03
神羅ビルのエントランスホールは、高さと冷たさで人を圧倒するように造られていた。磨き上げられた大理石の床は外の光を鈍く反射し、天井近くまでそびえるガラスと金属の柱が、ここが「世界の中心」のひとつであることを無言で誇示している。
その真ん中を、みみは両腕にずしりと重さを抱えながら歩いていた。
革のトートバッグのほかにもう一つ、厚みのある布バッグを肩から下げている。中身はぎっしりと詰まった秘書業務に関する本——ビジネスマナー、社内文書の作り方、スケジュール管理、会議運営、交渉術。どれもこの一週間、寝る間を削って読み込み、付箋と書き込みで膨らませたものだ。手には、これまたびっしりとメモが書き込まれた小さな手帳。神羅ビルのフロア構成、主要部署、役員の名前と顔写真、ルーファウスの簡単な経歴、好まれるとされるウィスキーの銘柄まで、自分なりに調べて書き出してきた。
(落とさないで、ちゃんと持って)
肩に食い込む紐の感覚を意識しながら、みみは深く息を吸い、背筋を伸ばした。ここから先は、八番街のバーでも、六番街の店でもない。神羅カンパニー。その副社長の隣で働く自分の第一日目。
受付の女性に紹介状を見せ、入館手続きを受ける。警備の視線がわずかに厳しくなるが、書類にルーファウス・神羅の署名があるのを確認すると、すぐに態度が変わる。その変化を敏感に感じ取りながらも、みみは余計な表情を浮かべない。エレベーターで最上階へ向かう間、鏡面仕上げの壁に映る自分の姿を一度だけ見た。緊張で僅かに強張った表情を、そっと整える。
「大丈夫。やると決めた」
小さく呟いて、唇の端をわずかに持ち上げた。
---
副社長フロアの前室——秘書が詰めるべき部屋は、驚くほど静かだった。以前まで使われていたと思しきデスクや棚はあるが、人の気配が薄い。元々このフロア専属だった秘書たちは、ルーファウスが秘書を付けない主義を貫いた結果、それぞれ別の部署へと散っていったと聞いている。
みみは自分のデスクに荷物を置き、持ってきた本と手帳を引き出しに収めた。角度を揃え、取り出しやすいように並べる。その作業ひとつにも、六番街で叩き込まれた「見られ方」の感覚が自然と滲む。
「来たか」
低い声に振り向くと、ガラス張りの重厚な扉が開き、その向こうにルーファウスが立っていた。白いコートではなく、今日は神羅ビル仕様のダークスーツ。ネクタイの結び目まで隙がなく、背筋はまっすぐに伸びている。あの日のバーとは違う、仕事の顔。
「本日よりお世話になります。みみと申します。よろしくお願いいたします、副社長」
みみはすぐに立ち上がり、深く頭を下げた。姿勢、目線、声のトーン。鏡の前で何度も確認した通りに。
ルーファウスは一瞬だけ彼女を見つめ、それから僅かに頷いた。
「早く来たな。始業まではまだ時間がある」
「初日は早めに伺うよう、教本にありましたので」
「教本?」
彼の視線が、彼女のデスクの隅に置かれた本の背表紙に滑る。ビジネス書が数冊、角を揃えて積まれているのが見えた。
「この一週間で読みました。足りないところは、働きながら覚えます」
飾らない報告。ルーファウスの口元が、ごくわずかに動いた。
「そうか。…こちらも、君の初日は少し楽をさせるつもりだったが、その必要はなさそうだな」
「いいえ、ぜひ楽にさせてください。そうでないと、今日のうちに倒れてしまいそうです」
冗談めいた言い方に、ルーファウスはわずかに目を細めた。無理に笑わせようとするホステスのそれではない、場の空気を軽くする程度のユーモア。適度な距離感。
「倒れられては困る。仕事が増える」
低く返すと、みみはくすりと笑った。
「では、倒れない程度に働きます」
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初日という言葉は、ただの日付を指すだけではない。ルーファウスの机には、既に午前中だけでも目を通すべき資料が山積みされていた。対外折衝の報告書、軍の予算案、研究開発部からの実験結果概要、父が出席する予定だった会合の引き継ぎメモ。
「本日、午前中はこの三件の書類の要点をまとめておいてくれ。午後一番の会議で使う」
彼は数枚のファイルを取り出し、みみに手渡す。彼女はそれを受け取りながら、すばやくタイトルと差出人に目を走らせた。
(軍の予算案、研究開発部、法務部のリスク評価…)
頭の中で分野ごとに分類し、時間配分を組み立てる。読み込んだ教本には、こういう場合「重要部分に付箋を貼り、要約を箇条書きに」などと書かれていたが、実際の書類のボリュームは想像の倍以上だった。
「承知しました。会議は?」
「十三時から、上層部と外部コンサルを交えて。場所は二十二階の会議室B。出席者リストは――」
言いながら、ルーファウスは自分の端末を指先で叩いた。画面を彼女に向ける。
「このメンバーだ。全員、顔と役職を覚えておいてくれ」
「かしこまりました」
応えながら、みみは手帳を開き、すでに自分で書き込んでいた名前にチェックを入れていく。何人かは既に記憶にある。だが、顔と役職を瞬時に結びつけるにはまだ足りない。頭の中に、人の顔と肩書きの棚をつくっていく作業が始まる。
