06
タクシーの揺れは、いつもより柔らかく感じた。
みみは額を窓に預けかけて、慌てて体を起こす。眠ってしまえば、きっとそのまま夢と現実の境目がぐずぐずになって、さっきの出来事まで夢に押し流してしまいそうだった。そうなれば明日、「あれも夢だったのかもしれない」と自分に言い訳をしてしまいそうで、それが怖かった。
膝の上には、ルーファウスの上着。薄手なのに不思議な保温力があって、まだ冷たい夜気を完全には遮りきれていない身体を、じんわりと包んでいる。鼻をくすぐる香りは、昼間に感じるより少しだけ濃い。香水と、彼の体温と、ビルの中の空気が混ざったような匂い。
(返さないと)
明日、ちゃんと返す。洗って返すべきかどうか迷って、頭の中でぐるぐると考える。香りを落としてしまうのが申し訳ないような、でもこのままというのも図々しいような気がする。考えれば考えるほど、どちらを選んでも「意識している」ことを自分で認めることになってしまう気がして、余計に頭が熱くなった。
「……疲れてるだけ」
小さく呟いて、自分に言い聞かせる。倒れかけたから、身体がびっくりしているだけ。支えられたから、心臓が驚いているだけ。それ以上の意味を持たせたらいけない。
タクシーがアパートの前に停まり、運転手に礼を言って降りる。夜風が、ビルのガラス越しよりずっと冷たい。上着の襟を少しだけ立てながら階段を上がると、そこで初めて、自分の足が思っていた以上に重くなっていることに気づいた。
部屋に入ると、いつもの安い照明が、どこか現実に引き戻してくれる。神羅ビルの明かりよりずっと頼りないのに、今はそれがありがたかった。靴を脱ぎ、上着を丁寧に畳んで椅子の背にかける。そこだけ、部屋の中で浮いているように見えた。
ベッドに倒れ込む前に、手帳を開く。今日の欄の最後に、「倒れた」とだけ書こうとして、ペン先が止まる。ひらがな三文字では、あまりにも「出来事」だけで終わってしまう気がした。
少し考えてから、別の行にゆっくりと書く。
「無理をして倒れるのは、仕事ではない」
マムなら、きっとそう言って怒るだろう。ルーファウスも、似たようなことを言った。誰かに叱られる前に、自分で自分を叱っておく。そうしておかないと、明日また同じことを繰り返してしまいそうで怖かった。
ペンを置くと、途端に眠気が襲ってきた。シャワーを浴びる気力もぼんやりとしたまま、服を脱ぎ捨ててベッドにもぐり込む。目を閉じると、腕の中の感触が鮮やかに蘇ってきて、慌てて布団を頭までかぶった。
(忘れて、寝る)
そう決めて、意識を手放した。
---
翌朝、目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。身体は思っていたほど重くない。昨夜の眩暈は、どうやら一時的なものだったらしい。軽く首を回し、肩を動かす。どこも、いつも以上に痛いわけではない。
鏡を見ると、目の下のクマは、ほんの少しだけ濃い気がした。それでも、メイクで隠せないほどではない。むしろ、これくらいのほうが「働いている顔」だと、自分に言い聞かせる。
問題は——椅子の背にかかっている上着だった。
「……どうしよう」
小さく呟いて、布地を指先でつまむ。夜の間に少しだけ空気を吸い込んだのか、香りはやや柔らかくなっている。汗や汚れは、ほとんどついていないように見えた。タクシーの中でも、そのあとの部屋でも、大して動いていないのだから当然と言えば当然だ。
(洗ったほうがいい。けど、香りが……)
迷った末に、みみは丁寧にブラッシングをすることにした。ホコリを払って、皺を軽く伸ばす。六番街の店で、ドレスの手入れを教え込まれたときの手つきが自然と蘇る。完璧ではないが、昨夜よりはずっときれいな状態になった。
それで、いい。香りも、皺も、「彼のもの」のまま返すのが、きっと一番正しい。そう結論づけて、みみは上着を腕に抱え、いつもの時間よりほんの少し早く部屋を出た。
