八番街プレート上の夜は、スラムのそれとはまるで別の顔をしていた。透明なガラスと磨かれた金属の表面にネオンが反射し、張りつめた電気の匂いと香水とアルコールが混ざった空気が、ここが「表側の世界」だと無言で主張している。プレートの下で暮らしていた者には一生縁のないはずの光景——そのど真ん中を、みみは当たり前のような顔で歩いていた。

マダム・マムに連れられて初めてプレートに上がった日から、既にいくらか時間が経っていた。ウォールマーケットの店で徹底的に磨かれた所作と、整えられた容貌は、十代の終わりを迎えた頃には見事に花を開いている。ゆるやかに波打つカシスブラウンの髪は肩から背中にかけて流れ、紫色の瞳は、照明の加減でひんやりとも温かくも見えた。右目の下の小さなほくろは、笑うときも、黙っているときも、その表情にかすかな陰影を落とす。

マムはそんな彼女をじっと見つめ、ため息とも感嘆ともつかない息を吐いたものだ。


「あんたね、もう完全にこのスラムには収まりきらない顔してるわ」
「……そんなこと、ないですよ」
「ある。私の目は節穴じゃない。ここでいくら磨いたって、この街の連中には勿体ないくらいさ。プレートの上で働きな。ちゃんとした店で、ちゃんとした客相手に。そういうところじゃないと、あんたの価値は半分も伝わらない」


そう言って手配されたのが、八番街プレート上の隠れ家的なバーだった。表通りから一歩だけ外れた裏路地に、ひっそりと口を開けている重たい扉。看板には控えめなロゴが配され、派手なネオンは一切ない。知る人ぞ知る場所——マムはそう表現した。


「下手な連中は来ない。面倒な客もいるけど、その分、見られるものも増える。上の世界の空気を、身体で覚えてきな」


みみがそこで働き始めるまで、そう時間はかからなかった。



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バーの中は、外の喧噪が嘘のように静かだった。照明は落とし気味で、カウンターの上だけがぼんやりと浮かび上がる。燕脂色の木目にグラスが整然と並び、棚にはラベルの美しい酒瓶がずらりと並ぶ。椅子の革は手入れが行き届き、床には靴音を吸い込むような厚手のカーペットが敷き詰められている。

みみは数週間のうちに、その空気になじんでいった。注文の入り方、常連の癖、新顔がどこから来たのかを、声や服や靴で見分けること。客のグラスが空く少し手前で声をかけるタイミング。静かにしていてほしい相手と、適度に会話を求める相手を、表情のわずかな差で見分ける術。

物覚えの良さと要領の良さは、ここでも遺憾なく発揮された。あっという間に「カウンターのいい女」として客の間で噂になり、名を知らない者でさえ、八番街のあのバーに座っていると誰もが一度は振り返る存在になっていた。


「みみちゃん、こないだのカクテル、もう一度頼めるかい?」


常連の男が目を細めて言う。みみは穏やかに笑い、首をかしげる。


「こちらの、スモーキーなほうですか? それとも、ちょっと甘くしたほう?」
「ああ、その言い方ずるいなあ。甘いほうで頼むよ」


そんなやり取りが自然にできるようになった頃、この夜がやってきた。



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その日の夜、店の奥のボックス席には、既にややかための空気が張りつめていた。スーツ姿の男たちが数人、グラスを片手に、愛想笑いと探り合いを交互に繰り出している。慎重に、しかしあからさまに媚びない程度の距離感で流れる会話。

その中心に、白いスーツを着た青年が座っていた。

神羅カンパニー副社長——ルーファウス神羅。プラチナブロンドをおろし、氷のように淡い青の瞳は、笑っていても笑っていなくても冷たく見える。彼の周囲には、常に見えない緊張が漂っていた。プレートの上の人間なら誰でもその名を知っているが、実際に目の前にする機会はそうない。

今夜、彼は取引先の役員たちとの「社交を兼ねた会合」とやらに顔を出していた。中身はほとんど、取り留めもない社交辞令と、遠回しな腹の探り合いだ。初めのうちは、それすらも仕事のうちだと割り切って機械的に受け流していたが、度重なる乾杯と、繰り返し使われる褒め言葉のテンプレートの数々に、彼の内側には徐々に淡い倦怠が積もっていく。


