02
その日の夜、ルーファウスはひとり静かな廊下を歩いていた。
みみの拗ねた顔を思い出しては、苦笑する。甘えるでもなく、露骨に怒るわけでもなく、けれど確かに嫉妬の色を滲ませる彼女は、見ていて実に愛おしい。機嫌を直すためにも、仕事が終わったら彼女の好きなワインでも開けようか、そんなことを考えていた。
と、そのとき、曲がり角の向こうから、何かが床に散らばる音がした。視線を向けると、女性社員が慌てて荷物を拾い集めている。 面倒ではあったが、素通りするわけにもいかず、ルーファウスは足を止めた。
「手伝おう」
「えっ……! あ、ありがとうございます、社長……!」
女性は驚いたように目を瞬かせ、頬を赤らめながら頭を下げた。
彼女は長年ルーファウスに想いを寄せていた。しかし、彼の傍には常にみみがいる。彼の視線が自分に向くことはないと悟り、ずっと諦めていた。
――けれど。今、この廊下には、彼女はいない。
社長は特に警戒している様子もなく、ただ無造作に荷物を拾い上げている。今なら、ほんの一瞬だけでも、夢を見てもいいのではないか――。
そう考えてしまったのは、きっと今日がバレンタインだから。隙を突くように、彼女は屈んだルーファウスの腕の間に体を寄せ、ほんの一瞬だけその唇に自身の唇を重ねた。
「……っ」
ルーファウスの動きが止まる。
「社長が……好きです……」
震える声でそう呟いた彼女は、けれど次の瞬間、ルーファウスが驚きと不快感を滲ませながら眉間に深い皺を寄せるのを見てしまった。その瞳はあまりにも冷ややかで、彼が本当に愛しているのはみみで、自分には決して向けられない表情だと痛感する。 堪えきれなくなった彼女は、「すみません」と小さく言い残し、逃げるように駆けて行った。
ルーファウスは彼女の後ろ姿を見送りながら、大きくため息をついた。
この事実を知ったら、みみはきっと怒りよりも深く悲しむことだろう。ゆがんだ泣き顔を思い起こし、ルーファウスは無理にこの事実を知らせて悲しませる必要はないと判断する。忘れよう。唇に残った微かな感触を拭い去るように、手の甲で乱暴に拭った。
***
翌朝。みみはいつものようにカフェテリアで二人分のコーヒーを注文していた。
「ミルク多めと、砂糖なしのブラックでお願いします」
カップを受け取ると、ルーファウスの分と自分の分をトレーに乗せ、いつものように社長室へ持っていこうと歩き出す。
しかし、店員や周囲の社員たちの視線がどこかおかしいことに気づいた。ちらりとすぐ横のテーブル席を見ると、数人がこちらを見ながらひそひそと話している。好奇の目や、憐れむような視線。違和感を覚えたみみは、足を止めた。
「ねえ、本当に社長って、昨日あの子と……?」
「うん、社長と廊下でキスしてたって」
「やっぱり、あの秘書さんって単なるお気に入りの一人ってだけなんじゃないの?」
カフェテリアの片隅で交わされていた噂話に、みみの心臓が大きく跳ねた。
社長が、別の女性社員とキスをしていた――?