---
神羅ビルのエントランスに足を踏み入れたとき、いつもの冷たい空気が頬を撫でる。その温度に、夜のあいだ少し浮ついていた心が、ようやく完全に現実に戻ってきた気がした。
前室に入ると、まだルーファウスの姿はない。始業より少し早い時間。みみは自分の椅子に上着をそっと置き、まずはいつものルーティンを始めた。窓のブラインドを調整し、書類トレイを確認し、コーヒーメーカーの準備をする。
数分後、エレベーターの到着音が聞こえた。足音が近づき、扉が開く。
「おはようございます、副社長」
いつも通りの声で挨拶をすると、ルーファウスは一瞬だけ彼女を見て、それから小さく頷いた。視線が一瞬、彼女の腕に抱えられた上着に向かう。
「おはよう。……体調は?」
「はい。おかげさまで、もうすっかり」
「そうか」
ルーファウスは執務室へ向かおうとして、一歩だけ足を止めた。みみがそっと近づき、両手で畳んだ上着を差し出す。
「昨夜はありがとうございました。こちら、お返しいたします」
彼は一瞬、その上着を見つめ、それから受け取った。布地の感触を指先で確かめるように撫でる。
「……洗ったのか?」
「いえ。ホコリだけ払わせていただきました。勝手に洗ってしまって香りを変えてしまうのは、失礼かと思って」
その言葉に、ルーファウスの口元が、ごくわずかに緩む。
「気が利くな」
「六番街でドレスの手入れを教わっていましたので」
「マダム・マムの店か」
「はい」
短い問答。上着を腕にかけながら、ルーファウスは彼女をじっと見た。顔色は悪くない。むしろ昨夜より血色がいい。無理に笑っている様子もない。
「今日の午前中の予定だが——」
彼は執務室のドアノブに手をかけながら、ふっと言葉を変えた。
「会議を一つ減らした」
「え?」
思わず素の声が漏れる。彼女の手元のスケジュールには、しっかりと三件の会議が印字されているはずだった。
「早朝に、財務部との定例会議を別日に移した。君が休むかもしれないと思って調整したが……」
そこで一瞬、目を細める。
「出てきた以上は、予定通り働いてもらう」
「……はい」
何をどう返していいか分からず、みみはただ頷いた。その頷きの裏側で、胸の奥にじんわりと温かいものが溜まっていく。
(休むことも考えてくれていたんだ)
口に出して「心配している」とは言わない。あくまで、仕事の都合として。「秘書がいないと会議の効率が落ちるから」という理由を前面に出して。それでも、その裏にある気遣いを、みみは確かに感じ取っていた。
「では、コーヒーをお持ちします」
「頼む」
執務室の扉が閉まり、みみは深く息を吐いた。胸の鼓動は、昨夜ほど激しくはない。それでも、いつもより少しだけ速い。
(落ち着いて。仕事、仕事)
自分に言い聞かせながら、コーヒーを淹れる手つきはいつも通りだった。香り立つ湯気を見つめていると、わずかに震えていた指も、自然と落ち着いてくる。
---
その日一日、仕事は不思議と滑らかに進んだ。
ルーファウスのスケジュールは相変わらず詰まっているが、その合間に、ふとした雑談が紛れ込む。会議室への移動の途中で、エレベーターの中で、書類の束の上で。
「この契約書、文言のわりに妙に紙質がいいな」
「ですよね。私も思いました。何かの予算が、紙に流れている気がします」
「くだらない金の使い方だ」
「きっと、紙を作っている子会社があるんですよ」
そんなやり取りに、ルーファウスは苦笑し、「調べておけ」と軽く命じる。後で本当に調べてみると、小さな関連会社がその契約書専用の紙を納入していることが分かり、みみは思わず「本当にあった」とメモに書き込んだ。
昼休みには、彼が窓の外を眺めながらぽつりと漏らす。
「このビルの上にも、あの屋上庭園のようなものがあればいいのだがな」
「神羅ビルは、硬派ですから」
「硬派、か。……単に融通が利かないだけだ」
「そこも含めて、神羅らしいと思います」
