08
約束の日の朝、みみはいつもより少しだけ早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は、プレートの上で加工された人工的な朝にしては柔らかい。目をこすりながらベッドから起き上がり、クローゼットの扉を開ける。そこには、六番街から持ってきた服と、神羅ビルで働くようになってから買い足したスーツやブラウスが並んでいる。
指先が、いつものタイトスカートではなく、一枚のワンピースの裾をつまんだ。
膝が少し隠れる丈の、落ち着いたネイビーのワンピース。襟元は高く、肩も出ない。神羅ビルの規律に反するような要素は何もない。ただ、ウエストラインが少しだけ綺麗に出るように絞られていて、布地にほんのわずかな光沢がある。
(やりすぎじゃない。……はず)
鏡の前で当ててみて、自分で自分に言い訳する。仕事に支障が出るほどの華やかさではない。同僚に「デートですか」と冷やかされるほどの露骨さもない。知らない人が見れば、いつもの上品なワンピースの一つにしか見えないだろう。
ただ、自分だけが知っている。これは、マムが昔、「ここぞという日に着なさい」と押しつけるように渡してくれた一着だということを。
メイクも、ほんの少しだけ変えた。アイラインをいつもより細く長く引き、リップには普段より彩度の高い色を、指でぽんぽんと薄く伸ばす。ぱっと見では気づかない程度の変化。けれど、自分の中では、十分に「特別」だった。
「……落ち着いて」
鏡の中の自分にそう言い聞かせ、みみは深呼吸をした。胸の奥でとくとくと脈が跳ねているのを、少しでも静めようとして。
---
神羅ビルに着くと、いつものように前室で仕事の準備を始めた。書類トレイを確認し、ルーファウスの机に必要な資料を並べ、電話のランプをチェックする。動きは普段通り、機械的なほどスムーズだ。
「おはようございます、副社長」
エレベーターの扉が開き、ルーファウスが姿を見せた瞬間、みみはいつもの声で挨拶をした。ほんの一瞬、それが少し高くなった気がして、自分で内心苦笑する。
「おはよう」
ルーファウスはいつものように淡々と返し、歩きながら視線を彼女に向けた。その目は、仕事を始める前に秘書のコンディションを確認する——ごく自然な動きであるはずだった。
そこで、わずかに眉が動いた。
いつものグレーや黒のタイトスカートではない。布地の落ち方が違う。動いたときの裾の揺れ方も。色は抑えめのネイビーだが、光の当たり方によって、うっすらと艶が浮かぶ。メイクも、よく見なければ分からない程度に華やかだ。目元のラインが少し長く、唇の色がわずかに深い。
(……いつもと違う)
それを言葉に出すことはしない。出せるはずもない。ただ、一瞬だけ視線が彼女の全体をすばやくなぞり、それから何事もなかったように執務室へと向かう。
「本日の予定を」
「はい。午前中は——」
みみはすぐに業務モードに入り、手帳を開いてスケジュールを読み上げる。声は安定している。足もともしっかりしている。ワンピースの裾は、ほんの少しだけ緊張に合わせて揺れていた。
ルーファウスは聞きながらも、頭の片隅でその「差異」を意識していた。誰も気づかない程度の変化。だが、毎日同じフロアで彼女を見ている自分の目からは、決して逃れられない。
(……食事の日、か)
意識したくなくても、カレンダーに印をつけたあの日付が、脳内でじわりと浮かび上がる。その上に立っている彼女が、いつもより少しだけ「誰かのために整えられた」姿をしている。
胸の奥が、じくりと疼いた。
---
午前中の業務は、いつも通りに進んだ。
会議、電話、書類のやり取り。みみは、普段と変わらぬ集中力で仕事をこなしていく。メモの量が少し増えたのは、意識を仕事に縛りつけようとする彼女なりの防衛本能だった。