(読む、整理する、覚える、まとめる)
机に座ると同時に、本番が始まった。
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午前中の時間は、驚くほど早く過ぎた。
神羅の書類は、形式こそ整っているものの、内容は時に回りくどく、曖昧な言い回しや、各部署の都合が透けて見える表現が多い。軍の予算案には自己正当化の文言が並び、研究開発からの報告書には専門用語が詰め込まれている。法務部のリスク評価は慎重すぎて、読むだけで眠気を誘う。
みみは、知らない単語に印をつけながら読み進め、必要な箇所には自分なりの言葉で短くメモを書き添えていった。最初は手が追いつかない。ページをめくる指がぎこちなくなる。しかし、やめない。時計の針をちらりと見て、速度を少しだけ上げる。
(ここは重要、ここは副社長が既にご存じのはず、ここは要約から削ってもいい)
八番街のバーで、客の会話を無数に聞いてきた。全てを覚える必要はない。必要な部分と不要な部分を瞬時に見分け、必要なときに取り出せればいい。スラムで、生き延びるために無意識に身につけた癖が、今度は神羅ビルの中で別の形で役立ち始める。
ペンを走らせ、数枚の紙に要点を書き出し終えたとき、昼休憩のチャイムが鳴った。まだ余裕がある時間ではない。だが、完全に遅れてもいない。
みみは立ち上がり、ルーファウスの執務室の扉をノックした。
「入れ」
許可の声に続いて中に入り、まとめた資料を差し出す。
「先ほど頂いた三件の要約です。重要度の高い順に並べました。会議の流れを考えて、こちらからお目通しいただくと把握しやすいかと」
ルーファウスは資料を受け取り、さっと目を走らせた。一枚、二枚、三枚。紙のめくれる音がやけに大きく聞こえる。
「……初日だな、君は」
「はい」
「この量なら、普通は書類を読み終えるだけで終わる」
顔を上げたルーファウスの視線は、予想よりも穏やかだった。
「多少の情報の抜けはあるが、要点は押さえられている。文章も無駄が少ない。……いい働きだ」
率直な評価。褒め言葉を並べることに慣れている男の声ではなく、単純に仕事の出来を認めた声だった。
みみは安堵と同時に、悔しさが胸に浮かぶ。
「ありがとうございます。…抜けている部分について、可能であればご指摘いただけますか」
自分から求めたその言葉に、ルーファウスの目が少しだけ細くなる。
「恐れているようには見えないな」
「恐れております。…でも、分からないままのほうがもっと怖いので」
その返しに、ふいにバーで差し出されたカクテルのことを思い出した。彼女はあのときも、相手の疲れを恐れなかった。認めたうえで、丁寧に一歩踏み込んだ。今も同じだ。怯えることと、退かないことは別物だと、彼女は本能で理解している。
「後で赤を入れて返す。昼休憩を取れ」
「お昼は、会議資料の復習をしながら簡単に済ませます」
「倒れない程度にな」
「はい」
---
午後の会議は、密度が高かった。
大きなテーブルを囲む重役たちの視線が飛び交い、外部コンサルタントがプレゼンテーションを行う中で、次々と意見や質問が飛ぶ。みみは会議室の端に控え、全員の顔と発言を追いながら、ルーファウスの前に置く資料のページをそっとめくる。彼が視線を向けるより一拍早く、必要な資料を開いておく。それだけで、彼の動きがわずかに滑らかになる。
一度、資料のページを間違えた。軍の予算案ではなく、研究開発の報告書を開きかけたのだ。すぐに気づいてページを戻し、正しい資料を差し出す。その一瞬の躊躇いを、ルーファウスは察した。
だが、彼は視線を彼女に向けなかった。会議の流れも乱さない。見ていないようでいて、確かに見ている。その程度のミスであれば、彼女自身が一番よく分かっていると知っているからだ。
(次はない)
みみは自分にそう言い聞かせ、呼吸を整えた。失敗を恐れて手が止まることが、何よりも悪い。そのくらいのことは、六番街で嫌というほど学んできた。
会議が終わり、重役たちが部屋を出ていくのを見送ると、みみは素早くメモをまとめてルーファウスに渡した。彼は一瞥して、今日の意思決定と今後のアクションポイントが整理されているのを確認する。
「会議の途中で、資料を一つ出し間違えました。申し訳ありません」
前室に戻るなり、みみはそう口にした。指摘される前に、自分から言う。言い訳をつけず、事実だけを。
「気づいていたのか」
「はい」
「次はどうする」
「同様の会議の際、事前に資料の構成をフロアマップのように書き出しておきます。どの話題のときにどの資料を使うか、ルートを明確にしておけば、迷うことは減ると思います」
ルーファウスは静かに頷いた。
「なら、それでいい。初日から完璧にやれると思うほうが愚かだ」
叱責ではない。諦めでもない。事実としての評価と、修正の余地の確認だけ。
「……怒られないのですね」
思ったよりも素直な言葉が、みみの口から零れた。ルーファウスは少しだけ目を細める。
「怒られているほうが気が楽か?」
「いえ。ただ、神羅の偉い方は、ミスに厳しいと噂で聞いていたので」
「あいにく、その『偉い方』のほとんどは、私の父だ」