仕事の枠から半歩だけはみ出した会話。それ以上は踏み込まない。お互いにそう決めているように、どこかで本能的に線を引いている。
けれど、その半歩の積み重ねは、確実に二人の距離を縮めていた。
---
夜になり、再び残業の時間がやってきた。今日は昨日ほどの山ではないが、それでも「定時で帰る」という選択肢はない。
「今日は、昨日ほど無茶はさせない」
ペンを走らせながら、ルーファウスがぽつりと言う。みみはキーボードに向かっていた手を止めて、少しだけ笑った。
「無茶をしていたのは、私のほうです」
「その自覚があるならいい。……二十二時には切り上げる。いいな」
「はい」
その約束は守られた。二十二時ぴったりに、ルーファウスはペンを置き、「今日はここまでだ」と宣言した。みみもまた、手元の仕事に区切りをつける。「まだやれる」と思ってしまう自分をぐっと抑えて。
帰り支度をしながら、みみはふと、昨日書いた手帳の言葉を思い出す。「無理をして倒れるのは、仕事ではない」。それを、彼自身も同じように考えていたのだとしたら——少しだけ、誇らしい。
エレベーターの前で二人並ぶと、ガラス窓の向こうに広がる夜景が目に入る。ミッドガルのネオンと、煙と、遠くに瞬く小さな光。プレートの上と下の明かりが、複雑に絡み合っている。
「明日も、早いですね」
「いつも通りだ」
「副社長は、いつ休んでいるんですか」
何気なく聞いたつもりの言葉に、自分で少し驚く。仕事の範囲から、ほんの少し踏み込んだ質問だった。
ルーファウスは、顎に手を当てて少し考えるふりをした。
「……君がいない時間だ」
「私がいない時間?」
「そうだ。君がいるときは仕事をする。いないときは、多少休んでいても仕事をしているように見せられる」
「それは休んでいると言うのでしょうか」
「定義の問題だな」
真顔でそう言われて、みみは思わず吹き出した。笑いながら、胸の奥が少しだけ温かくなる。自分がここにいることが、この人の一日の「単位」になっているのだとしたら——それは、秘書としてこの上なく光栄なことだ。
エレベーターの扉が開き、中に乗り込む。鏡面に、二人の姿が並んで映る。そこには、雇い主と秘書以上の何かが滲んでいるような気がして、みみはわずかに視線を逸らした。
(雇い主と秘書。そこからはみ出してはいけない)
そう自分に言い聞かせる。けれど、昨日腕の中で感じた体温も、上着の香りも、完全に忘れることはできなかった。
ルーファウスもまた、隣に立つ彼女の姿を、鏡越しに横目で見た。背筋の伸びた、細くしなやかな立ち姿。緊張と疲労と、それでも明日もここに来ようとする意志。
(離したくない、などと考えたのは——)
昨日の一瞬を思い出して、内心で苦く笑う。その思いは、ふざけた戯言ではないと自覚している。だからこそ、それを表に出すわけにはいかない。
雇用関係の線を、自分の側から踏み越えることはしない。その線を守ることが、彼女の居場所を守ることにもつながるのだと、本能で理解していた。
だから代わりに、彼はスケジュールを調整し、残業時間を制限し、仕事の割り振りを工夫する。すべて「副社長」としての顔のままでできることだ。
エレベーターが一階に着き、扉が開く。
「気をつけて帰れ」
「副社長も、お疲れ様でした」
短い言葉を交わし、それぞれの方向へ歩き出す。ビルの外で別れたあと、みみは夜風を吸い込みながら、胸の奥につんとした痛みのようなものを抱えていることに気づいた。
それが何かを、彼女はまだ名前で呼ばない。
ただ、明日もまた神羅ビルの最上階へ向かうエレベーターに乗る自分を、容易に想像できることだけは確かだった。そこには、雇い主としての顔をした男がいて、自分は秘書としての顔をして隣に立つ。
その枠の中に、こぼれ落ちそうになる感情を、今日も明日も、丁寧に押し留めながら。