「さすがは副社長でいらっしゃる。やはり、神羅ビルの最上階でご覧になる景色は、我々庶民とは違うのでしょうな」
「見える景色より、見えないもののほうが多いのは同じですがね」


ルーファウスは、表面だけはなめらかに返す。笑顔の角度、グラスを持つ手首の動き、視線の置き方。そういうものは、子どもの頃から嫌というほど叩き込まれている。だが、そこに自分の感情を乗せることはほとんどない。父の横で、無数の接待の場に立たされた少年は、とうの昔に「自分」を切り離す術を覚えていた。

役員の一人が、取り巻きの女の腰を抱き寄せ、下品ぎりぎりの冗談を飛ばす。場がどっと笑いに包まれた隙に、ルーファウスはグラスの中身を飲み干した。これ以上ここにいる意味は薄い。この場はもう十分に「成功」している。彼がいようがいまいが、彼らは酒と女で勝手に盛り上がり続けるだろう。


「少し席を外す」


短く告げると、誰も引き止めなかった。むしろ、彼がいなくなったことで、場の空気がいくらか軽くなる。重石が外れたような笑い声が背後に広がるのを聞きながら、ルーファウスはボックス席を抜け出し、カウンターへと歩いた。

この店を選んだのは秘書課の誰かで、彼自身は特にこだわりはなかった。ただ、プレート上で「隠れ家」の名を持つバーの中でも、ここは比較的静かだと聞いていた。実際、カウンターのあたりは照明も落ち着いていて、余計な視線からやや隔てられている。社の連中に知られたくない話をするにはちょうどいい——あるいは、無駄な言葉を飲み込むには、なおさら良かった。

カウンターに腰を下ろすと、目の前に一人の女が現れる。その姿を目にした瞬間、ルーファウスの意識がわずかに現実へ引き戻された。

光沢を抑えた黒のスーツは身体のラインを拾いすぎず、それでいてどこにどれだけの曲線があるのかを自然に想像させる。ゆるく波打つカシスブラウンの髪が肩に流れ、顔の横で柔らかく揺れた。紫色の瞳は、照明の下で深い葡萄酒のような色を帯びている。右目の下に小さなほくろがあり、それが表情に不思議な繊細さと色気を添えていた。

だが、彼の目を引いたのは、容姿だけではなかった。


「お疲れのように見えます」


彼女は、先にそう言った。媚びた笑みではない。かといって無遠慮な物言いでもない。彼のスーツの皺、結び直されたばかりのネクタイ、わずかに荒い呼吸、グラスを置く手の力の入り具合——そういったものを、瞬時に読み取ったうえでの言葉だった。


「そう見えますか?」


ルーファウスは、わずかに片眉を上げる。問い返す声には皮肉も棘も乗せていない。単純に興味が動いたからだ。


「ええ、とても。…でも、『疲れた』とは仰らない方でしょう?」


彼女は微笑みながら、手早くグラスに氷を入れ、ボトルに手を伸ばした。選ばれたのは、あまり甘くなく、それでいて香りの柔らかい酒だった。そこに柑橘と少しだけハーブを足し、手慣れた動作でシェイカーを振る。氷が金属に当たって鳴る音が、静かな店内に小さく響いた。


「言ったところで、軽くなる相手でもないので」
「でしょうね」


カクテルを注ぎながら彼女は頷く。そのやり取りは、どちらが客でどちらがホステスなのか一瞬分からなくなるほど自然だった。

やがて、彼の前に淡い色のカクテルが差し出される。グラスの縁には、ごく薄く塩がまとわされている。


「こちらをどうぞ。今のあなたには、強すぎず、弱すぎず」
「…注文していませんが」
「サービスです。『お疲れさま』のかわりに」


みみは少しだけ肩をすくめた。ルーファウスは、グラスを持ち上げて液面を眺める。香りは爽やかで、舌に乗せたときのアルコールの重さが程よく抑えられている。塩気が神経を少しだけ引き締め、その分、甘さが嫌味なく広がった。


「……悪くない」


素直な感想が口をついて出る。彼は滅多に、初めて飲むものにそこまで言葉を与えない。だが、この一杯には、その価値があった。疲労の芯のようなものに、ほんの少しだけ温度が戻る。