昼休み少し前、休憩を取るために前室から出たときだ。みみは自分の端末を取り出し、ふと画面を確認した。そこには、新しいメッセージの通知が一件。
——「今日、楽しみにしています。」
送信者は、例の設備管理の男性だった。文面は短く、飾り気もない。それでも、そこに込められた期待と緊張が、みみには伝わった。
(楽しみに……)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。自分のことをそうやって思い出してくれている人がいることが、単純に嬉しかった。これが「恋」の始まりなのかどうかは、まだ分からない。ただ、誰かと向き合おうとしている自分を、少しだけ誇らしく感じた。
無意識に、口元が柔らかくほころぶ。画面に「よろしくお願いします」と打ち込み、送信ボタンを押す。受信音が鳴り、すぐに「こちらこそ」という返事が返ってきた。
ガラス張りの執務室の扉越しに、その様子を見ている視線があることを、みみは知らない。
ルーファウスは、たまたま席を立って窓際に歩いていた。ふと前室のほうに目をやったとき、ガラス越しに彼女の横顔が見えた。手元の端末を見つめ、指で何かを打ち込んでいる。その目が、柔らかく細まり、頬がわずかに緩んだ。
(……誰とだ)
問いは、思考より先に胸の内を駆け抜けた。さっき確認したカレンダー。今日が「その日」だという事実。いつもと違うワンピースとメイク。そこに、「楽しみにしています」という言葉に対する笑みが加わる。
それだけで、頭の中に鮮やかな線が結ばれる。
こめかみの奥が、じりじりと熱を持った。嫉妬だと認めるのは簡単だ。ただ、認めたところでどうにもならないことも、同じくらい理解している。
(仕事中だぞ)
自分にそう言い聞かせても、イライラは簡単には収まらなかった。ペンを握る指に、いつも以上に力がこもる。書類に書き込む文字が、ほんの少しだけ鋭くなる。
もし他の社員がその表情を見ていたら、「今日の副社長は機嫌が悪い」と噂したかもしれない。だが、このフロアには他に誰もいない。見ているのは、ガラスの向こうの一人の女だけ——のはずだった。
彼女は、まだ気づいていない。
---
定時が近づくにつれて、フロアの空気がわずかに軽くなっていく。
他の階では、既に帰り支度を始める社員も出ている時間帯だ。だが、この最上階だけはいつも通り、遅くまで電気が灯り続ける。残業は日常であり、例外ではない。その日も、本来であればそうなるはずだった。
「副社長、本日の残りの案件は、こちらと——」
みみはいつものように、残作業の確認を始める。だが、時計の針が「定時」を指し示した瞬間、心臓がどくりと一つ大きく脈打った。
(……行かないと)
約束の時間までは、まだ余裕がある。それでも、ここから八番街まで移動し、身だしなみを整え、心を落ち着かせるには、これ以上遅くなりたくなかった。
「以上になります。本日、私は——」
言いかけて、ルーファウスと目が合う。淡い青の瞳は、いつも通り静かで、その奥に渦巻くものを読ませてはくれない。
「覚えている」
彼は先に言った。
「今日は、定時で上がると言っていたな」
「……はい」
少しだけ安堵し、みみは深く頷いた。それを合図にするように、彼女は手早く片づけを始める。机の上のメモを一つずつ確認し、必要なものはファイルに閉じ、不必要なメモは破って捨てる。パソコンをシャットダウンし、手帳を鞄にしまう。
一つ一つの動きが、普段よりほんの少しだけ軽い。それは、楽しみにしている約束がある人間の自然な振る舞いだった。本人は無意識でも、第三者が見れば一目瞭然だ。