ぎゅっと唇を噛み締める。ルーファウスがそんなことをするはずがない。誰よりもみみを求め、愛していると言ってくれたあのルーファウスが、自分以外の女性と……?ありえないと思いつつも、もし本当だったらと考えると、心臓が冷え手足が震える。
みみは動揺を悟られないよう、何事もなかったかのように顔を上げる。そして、背筋を伸ばして社長室へと歩き出した。しかし、手に持ったコーヒーカップの中の液体が、小さく波打っていた。
***
社長室に入ると、ルーファウスはすでにデスクに向かい、書類に目を通していた。みみはそっとドアを閉め、努めて平静を装いながら彼のデスクへ向かう。
「コーヒーをお持ちしました」
「……ああ、ありがとう」
何気ないやりとり。それなのに、いつもよりずっと遠く感じた。聞かなくちゃ……聞いて、ちゃんと確かめなくちゃ。そう思うのに、喉が塞がって声が出ない。
ルーファウスの整った横顔を見つめる。昨夜も、いつも通りに触れ合って、甘く愛し合ったはずなのに――もし彼の唇が本当に別の女性のものに触れていたとしたら?みみは胸がぎゅっと苦しくなる。
耐えきれず、みみは書類を手に取り、視線を落とした。いつものように仕事に集中しようとするが、文字がまるで頭に入ってこない。
そんなみみの様子に異変を感じ、ルーファウスが顔を上げる。
「どうした?」
聞くなら今が一番自然なタイミングだ。「今朝から変な噂が流れているみたいで〜」って自然に切り出せば、きっと彼は鼻で笑ってそんなことはあり得ないと否定してくれるはず。……でも、もし彼の口から、あの噂が事実だと告げられたら。その瞬間、壊れてしまう気がした。
「……いえ、何でもありません」
しかしみみは事実を知ることがどうしても怖く、かろうじてそう答え、視線を落としたまま首を振った。
「何があった?」
怯えたようなみみの声としぐさに、ルーファウスは尋常ではない違和感を覚える。鋭くなった瞳を隠すこともせず、彼女に事情を聴こうと食い下がる。しかし彼女は頑なに口を閉ざした。
「みみ」
問い詰めるような声音に、みみの指が震えそうになる。顔を上げることすらできず、ただ俯いたまま呟く。「仕事中です」と言うのが精一杯だった。
***
社内の噂は、時間が経つにつれどんどん歪んでいった。
「別れたって話、マジなの?」
「フリーなら狙おうかな」
そんな真偽のわからない噂話がみみの耳に入るたび、胸の奥がズキズキと痛んだ。しかしルーファウスに直接確かめることもできず、誤解を解く術もないまま、ただ社内の空気が変わっていくのを感じていた。
そして、それはみみに向けられる視線にも影響を及ぼしていた。社内の男性社員だけでなく、外部の取引先の人間からも、やけに声をかけられ始めたのだ。その多くは「結構です」とあしらえば去っていくのに、目の前の彼だけは違った。
「ずっと素敵な方だと思っていました。よかったらお食事でも」
言葉だけは紳士的でも、その奥にある下心が見え見えで、みみはうんざりしていた。こんな時、ルーファウスならどう返すだろう?――ふとそんなことを考えるが、答えが出る前に、不意に肩を抱かれた。
「誰を口説いている」
低く、冷ややかな声が耳元に落ちる。驚いて振り向くと、そこにはルーファウスが立っていた。鋭い青い瞳が、みみに言い寄っていた男を冷たく射抜いている。
いつもなら、それだけで相手はすぐに退散する。だが、今日の男は違った。
「……社長には失礼ですが、一人の恋人を愛せない方に、彼女を幸せにできるとは思えません」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めた空気が走った。ルーファウスの表情が険しくなる。「どういう意味だ」と問い質せば、彼は臆することなく「そのままの意味です」と答えた。そんなやりとりに、みみの視界が滲む。
