままルーファウスを食べてしまったら、一生会えない、触れられない、彼を感じることができない。そんな状態でひとり放り出されてしまったら、私はどうやって生きていけば良いのか。それはきっと、味覚と嗅覚を失うことよりもずっと苦痛だ。食欲は一気に消え失せ、しかし甘い誘惑に抑えきれない本能が依然としてぺろぺろと鎖骨付近に舌を這わせ続けた。


「いや…るー、いっしょう、そばにいて」


ルーファウスは、その言葉に満足した。そうやって俺に依存すればいい。彼女の味覚は俺に支配され、俺なしでは生きていけなくなればいい。俺も、なまえにしか食べられる気など無いのだから。