神羅ビルの一日は、時計の針よりも細かく刻まれていた。

午前八時半。みみはいつものように、始業時刻より少し早く前室のドアを開ける。照明を点け、カーテンの角度を調整し、空気の重さを確かめる。書類トレイを整理し、ルーファウスのデスクに届いている書類の山をざっと分類する。重要なもの、緊急なもの、彼自身で目を通すべきもの、先に自分が要約できるもの。

その手つきは、すでに「初日」のぎこちなさを脱していた。

電話が鳴れば、声のトーンを半音落として出る。営業部の軽い冗談混じりの要件には、適度に受け流しながら本題を引き出し、軍からのかたい連絡には、言葉を噛まないよう慎重に復唱して確認する。ルーファウス宛の招待状や会合の案内は、一通一通付箋をつけ、メリットとデメリットを簡潔にメモする。

「この会合は、軍高官と経済界の顔合わせがメインのようです。副社長ご自身の参加は、優先度は中程度かと。ただ、父君の代打という形なら……」

「私が行けば、余計な期待を持たせるだけだ。代理を立てれば十分だな」

ルーファウスは一瞥で文面とみみのメモを確認し、即座に判断する。その判断が翌日の新聞の小さな記事にどう影響するかを、彼はよく知っていた。みみもまた、その重みを少しずつ理解し始めている。

日々の業務をこなしていくうちに、二人の間には暗黙のやり取りが増えていった。

視線で、「今すぐの対応が必要な案件か」「後でまとめて話せばよい案件か」を伝える。ルーファウスが書類にペンを走らせながら眉を僅かに寄せると、みみは静かに近づいて新しい資料を差し出す。それが何かを説明しなくても、彼は紙の重みと厚みで「ああ、例の予算案の修正版か」と察する。

気づけば、ルーファウスは、みみに任せる仕事の範囲を自然に広げていた。単なるスケジュール管理や資料準備だけではない。時には、対外向けの挨拶文の草案を任せることもあった。

「明日の懇親会用の挨拶文を、まずは君の案で書いてみろ」

「私が、ですか」

「どうせ形式ばった言葉を並べることになる。秘書課の連中に書かせたところで、無難で退屈なものしか出てこない。君なら、少しはマシなものを書けそうだ」

半分は皮肉、半分は本気。みみは素直に「かしこまりました」と頷き、自室の隅でペンを走らせた。

どこまで砕けてよいものか、どこから堅くすべきか。相手の年齢層や業種を考えながら、言葉を選ぶ。マムがよく言っていた。「言葉一つで、部屋の温度は一度二度変わる」と。ルーファウスに渡した原稿は、彼の手でいくつかの単語が差し替えられたものの、骨子はそのまま採用された。

「この一文は、君の言葉のままにしておこう」

「どの部分でしょうか」

「『私たち神羅カンパニーもまた、皆様と同じく、目の前の一歩を積み重ねることでしか未来に届けません』というくだりだ」

「……光栄です」

恥ずかしさと嬉しさが混ざって、小さく頭を下げる。それを見て、ルーファウスは心の中でひとつ納得する。

(期待以上の仕事をする女だ)

頼んだ以上のものを返してくる。余分に背伸びをするわけではなく、「ここまでできる」と自分なりの限界を押し広げてくる。その確実な手応えが、彼の中の信頼を静かに積み重ねていく。

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みみもまた、日々の中で少しずつ気づいていく。

ルーファウス・神羅という男に惹かれていく自分に。

最初に感じたのは、単純な尊敬だった。膨大な情報量を瞬時に整理し、必要なことだけを引き出す頭の回転。重役たちの前で、無駄のない言葉で議論を進めていく姿。父である社長との会議で、時に真正面から意見をぶつけ、それでも冷静さを失わない態度。

誰かに媚びるために頭を下げるのではなく、必要なときだけ頭を下げる。その基準が、自分の中にしっかりとあるのだと分かる。

そして何より——。

人を恐怖で動かそうとしない。

ミスをしても、声を荒げない。失望の色を隠しもしないが、それを怒りに変えることはない。代わりに、「次はどうする」と問う。その問いかけ方は、六番街のマムと少し似ていた。見捨てない。甘やかさない。その絶妙な距離。

(この人の役に立ちたい。隣で、恥ずかしくない自分でいたい)

そう思ってしまう自分が、日々少しずつ大きくなっていく。

しかし同時に、みみは何度も自分に言い聞かせる。

(私は秘書で、彼は雇い主。線は引いておかないといけない)

六番街で、何人もの女たちが「線」を見誤っていくのを見てきた。客に本気で惚れ込み、仕事と感情の境界が曖昧になっていく。痛い目を見るのは、いつもそういう側の女だった。

神羅カンパニーの副社長は、スラムの客とは比べものにならないほど遠い存在だ。権力も、責任も、背負っているものも違う。そこに個人的な感情を持ち込んでいいはずがない。

(必要のない感情は、ここには持ち込まない)

