神羅ビルの一日は、相変わらず秒刻みで過ぎていく。それでも、最初の頃と決定的に違うものが一つあった。ルーファウスとみみの会話に、ほんの少しだけ「業務外」の言葉が混ざるようになったことだ。

たとえば、朝一番。

エレベーターを降りてきたルーファウスに、みみはいつものように一礼し、淹れたてのコーヒーを差し出す。

「本日のご予定ですが、午前は会議が三件ございます。うち二件は予定通り三十分、もう一件は相手方の都合で十五分に短縮されました」

「短くなるのは、あの退屈なプレゼンのほうか?」

「はい。副社長がお好きでないほうです」

淡々と答えながらも、声の端にわずかな冗談の色を混ぜると、ルーファウスは目を伏せてコーヒーを一口飲み、「良い朝だ」とほんの僅かに口元を緩めた。

昼前、書類の束を抱えて前室に戻ってきたルーファウスが、ふとみみの机の上の手帳に視線を落とす。相変わらず細かな字でびっしりと埋まっている。

「…相変わらず、よくもここまで書くものだな」

「書かないと忘れてしまうので」

「忘れたほうが楽なこともある」

「そうですね。でも、副社長絡みのことは、なるべく忘れないでおきたいです」

さらりと返した言葉に、自分で少し驚いて、みみはペン先に視線を落とす。ルーファウスは一拍置いてから、「それは光栄だ」とだけ答えた。二人とも、それ以上踏み込む言葉は選ばない。選べば、何かが変わってしまう予感がするからだ。

昼休憩の終わり際、窓の外を見ながらの短い会話もそうだった。

「あのビルの上に、小さな公園があるの、ご存じですか?」

みみが指さしたのは、神羅ビルから少し離れた企業ビルの屋上。遠目にも緑が見える。

「いや、知らないな」

「たまに、昼休憩のときに見えるんです。…それを見ると、少しだけ、プレートの上にも『土』があるんだなって安心します」

「君は、土が恋しいか」

「スラムの土は、あんまり綺麗じゃありませんでしたけど」

半ば冗談で、半ば本気でそう言うと、ルーファウスは腕を組んだまま窓の外を見た。

「プレートの上の連中は、土を踏まずに一生を終える者もいる。…それが贅沢なのか、不幸なのかは、判断に迷うところだな」

「きっと、人によりますね」

「君は?」

「私は、たまにでいいので、ちゃんとした土を踏んでみたいです」

「……覚えておこう」

そう口にした彼の横顔には、何か約束めいた硬さが宿っていた。だが二人とも、その約束に具体的な形を与えることはしない。仕事と仕事の隙間に落ちる、小さな雑談の欠片として胸の中にそっとしまっておく。

雇用関係以上にならないように——意識すればするほど、言葉の端々に、視線の揺れに、わずかな「それ以上」が滲んでしまう。そのことを最もよく自覚しているのは、他ならぬ二人自身だった。

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その日も、仕事は夕方から夜にかけて雪だるま式に膨れ上がっていた。

軍との協議結果のまとめと、それに基づいた次回の議題案づくり。新たに立ち上がるプロジェクトチームの人選案。社長から唐突に降りてきた「明日の挨拶」を巡る調整。どれも、「明日でいい」とは言えない類の仕事だ。

「申し訳ありません、副社長。今日中に片づけておきたい案件が、あと少しあります」

時計が二十一時を過ぎた頃、みみはデスクの前でそう言った。眼の下にはうっすらと疲労の影が浮かんでいるが、背筋はまだ真っすぐだ。

「……私のほうこそ、君を巻き込んでいる自覚はある」

ルーファウスはペンを置き、書類から目を離した。

「残業を強要する雇い主は、あまり良いものではないな」

「強要だなんて思っていません。必要だから残っているだけです」

それは本心だった。彼の仕事が山積みで、彼一人に背負わせるにはあまりにも重いことを、日々傍で見ているからこそ、自分にできることは全部やりたいと思ってしまう。

「ただ……」

「ただ?」

「もう少しだけ体力が欲しいな、とは思います」

冗談めかして言ったその言葉に、ルーファウスはわずかに笑った。

「それは鍛えるしかないな。ジムでも紹介しようか」

「筋肉痛で仕事に支障が出ると困るので、もう少し先延ばしにさせてください」

「逃げたな」

軽口が交わされる。空気は、日中よりわずかに柔らかい。とはいえ、机の上には現実が積みあがっている。ルーファウスは再び書類に視線を戻し、みみもまたキーボードを叩き始めた。

前室と執務室のあいだを、数回行き来する。コピー機の前、給湯スペース、廊下。歩くたび、足が少しずつ重くなっていくのを、みみは自覚していた。

(大丈夫。もう少し。あと、三件分だけ)

自分に言い聞かせるように、ペンを握る指に力を込める。視界の端で、文字がほんの少しだけ滲んだ。

瞬間、小さな違和感が頭の奥をかすめる。耳鳴り。心臓の鼓動が、いつもより強く、速く感じる。座ったままの姿勢から立ち上がったとき、足元がふわりと揺れた。

(……あれ)

