唇が離れた瞬間、世界の輪郭が一気に戻ってきた。

みみはその場に立ち尽くしたまま、目を大きく見開いていた。身体が強ばって、指先の一本に至るまで、どう動かしていいのか分からない。さっきまで至近距離にあったルーファウスの顔が、半歩だけ離れ、その淡い青の瞳がまっすぐに自分を見ている。

「……っ……」

声にならない空気だけが喉の奥で震える。心臓の鼓動はまだ激しく、胸を内側から叩き続けていた。頬の熱さも、唇に残る感触も、体温も、すべてが現実じみているのに、頭だけがそれを「信じたくない」と拒んでいる。

ルーファウスの表情がわずかに揺らいだ。いつもの冷静な面差しではない。困惑と、自己嫌悪と、制御を失った自分への怒りが、薄い膜のように浮かんでいる。

「……すまない」

低く、搾り出すような声だった。

その一言で、みみの意識に火がついたように現実が押し寄せる。「副社長」が自分に向かってキスをした。その事実と、「すまない」という謝罪。それらが矛盾するように頭の中でぶつかり合う。

「わ、たし……っ」

何か言おうとした瞬間、声が震えて喉に引っ込んだ。次の言葉を選ぶ余裕など、今の彼女にはない。

気づいたときには、足が勝手に動いていた。

「し、失礼しますっ……!」

それだけ言い残し、みみはルーファウスの腕を振りほどくようにして駆け出した。ヒールの音が、前室の床を鋭く叩く。ガラスの扉を乱暴にならない程度の力で押し開け、廊下へ飛び出す。背後で、彼が動く気配がしたかどうかを確かめる余裕はなかった。

エレベーターホールに飛び込み、呼吸も整わないままボタンを何度も押す。指先がわずかに震えている。エレベーターが上階から降りてくる機械音が、普段より遠く感じられた。

扉が開くなり中に飛び込み、「一階」のボタンを押す。扉が閉まりかけた瞬間、誰かが廊下の角を曲がる気配がしたような気もしたが、振り返ることはできなかった。扉が完全に閉まり、密閉された狭い空間に静寂が落ちる。

「……っ……はぁ……っ」

堰を切ったように息が溢れた。背中を冷たい壁に預け、胸に手を当てる。手のひら越しに伝わる鼓動は、まるで暴れているみたいに速い。一拍一拍が、さっきの出来事を思い出させる。

唇の温度。一瞬の重み。腕に感じた引き寄せられる力。至近距離で見た瞳の色——普段は淡く澄んだ青なのに、そのときだけ、底に熱が宿っていた。

「なんで……」

小さく漏れた声は、エレベーターの壁に吸い込まれていく。

(どういう意味……?)

思考がぐるぐると回る。謝ったということは、衝動だったのかもしれない。後悔しているのかもしれない。あるいは、嫉妬や苛立ちのはけ口だったのかもしれない。

(私が……他の人と食事に行くから……?)

心臓がさらに跳ねる。もしそうだとしたら、自分は「行かない」と言うべきだったのか。いや、それは違う。秘書としての線を守るために「恋人を作ろう」と決めたのに、ここで引き返すのは本末転倒だ。

頭では分かっているのに、感情が追いつかない。さっきのキスを思い出すたびに、身体の奥がじわじわと熱くなる。頬に手を当てると、驚くほど熱く火照っていた。

(副社長が……私に)

「好き」という言葉は、そこから先に進もうとして、寸前で引き戻される。真意が分からない。あれが一瞬の過ちなのか、本心なのか。それを確かめるべきかどうかすら、判断がつかない。

——チン、と乾いた音が鳴り、エレベーターが一階に到着する。

扉が開くと、ロビーのざわめきが流れ込んできた。社員たちの足音、受付の声、外から吹き込む少し冷たい空気。その全部が、一拍遅れて現実を連れ戻してくる。

(行かないと)