皮肉混じりの一言。みみは、少しだけ肩をすくめた。
「…副社長は、違うのですね」
「必要のない恐怖は、仕事の精度を落とす。恐怖でしか動けない人間は、いずれ裏切る。私は、そういう人間を側に置くつもりはない」
言葉の端々に、かすかな冷たさではなく、鋭さが混ざる。権力の中枢にいる者だけが知る、人の性の見方。
「私は裏切りません」
即答だった。自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「マムに拾われ、ここまで育ててもらいました。その私を副社長が選んでくださった。それに報いる以外の選択肢は、私にはありません」
誇張でも芝居でもなく、本心だった。六番街で、生きる価値を教えてくれた女主人。八番街で、背中を押してくれた店主。その二人に顔向けできないようなことは、絶対にしたくない。
ルーファウスは彼女をしばらく見つめ、それからふっと視線を外した。
「そういう言葉は、簡単には信じないことにしている」
「…承知しております」
「だが、今のところ——君の言葉には、嘘の匂いがない」
その一言が、不思議とみみの胸に深く届いた。単に「信じる」と言われるよりも、ずっと重い。
---
日々の業務は、容赦なくみみを追い立てた。
電話応対、来客対応、スケジュール調整。各部署との連絡橋渡し。短い時間での要約作成。会議室の予約。資料の印刷と配布。ルーファウスの一日は、分単位で埋まっている。その影を縫うように動き回るのが、秘書の役割だ。
最初のうちは、何度も細かな不手際があった。会議の時間を五分勘違いして、相手側を少し待たせてしまったこと。資料の配布順を逆にしてしまい、説明がやや分かりづらくなったこと。来客の敬称の使い方を一度だけ間違えたこと。
それらが起こるたび、みみはその日の終業後、自分の手帳を開いて「やってしまったこと」「その原因」「次にどうするか」を細かく書き込んでいった。六番街では、ミスをしても次の瞬間には別の問題が降ってくる。振り返る余裕などなかった。だが、神羅の仕事では、振り返りがそのまま次の信用に直結する。
ある夜、時計が既に二十二時を回っているのに気づき、彼女はペンを止めた。前室には、もう誰もいない。フロアの数カ所に残った間接照明だけが、静かな光を落としている。
「帰らないのか」
背後からの声に振り向くと、扉の方にルーファウスが立っていた。ジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくっている。執務室の灯りが彼の背中から差し込んでいるせいか、外より少しだけ柔らかく見えた。
「あと少しだけ。今日のミスのまとめをしておきたくて」
「ミス、というほどのものはなかった」
「副社長からご覧になれば、そうかもしれません。でも、私の中では『次には避けられるはずの小さな穴』なので」
言い方は柔らかいが、自分への評価は厳しい。ルーファウスはゆっくりと前に進み、彼女のデスクの上の手帳に目を落とした。そこには、細かな文字がびっしりと並んでいる。すべて自分の業務に関するメモだ。
「……よくもまあ、ここまで書くものだな」
「書かないと、不安なので」
「不安で動けなくなる女は多いが、不安をここまで具体化して次に繋げる女はそう多くない」
ぽつりと呟いた言葉に、みみは少しだけ目を見開いた。
「褒めていただいて、よろしいのでしょうか」
「褒めている。自覚がないのか」
「すみません、褒められることに慣れていなくて」
「六番街でもか?」
「六番街では、『できて当たり前』が多かったので」
それはそれで生き抜くための環境だったのだろう。ルーファウスは彼女の背景に、マダム・マムの影を思い浮かべる。妥協なく女を磨く女主人。彼女のもとで育った者が、この程度で満足するはずがない。
「もう帰れ。明日も朝から会議だ」
「副社長こそ、お休みください」
「私は、人に心配されるほど弱くない」
淡々と返すその声に、疲労の色は薄い。ただ、硬さはある。その硬さを少しでも和らげたいと思ってしまう自分に気づき、みみは胸の奥で小さく驚いた。
「では、せめて。…明日の朝のお茶は少しだけ濃いめにお淹れします」
「それは助かる」
短い会話を終え、彼は執務室へ戻っていった。閉まる扉の音を聞きながら、みみは手帳を閉じる。ペンの跡で少しだけ疲れた指先を、そっと揉んだ。
(明日は、今日より少しだけ上手くやる。その次も、もう少し)
そうやって、彼の隣に立つ自分を、少しずつ形にしていく。
---
ルーファウスは、自分の感情の揺れに敏感な男だった。
欲望や苛立ちや嫌悪——そういったものは、常にコントロールすべき対象として自覚している。父の身近で育った少年は、感情を晒した人間がどう扱われるかを十分に見てきた。だからこそ、彼は自分の心を切り分ける術を覚えた。
女に惹かれることも、もちろんあった。容姿、スタイル、声。バーで出会った相手や、父の取り巻きから流れてきた女たち。遊びの相手として価値があるかどうかを見抜く目も、彼なりに持っていたつもりだ。
しかし、みみを見ているときに胸の内側で動くものは、それらとは別種のものだった。
