プレートの裏側をなぞるように伸びる錆びた鉄骨と、煤けた壁と、どこからともなく漂ってくる油と下水の匂いが、七番街スラムの「風景」だった。小さなみみの世界は、その灰色の箱庭の中で完結していたはずだったのに、その日は急に終わりを告げた。

がらんとした部屋の隅で、薄いマットレスに膝を抱え、みみは両親の声を聞いていた。喧嘩というより、もう何度目かも分からない諦めの言い合い。仕事がない、口減らし、どうにもならない——そういう言葉の断片だけが、薄い壁のように心に積もっていく。何を話しているか、全部は分からない。ただ、自分の名前が出たとき、胸の奥で何かがひやりと縮んだ。

その晩、母はひどく優しかった。いつもより少し多いスープを器によそってくれて、言葉は少なかったけれど、「いい子ね」と何度も言っていた。みみは、理由は分からないまま、言われたとおりに小さく頷いていた。

翌朝、父が「一緒に行こう」と言った。どこへ、と聞きかけて、みみはやめた。聞いてはいけないような気がした。父の大きな手に手を引かれ、七番街の狭い路地を抜け、いつも行かない方角へと歩いていく。慣れない道の段差につまずきながらついていくうち、みみの頭の中では、小さな不安が膨らんではしぼみ、また膨らんでいった。

やがて人通りの少ない路地裏に出たとき、父の手がふっと離れた。振り返る間もなく、「ここで待ってろ」とだけ言い残して、足音が遠ざかる。みみは、言われたとおりその場に立ち尽くした。最初は、すぐ戻ってくると思っていた。しばらくすると、戻ってきてほしいと願った。もっと時間が経つと、戻ってこないのだと気づいた。

膝ががくんと力を失い、その場にしゃがみ込む。喉の奥が熱くなり、胸が痛くて息が苦しい。泣いたらいけない、といつも叱られていたから、唇をぎゅっと噛んで、涙を閉じ込める。けれど、閉じ込めきれなかった雫が、一粒だけ頬を伝って落ちた。

お腹が鳴ったのは、そのずっとあとだった。どれくらい時間が経ったのか分からない。誰も来ない路地に一人で座っていることが、急にこわくなる。立ち上がると、足元が少し震えた。どこへ行けばいいのか分からない。それでも、ここにいても誰も来ないことだけは分かった。

みみは、とにかく歩き始めた。

七番街のスラムを抜けた先の世界を、みみはほとんど知らなかった。ひび割れたコンクリートの隙間に溜まった水たまりをよけ、空き缶を踏まないように慎重に足を運びながら、それでも少しずつ進んでいく。プレートの裏側に沿って歪んだ路地は、まるで迷路のように入り組んでいて、小さな子ども一人の足にはあまりにも長い。

途中で、誰かが捨てたパンの残りを見つけた。汚れていることは分かっていたが、空腹の方が勝った。さっと拾い上げて、埃を払うふりをしてから、かじる。硬くて、少し酸っぱい。それでも、噛むたびに胃の中が少し落ち着いていくのを感じて、みみは無心で食べ続けた。

どこかで怒鳴り声がして、どこかで笑い声がして、どこかでガラスが割れる音がした。スラムの音は、いつもより遠く聞こえた。何度か引き返そうとして、そのたびに「戻ったところで、誰もいない」という事実が頭をよぎる。前も、後ろも、同じくらい不安で、同じくらい心細かったから、みみはただ、足元だけを見て歩き続けた。

ふと顔を上げると、見知らぬネオンの光が滲んでいた。雑多な看板と、けばけばしい色彩。七番街では見なかった種類の喧騒が、湿った空気を震わせている。そこが、六番街スラムのウォールマーケットだと知るのは、ずっとずっと後のことだった。

そのときのみみにとって、そこはただ、眩しくてうるさくて、そして何より、おいしそうな匂いのする場所だった。

通りの端にしゃがみ込み、露店の鉄板で焼かれていく肉や、湯気を立てるスープをじっと見つめる。鼻の奥をくすぐる匂いは、ここの空気の汚さとも混ざり合っていて、それでも抗いがたい魅力を帯びていた。けれど、ポケットの中には何もない。手を伸ばすこともできず、ただ見ているしかなかった。