ルーファウスは、その様子を執務室の中から眺めていた。無表情を装っていても、胸の奥にはやり場のないもやもやが広がっている。机の上の書類に目を落としても、文字が頭に入ってこない。
(いそいそしている、などと)
そんな言葉を心の中で使う自分に、苛立ちが増す。彼女がどれだけ仕事に誠実であっても、どれだけ忠誠を誓っていても、その外側に彼女自身の生活があることを、否応なく突きつけられている気がした。
雇い主と秘書。その関係の外側に、自分が踏み込む資格はない。そう分かっていながらも、今日だけは、その線が妙に薄く見えた。
(……何をしている)
自分にそう言いながらも、ルーファウスは立ち上がっていた。ペンを置き、上着を椅子の背にかけたまま、執務室の扉へと歩いていく。
半ばやけくそ、という言葉がこれほど自分に似合わないと分かっていながら、それ以上にしっくりくる言葉が見つからない。頭より先に身体が動いていた。
前室の扉を開けると、みみが丁寧にペン立てを整えているところだった。彼の気配に気づいて振り向き、慌てて姿勢を正す。
「副社長。……本日、失礼させていただきます」
「分かっている」
彼はゆっくりと歩み寄り、彼女との距離をいつもより半歩だけ詰めた。ガラス越しではなく、真正面。彼女が息を飲む気配が伝わる。
「楽しんでこい」
口から出た言葉は、それだけだった。声音は淡々としている。祝福とも皮肉とも取れる曖昧さを、意図的に残して。
みみは一瞬きょとんとし、それからぱっと笑顔になった。
「……はい。ありがとうございます」
その笑顔は、純粋だった。彼が許可してくれたことへの感謝と、これから向かう先へのささやかな期待。その両方が滲んでいる。
その笑顔に、自分が何の関係もないことが、急に耐え難く感じられた。
胸の奥で何かがぷつりと切れる音がした気がした。理性を繋ぎ止めていた最後の糸が、静かに、しかし確かに断たれる。
(何をしている、俺は)
もう一度心の中でそう問いかける間もなく、ルーファウスの手が動いた。
細い手首ではなく、肘のすぐ下あたりを掴む。力は抑えているが、その手つきにはいつもより格段に強い意志が宿っていた。
「——っ」
みみの身体が、驚きでびくりと震える。次の瞬間には、彼の腕が軽く引き寄せていた。距離が一気にゼロに近づく。
視界が、彼の胸元でいっぱいになる。ネクタイの結び目、シャツの襟。鼻をかすめるのは、何度も傍で感じてきた、あの香水の匂い。だが今度は、逃げようのない近さだった。
「副社——」
呼びかけが、最後まで口に出る前に、その唇は塞がれた。
柔らかくもきっぱりとした、唇と唇の触れ合い。荒々しく押し付けられるものではない。だが、問答無用だった。問いかけも、許可も、何も挟まないまま、ただまっすぐに。
時間が、ぴたりと止まる。
みみの目が、まんまるに見開かれる。瞬きも忘れ、息を吸うことも忘れ、全身が固まる。耳鳴りが、遠くでキーンと鳴っている。心臓の鼓動だけが、現実の音として、胸の内側から激しく響いた。
(……え)
頭の中に、言葉が浮かばない。目の前の光景と、身体が感じている現実と、長い間必死に線を引いてきた「雇い主と秘書」という関係が、ぐしゃぐしゃに絡まり合って、どこが境界だったのか分からなくなる。
ルーファウスもまた、触れた瞬間、己のしたことの重さに気づいていた。
彼女の唇は、驚くほど冷たく、そして少しだけ震えていた。その震えが、自分の唇にも伝わる。腕に伝わる身体の緊張。拒絶ではない。だが、受け入れとも言い難い。完全な「静止」だった。
(——しまった)
胸の奥で、遅れて冷や汗が滲む。だが、唇を離すまでの一瞬が、永遠のように長く感じられた。
ガラス張りの扉の向こうには、誰もいない。最上階のフロアは静まり返り、ビル全体のざわめきだけが、遠い世界の音のようにぼんやりと響いている。
二人の世界だけが、そこに切り取られていた。
