神羅ビルの中には、社員のための「リフレッシュフロア」と呼ばれる階がある。

マッサージチェアが並ぶラウンジ、軽食や飲み物を提供するカフェ、簡易的なリラクゼーションスペース。表向きは「社員の心身の健康を守るため」と掲げられているが、実際には重役たちがお忍びで息抜きをしたり、部署同士の非公式な打ち合わせをしたりする、灰色がかった場所でもあった。

みみがそこによく行くようになったのは、単純に肩凝りが限界だったからだ。最初はマッサージチェアに乗ってみるだけのつもりだったが、何度か通ううちに、受付兼カフェの店員の一人と顔見知りになった。

「お疲れ様、副社長秘書さん」

明るい茶髪をゆるくまとめ、少し眠たそうな目元に笑い皺を刻んだ女性——名前はレナといった。神羅直営の社員向けカフェで働きながら、社員たちのさまざまな愚痴や自慢話を聞き流してきた、いわば「社内の空気のプロ」だ。

「お疲れ様です、レナさん。今日もマッサージチェア、空いてますか?」

「空いてる空いてる。あんたくらい働いてる人には、優先権あげたいくらいだわ」

軽口を交わしながら、みみは指定された席に向かう。レナは手慣れた様子でカップにハーブティーを注ぎ、それをみみの手元まで運んできた。

「はい。これ。サービス」

「えっ、いいんですか」

「ストレスフルなお客様には、たまーに出していいって店長の許可はもらってるから」

そう言ってウインクをする。みみは苦笑しながら、カップを両手で包んだ。温かさがじんわりと指先に広がる。

「副社長、今日もビシビシ?」

「いえ……ビシビシというより、相変わらずお忙しいです」

「そりゃそうだ。あの人、休んでるとこ見たことないもん」

レナは神羅ビルの中をよく知っている。社員がどんな顔でこのフロアに来て、どんな顔で戻っていくか。彼女の目から見ても、ルーファウスは「常に仕事をしている人間」に分類されていた。

みみは、ハーブティーに口をつけながら、曖昧に微笑む。

(休んでないのは、私もだけど)

冗談のようで、本気だった。最近は、仕事中だけでなく、自室に戻ってからもルーファウスの顔が頭から離れない。手帳を開けば、彼の予定と書き込みが目に飛び込み、ベッドに倒れ込めば、ふとした会話や視線が思い出される。

(このままじゃ、だめだ)

どこかでそう思っていた。秘書と雇い主。それ以上の感情を持ってしまえば、いつか足を滑らせる。仕事に支障が出る。ルーファウスに迷惑をかける。それが何より怖い。

——だったら、どうすればいいのだろう。

そう考えたとき、頭に浮かんだのは、六番街で見てきた女たちの姿だった。客との恋愛に溺れて痛い目を見た女もいれば、上手く「いい男」を捕まえて、そこそこ幸せそうにしている女もいた。

(私だって、誰かと恋人になれば……)

ルーファウスへの想いから、自然と距離が取れるかもしれない。仕事は仕事、恋愛は恋愛、と切り分けられるようになるかもしれない。そんな打算めいた発想が、疲れた心にじわじわと染み込んでいく。

「みみちゃん、最近さ——」

レナの声が、それを引き留めるように響いた。

「なんだか顔が変わったよね」

「え?」

「前より、なんていうか……『誰かを見てる顔』になった」

ストレートな指摘に、みみは思わずハーブティーを噴きそうになった。

「ちょ、ちょっと待ってください、どういう……」

「安心して。誰のことかは聞かないから」

レナは肩をすくめ、カウンターの端に肘を乗せた。

「でも、その顔じゃ、たぶん苦しいでしょ」

「……」

図星すぎて、言葉が出ない。目を逸らし、マッサージチェアの背もたれに視線を落とす。でも、逃げ場はそこにはない。

「うちのお客さん見てるとね、だいたい三パターンよ。仕事に恋してる人と、人に恋してる人と、自分に恋してる人」

「私は……」

「人に恋してる顔だね」

レナはあっさりと言い切る。その目には茶化しよりも、むしろ同情の色が濃かった。

「で、その人とどうにかなりそう?」

「……なりません」

即答してしまった。口をついて出た声が少し震えているのを、みみ自身が一番よく分かっている。

「雇い主と秘書、です。線は、超えられません」

「ふうん」

レナは何も言わず、少しだけ顎を引いた。その仕草に、過去に似たような話を何度も聞いてきたであろう蓄積が滲んでいる。

(副社長以上の優良物件なんて、このビルにはそうそういないけど——)