「そんな目で見ても、タダじゃあげないよ」


すぐ横からかけられた声に、みみはびくりと肩を揺らした。振り向くと、腰の曲がった屋台の男が、じろりとみみを見下ろしている。絡むような視線に、みみは咄嗟に一歩下がった。怒られる、追い払われる——そう思って身を縮める。


「…ごめんなさい」


小さな声で謝ると、男はふんと鼻を鳴らす。


「謝るくらいなら、働きな。皿洗いでも何でもあるだろ、ってな」


この街では、そうやって子どもを使う大人はいくらでもいる。みみは、何も知らないながらも、その空気だけは本能で察した。怖さと空腹とで、足が動かない。その場で立ち尽くしていると、別の声が割って入った。


「その子に手を出す気なら、相手が悪いね」


しゃらり、と。高いヒールが石畳を鳴らす音と共に、その人は現れた。けばけばしいネオンと粗悪な明かりしかないはずの通りで、なぜか彼女だけがはっきりと見えた。深い色の着物に身を包み、手入れの行き届いた金のアクセサリーが、わずかな光を受けて品のいい輝きを放っている。髪は纏められ、香りはスラムには似つかわしくないほど上等だ。

マダム・マム——ウォールマーケットでその名を知らない者はいない女主人を、みみはまだ知らない。ただ、目の前の人物から目を離せなくなっていた。

屋台の男は、彼女を見るなり顔色を変えた。


「お、おや、マダム。何も、そのつもりじゃ…」
「だったら、その視線をやめな。この子は、そういうのに慣れちゃいけない顔をしてる」


マムは軽く肩をすくめながら、みみの前に一歩進み出る。その仕草ひとつで、さっきまで威圧的だった男が、急に小さくなったように見えた。


「…マムの客なら話は別だ。俺は何も見てない」


そう言って、男は慌てて屋台の奥へ引っ込んでいく。ネオンの光と鉄板の煙が、彼の姿をあっけなく飲み込んだ。

残されたマムは、そっとみみのほうを向いた。上から下まで、一度だけ視線を滑らせる。それは、冷たく値踏みするようでいて、なぜか刺すような悪意はなかった。

薄汚れたワンピース。膝にこびりついた泥。絡まった髪。栄養状態の悪さを隠せない細い手足。——それでも、マムはそこに「形」を見た。大きな瞳の形も、頬骨のラインも、唇の薄さも、整えてやればいくらでも変わる余地のある、まだ削られていない宝石の原石のように見えた。


「名前は?」


突然問われて、みみは一瞬固まる。名乗ってはいけない相手もいることぐらい、七番街で学んできた。それでも、目の前の女性がさっき自分を助けてくれたことも、ちゃんと覚えている。


「…みみ」


少しだけ迷ってから、そう答えた。マムの口元が、わずかに緩む。


「ふぅん。悪くない名前だね。覚えやすいわ」


マムはかがみ込み、みみと視線の高さを合わせる。香水の甘い匂いと、煙草と、お湯の匂いが混ざったような、その人特有のにおいがふわりと漂った。


「家は?」


喉がきゅっと締め付けられる。言葉にしたくない現実が、胸の奥をかき回す。それでも、マムの目は逃げ場を与えてくれなかった。不思議と怖くはない。ただ、嘘をついたらすぐ見抜かれると分かる目をしていた。


「…ない、です」


小さく答えると、マムはほんの一瞬だけ目を細める。その瞳に、怒りにも似た硬い光が走った。みみには、それが自分に向けられたものではないことだけは、なぜか分かった。


「そう。じゃあ、あんた今夜どこで寝るつもりだったんだい」


返事に詰まる。さっきまでの自分の足跡をたどっても、帰る場所はどこにもない。段ボールの隙間や、階段の影に身を寄せる小さな影たちを見たことはある。ああいうふうになっていくのだろうかと、ぼんやり思っていた。それが、怖くないはずがない。