そして、次の瞬間——ようやく、時間が動き出す。
カーテンの隙間から差し込む光は、プレートの上で加工された人工的な朝にしては柔らかい。目をこすりながらベッドから起き上がり、クローゼットの扉を開ける。そこには、六番街から持ってきた服と、神羅ビルで働くようになってから買い足したスーツやブラウスが並んでいる。
指先が、いつものタイトスカートではなく、一枚のワンピースの裾をつまんだ。
膝が少し隠れる丈の、落ち着いたネイビーのワンピース。襟元は高く、肩も出ない。神羅ビルの規律に反するような要素は何もない。ただ、ウエストラインが少しだけ綺麗に出るように絞られていて、布地にほんのわずかな光沢がある。
(やりすぎじゃない。……はず)
鏡の前で当ててみて、自分で自分に言い訳する。仕事に支障が出るほどの華やかさではない。同僚に「デートですか」と冷やかされるほどの露骨さもない。知らない人が見れば、いつもの上品なワンピースの一つにしか見えないだろう。
ただ、自分だけが知っている。これは、マムが昔、「ここぞという日に着なさい」と押しつけるように渡してくれた一着だということを。
メイクも、ほんの少しだけ変えた。アイラインをいつもより細く長く引き、リップには普段より彩度の高い色を、指でぽんぽんと薄く伸ばす。ぱっと見では気づかない程度の変化。けれど、自分の中では、十分に「特別」だった。
「……落ち着いて」
鏡の中の自分にそう言い聞かせ、みみは深呼吸をした。胸の奥でとくとくと脈が跳ねているのを、少しでも静めようとして。
---
神羅ビルに着くと、いつものように前室で仕事の準備を始めた。書類トレイを確認し、ルーファウスの机に必要な資料を並べ、電話のランプをチェックする。動きは普段通り、機械的なほどスムーズだ。
「おはようございます、副社長」
エレベーターの扉が開き、ルーファウスが姿を見せた瞬間、みみはいつもの声で挨拶をした。ほんの一瞬、それが少し高くなった気がして、自分で内心苦笑する。
「おはよう」
ルーファウスはいつものように淡々と返し、歩きながら視線を彼女に向けた。その目は、仕事を始める前に秘書のコンディションを確認する——ごく自然な動きであるはずだった。
そこで、わずかに眉が動いた。
いつものグレーや黒のタイトスカートではない。布地の落ち方が違う。動いたときの裾の揺れ方も。色は抑えめのネイビーだが、光の当たり方によって、うっすらと艶が浮かぶ。メイクも、よく見なければ分からない程度に華やかだ。目元のラインが少し長く、唇の色がわずかに深い。
(……いつもと違う)
それを言葉に出すことはしない。出せるはずもない。ただ、一瞬だけ視線が彼女の全体をすばやくなぞり、それから何事もなかったように執務室へと向かう。
「本日の予定を」
「はい。午前中は——」
みみはすぐに業務モードに入り、手帳を開いてスケジュールを読み上げる。声は安定している。足もともしっかりしている。ワンピースの裾は、ほんの少しだけ緊張に合わせて揺れていた。
ルーファウスは聞きながらも、頭の片隅でその「差異」を意識していた。誰も気づかない程度の変化。だが、毎日同じフロアで彼女を見ている自分の目からは、決して逃れられない。
(……食事の日、か)
意識したくなくても、カレンダーに印をつけたあの日付が、脳内でじわりと浮かび上がる。その上に立っている彼女が、いつもより少しだけ「誰かのために整えられた」姿をしている。
胸の奥が、じくりと疼いた。
---
午前中の業務は、いつも通りに進んだ。
会議、電話、書類のやり取り。みみは、普段と変わらぬ集中力で仕事をこなしていく。メモの量が少し増えたのは、意識を仕事に縛りつけようとする彼女なりの防衛本能だった。