みみは額を窓に預けかけて、慌てて体を起こす。眠ってしまえば、きっとそのまま夢と現実の境目がぐずぐずになって、さっきの出来事まで夢に押し流してしまいそうだった。そうなれば明日、「あれも夢だったのかもしれない」と自分に言い訳をしてしまいそうで、それが怖かった。
膝の上には、ルーファウスの上着。薄手なのに不思議な保温力があって、まだ冷たい夜気を完全には遮りきれていない身体を、じんわりと包んでいる。鼻をくすぐる香りは、昼間に感じるより少しだけ濃い。香水と、彼の体温と、ビルの中の空気が混ざったような匂い。
(返さないと)
明日、ちゃんと返す。洗って返すべきかどうか迷って、頭の中でぐるぐると考える。香りを落としてしまうのが申し訳ないような、でもこのままというのも図々しいような気がする。考えれば考えるほど、どちらを選んでも「意識している」ことを自分で認めることになってしまう気がして、余計に頭が熱くなった。
「……疲れてるだけ」
小さく呟いて、自分に言い聞かせる。倒れかけたから、身体がびっくりしているだけ。支えられたから、心臓が驚いているだけ。それ以上の意味を持たせたらいけない。
タクシーがアパートの前に停まり、運転手に礼を言って降りる。夜風が、ビルのガラス越しよりずっと冷たい。上着の襟を少しだけ立てながら階段を上がると、そこで初めて、自分の足が思っていた以上に重くなっていることに気づいた。
部屋に入ると、いつもの安い照明が、どこか現実に引き戻してくれる。神羅ビルの明かりよりずっと頼りないのに、今はそれがありがたかった。靴を脱ぎ、上着を丁寧に畳んで椅子の背にかける。そこだけ、部屋の中で浮いているように見えた。
ベッドに倒れ込む前に、手帳を開く。今日の欄の最後に、「倒れた」とだけ書こうとして、ペン先が止まる。ひらがな三文字では、あまりにも「出来事」だけで終わってしまう気がした。
少し考えてから、別の行にゆっくりと書く。
「無理をして倒れるのは、仕事ではない」
マムなら、きっとそう言って怒るだろう。ルーファウスも、似たようなことを言った。誰かに叱られる前に、自分で自分を叱っておく。そうしておかないと、明日また同じことを繰り返してしまいそうで怖かった。
ペンを置くと、途端に眠気が襲ってきた。シャワーを浴びる気力もぼんやりとしたまま、服を脱ぎ捨ててベッドにもぐり込む。目を閉じると、腕の中の感触が鮮やかに蘇ってきて、慌てて布団を頭までかぶった。
(忘れて、寝る)
そう決めて、意識を手放した。
---
翌朝、目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。身体は思っていたほど重くない。昨夜の眩暈は、どうやら一時的なものだったらしい。軽く首を回し、肩を動かす。どこも、いつも以上に痛いわけではない。
鏡を見ると、目の下のクマは、ほんの少しだけ濃い気がした。それでも、メイクで隠せないほどではない。むしろ、これくらいのほうが「働いている顔」だと、自分に言い聞かせる。
問題は——椅子の背にかかっている上着だった。
「……どうしよう」
小さく呟いて、布地を指先でつまむ。夜の間に少しだけ空気を吸い込んだのか、香りはやや柔らかくなっている。汗や汚れは、ほとんどついていないように見えた。タクシーの中でも、そのあとの部屋でも、大して動いていないのだから当然と言えば当然だ。
(洗ったほうがいい。けど、香りが……)
迷った末に、みみは丁寧にブラッシングをすることにした。ホコリを払って、皺を軽く伸ばす。六番街の店で、ドレスの手入れを教え込まれたときの手つきが自然と蘇る。完璧ではないが、昨夜よりはずっときれいな状態になった。
それで、いい。香りも、皺も、「彼のもの」のまま返すのが、きっと一番正しい。そう結論づけて、みみは上着を腕に抱え、いつもの時間よりほんの少し早く部屋を出た。