沈黙が答えだと悟ったのか、マムはふうと長く息を吐いた。


「仕方ないね。放っておいたら、二日ももたない顔してる」


そう言うと、すっと立ち上がり、手を差し出してくる。細いけれど力強く、爪先まで丁寧に整えられた大人の手。みみは、その手を見上げた。


「ついてきな。ご飯とお湯と、ちゃんとしたベッドくらいは用意してあげる。その代わり——」


言葉尻をわざと引き延ばし、マムはいたずらっぽく片目をつむる。


「私が拾った原石なんだから、いずれはきちんと"お返し"してもらう。ピッカピカに磨いてあげるから覚悟しな」


拾う——という言葉に、みみの胸がひくりと震えた。捨てられたのではなく、拾われる。それだけで、世界の色が少し違って見えた。

ほんの少しのためらいのあと、みみはそっとその手に自分の小さな手を重ねた。温かかった。しっかりと握り返される感触に、ずっと張りつめていたものが、少しだけほどける。

こうして、みみは六番街スラムでマダム・マムに拾われた。



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マムの店——「手揉み屋」と称したサロンは、スラムの中では異質なほど整えられていた。古いながらも磨き上げられた床、安物ではない香油の匂い、揃えられたリネン。初めて足を踏み入れたとき、みみは思わず息を呑んだ。七番街の小さな部屋とは、空気の重さが違った。

最初の夜、マムはみみを浴室へ連れて行った。大きなタライに湯を張り、シャワーから流れるぬるま湯を惜しみなく注ぎ入れる。みみは、湯気で曇る鏡の向こうに、自分の姿を見た。泥だらけの足、黒ずんだ手の甲、絡まった髪。そこに映っているのは「汚い子」であって、自分が「宝石」なんて言われる理由が分からなかった。


「ほら、じっとしてな」


マムが袖をまくり、慣れた手つきでみみの髪を濡らし、石鹸を泡立てる。指先が頭皮を優しくこすると、こびりついた埃と汗が溶けて流れていく。髪を洗ってもらうという行為そのものが、新鮮でくすぐったい。何度も目をぎゅっと閉じては、そっと開いてマムの顔を盗み見た。


「痛かったら言いな。……その顔、黙って我慢する癖がついてるね」
「…がまん、しないとおこられるから」


ぽつりとこぼした言葉に、マムの手が一瞬止まる。その代わり、頭を支える手つきが少しだけ柔らかくなった。


「ここでは、理不尽な我慢は捨てな。嫌なら嫌って言いなさい。泣きたかったら泣きなさい。ただし、甘ったれは許さない。その違いは、いずれ教えてあげる」


何が違うのか、みみにはまだ分からない。それでも、マムの声はなぜか心地よかった。湯に浸かっているうちに、固く縮こまっていた筋肉が少しずつ解けていくのが分かる。指先まで温まっていく感覚は、生まれて初めて味わう種類の安心だった。

その夜、清潔なシーツのベッドに潜り込んだとき、みみは、目を閉じるのが惜しくなった。ここで眠ってしまったら、朝になったら全部夢だったと気づくんじゃないか——そんな不安が胸の奥でひそかにくすぶる。けれど、柔らかな布とほのかな香りに包まれているうちに、意識はいつの間にか遠のいていた。



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マムは約束どおり、みみを「ピカピカに磨かれた宝石」に育てると決めていた。スラムで生きていくには、ただ丈夫でいるだけでは足りない。頭と、目と、口と、背筋。全部まとめて鍛えなければ、真に「価値のある女」にはなれないと、マムはよく口にした。

朝は早い。まだ外が薄暗いうちにシーツを畳み、床を掃き、タオルを洗う。最初のみみは、重たいタオルの束に何度もよろけた。けれど、転んでも泣き言を言わない。マムが「やりなさい」と言ったことは、最後までやろうとする。頑固というより、しがみつくような必死さがあった。


「いい根性してるじゃないか」


腕に山ほどタオルを抱えたみみを見て、マムは満足そうに言う。褒められることに慣れていないみみは、どう反応していいか分からず、視線を泳がせた。顔に出すのが下手なところも、マムの目にはむしろ好ましく映る。

昼が近づくと、店の準備が本格的に始まる。マムは客を迎える前に、必ず鏡の前に立った。姿勢、表情、目線。香水の量まで、決められた手順で整える。それを毎日見ているうちに、みみの中にも「整える」という概念が芽生えていった。


「見てるだけじゃ覚えないわよ。ほら、やってみな」


ある日、マムは古びた小さな鏡をみみに手渡した。髪を梳かして耳にかける練習、背筋を伸ばして立つ練習、笑いすぎない笑顔の作り方。最初はぎこちなく、鏡の中のみみは、自分で見ても不自然だった。それでも、マムは根気よく付き合った。