昼休み少し前、休憩を取るために前室から出たときだ。みみは自分の端末を取り出し、ふと画面を確認した。そこには、新しいメッセージの通知が一件。
——「今日、楽しみにしています。」
送信者は、例の設備管理の男性だった。文面は短く、飾り気もない。それでも、そこに込められた期待と緊張が、みみには伝わった。
(楽しみに……)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。自分のことをそうやって思い出してくれている人がいることが、単純に嬉しかった。これが「恋」の始まりなのかどうかは、まだ分からない。ただ、誰かと向き合おうとしている自分を、少しだけ誇らしく感じた。
無意識に、口元が柔らかくほころぶ。画面に「よろしくお願いします」と打ち込み、送信ボタンを押す。受信音が鳴り、すぐに「こちらこそ」という返事が返ってきた。
ガラス張りの執務室の扉越しに、その様子を見ている視線があることを、みみは知らない。
ルーファウスは、たまたま席を立って窓際に歩いていた。ふと前室のほうに目をやったとき、ガラス越しに彼女の横顔が見えた。手元の端末を見つめ、指で何かを打ち込んでいる。その目が、柔らかく細まり、頬がわずかに緩んだ。
(……誰とだ)
問いは、思考より先に胸の内を駆け抜けた。さっき確認したカレンダー。今日が「その日」だという事実。いつもと違うワンピースとメイク。そこに、「楽しみにしています」という言葉に対する笑みが加わる。
それだけで、頭の中に鮮やかな線が結ばれる。
こめかみの奥が、じりじりと熱を持った。嫉妬だと認めるのは簡単だ。ただ、認めたところでどうにもならないことも、同じくらい理解している。
(仕事中だぞ)
自分にそう言い聞かせても、イライラは簡単には収まらなかった。ペンを握る指に、いつも以上に力がこもる。書類に書き込む文字が、ほんの少しだけ鋭くなる。
もし他の社員がその表情を見ていたら、「今日の副社長は機嫌が悪い」と噂したかもしれない。だが、このフロアには他に誰もいない。見ているのは、ガラスの向こうの一人の女だけ——のはずだった。
彼女は、まだ気づいていない。
---
定時が近づくにつれて、フロアの空気がわずかに軽くなっていく。
他の階では、既に帰り支度を始める社員も出ている時間帯だ。だが、この最上階だけはいつも通り、遅くまで電気が灯り続ける。残業は日常であり、例外ではない。その日も、本来であればそうなるはずだった。
「副社長、本日の残りの案件は、こちらと——」
みみはいつものように、残作業の確認を始める。だが、時計の針が「定時」を指し示した瞬間、心臓がどくりと一つ大きく脈打った。
(……行かないと)
約束の時間までは、まだ余裕がある。それでも、ここから八番街まで移動し、身だしなみを整え、心を落ち着かせるには、これ以上遅くなりたくなかった。
「以上になります。本日、私は——」
言いかけて、ルーファウスと目が合う。淡い青の瞳は、いつも通り静かで、その奥に渦巻くものを読ませてはくれない。
「覚えている」
彼は先に言った。
「今日は、定時で上がると言っていたな」
「……はい」
少しだけ安堵し、みみは深く頷いた。それを合図にするように、彼女は手早く片づけを始める。机の上のメモを一つずつ確認し、必要なものはファイルに閉じ、不必要なメモは破って捨てる。パソコンをシャットダウンし、手帳を鞄にしまう。
一つ一つの動きが、普段よりほんの少しだけ軽い。それは、楽しみにしている約束がある人間の自然な振る舞いだった。本人は無意識でも、第三者が見れば一目瞭然だ。
ルーファウスは、その様子を執務室の中から眺めていた。無表情を装っていても、胸の奥にはやり場のないもやもやが広がっている。机の上の書類に目を落としても、文字が頭に入ってこない。