「それは良かったです」


彼女は、嬉しさを全面に出さずに、けれど確かに満足そうな微笑を浮かべる。この距離感。この引き算の仕方。ルーファウスは内心で眉をひそめた。


「名前は?」


ふいに口をついて出た問いに、自分でも少し驚いた。彼は基本的に、この手の場でいちいち名前を尋ねない。相手が勝手に名乗れば仕方なく覚えることはあっても、自分から興味を示すことは少ない。

彼女はわずかに会釈をして名を告げた。その発音には気取ったところがなく、かといって卑屈さもない。自分の名前を嫌っていない者の声だった。


「…みみ」


ルーファウスは小さく反芻する。短く覚えやすい。呼びかけやすい。だが、その響きと目の前の女の雰囲気は、不思議とよく合っていた。


「副社長」


背後から、取引先の誰かが彼を呼ぶ声が聞こえた。ルーファウスは一瞬だけそちらに視線を流し、すぐに戻す。


「君は、ここで長いのか?」
「バー自体は、まだそれほど。…でも、下で似たようなことをしていたので、馴染むのは早かったです」
「下?」
「六番街のほうで」


ごく簡単な言い方だったが、その一言で彼にはいくつかのことが伝わった。六番街。ウォールマーケット。決して「綺麗な世界」ではないが、生き延びるには頭と心と身体の全部を使わなければならない場所。彼女の所作の中にある、場の空気を読む鋭さは、そこで磨かれたものだろう。


「ずいぶんと、いい先生についたようだ」
「ええ、自慢の先生です」


迷いなく答えた瞬間、紫の瞳が少しだけ柔らかくなる。その表情は、さきほどまでのプロフェッショナルな顔つきとは違う。ルーファウスは、それを見逃さなかった。


「……」


背後の喧騒が遠のく。取引先の笑い声も、秘書課の女たちの作り物めいた笑顔も、今だけはどうでもよかった。目の前の女の名前と声と、差し出された一杯の酒だけが、妙に鮮明だった。

その夜、ルーファウスは長居はしなかった。再びボックス席に戻り、適当なところで場を締め、父のための仕事を淡々とこなして帰った。ただ、帰りの車の中で、ふとあのカクテルの味を思い出している自分に気づき、内心で小さく舌打ちした。

理性では、次に来る理由を必要としていた。しかし、感情だけがもう一度あのグラスと紫色の瞳を求めていた。



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数日後、ルーファウスは一人でそのバーを訪れた。護衛と運転手は外に待機させ、中に入るのは自分だけ。こういう場に、過剰な取り巻きは不要だ。

店主は彼を見るなり一瞬目を見張り、すぐに心得たように軽く会釈する。その視線には畏れもあるが、それ以上に「この店を選んでくれた客」への敬意があった。こういう態度の店だからこそ、VIPの隠れ家なのだろうと、ルーファウスは納得する。


「いらっしゃいませ」


カウンターの内側から、聞き慣れた声がした。みみが、いつものように落ち着いた動作でグラスを拭いている。彼女は彼の姿を認めると、わずかに目を丸くし、それからすぐにいつもの微笑に戻った。


「先日はお疲れさまでした」
「覚えていたのか?」
「印象的なお客様でしたので」


さらりと返す言葉には、過剰な意味は含まれていない。ただ、事実として述べているだけだ。ルーファウスはどこか安堵しつつ、カウンター席に腰を下ろした。


「同じものを」
「かしこまりました」


手元でシェイカーが踊るのを眺めながら、ルーファウスは言葉を選ぶ。彼の頭の中には、ここ数日間の業務予定と、秘書課の報告の数々が渦巻いていた。

父の愛人上がりの女たちが幅を利かせる秘書課は、彼にとって信用できない巣窟だった。報告の精度より噂話の伝達速度のほうが早いような場所——そんなところに、自分の側近を任せるつもりは毛頭ない。

しかし現実問題として、彼一人でさばききれない案件が増えているのも事実だ。専属の秘書を付けない主義は、理屈としては美しいが、今や自分自身の足を引っ張りかねない状態にまで来ている。

ならば、秘書課以外から引っこ抜くしかない。そう結論づけてから、彼はいくつかの候補を机上で検討していた。軍から、財務から、法務から。だが、どれも決め手に欠ける。必要なのは、忠誠と能力だけではない。空気を読み、話をつなぎ、時に遮断する判断力。視線一つで意図を汲み取れる感性。そういうものは、紙の上の履歴書からは読み取れない。