「その顎の角度、悪くないね。でも目が泳いでる。相手の目を見るのが怖いなら、眉間か鼻のあたりを見なさい。相手にはちゃんと目が合ってるように見える」
「…こわくないけど、なんか…」
「見られるのに慣れてないだけさね。あんたの顔は、見られるほうの顔。どうせ見られるなら、見られ方を選びな」


意味深な言葉が多い大人だったが、マムの言葉は不思議と心に残った。みみは言われたとおり、少しずつ「見られること」に慣れていった。

夜になると、客がやってくる。マム自らが対応する上客もいれば、他の女たちが相手をする客もいる。みみは最初、その脇でお茶を運び、タオルを替え、静かに気配を消して動くことを教えられた。


「歩くとき、足音を立てない。皿を置くとき、音を鳴らさない。声をかけるとき、相手の話を遮らない。それだけで、あんたは『できる子』に見えるよ」


みみは真面目にすべてを吸い込んでいく。小さな頃から、見て覚えることに長けていた。誰かの動き、声の調子、目線の変化。そういうものを、無意識に拾ってしまう癖がある。その癖は、ここでは生きる術に変わった。

店の女たちも、最初は半分面白がり、半分同情でみみにちょっかいを出していたが、いつしか本気で可愛がるようになっていった。余ったお菓子を分けてくれる者、髪の結び方を教えてくれる者、化粧道具の名前を教えてくれる者。みみはひとつひとつを大事に覚え、必要なときにはすぐに役立てられるようになっていった。



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文字を覚えたのは、マムが「いつまでもスラムの常識だけを教えていくつもりはない」と決めたからだ。ある日、古本屋の隅で見つけてきたらしい薄い教本を机に置き、マムは言った。


「読み書きができない女は、どれだけ綺麗でも限界があるわ。あんたにそんな安っぽい限界、似合わないだろう?」


みみは、ページをめくる指を震わせながら、素直に頷いた。


「いい? これはただの文字じゃないの。契約書だって、物語だって、手紙だって、全部これでできてるのよ。世界が何を考えてるか、その断片を覗くための鍵だと思いなさい」


最初のうちは、黒い線の集まりにしか見えなかった記号が、少しずつ「音」になり、「意味」になっていく。読める言葉が増えるたび、スラムの外側に広がる世界が、薄皮一枚分だけ近づいてくる気がした。

夜、片付けが終わったあと、みみは小さなランプの明かりの下で教本を開いた。マムは自室から時々様子を見に来て、間違いを直し、分からないところを説明してくれる。その時間が、みみは密かに好きだった。マムの横顔は、仕事中の艶やかな表情とは違って、少しだけ柔らかかったからだ。


「そんなに必死にやらなくても、逃げないわよ、本なんて」
「…今、覚えておかないと、忘れちゃいそうで」
「忘れたら、また覚えればいいの。大事なのは、覚えようとしてる自分を、自分で嫌いにならないことさ」


その意味も、やがてみみは理解していく。



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年月は、スラムでも確実に流れていく。

背丈はぐんと伸び、子どものころのあどけなさは顔に残しつつも、輪郭は少しずつ大人のそれに近づいていった。マムは、みみの体つきが変わっていくのを誰よりも敏感に察知していた。単なる「可愛い孤児」ではなく、「価値のある女」としての輪郭が浮かび上がり始めている。


「そのスカート、もう丈が合ってないね。次からは腿がちゃんと隠れるのを選びなさい」
「どうしてですか?」
「見せたいものと、見せたくないものは、自分で決めるんだ。決められずに全部見せるのは、愚か者のすることさね」


説教めいたその言葉の裏には、みみを安い視線から守りたいという思いも混ざっていた。マムは、決して「売り物」にするためだけにみみを磨いてきたわけではない。自分の名に恥じない女にする。それが、拾ったときからの約束だった。

ある夜、店に少し早く客が途切れたとき、マムは酒瓶をテーブルに置いて言った。


「あんたももう、そろそろ『子ども』じゃ通らない歳ね」


みみは、持っていたタオルを畳む手を止める。十代の真ん中を過ぎた頃、体はほぼ大人と変わらない。けれど、マムの前では、まだ自分は「拾われた子」のままだと思っていた。


「…大人、ですか?」
「そうさ。身体も、それなりに。頭の回転も悪くない。読み書きもできて、数も数えられる。客の顔色も読める。声の出し方も、歩き方も、だいぶ様になってきた」