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神羅ビルのエントランスに足を踏み入れたとき、いつもの冷たい空気が頬を撫でる。その温度に、夜のあいだ少し浮ついていた心が、ようやく完全に現実に戻ってきた気がした。
前室に入ると、まだルーファウスの姿はない。始業より少し早い時間。みみは自分の椅子に上着をそっと置き、まずはいつものルーティンを始めた。窓のブラインドを調整し、書類トレイを確認し、コーヒーメーカーの準備をする。
数分後、エレベーターの到着音が聞こえた。足音が近づき、扉が開く。
「おはようございます、副社長」
いつも通りの声で挨拶をすると、ルーファウスは一瞬だけ彼女を見て、それから小さく頷いた。視線が一瞬、彼女の腕に抱えられた上着に向かう。
「おはよう。……体調は?」
「はい。おかげさまで、もうすっかり」
「そうか」
ルーファウスは執務室へ向かおうとして、一歩だけ足を止めた。みみがそっと近づき、両手で畳んだ上着を差し出す。
「昨夜はありがとうございました。こちら、お返しいたします」
彼は一瞬、その上着を見つめ、それから受け取った。布地の感触を指先で確かめるように撫でる。
「……洗ったのか?」
「いえ。ホコリだけ払わせていただきました。勝手に洗ってしまって香りを変えてしまうのは、失礼かと思って」
その言葉に、ルーファウスの口元が、ごくわずかに緩む。
「気が利くな」
「六番街でドレスの手入れを教わっていましたので」
「マダム・マムの店か」
「はい」
短い問答。上着を腕にかけながら、ルーファウスは彼女をじっと見た。顔色は悪くない。むしろ昨夜より血色がいい。無理に笑っている様子もない。
「今日の午前中の予定だが——」
彼は執務室のドアノブに手をかけながら、ふっと言葉を変えた。
「会議を一つ減らした」
「え?」
思わず素の声が漏れる。彼女の手元のスケジュールには、しっかりと三件の会議が印字されているはずだった。
「早朝に、財務部との定例会議を別日に移した。君が休むかもしれないと思って調整したが……」
そこで一瞬、目を細める。
「出てきた以上は、予定通り働いてもらう」
「……はい」
何をどう返していいか分からず、みみはただ頷いた。その頷きの裏側で、胸の奥にじんわりと温かいものが溜まっていく。
(休むことも考えてくれていたんだ)
口に出して「心配している」とは言わない。あくまで、仕事の都合として。「秘書がいないと会議の効率が落ちるから」という理由を前面に出して。それでも、その裏にある気遣いを、みみは確かに感じ取っていた。
「では、コーヒーをお持ちします」
「頼む」
執務室の扉が閉まり、みみは深く息を吐いた。胸の鼓動は、昨夜ほど激しくはない。それでも、いつもより少しだけ速い。
(落ち着いて。仕事、仕事)
自分に言い聞かせながら、コーヒーを淹れる手つきはいつも通りだった。香り立つ湯気を見つめていると、わずかに震えていた指も、自然と落ち着いてくる。
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その日一日、仕事は不思議と滑らかに進んだ。
ルーファウスのスケジュールは相変わらず詰まっているが、その合間に、ふとした雑談が紛れ込む。会議室への移動の途中で、エレベーターの中で、書類の束の上で。
「この契約書、文言のわりに妙に紙質がいいな」
「ですよね。私も思いました。何かの予算が、紙に流れている気がします」
「くだらない金の使い方だ」
「きっと、紙を作っている子会社があるんですよ」
そんなやり取りに、ルーファウスは苦笑し、「調べておけ」と軽く命じる。後で本当に調べてみると、小さな関連会社がその契約書専用の紙を納入していることが分かり、みみは思わず「本当にあった」とメモに書き込んだ。
昼休みには、彼が窓の外を眺めながらぽつりと漏らす。
「このビルの上にも、あの屋上庭園のようなものがあればいいのだがな」
「神羅ビルは、硬派ですから」