心の中でだけ、レナはそう呟いた。彼女自身、ルーファウスがどれだけの女性社員から「憧れの的」とされているかをよく知っている。顔、地位、金、頭脳。どれを取っても「優良物件」と言って差し支えない男だ。

だが、目の前のみみの顔を見ていると、その言葉を口にする気にはなれなかった。ただでさえ苦しそうな火種に、わざわざ油を注ぐ必要はない。

代わりに、別の選択肢をそっと差し出す。

「……だったらさ」

レナは声のトーンを少し落とした。

「あんたに合いそうな人、一人いるんだけど」

「え?」

「うちの常連さん。リラクゼーションフロアの設備管理やってる人。神羅社員じゃないけど、仕事は真面目で、話してて嫌な感じがしないタイプ」

「設備管理……」

「背はそこそこ高くて、顔も悪くない。もうちょっと服に気を使ったらモテるのになーって、いつも思ってるくらい」

レナの口ぶりは軽いが、その目の奥は真剣だ。やたらと男を紹介してくるタイプではない。むしろ、誰かに勧めるのはかなり珍しいことだと、みみは直感した。

「そんな私、優良物件よ? って言えるほどじゃないけどさ」

レナは笑いながら、自分の胸を指でつつく。

「少なくとも、『変な男』じゃないことは保証する。あんたみたいな子に変な男紹介したら、バチ当たるからね」

「……」

突然差し出された「逃げ道」に、みみは戸惑った。心のどこかでは、こういうきっかけを待っていたのかもしれない。ルーファウスへの想いをどうにかしないといけない、と分かっていながら、何も行動に移せずにいた自分。

(恋人を作れば、少しは……)

彼のことを考える時間が減るかもしれない。恋人の話を同僚から振られたときに、「いません」と言わなくて済むかもしれない。副社長の隣に立つ自分を、もう少し冷静に見られるようになるかもしれない。

「……どんな方なんですか」

気づけば、口が勝手に動いていた。レナの目が、嬉しそうに細くなる。

「素直に興味持ったね」

「い、いえ、その……」

「落ち着きなさいって。名前はね——」

レナは小声で、その男の名前と簡単なプロフィールを教えてくれた。神羅ビルの設備関係の会社に勤めていて、数年前からこのフロアの担当になったこと。休憩時間にコーヒーを飲みに来るとき、仕事の愚痴を言うでもなく、雑誌を読みながら穏やかに過ごしていること。たまに社員に理不尽なクレームをつけられても、淡々と受け流していること。

「でね、その人、あんたのこと気にしてた」

「私、ですか?」

「前に、『最近このフロアに来るようになった、紫の目の綺麗な子はどこの部署なんだ?』って聞かれた」

紫の目。自分のことだとすぐ分かって、みみは耳まで熱くなった。

「で、『副社長付きの秘書さんだよ』って言ったら、ちょっとだけ目を丸くしてた」

「あの……それって」

「引いてたわけじゃないよ。ただ、意外だったみたい。『こんなとこで肩揉まれてる暇あるんだな』って」

「暇……」

「冗談で言っただけよ。むしろ、『あの人がここまで来るくらい疲れてるなら、このビル相当ヤバいな』って、おかしな心配してた」

レナはそう言って笑った。

「どう? 話してみるだけ話してみない?」

「……」

みみは、ハーブティーの底を見つめる。そこに、何か答えが浮かんでいるわけでもないのに。

(恋人を作るって、こういうところから始まるんだっけ)

六番街では、もっと勢いと空気で事が進んでいた気がする。誰かと目が合って、気が合って、気づけば一緒にいる——そんな形が多かった。神羅ビルの中での「紹介」は、もっと穏やかで、慎重で、それでいて重い。

「……お話してみたいです」

やっとのことで、そう口にした。自分の声が、思っていたよりも小さく、震えている。

「お、言ったね」

レナは嬉しそうに手を叩く。

「じゃあ、今度その人が来たら、それとなーく話振ってみるから。急に『紹介します!』ってやると引かれるかもしれないしね」

「お願いします」

「うん。焦らなくていいから。あんたが『違うな』って思ったら、そのときはそれでいいのよ」

それから数日後、レナの「それとなーく」は見事に成功した。

設備管理の彼——穏やかな目元をした、物静かな男性は、最初こそ少し緊張していたが、みみと話すうちに表情が和らいでいった。仕事の話、ミッドガルの天気の話、プレートの上と下の違いの話。どれも平凡で、当たり障りのない内容だったが、その平凡さが妙に心地よかった。