愛せない……? ルーが……?そんなはずないのに。そんなの、嘘なのに。
でも――
一瞬でも疑ってしまった自分自身が、嫌で、悔しくて、悲しくて。熱いものが頬を伝いそうになり、慌てて唇を噛みしめる。
「……っ」
何か言葉をかけようとするルーファウス。しかし、そうする前にみみが肩に乗せた手を振り払った。涙を堪えながら睨みつけるその瞳は、ルーファウスを咎めるようだった。
ルーが、何も言わないから。何も言わず、何も説明しないから、こんなことになった。耐えきれず、みみは踵を返し、駆け出した。
涙が溢れる前に。誰にも見られないうちに。
みみの拗ねた顔を思い出しては、苦笑する。甘えるでもなく、露骨に怒るわけでもなく、けれど確かに嫉妬の色を滲ませる彼女は、見ていて実に愛おしい。機嫌を直すためにも、仕事が終わったら彼女の好きなワインでも開けようか、そんなことを考えていた。
と、そのとき、曲がり角の向こうから、何かが床に散らばる音がした。視線を向けると、女性社員が慌てて荷物を拾い集めている。 面倒ではあったが、素通りするわけにもいかず、ルーファウスは足を止めた。
「手伝おう」
「えっ……! あ、ありがとうございます、社長……!」
女性は驚いたように目を瞬かせ、頬を赤らめながら頭を下げた。
彼女は長年ルーファウスに想いを寄せていた。しかし、彼の傍には常にみみがいる。彼の視線が自分に向くことはないと悟り、ずっと諦めていた。
――けれど。今、この廊下には、彼女はいない。
社長は特に警戒している様子もなく、ただ無造作に荷物を拾い上げている。今なら、ほんの一瞬だけでも、夢を見てもいいのではないか――。
そう考えてしまったのは、きっと今日がバレンタインだから。隙を突くように、彼女は屈んだルーファウスの腕の間に体を寄せ、ほんの一瞬だけその唇に自身の唇を重ねた。
「……っ」
ルーファウスの動きが止まる。
「社長が……好きです……」
震える声でそう呟いた彼女は、けれど次の瞬間、ルーファウスが驚きと不快感を滲ませながら眉間に深い皺を寄せるのを見てしまった。その瞳はあまりにも冷ややかで、彼が本当に愛しているのはみみで、自分には決して向けられない表情だと痛感する。 堪えきれなくなった彼女は、「すみません」と小さく言い残し、逃げるように駆けて行った。
ルーファウスは彼女の後ろ姿を見送りながら、大きくため息をついた。
この事実を知ったら、みみはきっと怒りよりも深く悲しむことだろう。ゆがんだ泣き顔を思い起こし、ルーファウスは無理にこの事実を知らせて悲しませる必要はないと判断する。忘れよう。唇に残った微かな感触を拭い去るように、手の甲で乱暴に拭った。
***
翌朝。みみはいつものようにカフェテリアで二人分のコーヒーを注文していた。
「ミルク多めと、砂糖なしのブラックでお願いします」
カップを受け取ると、ルーファウスの分と自分の分をトレーに乗せ、いつものように社長室へ持っていこうと歩き出す。
しかし、店員や周囲の社員たちの視線がどこかおかしいことに気づいた。ちらりとすぐ横のテーブル席を見ると、数人がこちらを見ながらひそひそと話している。好奇の目や、憐れむような視線。違和感を覚えたみみは、足を止めた。
「ねえ、本当に社長って、昨日あの子と……?」
「うん、社長と廊下でキスしてたって」
「やっぱり、あの秘書さんって単なるお気に入りの一人ってだけなんじゃないの?」
カフェテリアの片隅で交わされていた噂話に、みみの心臓が大きく跳ねた。
社長が、別の女性社員とキスをしていた――?