手帳の端に、小さくそう書いたことすらある。「必要ない」と自分に言い聞かせるために。書いてしまうあたり、すでに必要以上に意識していることの証拠でもあったが、それを認めるのはまだ怖かった。

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そんなある日、二人は会議フロアへ向かって歩いていた。

午後からの会議が続き、少しだけ時間が押している。ルーファウスは早足で歩き、みみは半歩後ろを歩調を合わせてついていく。廊下の両側には会議室が並び、ところどころに観葉植物が置かれている。その一角に、給湯室へ続く小さなドアがあった。

ステンレスの扉の隙間から、女性たちの声が漏れ聞こえてくる。笑い声と、少し抑えきれていない弾んだ調子。

「でもさあ、いきなり副社長付きって、ないよね?」

「ねー。あの子、どこの馬の骨? って感じ」

「薄い顔してるのに、妙に垢抜けてるじゃない? スラム出身って噂もあるけど、どこからどうやって取り入ったんだか」

「特別扱いだよね、あれは。いいなあ、副社長に可愛がられて」

「私だって、もう少し話す機会があれば……ねぇ?」

押し殺した笑い声と、露骨な言葉。「秘書課」の制服の擦れる音が混ざる。誰のことを言っているのか、考えるまでもなかった。

みみの足が、一瞬だけ止まりかける。胸の奥で、冷たいものがさっと広がった。こうなることは、予想の範囲内だった。突然、外部から来た女が副社長付きになったのだ。噂の的にならないほうがおかしい。

(分かっていた。分かっていたけど)

直に耳にすると、思っていたより刺さる。特別扱い。取り入った。可愛がられている。彼女たちが想像する「方法」がどういうものか、想像するのは容易い。六番街で、それと似たような光景を散々見てきた。

隣を歩くルーファウスの足取りが、一瞬だけ緩んだ。彼もまた、その会話を聞き取っていた。耳聡くなければ、副社長の椅子には座れない。

みみは、何も言わない。言えないと言ったほうが近かった。顔を上げて何事もなかったように歩き続けるべきか、少し速度を落とすべきか。心の中で瞬時に選択肢が飛び交う。

そのとき、ルーファウスが唐突に口を開いた。

「みみ」

「はい」

返事の声に、自分でも驚くほどかすかな震えが混ざっていた。彼はそれを聞き取ったかどうか、表情には出さない。

「今週の軍との予算再協議の件、現状を説明しろ」

会議室へと続く廊下で、あまりにも唐突な業務の問いかけ。周囲には、給湯室のドアと、通り過ぎる社員たち。彼がそれを選んだ意図に気づくのに、みみの頭は一拍遅れた。

すぐに理解が追いつき、彼女は息を吸う。

「はい。現状、軍側は当初案からの削減幅に難色を示しており、特に魔晄炉増設関連の予算確保を強く求めています。一方、財務部は既に研究開発部との配分で限界ぎりぎりのラインを設定しており、これ以上の軍への上乗せには反対です」

歩きながら、滑らかに言葉が出る。毎朝の情報整理と、前夜遅くまでかかった資料読みの成果だった。

「副社長のご方針に基づき、私からは両部署に対し、一旦『削減幅は維持。ただし、軍が提示した優先案件の中で、神羅としても必要と判断される項目に限り、研究開発部の次年度予算から一部流用の可能性を検討中』とお伝えしています」

「軍の優先案件で、私が『必要』と判断したものは?」

「魔晄炉防衛システムの改修案と、プレート防衛網の再構築案です。前者は昨今の反神羅活動への対応として、後者は各プレートへの攻撃リスクの軽減という側面から。いずれも、長期的には神羅の資産防衛に直結すると判断されました」

「財務部は何と言っていた」

「短期的な収支バランスの悪化を懸念していましたが、副社長が『短期の数字を繕っても、長期の崩壊は避けられない』とおっしゃったことを伝えたところ、再検討に入っています」

そこまで一息に答えたところで、廊下に一瞬の静寂が落ちた。給湯室の中の笑い声は止み、押し殺した気配だけが漂っている。扉の向こうで誰かが固まっている様子が、目に見えない形で伝わってきた。

ルーファウスは、ほんの一瞬だけ横目で給湯室の扉を見やり、それから何事もなかったように前を向く。

「あとは?」

彼の問いは、まだ続く。

「軍との次回協議は三日後の予定ですが、その前に研究開発部から防衛システム改修の技術的詳細が届くはずです。届き次第、私のほうで要点を整理し、副社長のご判断を仰げる形にまとめます」

「プレート防衛網に関するリスク評価は?」

「法務部との共同で、現在ドラフト版が作成されています。前回の会議で、副社長が指摘された『法的責任の所在を曖昧にしないこと』『住民への説明責任を軽視しないこと』を踏まえ、条項案に反映させるよう依頼済みです」

歩く速度を落とすことなく、会話は続く。廊下の端には、数人の社員が避けるように立ち止まり、自然と道を空けた。彼らの視線の先には、「副社長の隣で歩きながら軍との予算協議の詳細を語る女」がいる。