差し出されたカクテルを受け取り、一口飲む。前回と同じ安定した味。ルーファウスはグラスを指先で回しながら、口を開いた。


「君は、ここが好きか?」


唐突な問いに、みみは少しだけ瞬きをした。


「…はい。静かですし、良いお客様が多いので」
「そうだろうな」
「でも、『ここがすべて』だとは思っていません」


その一言に、ルーファウスの視線が鋭くなる。


「マム…母に言われたんです。『あんたはここで終わる人間じゃない』って」


マムという単語の出どころに、彼は何かを理解する。ウォールマーケットの女主人——マダム・マム。六番街で名の知れた女だ。スラム育ちの女で、プレート上に顔を出している者の中には、彼女の世話になった者も少なくない。

「その言葉に、君は納得しているのか?」

「まだ、どこまで本当かは分かりません。でも、もしマムの見る目が正しいなら、それを証明してみたいと思っています」

迷いの少ない声だった。ルーファウスは、グラスの縁を指でなぞる。決まりだ、と心のどこかで声がした。

「神羅カンパニーの副社長付き秘書は、どうだ」

みみの手が、ほんの少しだけ止まる。布で拭いていたグラスの動きが、一瞬静止した。紫の瞳が彼をまっすぐ捉える。

「……今のは、冗談ではなく?」

「私は冗談を言う性格に見えるか?」

「……いいえ」

即答に、ルーファウスの口元がわずかに動く。笑ったのか、自分でも判然としない。

「秘書課からは雇わない。親父の愛人上がりの連中は、色目を使うことばかり熱心で、肝心な仕事が見えていない。そんなものを側に置くくらいなら、一人でいたほうがましだ」

軽蔑を隠そうともしない口調。みみは、その言葉の端々ににじむ嫌悪の色に、彼の立場の孤独さを垣間見る。権力の中枢にいる男の傍にいる女たちが、みんなそういう種類の人間であるならば——彼が信用を置ける相手を持たないのも当然だ。

「だが、さすがに一人では手が足りなくなってきた。業務の調整、各部署への橋渡し、会合の取捨選択、スケジュール管理。私が本来やるべきではない仕事が山ほどある」

そこで彼は一度言葉を切り、みみを見据える。

「君は、場の空気を読む。人の顔を見る。必要以上に踏み込まない。よく動き、よく覚える。そして——どうやら、マダム・マムの薫陶を受けている」

「……それは、プラス評価ということでいいのでしょうか」

「私にとっては、十分すぎるほどのプラスだ」

その確信のこもった声に、みみの心臓がどくんと脈打つ。神羅カンパニー。副社長付き秘書。あまりにも遠い世界の話だったはずの単語が、今、自分の眼前に差し出されている。

「ただし」

ルーファウスは淡々と続ける。

「これは、甘い話ではない。スラムのやり方も、ウォールマーケットの流儀も、神羅ビルの中では役に立たないことも多い。私の隣に立つということは、父や取締役会や、世界中の目に晒されるということだ」

「……」

「それでも、君がここで終わらない女になりたいのなら——これは、いい足がかりになるだろう」

誘いの言葉を、彼は飾らない。条件や待遇についてあれこれ並べることもない。ただ、自分の隣に立つということがどういうことかだけを告げた。それだけで十分だと分かっているからだ。

みみは、胸の中で渦巻くいくつもの感情をひとつずつほどいていく。マムの顔が浮かぶ。あの人の言葉が鳴り響く。六番街の店。ここ八番街のバー。温かく迎えてくれたマスター。常連客たち。今の場所もまた、彼女にとっては大切な居場所だ。

だが——。

「一つだけ、お聞きしてもいいですか」

「何だ」

「私を雇いたいのは、『女』としてではなく、『秘書』として、で間違いありませんか」

紫の瞳が、真正面から問う。これまで彼女が見てきた大人たちの多くが、そういう境界線を曖昧にして生きてきたことを、みみは知っている。だからこそ、今きちんと問いただしておきたかった。

ルーファウスは、即答した。

「もちろんだ。女としてが欲しいなら、わざわざバーのカウンターでスカウトしない」

その言い方には、微かな嘲りが混ざっていた。自分の父を含めた「そういう男たち」への侮蔑。みみは、その正直さに少しだけ肩の力を抜く。

「承知しました」

彼女は深く息を吸い、吐く。胸の中で何度も転がした答えが、ひとつの形になる。

「私でよろしければ、務めさせていただきます、副社長」

静かな了承の言葉。ルーファウスは頷いた。

「一週間後だ。それまでに、ここでの仕事の整理をつけておきなさい。神羅ビルの入館手続きや必要な書類はこちらで用意させる」

「かしこまりました」

口に出した瞬間、現実感が一気に押し寄せる。神羅ビル。最上階。副社長付き秘書。胸の奥が熱くなり、同時に足元がすうっと冷えるような感覚。畏れと期待が一度に流れ込んでくる。