プリンターから出てきた書類をまとめ、執務室へ持っていこうとしたその瞬間だった。視界の端から、色がスッと引いていく。白い壁と黒い床との境界線が曖昧になる。

「副社長、先ほどのドラフトに修正を——」

言いかけて、足がもつれる。身体が前に倒れかけ、紙束が指から滑り落ちる感触が、やけに遠くで起きていることのように思えた。

床にぶつかる衝撃は来なかった。

代わりに、硬くて温かいものに胸元から支えられる。片方の腕が腰を支え、もう片方の手が背中に回る。鼻孔をかすめるのは、ほのかに甘くも苦い香水の香りと、シャツの糊の匂い。そして、微かにインクと紙の匂い。

「……っ」

みみの視界に、白いシャツの胸元と、結び目を緩めたネクタイが映った。顔を上げれば、そのすぐ上に、淡い青の瞳があるのだと分かってしまうから、怖くて上げられない。

「立てるか」

耳元で、低い声がした。いつもの冷静なトーンより、少しだけ硬い。心配と焦りが、わずかに混ざっている。

「す、みません……少し、目が、回って……」

情けないくらい途切れ途切れの声しか出てこない。自分の体重がどれだけ彼にかかっているかも判然としない。ただ、腕の力はしっかりとしていて、支えを失う気配はまるでない。

ルーファウスは、彼女が倒れかけた瞬間、椅子から立ち上がっていた。書類が床に散るより早く、伸ばした腕に柔らかな重みが飛び込んでくる。その感覚は、予想以上に「人間」で、彼の心臓を一瞬だけ強く打たせた。

みみの身体は、見た目よりもずっと華奢だった。スーツ越しに感じる腰の細さ、背中のライン。ふわりと触れる髪の先端が、彼の手の甲を掠める。そのすべてが、やわらかい。壊れやすそうでいて、必死にここまで立ってきた強さも同時に宿している。

(…軽いな)

口は悪くても、心の中でそう思う。ここ数日の残業続きと、慣れない緊張の連続が、確実に彼女の体力を削っていたのだろう。細い肩に、自分がどれだけのものを乗せてきたかを、今さらながら自覚させられる。

そして同時に、胸の奥から湧き上がってくる感情があった。

離したくない。

理屈ではない。「秘書だから」「大事な戦力だから」といった言い訳ではくくれないところから湧く、原始的で、しかし彼にとっては初めての種類の欲求。

女の身体に触れて、手放したくないと思ったのは、これが初めてだった。今までは、触れることも、離すことも、自分の都合でどうとでもできる「娯楽」でしかなかった。だが、みみを抱きとめた今、腕の中の重みを手放してしまうことに、奇妙な恐れを感じている自分に気づく。

(何を考えている)

心の中で自嘲気味に呟きながらも、腕に込めた力は緩められない。彼女の額に汗が浮かんでいるのが見えた。頬が少し青ざめている。

「呼吸は」

「だ、大丈夫です……少し、立ちくらみを……」

震える声。言葉の途中で、彼女の肩が小さく上下する。心臓は落ち着いていないが、意識ははっきりしているようだ。

みみのほうも、必死だった。支えられた瞬間、身体より先に心臓が跳ねた。胸の内側から、どくどくと音が聞こえる気がする。ルーファウスの腕の力強さ、手のひらの広さ、胸元から漂う上品な香水の香り——それらすべてが一気に押し寄せてきた。

(ち、近い……)

距離が近い、という言葉では足りない。世界に自分と彼しかいないような、もう数センチ動けば唇が触れそうだと錯覚するほどの近さ。顔を上げれば、その瞳と目が合ってしまう。それが怖くて、目線はどうしても彼の喉元あたりで止まる。

肩に回った腕から伝わる体温が、スーツ越しにじわりと広がっていく。筋肉の硬さと、それを覆う布の滑らかさ。自分の体温より高いそれに触れているうちに、今度は別の種類の眩暈がしてきた。

(落ち着いて。これは仕事。倒れるのを支えてもらっただけ)

何度もそう言い聞かせても、鼓動は止まってくれない。むしろ、彼の胸元に耳を近づければ、自分の心臓の音まで聞こえてしまいそうで、怖い。

「座れ」

ルーファウスは短く告げ、彼女の腰を支えたまま、ソファへと誘導した。歩くというより、半ば抱き寄せるような形になる。彼自身も、彼女も、それに気づいていながら、今は「移動」という現実的な名目の下に誤魔化す。

ソファに腰を下ろさせると、彼は手を離した。離した瞬間、腕に残った感触が鮮明に意識へと浮かび上がる。ぬくもりと、重みと、かすかな震え。

(離したくない、などと——)