忙しい午前中、電話を捌きながら資料を整理し、時には自分の前に新しい書類を滑り込ませてくる。会議の途中、話の流れを読みながら、必要なページを開いて差し出す。昼休みの短い時間に、自分が漏らした一言を拾い、午後のスケジュールにさりげなく反映する。
ミスをしたときもそうだ。彼女は黙って顔色を伺うのではなく、自分から「ここがいけなかった」と言い出し、「次はこうする」と対策まで口にする。その懸命さは、媚びではなく、忠誠に近い。誰かの目を気にしてではなく、自分自身の基準に対して誠実であろうとする姿勢。
(不思議な女だ)
夜、机に残った資料に目を通しながら、ふと前室のほうを見やる。硝子越しに見える彼女の横顔が、ランプの光に照らされている。ペンを握る指先。紙の上を滑る視線。時折休めるように首を回し、軽く肩をほぐす。その一つひとつの動きが、なぜか目に残る。
容姿も当然、美しい。ゆるく波打つ髪をまとめ上げているときのうなじ。書類を抱えて歩くときの、細く整った手首。誰かを迎えるときに浮かべる穏やかな微笑。赤や金ではなく、淡い色合いのリップや控えめなアクセサリーの選び方には、六番街の派手さではなく、八番街の洗練があった。
だが、彼を惹きつけているのは、その「外側」だけではなかった。
(懸命さ、誠実さ、忠誠心、……裏表のない性格)
思考を整理するように、彼は心の中で単語を並べる。客観的に見ても、彼女は「優秀な秘書」だ。それだけなら、評価はそこまでにとどまるはずだった。
けれど、気づけば、彼は一日の始まりに「彼女に最初に何を任せるか」を考えている。会議の出席者に「彼女が同席しても問題ないか」を選別している。無意識に、彼女を「自分の一部」のように扱い始めている。
そして何より——。
(あの瞳に、俺を映したときの顔が、好きだと感じている)
電話越しに部署とやり取りをしているときの表情と、自分に向かって報告をしているときの表情は、微妙に違う。ルーファウスの前では、少しだけ緊張している。それなのに、恐れているわけではない。どこか誇らしそうでもある。
遊びの女たちは、彼の名と立場に向かって笑っていた。「副社長」としての彼に色気を振りまき、「神羅の血」にすり寄ってきた。その視線の向こうに見ているのは、いつも彼ではなく、その背後にある権力だった。
だが、みみの目には、そういう濁りがない。神羅の副社長であることも、マダム・マムに育てられた自分であることも、どちらも含めて「雇い主」として見ている。それ以上でも、それ以下でもない。だからこそ、彼は彼女の前で自分を切り分ける意味を、少しだけ忘れそうになる。
ある日、昼休みの終わり際、彼は何気なく問いかけた。
「仕事に、慣れてきたか」
彼女は少し考えてから、答える。
「業務の流れやルールには、少しずつ慣れてきました。ただ……」
「ただ?」
「副社長の思考のスピードには、まだついていけていないと感じています」
素直すぎる評価。ルーファウスは思わず片眉をあげた。
「そこまで自分を低く見る必要はない」
「低く見ているつもりはありません。…もっと見えるものが増えれば、副社長の一手先、二手先を考えて動けるようになると思うので」
彼女の中の「理想の秘書像」は、きっとどこかの本に書いてあったものではない。六番街で、マダム・マムの隣に立つ女たちを見て育ったその目で、「一番格好いい」と感じた姿なのだろう。
(マムの隣から——今は俺の隣に)
そう考えた瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。父とその愛人たちを見て育った少年にとって、「隣に立つ女」という概念は、いつもどこかで濁っていた。所有と利用と見栄。そういったもののために存在する関係。
だが、今、自分の側にいる彼女には、そのどれも当てはめたくない。
遊びで手を伸ばしたいとは思わない。欲を満たすためだけの相手として見ることもできない。そうしてしまえば、彼女の懸命さや誠実さや忠誠が、すべて安っぽく変質してしまう気がしてならない。
(俺は、何を守りたいと思っている)
仕事の能力か、忠誠心か、その笑顔か。プレートの上で、スラムで磨かれた女の誇りか。それとももっと、別の何かか。
答えはまだ言葉にならない。ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。
これは、今までの女たちに向けてきた感情とは、明らかに違う。
そう自覚したとき、ルーファウスは深く息を吐いた。窓の外には、工場の煙とネオンの光が混ざり合うミッドガルの空が広がっている。
(面倒な感情だ)
だが、打ち消そうとは思わなかった。むしろ、その存在をはっきりと認識しておきたいと思った。自分がこの先、どう彼女を扱い、どう自分を律していくのか。その指針になる。
ーー七番街で捨てられ、六番街で拾われ、八番街で磨かれた女は、今、世界の中心のひとつである塔の中で、一人の男の心の「中心」に静かに入り込みつつあった。
本人も、その男も、まだはっきりとそれを言葉にはしないまま。
その真ん中を、みみは両腕にずしりと重さを抱えながら歩いていた。