ぎゅっと唇を噛み締める。ルーファウスがそんなことをするはずがない。誰よりもみみを求め、愛していると言ってくれたあのルーファウスが、自分以外の女性と……?ありえないと思いつつも、もし本当だったらと考えると、心臓が冷え手足が震える。
みみは動揺を悟られないよう、何事もなかったかのように顔を上げる。そして、背筋を伸ばして社長室へと歩き出した。しかし、手に持ったコーヒーカップの中の液体が、小さく波打っていた。
***
社長室に入ると、ルーファウスはすでにデスクに向かい、書類に目を通していた。みみはそっとドアを閉め、努めて平静を装いながら彼のデスクへ向かう。
「コーヒーをお持ちしました」
「……ああ、ありがとう」
何気ないやりとり。それなのに、いつもよりずっと遠く感じた。聞かなくちゃ……聞いて、ちゃんと確かめなくちゃ。そう思うのに、喉が塞がって声が出ない。
ルーファウスの整った横顔を見つめる。昨夜も、いつも通りに触れ合って、甘く愛し合ったはずなのに――もし彼の唇が本当に別の女性のものに触れていたとしたら?みみは胸がぎゅっと苦しくなる。
耐えきれず、みみは書類を手に取り、視線を落とした。いつものように仕事に集中しようとするが、文字がまるで頭に入ってこない。
そんなみみの様子に異変を感じ、ルーファウスが顔を上げる。
「どうした?」
聞くなら今が一番自然なタイミングだ。「今朝から変な噂が流れているみたいで〜」って自然に切り出せば、きっと彼は鼻で笑ってそんなことはあり得ないと否定してくれるはず。……でも、もし彼の口から、あの噂が事実だと告げられたら。その瞬間、壊れてしまう気がした。
「……いえ、何でもありません」
しかしみみは事実を知ることがどうしても怖く、かろうじてそう答え、視線を落としたまま首を振った。
「何があった?」
怯えたようなみみの声としぐさに、ルーファウスは尋常ではない違和感を覚える。鋭くなった瞳を隠すこともせず、彼女に事情を聴こうと食い下がる。しかし彼女は頑なに口を閉ざした。
「みみ」
問い詰めるような声音に、みみの指が震えそうになる。顔を上げることすらできず、ただ俯いたまま呟く。「仕事中です」と言うのが精一杯だった。
***
社内の噂は、時間が経つにつれどんどん歪んでいった。
「別れたって話、マジなの?」
「フリーなら狙おうかな」
そんな真偽のわからない噂話がみみの耳に入るたび、胸の奥がズキズキと痛んだ。しかしルーファウスに直接確かめることもできず、誤解を解く術もないまま、ただ社内の空気が変わっていくのを感じていた。
そして、それはみみに向けられる視線にも影響を及ぼしていた。社内の男性社員だけでなく、外部の取引先の人間からも、やけに声をかけられ始めたのだ。その多くは「結構です」とあしらえば去っていくのに、目の前の彼だけは違った。
「ずっと素敵な方だと思っていました。よかったらお食事でも」
言葉だけは紳士的でも、その奥にある下心が見え見えで、みみはうんざりしていた。こんな時、ルーファウスならどう返すだろう?――ふとそんなことを考えるが、答えが出る前に、不意に肩を抱かれた。
「誰を口説いている」
低く、冷ややかな声が耳元に落ちる。驚いて振り向くと、そこにはルーファウスが立っていた。鋭い青い瞳が、みみに言い寄っていた男を冷たく射抜いている。
いつもなら、それだけで相手はすぐに退散する。だが、今日の男は違った。
「……社長には失礼ですが、一人の恋人を愛せない方に、彼女を幸せにできるとは思えません」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めた空気が走った。ルーファウスの表情が険しくなる。「どういう意味だ」と問い質せば、彼は臆することなく「そのままの意味です」と答えた。そんなやりとりに、みみの視界が滲む。
愛せない……? ルーが……?そんなはずないのに。そんなの、嘘なのに。
でも――
一瞬でも疑ってしまった自分自身が、嫌で、悔しくて、悲しくて。熱いものが頬を伝いそうになり、慌てて唇を噛みしめる。
「……っ」
何か言葉をかけようとするルーファウス。しかし、そうする前にみみが肩に乗せた手を振り払った。涙を堪えながら睨みつけるその瞳は、ルーファウスを咎めるようだった。
ルーが、何も言わないから。何も言わず、何も説明しないから、こんなことになった。耐えきれず、みみは踵を返し、駆け出した。
涙が溢れる前に。誰にも見られないうちに。