我に返ったように、心の中で言葉を噛む。そんなことを考える立場ではない。雇い主と秘書。自分が崩せば、彼女の足場も崩れる。

「顔色が悪い。もう今日は終わりだ」

いつもの落ち着いた声を取り戻し、彼は告げた。

「で、でも、まだ資料が——」

「資料は逃げない。逃げるとしたら、君の体力のほうだ」

有無を言わせない声音。仕事の話では滅多に見せない種類の「命令」がそこにある。みみは一瞬だけ唇を噛んだが、反論の言葉は出てこなかった。

「タクシーを呼ぶ。自分の足で帰れる状態ではなさそうだ」

「歩けます。大丈夫です」

「その『大丈夫』は、信用しない」

はっきりと言われて、みみは視線を落とした。情けなさと、申し訳なさと、同時に、どうしようもなく嬉しいものが胸の内で絡み合う。

「……お手数をおかけして、申し訳ありません」

「手数を増やしているのは、私のほうだ」

そう言って、ルーファウスは端末を取り出し、ビル前までタクシーを呼び出す手続きを始めた。手慣れた動き。それが、仕事上の送迎のためではなく、今は一人の秘書のためであることが、妙に現実味を帯びて胸に響く。

数分後、彼は上着を手に取り、みみの前に差し出した。

「これを羽織れ。外は冷える」

「で、でも、それは副社長の——」

「風邪でも引かれたら、明日からの仕事が滞る」

理由の中心が仕事であることに、みみは少しだけ救われる。上着を受け取り、肩にかけると、先ほどより強く彼の香りが包み込んできた。意識してはいけないと思えば思うほど、嗅覚は敏感になる。

エレベーターまでの短い距離を、ルーファウスは彼女のすぐ横を歩いた。倒れないよう、僅かに腕を伸ばせばすぐ支えられる位置に。ビルのロビーを抜け、外に出ると、冷たい夜風が頬をなでる。熱を帯びていた頭が、少しだけ冷える感覚。

ビル前に停まった黒いタクシーのドアが、自動で開く。ルーファウスは先に運転手に行き先を告げ、それからみみのほうに視線を戻した。

「明日は、午前中は在宅でもいい。午後から出てこられるなら、それで構わない」

「いえ、出社いたします。……今日は少し疲れが溜まっていただけですから」

「その判断も含めて、明日の朝、自分の身体と相談しろ」

口調は厳しいが、その中に心配が滲んでいることを、みみは感じ取る。胸の奥で、また何かがふわりと膨らみかける。

(好き、だなんて——)

タクシーの座席に腰を下ろす直前、その言葉が喉元まで上がりかけて、慌てて飲み込む。心臓はまだ早鐘を打っている。これは倒れかけたせいだ。近くにいたからだ。香りのせい。全部、そのせいにしてしまいたかった。

「本当に……ありがとうございました、副社長」

精一杯、仕事の顔で礼を言う。ルーファウスは短く頷いた。

「君がいないと困るのは事実だ。だから、自分の身体を軽んじるな」

「……はい」

ドアが閉まる。窓の向こうで、ルーファウスがわずかに手を上げるのが見えた。タクシーがゆっくりと発進し、神羅ビルの巨大な影が後ろに遠ざかっていく。

後部座席に沈み込んだみみは、膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。彼の上着から漂う香りが、まだ自分を包んでいる。目を閉じると、さっき腕の中で感じた体温が鮮やかに蘇る。

(私は秘書。彼は雇い主。それ以上でも、それ以下でもない)

何度も何度も頭の中で繰り返す。けれど、そのたびに、「それ以上」の景色が一瞬だけ脳裏に浮かんでは消える。ソファに座らされた瞬間の腕の感覚。支えられた腰。耳元をかすめた声。

「……だめ」

小さく呟き、額を指で押さえる。必要のない感情は、ここには持ち込まない。そう決めたはずだ。今夜は、きっと疲れているから弱くなっているだけ。明日になれば、またいつもの「副社長と秘書」に戻れる——そう自分に言い聞かせる。

一方、神羅ビルの前に一人立ち尽くしていたルーファウスは、遠ざかるタクシーの尾灯を見送りながら、胸の内で静かに息を吐いた。

腕の中に収まった柔らかな重みと、「離したくない」と一瞬でも考えてしまった自分。それを思い出して、苦く笑う。

(面倒な感情だ)

だが、打ち消そうとはしない。ただ、きちんと自覚しておく。自分が彼女に対して、他のどの女とも違う感情を抱き始めていることを。だからこそ、これ以上彼女を無茶な残業で追い詰めることも、都合よく感情を利用して近づくことも、許されない。

「……明日のスケジュールを、少し軽くしておくか」

執務室へ戻りながら、彼は端末を開いた。副社長の予定表に指を走らせながら、その隣にある「秘書」の体力と心の余力も、一緒に計算に入れていく。

雇用関係の枠の中でできる最大限の気遣い。その線からは、まだ一歩も踏み出さないまま——しかし、その線の上を歩く二人の距離は、気づかぬうちに、確実に近づき始めていた。