給湯室の中で、さきほどまで「特別扱い」「どうやって取り入った」などと言っていた女性たちもまた、扉一枚隔てた向こうで固唾を呑んでいることだろう。

この会話が誰に聞かれているかを、ルーファウスはよく分かっていた。

「……よし」

彼は短くそう言い、歩調を少しだけ緩めた。さて、とでも言うように。

「今の説明で欠けている視点は?」

試されている。みみは、僅かに目を伏せて考える。軍、財務、研究開発、法務。それぞれの言い分と、神羅としての全体方針。その中で、まだきちんと触れていない視点。

「……市民です」

「理由は」

「軍の予算と防衛システムの強化は、短期的にはプレート上の治安悪化や、反神羅感情の高まりを招く可能性があります。神羅が『自分たちを守るために市民を犠牲にする』という印象を強めないためにも、情報発信の仕方を慎重に設計する必要があると考えます」

言葉がスラスラと出る。これは教本ではなく、六番街と七番街で見てきた現実が言わせていることだった。スラムの人間たちが、神羅という巨大な塔をどんな目で見ているか。プレートの下から見上げる視線を、彼女は知っている。

「……ふむ」

ルーファウスは小さく頷いた。

「それについては、広報部に一任するつもりだったが……。君の視点を含めて、次回の打ち合わせに盛り込もう」

それだけ言って、彼は会議室手前で足を止めた。扉の前には、既に数人の重役たちが集まり始めている。

「さっきの件——」

彼はわざと、ほんの一瞬だけ言葉を切り、視線を給湯室の扉に流した。

「君がどう取り入ろうと、私は仕事の出来以外で人間を側に置かない」

みみは、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。彼は彼女を見ているのではなく、扉の向こうの「誰か」に向かって言っている。それでも、その言葉は彼女の心にも真っ直ぐ刺さった。

「……ありがとうございます」

小さな声でそう返す。そこに込めた感謝を、彼はきちんと受け取ったように、軽く頷いた。

「では、会議だ」

「はい、副社長」

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会議室の扉が閉まり、廊下から足音が遠ざかっていくと、給湯室の中には気まずい沈黙が残った。

さっきまで笑い声をあげていた秘書課の女性たちは、お互いの顔を見合わせ、誰も口を開こうとしない。さっきの会話を聞かれていたかどうかは分からない。だが、あのタイミングで、あの内容の業務会話。偶然にしては出来すぎている。

「……本当に、仕事できるんだ」

誰かがぽつりと漏らした。悔しさとも、安堵ともつかない声音。もう一人が、歯を噛むように言う。

「特別扱いじゃなくて、本気で『あの人の秘書』なんだね」

その言葉に、重たい現実が含まれていることを、本人たちも分かっている。色目だけで副社長の隣に立てると思っていた甘い幻想が、一枚剥がれ落ちる。

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会議のあいだ、みみはいつものように端に控え、メモを取りながら議論の流れを追った。さきほど廊下で説明した内容が、そのまま会議の骨組みになっていくのを見ていると、不思議な感覚にとらわれる。自分の言葉が、少しだけ世界の形に影響を与えているような——そんな錯覚。

会議が終わり、重役たちが部屋を出ていくのを見送ったあと、ルーファウスはちらと彼女のほうを見た。

「さっきの答えは、悪くなかった」

「ありがとうございます」

「君の視点は、私が持ち合わせていない部分だ。スラムの下から見た神羅の姿を知っていること。それは、君の武器になる」

「……武器、でしょうか」

「そうだ。自分の出自を恥じる必要はない。神羅の連中はプレートの上からしか世界を見ていない者が多い。下からの視点を持つ秘書は、そう多くない」

そう言われて、みみは初めて、自分がここに来た意味を少しだけ肯定された気がした。

(私だから見えるものを、この人のために使えるなら——)

胸の奥に、温かいものがふわりと広がる。それが何なのか、彼女は半分は分かっていて、半分はまだ認めたくなかった。

廊下でのあの一幕。わざわざあの場で、あのような業務の話をしたのは、明らかにルーファウスの気遣いだった。秘書課の噂話に対する、無言の反論。彼女を侮る視線への、静かな防御。

感謝の気持ちが、胸の中に大きく膨らんでいく。それと一緒に、別の感情もまた膨らみかけた。

(好きだ、と……)

そこまで言葉にした瞬間、みみは慌てて内心の声を断ち切った。頭の中で、ぱん、と手を打つように。

(違う。これは尊敬と感謝。仕事上の信頼と、恩義。それ以上でも、それ以下でもない)

口元を引き締め、手帳を開く。今の会議の要点を書き出す作業に意識を集中させる。ペン先が紙を滑る音が、余計な思考をかき消してくれる。

必要のない感情は、ここには持ち込まない。

そう自分に言い聞かせながら、それでもペンを握る指先が少しだけ震えていることを、彼女は見ないふりをした。

そして、執務室の中で資料に目を通しながら、ふと前室のほうを見やったルーファウスもまた、自分の胸の奥に小さく灯った暖かさを「面倒な感情だ」と苦笑しつつ、決して消そうとはしなかった。