(いそいそしている、などと)
そんな言葉を心の中で使う自分に、苛立ちが増す。彼女がどれだけ仕事に誠実であっても、どれだけ忠誠を誓っていても、その外側に彼女自身の生活があることを、否応なく突きつけられている気がした。
雇い主と秘書。その関係の外側に、自分が踏み込む資格はない。そう分かっていながらも、今日だけは、その線が妙に薄く見えた。
(……何をしている)
自分にそう言いながらも、ルーファウスは立ち上がっていた。ペンを置き、上着を椅子の背にかけたまま、執務室の扉へと歩いていく。
半ばやけくそ、という言葉がこれほど自分に似合わないと分かっていながら、それ以上にしっくりくる言葉が見つからない。頭より先に身体が動いていた。
前室の扉を開けると、みみが丁寧にペン立てを整えているところだった。彼の気配に気づいて振り向き、慌てて姿勢を正す。
「副社長。……本日、失礼させていただきます」
「分かっている」
彼はゆっくりと歩み寄り、彼女との距離をいつもより半歩だけ詰めた。ガラス越しではなく、真正面。彼女が息を飲む気配が伝わる。
「楽しんでこい」
口から出た言葉は、それだけだった。声音は淡々としている。祝福とも皮肉とも取れる曖昧さを、意図的に残して。
みみは一瞬きょとんとし、それからぱっと笑顔になった。
「……はい。ありがとうございます」
その笑顔は、純粋だった。彼が許可してくれたことへの感謝と、これから向かう先へのささやかな期待。その両方が滲んでいる。
その笑顔に、自分が何の関係もないことが、急に耐え難く感じられた。
胸の奥で何かがぷつりと切れる音がした気がした。理性を繋ぎ止めていた最後の糸が、静かに、しかし確かに断たれる。
(何をしている、俺は)
もう一度心の中でそう問いかける間もなく、ルーファウスの手が動いた。
細い手首ではなく、肘のすぐ下あたりを掴む。力は抑えているが、その手つきにはいつもより格段に強い意志が宿っていた。
「——っ」
みみの身体が、驚きでびくりと震える。次の瞬間には、彼の腕が軽く引き寄せていた。距離が一気にゼロに近づく。
視界が、彼の胸元でいっぱいになる。ネクタイの結び目、シャツの襟。鼻をかすめるのは、何度も傍で感じてきた、あの香水の匂い。だが今度は、逃げようのない近さだった。
「副社——」
呼びかけが、最後まで口に出る前に、その唇は塞がれた。
柔らかくもきっぱりとした、唇と唇の触れ合い。荒々しく押し付けられるものではない。だが、問答無用だった。問いかけも、許可も、何も挟まないまま、ただまっすぐに。
時間が、ぴたりと止まる。
みみの目が、まんまるに見開かれる。瞬きも忘れ、息を吸うことも忘れ、全身が固まる。耳鳴りが、遠くでキーンと鳴っている。心臓の鼓動だけが、現実の音として、胸の内側から激しく響いた。
(……え)
頭の中に、言葉が浮かばない。目の前の光景と、身体が感じている現実と、長い間必死に線を引いてきた「雇い主と秘書」という関係が、ぐしゃぐしゃに絡まり合って、どこが境界だったのか分からなくなる。
ルーファウスもまた、触れた瞬間、己のしたことの重さに気づいていた。
彼女の唇は、驚くほど冷たく、そして少しだけ震えていた。その震えが、自分の唇にも伝わる。腕に伝わる身体の緊張。拒絶ではない。だが、受け入れとも言い難い。完全な「静止」だった。
(——しまった)
胸の奥で、遅れて冷や汗が滲む。だが、唇を離すまでの一瞬が、永遠のように長く感じられた。
ガラス張りの扉の向こうには、誰もいない。最上階のフロアは静まり返り、ビル全体のざわめきだけが、遠い世界の音のようにぼんやりと響いている。
二人の世界だけが、そこに切り取られていた。
そして、次の瞬間——ようやく、時間が動き出す。