革のトートバッグのほかにもう一つ、厚みのある布バッグを肩から下げている。中身はぎっしりと詰まった秘書業務に関する本——ビジネスマナー、社内文書の作り方、スケジュール管理、会議運営、交渉術。どれもこの一週間、寝る間を削って読み込み、付箋と書き込みで膨らませたものだ。手には、これまたびっしりとメモが書き込まれた小さな手帳。神羅ビルのフロア構成、主要部署、役員の名前と顔写真、ルーファウスの簡単な経歴、好まれるとされるウィスキーの銘柄まで、自分なりに調べて書き出してきた。
(落とさないで、ちゃんと持って)
肩に食い込む紐の感覚を意識しながら、みみは深く息を吸い、背筋を伸ばした。ここから先は、八番街のバーでも、六番街の店でもない。神羅カンパニー。その副社長の隣で働く自分の第一日目。
受付の女性に紹介状を見せ、入館手続きを受ける。警備の視線がわずかに厳しくなるが、書類にルーファウス・神羅の署名があるのを確認すると、すぐに態度が変わる。その変化を敏感に感じ取りながらも、みみは余計な表情を浮かべない。エレベーターで最上階へ向かう間、鏡面仕上げの壁に映る自分の姿を一度だけ見た。緊張で僅かに強張った表情を、そっと整える。
「大丈夫。やると決めた」
小さく呟いて、唇の端をわずかに持ち上げた。
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副社長フロアの前室——秘書が詰めるべき部屋は、驚くほど静かだった。以前まで使われていたと思しきデスクや棚はあるが、人の気配が薄い。元々このフロア専属だった秘書たちは、ルーファウスが秘書を付けない主義を貫いた結果、それぞれ別の部署へと散っていったと聞いている。
みみは自分のデスクに荷物を置き、持ってきた本と手帳を引き出しに収めた。角度を揃え、取り出しやすいように並べる。その作業ひとつにも、六番街で叩き込まれた「見られ方」の感覚が自然と滲む。
「来たか」
低い声に振り向くと、ガラス張りの重厚な扉が開き、その向こうにルーファウスが立っていた。白いコートではなく、今日は神羅ビル仕様のダークスーツ。ネクタイの結び目まで隙がなく、背筋はまっすぐに伸びている。あの日のバーとは違う、仕事の顔。
「本日よりお世話になります。みみと申します。よろしくお願いいたします、副社長」
みみはすぐに立ち上がり、深く頭を下げた。姿勢、目線、声のトーン。鏡の前で何度も確認した通りに。
ルーファウスは一瞬だけ彼女を見つめ、それから僅かに頷いた。
「早く来たな。始業まではまだ時間がある」
「初日は早めに伺うよう、教本にありましたので」
「教本?」
彼の視線が、彼女のデスクの隅に置かれた本の背表紙に滑る。ビジネス書が数冊、角を揃えて積まれているのが見えた。
「この一週間で読みました。足りないところは、働きながら覚えます」
飾らない報告。ルーファウスの口元が、ごくわずかに動いた。
「そうか。…こちらも、君の初日は少し楽をさせるつもりだったが、その必要はなさそうだな」
「いいえ、ぜひ楽にさせてください。そうでないと、今日のうちに倒れてしまいそうです」
冗談めいた言い方に、ルーファウスはわずかに目を細めた。無理に笑わせようとするホステスのそれではない、場の空気を軽くする程度のユーモア。適度な距離感。
「倒れられては困る。仕事が増える」
低く返すと、みみはくすりと笑った。
「では、倒れない程度に働きます」
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初日という言葉は、ただの日付を指すだけではない。ルーファウスの机には、既に午前中だけでも目を通すべき資料が山積みされていた。対外折衝の報告書、軍の予算案、研究開発部からの実験結果概要、父が出席する予定だった会合の引き継ぎメモ。
「本日、午前中はこの三件の書類の要点をまとめておいてくれ。午後一番の会議で使う」
彼は数枚のファイルを取り出し、みみに手渡す。彼女はそれを受け取りながら、すばやくタイトルと差出人に目を走らせた。
(軍の予算案、研究開発部、法務部のリスク評価…)
頭の中で分野ごとに分類し、時間配分を組み立てる。読み込んだ教本には、こういう場合「重要部分に付箋を貼り、要約を箇条書きに」などと書かれていたが、実際の書類のボリュームは想像の倍以上だった。
「承知しました。会議は?」
「十三時から、上層部と外部コンサルを交えて。場所は二十二階の会議室B。出席者リストは――」
言いながら、ルーファウスは自分の端末を指先で叩いた。画面を彼女に向ける。
「このメンバーだ。全員、顔と役職を覚えておいてくれ」
「かしこまりました」
応えながら、みみは手帳を開き、すでに自分で書き込んでいた名前にチェックを入れていく。何人かは既に記憶にある。だが、顔と役職を瞬時に結びつけるにはまだ足りない。頭の中に、人の顔と肩書きの棚をつくっていく作業が始まる。
(読む、整理する、覚える、まとめる)
机に座ると同時に、本番が始まった。
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午前中の時間は、驚くほど早く過ぎた。