「硬派、か。……単に融通が利かないだけだ」
「そこも含めて、神羅らしいと思います」
仕事の枠から半歩だけはみ出した会話。それ以上は踏み込まない。お互いにそう決めているように、どこかで本能的に線を引いている。
けれど、その半歩の積み重ねは、確実に二人の距離を縮めていた。
---
夜になり、再び残業の時間がやってきた。今日は昨日ほどの山ではないが、それでも「定時で帰る」という選択肢はない。
「今日は、昨日ほど無茶はさせない」
ペンを走らせながら、ルーファウスがぽつりと言う。みみはキーボードに向かっていた手を止めて、少しだけ笑った。
「無茶をしていたのは、私のほうです」
「その自覚があるならいい。……二十二時には切り上げる。いいな」
「はい」
その約束は守られた。二十二時ぴったりに、ルーファウスはペンを置き、「今日はここまでだ」と宣言した。みみもまた、手元の仕事に区切りをつける。「まだやれる」と思ってしまう自分をぐっと抑えて。
帰り支度をしながら、みみはふと、昨日書いた手帳の言葉を思い出す。「無理をして倒れるのは、仕事ではない」。それを、彼自身も同じように考えていたのだとしたら——少しだけ、誇らしい。
エレベーターの前で二人並ぶと、ガラス窓の向こうに広がる夜景が目に入る。ミッドガルのネオンと、煙と、遠くに瞬く小さな光。プレートの上と下の明かりが、複雑に絡み合っている。
「明日も、早いですね」
「いつも通りだ」
「副社長は、いつ休んでいるんですか」
何気なく聞いたつもりの言葉に、自分で少し驚く。仕事の範囲から、ほんの少し踏み込んだ質問だった。
ルーファウスは、顎に手を当てて少し考えるふりをした。
「……君がいない時間だ」
「私がいない時間?」
「そうだ。君がいるときは仕事をする。いないときは、多少休んでいても仕事をしているように見せられる」
「それは休んでいると言うのでしょうか」
「定義の問題だな」
真顔でそう言われて、みみは思わず吹き出した。笑いながら、胸の奥が少しだけ温かくなる。自分がここにいることが、この人の一日の「単位」になっているのだとしたら——それは、秘書としてこの上なく光栄なことだ。
エレベーターの扉が開き、中に乗り込む。鏡面に、二人の姿が並んで映る。そこには、雇い主と秘書以上の何かが滲んでいるような気がして、みみはわずかに視線を逸らした。
(雇い主と秘書。そこからはみ出してはいけない)
そう自分に言い聞かせる。けれど、昨日腕の中で感じた体温も、上着の香りも、完全に忘れることはできなかった。
ルーファウスもまた、隣に立つ彼女の姿を、鏡越しに横目で見た。背筋の伸びた、細くしなやかな立ち姿。緊張と疲労と、それでも明日もここに来ようとする意志。
(離したくない、などと考えたのは——)
昨日の一瞬を思い出して、内心で苦く笑う。その思いは、ふざけた戯言ではないと自覚している。だからこそ、それを表に出すわけにはいかない。
雇用関係の線を、自分の側から踏み越えることはしない。その線を守ることが、彼女の居場所を守ることにもつながるのだと、本能で理解していた。
だから代わりに、彼はスケジュールを調整し、残業時間を制限し、仕事の割り振りを工夫する。すべて「副社長」としての顔のままでできることだ。
エレベーターが一階に着き、扉が開く。
「気をつけて帰れ」
「副社長も、お疲れ様でした」
短い言葉を交わし、それぞれの方向へ歩き出す。ビルの外で別れたあと、みみは夜風を吸い込みながら、胸の奥につんとした痛みのようなものを抱えていることに気づいた。
それが何かを、彼女はまだ名前で呼ばない。
ただ、明日もまた神羅ビルの最上階へ向かうエレベーターに乗る自分を、容易に想像できることだけは確かだった。そこには、雇い主としての顔をした男がいて、自分は秘書としての顔をして隣に立つ。
その枠の中に、こぼれ落ちそうになる感情を、今日も明日も、丁寧に押し留めながら。