一つひとつ挙げていくマムの声には、どこか誇らしさが滲んでいた。みみは照れくさくなって、視線を落とす。


「マムが教えてくれたからです」
「教えても、できない子はできないの。あんたは、受け取る力がある。そこが一番大事なのさ」


マムはグラスに酒を注ぎ、自分で一口飲んでから、真剣な目でみみを見た。


「あんたね、この街だけで終わる顔じゃないのよ」
「…この街だけ、って?」
「ウォールマーケットは、底無し沼みたいな場所。ここで生きる術も教えたわ。でもね、あんたが本当の意味で輝く場所は、たぶんここじゃないね」


マムは、いつになく遠くを見るような目をした。スラムの女主人にしては、珍しい種類の夢を見ているような表情。


「頭が切れて、空気が読めて、相手が何を求めているか嗅ぎ取れる。そういう女は、上に行けば行くほど重宝されるわ。スラムの王様じゃなくて、本当の意味で世界を動かしてる連中のそばにね」
「世界を…動かしてる…」


ふわりとした言葉に、みみは想像を巡らせる。プレートのずっと上。昼の光がちゃんと届く世界。ニュースでしか聞いたことのない名前。そこに自分が立つ姿は、まだ上手く思い描けない。それでも、マムの言葉が嘘ではないと、どこかで信じていた。


「いつか、あんたをそういう場所に送り出す機会が来るかもしれない。そのとき、胸を張って行きなさい。『マダム・マムに育てられた女よ』って顔をして」
「…マムを、恥ずかしくさせたくないです」
「だったら、もっと磨きな。言葉も、仕草も、心も。どこの誰に会っても恥ずかしくないようにね」


みみは静かに頷いた。七番街で捨てられたあの日、世界は自分を要らないと言ったように思えた。けれど今は、この店と、この女主人が、自分の存在を当然のものとして扱ってくれている。それが、何よりの支えだった。



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鏡の前に立つと、そこにはもう、泥だらけで震えていた幼い子どもの姿はない。カシスブラウンの髪は、ゆるくウェーブがかけられ、艶やかに肩に落ちる。紫がかった瞳は、昔よりずっと強い光を宿し、それでいて柔らかさを失ってはいない。右目の下の小さなほくろは、その顔にほんの少しだけ色気を添えていた。


「…変わったなあ」


ぽつりと漏らすと、背後からマムの声がした。


「変わって当然。あんた、何年私のところにいると思ってるんだい」


マムは後ろからそっとみみの髪を指で梳き、乱れを整える。指先の動きは、あの日と同じで、ずっと違ってもいた。幼い子どもの髪ではなく、一人の女の髪に触れる手つき。


「全部マムが…」
「半分ね」


言いかけた言葉を、マムはあっさり遮る。


「残りの半分は、あんたが自分で掴んだの。私のところに来たからって、全員があんたみたいになるわけじゃない。だから、胸を張りな」


みみは、鏡越しにマムと目を合わせた。そこには、初めて会ったときと同じ鋭さと、それ以上の信頼があった。


「…マム」
「何?」
「私を、拾ってくれてありがとう」


素直すぎる言葉に、マムは一瞬だけ目を丸くした。それから、ふっと口元を緩める。


「今さら何だい。あんたを拾ったのは、私の趣味みたいなもんさ。綺麗になる原石を見つけたら、磨かずにはいられない性分でね」


照れ隠しのように流すその言葉の奥に、確かな愛情があることを、みみはもう分かっている。胸の奥がじんわりと温かくなり、それを悟られないように、彼女は軽く笑った。


「じゃあ、もっと綺麗にならないと。マムの趣味が正しかったって、証明できるくらいに」
「そうこなくちゃ」


マムは満足げに頷いた。その横顔を見ながら、みみは心のどこかで、まだ見ぬ未来を思い描く。ウォールマーケットの外、六番街の外、ミッドガル全体の外に広がる世界。そのどこかで、自分は誰かの隣に立っているのだろうか。

まだ知らない。まだ何も始まっていない。けれど、七番街で捨てられたあの日からずっと続いてきた足跡は、間違いなくここまで繋がっている。マダム・マムに拾われ、鍛えられ、磨かれた女——みみ。

彼女が、やがて神羅カンパニーの若き総帥のそばに立つ日が来ることを、このときの二人はまだ知らない。だが、そのための年月は、もう十分に積み上がりつつあった。