神羅の書類は、形式こそ整っているものの、内容は時に回りくどく、曖昧な言い回しや、各部署の都合が透けて見える表現が多い。軍の予算案には自己正当化の文言が並び、研究開発からの報告書には専門用語が詰め込まれている。法務部のリスク評価は慎重すぎて、読むだけで眠気を誘う。
みみは、知らない単語に印をつけながら読み進め、必要な箇所には自分なりの言葉で短くメモを書き添えていった。最初は手が追いつかない。ページをめくる指がぎこちなくなる。しかし、やめない。時計の針をちらりと見て、速度を少しだけ上げる。
(ここは重要、ここは副社長が既にご存じのはず、ここは要約から削ってもいい)
八番街のバーで、客の会話を無数に聞いてきた。全てを覚える必要はない。必要な部分と不要な部分を瞬時に見分け、必要なときに取り出せればいい。スラムで、生き延びるために無意識に身につけた癖が、今度は神羅ビルの中で別の形で役立ち始める。
ペンを走らせ、数枚の紙に要点を書き出し終えたとき、昼休憩のチャイムが鳴った。まだ余裕がある時間ではない。だが、完全に遅れてもいない。
みみは立ち上がり、ルーファウスの執務室の扉をノックした。
「入れ」
許可の声に続いて中に入り、まとめた資料を差し出す。
「先ほど頂いた三件の要約です。重要度の高い順に並べました。会議の流れを考えて、こちらからお目通しいただくと把握しやすいかと」
ルーファウスは資料を受け取り、さっと目を走らせた。一枚、二枚、三枚。紙のめくれる音がやけに大きく聞こえる。
「……初日だな、君は」
「はい」
「この量なら、普通は書類を読み終えるだけで終わる」
顔を上げたルーファウスの視線は、予想よりも穏やかだった。
「多少の情報の抜けはあるが、要点は押さえられている。文章も無駄が少ない。……いい働きだ」
率直な評価。褒め言葉を並べることに慣れている男の声ではなく、単純に仕事の出来を認めた声だった。
みみは安堵と同時に、悔しさが胸に浮かぶ。
「ありがとうございます。…抜けている部分について、可能であればご指摘いただけますか」
自分から求めたその言葉に、ルーファウスの目が少しだけ細くなる。
「恐れているようには見えないな」
「恐れております。…でも、分からないままのほうがもっと怖いので」
その返しに、ふいにバーで差し出されたカクテルのことを思い出した。彼女はあのときも、相手の疲れを恐れなかった。認めたうえで、丁寧に一歩踏み込んだ。今も同じだ。怯えることと、退かないことは別物だと、彼女は本能で理解している。
「後で赤を入れて返す。昼休憩を取れ」
「お昼は、会議資料の復習をしながら簡単に済ませます」
「倒れない程度にな」
「はい」
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午後の会議は、密度が高かった。
大きなテーブルを囲む重役たちの視線が飛び交い、外部コンサルタントがプレゼンテーションを行う中で、次々と意見や質問が飛ぶ。みみは会議室の端に控え、全員の顔と発言を追いながら、ルーファウスの前に置く資料のページをそっとめくる。彼が視線を向けるより一拍早く、必要な資料を開いておく。それだけで、彼の動きがわずかに滑らかになる。
一度、資料のページを間違えた。軍の予算案ではなく、研究開発の報告書を開きかけたのだ。すぐに気づいてページを戻し、正しい資料を差し出す。その一瞬の躊躇いを、ルーファウスは察した。
だが、彼は視線を彼女に向けなかった。会議の流れも乱さない。見ていないようでいて、確かに見ている。その程度のミスであれば、彼女自身が一番よく分かっていると知っているからだ。
(次はない)
みみは自分にそう言い聞かせ、呼吸を整えた。失敗を恐れて手が止まることが、何よりも悪い。そのくらいのことは、六番街で嫌というほど学んできた。
会議が終わり、重役たちが部屋を出ていくのを見送ると、みみは素早くメモをまとめてルーファウスに渡した。彼は一瞥して、今日の意思決定と今後のアクションポイントが整理されているのを確認する。
「会議の途中で、資料を一つ出し間違えました。申し訳ありません」
前室に戻るなり、みみはそう口にした。指摘される前に、自分から言う。言い訳をつけず、事実だけを。
「気づいていたのか」
「はい」
「次はどうする」
「同様の会議の際、事前に資料の構成をフロアマップのように書き出しておきます。どの話題のときにどの資料を使うか、ルートを明確にしておけば、迷うことは減ると思います」
ルーファウスは静かに頷いた。
「なら、それでいい。初日から完璧にやれると思うほうが愚かだ」
叱責ではない。諦めでもない。事実としての評価と、修正の余地の確認だけ。
「……怒られないのですね」
思ったよりも素直な言葉が、みみの口から零れた。ルーファウスは少しだけ目を細める。
「怒られているほうが気が楽か?」
「いえ。ただ、神羅の偉い方は、ミスに厳しいと噂で聞いていたので」
「あいにく、その『偉い方』のほとんどは、私の父だ」
皮肉混じりの一言。みみは、少しだけ肩をすくめた。
「…副社長は、違うのですね」
