「みみ!」


ルーファウスは、駆け出した彼女の背を追った。足の長さか、それとも単に彼の方が速いのか、みみが廊下を折れる前に、すぐに腕を掴むことができた。


「――っ、離して!」


みみは振り払おうと腕をぶんぶん上下に振るが、ルーファウスの力は強い。彼は無言のまま、抵抗するみみをぐいっと引き寄せ、そのまま近くの会議室へ押し込んだ。



***



バタン、と扉が閉まり、静寂が落ちる。廊下から漏れる光だけの薄暗い室内で、ルーファウスはみみが逃げられないように扉に鍵をかけ、壁際へと追い詰める。


「……すまなかった」と、ルーファウスはみみだけが聞こえる声で謝罪する。彼女の濡れた瞳を見つめると、それは何度も泳いだ後地面に落ちた。


「私……疑っているわけじゃない……でも……」


みみは唇を一度噛み、肩を震わせる。


「変な噂がどんどん広がって……それをルーが否定しないのが苦しいの……っ」


その言葉と一緒に、とうとう涙が零れ落ちる。ルーファウスを愛し、信じてるからこそ、つらかった。ほかの女性と社内でキスしていたなどという噂は、馬鹿げた話だと鼻で笑って一蹴してほしかった。たったそれだけで良かったのに、そうしなかった。それがまるで、噂が事実であるように突き付けられている気がして、悲しみを助長した。

ルーファウスは、そんなみみをじっと見つめたまま、やがて静かに口を開いた。


「俺が迂闊だった。不意を突かれてキスされたことは事実だ」


みみの肩がぴくりと揺れた。聞きたくもない言葉に涙が止まらず、ぱたぱたと床に粒が落ちる。


「だが、それ以上は何もない。……俺には、おまえしかいない」


ルーファウスは壁に突いていた手をゆっくりとみみに伸ばす。彼女が抵抗しないことを確認してから、その小さな背を引き寄せて腕の中に収めた。


「……っ、るー……」


彼の温もりが、鼓動が、確かにそこにある。みみは震えながらも、彼の胸に額を押し当てた。


「普段通りにしていれば、くだらない噂などそのうち消えると考えていた」


だが、そうして放っておいた結果、みみをここまで苦しめてしまった――その事実に、今さらながら後悔が押し寄せる。ルーファウスの堪えるような低い声が、二人きりの室内に溶ける。


「……すまなかった」


腕の中のみみは、彼の胸に顔を埋め、その言葉を聞きながら嗚咽を漏らしていた。


「……るーの……恋人は……私だけですよね?」


涙で声を詰まらせながら、震える問いかけが続く。


「……されたキスに……あなたの気持ちは……ない、よね?」


ルーファウスの背にしがみつく小さな手が、細かく震えているのを感じる。

彼女をこんなにも不安にさせ、傷つけたのは自分の不注意だった。ルーファウスは、みみの背に回した腕に、さらに力を込めた。


「俺の恋人は、みみだけだ」


すり、と彼女の肩口に顔を埋める。


「そんなことで揺らぐような感情じゃない」


甘い髪の香りを吸い、唇を落とす。


「俺は、おまえを愛してる」


優しく、それでいて強く、何度も囁くルーファウスの声。みみは、頬や額にそっと落ちる唇を、涙をまたひとつ零しながら受け入れた。



***



ルーファウスの腕の中で、みみはゆっくりと息を整えながら、彼の体温を感じていた。強く抱きしめられる腕の力も、何度も落ちる唇の感触も、確かに彼の愛情を示していた。


「っ……う……」


安心してしまったら、余計に涙が止まらなくなった。苦しかった気持ちがほどけていく。


「……ほんとに……るーは……わたしのもの?」


しゃくり上げながら呟いた言葉は、彼が時折口にする独占欲の滲んだ言葉をそのまま真似たものだった。自分だけが彼の特別でありたいと願う気持ち。ずっと、彼に独り占めされてばかりだったけれど、彼だって私のものだと言いたかった。

ルーファウスは一瞬、目を見開いた。次の瞬間、みみをぎゅっとさらに強く抱きしめ、耳元で低く喉を鳴らす。


「……ああ、そうだ」


まるでその言葉が嬉しくてたまらないかのように、彼の声は甘く、熱を帯びていた。


「俺は、おまえのものだ」


愛おしさに耐えきれなくなったように、ルーファウスはみみの顎をそっと持ち上げると、涙の残る唇に優しく口づけた。触れるだけのキスは次第に熱を帯び、唇を食み、舌が触れる。次第に苦しくなったみみは、ルーファウスの胸に押しつけられるようにして、背中の壁を頼りに息を継ぐ。

だが、ほんの僅かに唇を離しただけで、すぐに彼の熱い口づけが追いかけてくる。


「んっ……ぅ、る……待っ……」


逃げるように顔を逸らしても、彼の大きな手が頬を包み込み、再び深く舌を絡め取られる。


「逃げるな……みみ」


ルーファウスの低く甘い声が耳元で響き、ぞくりと背筋が震えた。みみの腰に回された腕が、するりと背を撫でていく。唇が塞がれながらも、彼の指先がセーター越しに肌の熱を伝えてくるのが分かった。

静まり返った会議室に、二人の息遣いと布擦れの音が微かに広がる。


「ん……っ、ぁ……んんっ……」


濃厚な口づけに翻弄され、息が苦しいのに、それでも心地よくて離れられない。

水音が交じる甘いキスは、際限なく続いた。