「よかったら、今度の週末……いや、平日のほうが、むしろ時間取れるんですか?」

彼は少し迷いながら、そう切り出した。

「仕事が終わったあとに、八番街で食事でもどうかなって。無理なら、いいんですけど」

「……来週の平日なら、調整できると思います」

気づけば、そう答えていた。自分から日程を提案し、彼もそれに合わせてくれる。会話はぎこちなくも、真剣で。決して、「副社長」の肩書きや立場に惹かれて近づいてくる種類の男ではないことが、やり取りの端々から伝わってくる。

約束を交わしてフロアを出たあと、エレベーターの中で、みみは胸の奥に小さな違和感を覚えた。

(これでいい。これは、きっといいこと)

ルーファウスへの感情を、少しずつ別の方向へ流すための、一歩。そう自分に言い聞かせる。そのはずなのに、胸に広がるのは、期待と不安と、ほんの少しの罪悪感だった。

---

副社長フロアに戻ると、いつものようにルーファウスは書類に目を走らせていた。ドアをノックし、「失礼します」と声をかけると、「入れ」と短い返事が返ってくる。

「戻りました」

「リフレッシュフロアか」

「はい」

彼は視線を紙から離さないまま、ペンを走らせ続ける。その横顔を見ながら、みみは少しだけ躊躇った。今、言うべきかどうか。もう少しタイミングを見計らうべきか。

(一週間、ある)

約束したのは、来週の特定の平日。定時で上がらなければ、その時間に間に合わない。ルーファウスの予定表は、すでにある程度埋まり始めている。今ならまだ、調整が利くかもしれない。

「副社長」

「なんだ」

ペンの動きが止まる。淡い青の瞳が、こちらを向く。みみは無意識に姿勢を正した。

「来週の……この日のことなのですが」

彼女は手帳を開き、該当の日付を示した。そこには、いくつかの会議と打ち合わせが書き込まれているが、夜に大きな予定は入っていない。

「できれば、この日は定時で上がらせていただきたくて。前もって、ご相談を」

言いながら、自分の声がほんの少し上ずっているのが分かる。ルーファウスは視線を手帳に落とし、その日付を確認した。

「珍しいな」

短い言葉。彼女のことをよく見ているがゆえの感想だった。みみはこれまで、残業の許可を求めることはあっても、「早く帰りたい」とは口にしてこなかった。定時という概念があるのかどうか怪しいくらい、いつも自分より遅くまで働いている。

「……そうですね」

「何か用でもあるのか」

真正面からの問いに、みみは一瞬言葉を詰まらせた。嘘をつくこともできた。「用事がありまして」とだけ濁してしまえば、彼はそれ以上詮索しないだろう。彼はそういう人間だ。

だが、自分がそれをしたくないと思っていることに気づく。隠し事をしたくない。仕事のことで嘘をつきたくない。それが、彼への職務上の忠誠と、個人的な感情の入り混じった、正直すぎる願いだった。

「……食事の約束が、ありまして」

少しだけ頬が熱くなる。視線を落としたまま告げた言葉に、ルーファウスの表情が僅かに変わった。

「食事、か」

「はい」

「男か?」

口をついて出た言葉に、自分で驚いたのは、ルーファウス自身だった。質問の内容も、声のトーンも、いつもの彼らしくなかった。業務と関係のない詮索。それも、あまりにも直接的な。

みみは一瞬、目を見開き、それからすぐに視線を伏せる。頬の赤みが、耳まで広がる。

「……はい」

隠さない。その選択が、胸をざわつかせる。彼の前で「男」という単語を肯定した自分。それを認めることが、何かを手放すことに繋がる気がして、怖かった。

ルーファウスはわずかに目を細めた。胸の奥で、冷たいものと熱いものが同時に立ち上がる感覚。誰かの顔も名前も知らない「男」が、自分の知らないところでみみと食事をする。その事実だけで、予想以上の苛立ちとざらつきが心に浮かんだ。

(……嫉妬か)

その言葉が、あまりにも的確すぎて、内心で小さく舌打ちしたくなる。今まで、こんな感情を味わったことはほとんどなかった。父が新しい愛人を囲おうが、取引先の男がどんな女と付き合おうが、興味の外側の話だった。