「必要のない恐怖は、仕事の精度を落とす。恐怖でしか動けない人間は、いずれ裏切る。私は、そういう人間を側に置くつもりはない」
言葉の端々に、かすかな冷たさではなく、鋭さが混ざる。権力の中枢にいる者だけが知る、人の性の見方。
「私は裏切りません」
即答だった。自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「マムに拾われ、ここまで育ててもらいました。その私を副社長が選んでくださった。それに報いる以外の選択肢は、私にはありません」
誇張でも芝居でもなく、本心だった。六番街で、生きる価値を教えてくれた女主人。八番街で、背中を押してくれた店主。その二人に顔向けできないようなことは、絶対にしたくない。
ルーファウスは彼女をしばらく見つめ、それからふっと視線を外した。
「そういう言葉は、簡単には信じないことにしている」
「…承知しております」
「だが、今のところ——君の言葉には、嘘の匂いがない」
その一言が、不思議とみみの胸に深く届いた。単に「信じる」と言われるよりも、ずっと重い。
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日々の業務は、容赦なくみみを追い立てた。
電話応対、来客対応、スケジュール調整。各部署との連絡橋渡し。短い時間での要約作成。会議室の予約。資料の印刷と配布。ルーファウスの一日は、分単位で埋まっている。その影を縫うように動き回るのが、秘書の役割だ。
最初のうちは、何度も細かな不手際があった。会議の時間を五分勘違いして、相手側を少し待たせてしまったこと。資料の配布順を逆にしてしまい、説明がやや分かりづらくなったこと。来客の敬称の使い方を一度だけ間違えたこと。
それらが起こるたび、みみはその日の終業後、自分の手帳を開いて「やってしまったこと」「その原因」「次にどうするか」を細かく書き込んでいった。六番街では、ミスをしても次の瞬間には別の問題が降ってくる。振り返る余裕などなかった。だが、神羅の仕事では、振り返りがそのまま次の信用に直結する。
ある夜、時計が既に二十二時を回っているのに気づき、彼女はペンを止めた。前室には、もう誰もいない。フロアの数カ所に残った間接照明だけが、静かな光を落としている。
「帰らないのか」
背後からの声に振り向くと、扉の方にルーファウスが立っていた。ジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくっている。執務室の灯りが彼の背中から差し込んでいるせいか、外より少しだけ柔らかく見えた。
「あと少しだけ。今日のミスのまとめをしておきたくて」
「ミス、というほどのものはなかった」
「副社長からご覧になれば、そうかもしれません。でも、私の中では『次には避けられるはずの小さな穴』なので」
言い方は柔らかいが、自分への評価は厳しい。ルーファウスはゆっくりと前に進み、彼女のデスクの上の手帳に目を落とした。そこには、細かな文字がびっしりと並んでいる。すべて自分の業務に関するメモだ。
「……よくもまあ、ここまで書くものだな」
「書かないと、不安なので」
「不安で動けなくなる女は多いが、不安をここまで具体化して次に繋げる女はそう多くない」
ぽつりと呟いた言葉に、みみは少しだけ目を見開いた。
「褒めていただいて、よろしいのでしょうか」
「褒めている。自覚がないのか」
「すみません、褒められることに慣れていなくて」
「六番街でもか?」
「六番街では、『できて当たり前』が多かったので」
それはそれで生き抜くための環境だったのだろう。ルーファウスは彼女の背景に、マダム・マムの影を思い浮かべる。妥協なく女を磨く女主人。彼女のもとで育った者が、この程度で満足するはずがない。
「もう帰れ。明日も朝から会議だ」
「副社長こそ、お休みください」
「私は、人に心配されるほど弱くない」
淡々と返すその声に、疲労の色は薄い。ただ、硬さはある。その硬さを少しでも和らげたいと思ってしまう自分に気づき、みみは胸の奥で小さく驚いた。
「では、せめて。…明日の朝のお茶は少しだけ濃いめにお淹れします」
「それは助かる」
短い会話を終え、彼は執務室へ戻っていった。閉まる扉の音を聞きながら、みみは手帳を閉じる。ペンの跡で少しだけ疲れた指先を、そっと揉んだ。
(明日は、今日より少しだけ上手くやる。その次も、もう少し)
そうやって、彼の隣に立つ自分を、少しずつ形にしていく。
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ルーファウスは、自分の感情の揺れに敏感な男だった。
欲望や苛立ちや嫌悪——そういったものは、常にコントロールすべき対象として自覚している。父の身近で育った少年は、感情を晒した人間がどう扱われるかを十分に見てきた。だからこそ、彼は自分の心を切り分ける術を覚えた。
女に惹かれることも、もちろんあった。容姿、スタイル、声。バーで出会った相手や、父の取り巻きから流れてきた女たち。遊びの相手として価値があるかどうかを見抜く目も、彼なりに持っていたつもりだ。