「マムには、君から伝えるといい」

ルーファウスがそう言ったとき、彼女は小さく笑った。

「怒られます」

「そうか?」

「でも、きっと最後には喜んでくれます」

「なら、問題はない」

短い会話を終え、ルーファウスはグラスを飲み干した。今度の一杯は、先日よりも少しだけ、味が濃く感じられた。

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その日の閉店後、カウンターの照明だけが残されていた。客が帰ったあとの静けさは、いつもなら心地よい余韻を運んでくる時間だが、この夜のみみの胸は、いつになくざわついていた。

「マスター」

「ん?」

グラスを拭いていたバーの主人が顔を上げる。年季の入った手つきと、プレート上には珍しいほどの落ち着きのある眼差し。みみがこの店に最初に来たときから、穏やかに見守ってくれていた人物だ。

「少し、お時間よろしいですか」

その声音で、主人はすべてを察した。長く店をやっていると、「別れ話」の前の空気は自然と分かるようになる。

「……いい顔になったな」

「え?」

「何か決めてきた顔だ」

みみは苦笑いを浮かべた。さすがに隠し通せる相手ではない。

「神羅カンパニーの副社長から、秘書にならないかと声をかけていただきました。一週間後から、正式に…」

言葉にすると同時に、申し訳なさが胸に溢れ出す。この店で学んだことは多い。救われたことも多い。その場所を自分から離れるのだという現実が、どうしても心に引っかかった。

「…勝手なお願いなのは分かっています。でも——」

「断るな」

主人の言葉が、きっぱりと彼女の言葉を遮った。驚いて顔を上げると、そこには穏やかながら確固たる笑みがあった。

「うちみたいな店に来る子はな、大抵どこかから落ちてきて、ここで落ち着く。悪いことじゃない。だが、お前みたいに、上に上がれる奴はそう多くないんだ」

「でも、ここを抜けるのは…」

「寂しいに決まってるさ。看板娘を手放すんだ。痛手だよ」

軽く肩をすくめてみせる。そのおどけた仕草に、みみの目の端が熱くなる。

「だがな、お前がここに一生いるのを見ていたら、それはそれで寝覚めが悪い」

主人はカウンター越しに手を伸ばし、みみの頭を軽く撫でた。マムほど華やかではないが、温かさの質は負けていない。

「マダム・マムがどんな顔するか、見てみたいもんだな。自分で磨いた原石が、本当に上に行くんだからよ」

「…怒りますよ。たぶん」

「怒鳴ったあとで、酒を飲んで笑うさ。そういう女だろ」

図星すぎて、みみは思わず吹き出した。涙が今にもこぼれそうで、笑っていないと崩れてしまいそうだった。

「ありがとうございます。…本当に、お世話になりました」

深く頭を下げる。床に落ちる影が、少しだけ震えていた。

「礼なら、いつか返してくれ」

「いつか?」

「副社長付き秘書ともなれば、そのうちここなんかよりずっと高級な店に出入りするようになるだろ。そのときにな、『昔世話になった店主がいるんです』って、誰か一人くらい連れてきてくれりゃあ、それで十分だ」

「マスター…」

「それにな」

主人は、にやりと口の端を上げた。

「お前が誰の隣に立つのか、たまに噂で聞けるのも、悪くない酒の肴になりそうだ」

その言葉に、みみは初めて心から笑った。寂しさも不安も消えはしないが、その上に確かな期待が塗り重ねられていく。

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その夜、部屋に戻ったみみは、窓の外に広がるプレート上の夜景をしばらく眺めていた。遠くに、神羅ビルのシルエットが見える。真っ直ぐに天を突くようなその塔の最上階に、自分は向かうのだ。

七番街で捨てられ、六番街で拾われ、八番街で磨かれた女——みみ。

一週間後、彼女は神羅カンパニー副社長付き秘書として正式に雇用される。そのことを、まだ誰も知らない夜だった。