だが今、「秘書」が誰かと食事に行くというだけで、心がざわついている。頭のどこかで、「秘書の私生活に踏み込むべきではない」と冷静に判断しているのに、その冷静さの更に外側で、原始的な拒否反応が顔を出してくる。

(引き止める理由は、どこにもない)

彼は自分にそう言い聞かせる。恋人でもない。契約書にも、「副社長以外と食事をしてはならない」などという条項は存在しない。仕事の範囲外の時間まで縛る権利など、本来、雇い主にはない。

「……そうか」

短くそう言って、わざと表情を変えない。嫉妬などという、あまりに子供じみた感情を悟らせるわけにはいかない。

「その日、残業はさせないようにしておく」

「本当ですか?」

みみの顔が、ぱっと明るくなる。嬉しさが隠しきれず、その笑顔は、仕事上で見せるどの笑みよりも、少しだけ柔らかかった。

「ありがとうございます。あの……他の日に、今日みたいな残業を少し増やしていただいても構いませんので」

「必要ない」

即答に、みみは一瞬目を瞬かせる。

「それはこちらの都合だ。君のプライベートの予定を調整する見返りとして、仕事を増やすなどという真似はしない」

「……副社長」

声に、自然と感謝の色が滲む。彼が自分を「時間と労力」で計らないことは、日々の中で薄々感じていたが、こうしてはっきりと言葉にされると、胸の奥が温かくなった。

「ありがとうございます。本当に、助かります」

「礼を言うほどのことではない」

そう言いながらも、ルーファウスの胸の内は穏やかではなかった。

彼女が顔を綻ばせる理由が、自分ではないこと。その笑顔が、誰か別の男との時間を思って浮かんだものであること。その事実が、思いのほか重く胸にのしかかってくる。

(くだらない)

自分にそう吐き捨てたくなる。たかが一度の食事。恋人になるかどうかも分からない段階の、ただの「約束」。それなのに、自分の感情は明らかに乱されている。

「相手は、どこの男だ」

喉まで出かかった問いを、ぎりぎりのところで飲み込む。聞けば、もっと苛立つのは目に見えていた。彼女がそこで口をつぐんだり、笑って濁したりすれば、それはそれで気に障るだろう。

(恋人でもないのに、詮索する権利はない)

冷静な声が頭の中で告げる。父のようにはなるまいと誓ってきた。愛人を囲っておきながら、少しでも「外」の気配を感じると激昂する、あの男のようには。支配と所有でしか関係を築けない人間には、決してなるまいと。

「その日までに、必要な案件はできるだけ前倒ししておこう」

代わりに、淡々と業務の話を続ける。その様子に、みみは心から安堵した。彼が「そうですか」で済ませてくれることが、どれほど楽かを痛感する。

(この人を好きになってしまったのは、やっぱり間違いなんだ)

そう思うと同時に、「だからこそ、距離を取らないといけない」という決意が、ほんの少しだけ強くなる。

「副社長」

「なんだ」

「……ありがとうございます。私、ちゃんと、翌日にはいつも通り働きますので」

「それは当然だ」

淡々と返しながらも、ルーファウスは彼女の表情を横目で窺う。期待と不安と、少しの照れが混ざった顔。その顔を、自分のためではない理由で見ることになる日が来るとは、数ヶ月前の自分は想像もしなかっただろう。

彼女が執務室を出ていき、扉が静かに閉まる。室内に、ふたたび静寂が訪れた。

ルーファウスは椅子に背を預け、天井を見上げる。

(面倒な感情だ。本当に)

ため息が、喉の奥で小さく漏れる。嫉妬というものが、これほど理屈に合わないものだとは知らなかった。相手を拘束する権利はないと理解していながら、心のどこかでは、彼女の足を引き止めたいと思ってしまう。

「……仕事に戻れ」

自分にそう言い聞かせ、机の上の書類に視線を落とした。ペンを持つ指に、いつもより少し余計な力が入る。そのわずかな乱れを、本人以外に気づく者はいない。

ただ、翌週のその日が、いつもより遠く感じられたのは確かだった。

そしてその日を、みみが胸のどこかで「楽しみ」と「怖さ」の両方を抱えながら待つのと同じように、ルーファウスもまた、言葉にできないもやもやを抱えたまま、その日をカレンダーの上で何度も目でなぞることになるのだった。