しかし、みみを見ているときに胸の内側で動くものは、それらとは別種のものだった。
忙しい午前中、電話を捌きながら資料を整理し、時には自分の前に新しい書類を滑り込ませてくる。会議の途中、話の流れを読みながら、必要なページを開いて差し出す。昼休みの短い時間に、自分が漏らした一言を拾い、午後のスケジュールにさりげなく反映する。
ミスをしたときもそうだ。彼女は黙って顔色を伺うのではなく、自分から「ここがいけなかった」と言い出し、「次はこうする」と対策まで口にする。その懸命さは、媚びではなく、忠誠に近い。誰かの目を気にしてではなく、自分自身の基準に対して誠実であろうとする姿勢。
(不思議な女だ)
夜、机に残った資料に目を通しながら、ふと前室のほうを見やる。硝子越しに見える彼女の横顔が、ランプの光に照らされている。ペンを握る指先。紙の上を滑る視線。時折休めるように首を回し、軽く肩をほぐす。その一つひとつの動きが、なぜか目に残る。
容姿も当然、美しい。ゆるく波打つ髪をまとめ上げているときのうなじ。書類を抱えて歩くときの、細く整った手首。誰かを迎えるときに浮かべる穏やかな微笑。赤や金ではなく、淡い色合いのリップや控えめなアクセサリーの選び方には、六番街の派手さではなく、八番街の洗練があった。
だが、彼を惹きつけているのは、その「外側」だけではなかった。
(懸命さ、誠実さ、忠誠心、……裏表のない性格)
思考を整理するように、彼は心の中で単語を並べる。客観的に見ても、彼女は「優秀な秘書」だ。それだけなら、評価はそこまでにとどまるはずだった。
けれど、気づけば、彼は一日の始まりに「彼女に最初に何を任せるか」を考えている。会議の出席者に「彼女が同席しても問題ないか」を選別している。無意識に、彼女を「自分の一部」のように扱い始めている。
そして何より——。
(あの瞳に、俺を映したときの顔が、好きだと感じている)
電話越しに部署とやり取りをしているときの表情と、自分に向かって報告をしているときの表情は、微妙に違う。ルーファウスの前では、少しだけ緊張している。それなのに、恐れているわけではない。どこか誇らしそうでもある。
遊びの女たちは、彼の名と立場に向かって笑っていた。「副社長」としての彼に色気を振りまき、「神羅の血」にすり寄ってきた。その視線の向こうに見ているのは、いつも彼ではなく、その背後にある権力だった。
だが、みみの目には、そういう濁りがない。神羅の副社長であることも、マダム・マムに育てられた自分であることも、どちらも含めて「雇い主」として見ている。それ以上でも、それ以下でもない。だからこそ、彼は彼女の前で自分を切り分ける意味を、少しだけ忘れそうになる。
ある日、昼休みの終わり際、彼は何気なく問いかけた。
「仕事に、慣れてきたか」
彼女は少し考えてから、答える。
「業務の流れやルールには、少しずつ慣れてきました。ただ……」
「ただ?」
「副社長の思考のスピードには、まだついていけていないと感じています」
素直すぎる評価。ルーファウスは思わず片眉をあげた。
「そこまで自分を低く見る必要はない」
「低く見ているつもりはありません。…もっと見えるものが増えれば、副社長の一手先、二手先を考えて動けるようになると思うので」
彼女の中の「理想の秘書像」は、きっとどこかの本に書いてあったものではない。六番街で、マダム・マムの隣に立つ女たちを見て育ったその目で、「一番格好いい」と感じた姿なのだろう。
(マムの隣から——今は俺の隣に)
そう考えた瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。父とその愛人たちを見て育った少年にとって、「隣に立つ女」という概念は、いつもどこかで濁っていた。所有と利用と見栄。そういったもののために存在する関係。
だが、今、自分の側にいる彼女には、そのどれも当てはめたくない。
遊びで手を伸ばしたいとは思わない。欲を満たすためだけの相手として見ることもできない。そうしてしまえば、彼女の懸命さや誠実さや忠誠が、すべて安っぽく変質してしまう気がしてならない。
(俺は、何を守りたいと思っている)
仕事の能力か、忠誠心か、その笑顔か。プレートの上で、スラムで磨かれた女の誇りか。それとももっと、別の何かか。
答えはまだ言葉にならない。ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。
これは、今までの女たちに向けてきた感情とは、明らかに違う。
そう自覚したとき、ルーファウスは深く息を吐いた。窓の外には、工場の煙とネオンの光が混ざり合うミッドガルの空が広がっている。
(面倒な感情だ)
だが、打ち消そうとは思わなかった。むしろ、その存在をはっきりと認識しておきたいと思った。自分がこの先、どう彼女を扱い、どう自分を律していくのか。その指針になる。
ーー七番街で捨てられ、六番街で拾われ、八番街で磨かれた女は、今、世界の中心のひとつである塔の中で、一人の男の心の「中心」に静かに入り込みつつあった。
本人も、その男も、まだはっきりとそれを言葉にはしないまま。