待ち合わせの時間は刻一刻と近づいている。ここで立ち尽くしていても、何も変わらない。ルーファウスの真意も、自分の感情も、ここで答えが出るわけではない。

みみは、ひとつ深呼吸をした。胸の奥の混乱を押し込めるように息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。震えをなんとか抑え込み、足を前に出した。

タクシーを拾い、教えられていた八番街のレストランの住所を告げる。窓の外に流れるネオンを見つめながら、まだ落ち着かない心臓を宥め続けた。

(今は……仕事じゃない。副社長の秘書じゃない、ただの「みみ」として)

そう自分に言い聞かせる。それでも、唇の端に残る微かな感触は、簡単には消えてくれなかった。

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一方その頃、最上階のフロアでは。

ルーファウスは、閉まりかけたガラス扉の前でしばらく立ち尽くしていた。みみが駆け出していった足音が遠ざかり、エレベーターホールの静寂が戻ってくる。それでも、その場から動けない。

指先に、さっき掴んだ腕の感触が残っている。唇にも、彼女の冷たさと震えが残っている。

ほんの数秒前まで、自分の身体があんなにも衝動的に動くとは思わなかった。

「……っ」

舌打ちを飲み込み、彼はようやく執務室に引き返した。扉を閉め、机の前まで来ると、椅子に腰を落とす。背もたれに深く身を預け、片手で額を覆った。

(何をしている、俺は)

内心の罵声は、先ほどの自分の問いよりずっと鋭い。雇い主と秘書。その線を、誰よりも大事にしていたのは自分のはずだった。父のようにはなるまいと、何度も誓ってきた。権力を使って人を絡め取り、自分の欲求を満たす道具にするような真似だけは、絶対にしないと。

にもかかわらず。

「すまない」と口にした瞬間、自分がどれほどの線を越えたかを理解していた。それでも、あの一瞬、引き返す余地はなかった。彼女の笑顔が、他の男との時間を思って浮かんだものであることに耐えられなかった。

(嫉妬、か)

心の中で言葉にすると、その幼稚さに吐き気がした。彼女の自由を縛る権利などない。秘書の私生活に口を出すことは、彼女のプロとしての尊厳を踏みにじることだと理解している。

理解していて、それでも。

別の男と食事に向かう彼女を想像するだけで、胸の内側が焼けるようにざらつく。あのワンピースも、微妙に変えたメイクも、すべてその男のためなのだと思うと、理屈の通らない苛立ちが湧き上がる。

(理不尽だ)

自分でも分かっている。これは完全に自分の勝手だ。みみは何も悪くない。ただ約束をして、その約束を守ろうとしているだけだ。職務上も問題はない。むしろ、前もって相談してきたことに対して、感謝すべきくらいだ。

それなのに。

「……最低だな」

小さく呟き、指先で眉間を押さえた。キスをした自分。その直後に謝罪しか出てこなかった自分。彼女を追いかけることもできず、真意を伝えることもできず、ただその場に立ち尽くしていた自分。

後悔と自己嫌悪と、それでも消えない嫉妬が、頭の中でぐちゃぐちゃに絡まる。ペンも持てない。書類の文字も、今はただ黒い線の羅列にしか見えなかった。

しばらくそうしてから、彼は深く息を吐いた。

(このままここで煮詰まっていても、ろくな思考にはならないな)

自嘲気味にそう判断する。感情を冷ますのに最も効果的なのは、「別のことに意識を向けること」だと彼は知っていた。幼い頃から、父の側でそうやって自分の精神を守ってきた。

(……気分転換でもするか)

頭に浮かんだのは、過去に何度か付き合いで顔を合わせた女たちの顔だった。父の取り巻きの中でも、比較的口が堅く、こちらの事情をわきまえて余計な詮索をしないタイプの女たち。プレート上のラウンジや、上流階級向けのパーティで出会った顔馴染み。

(あの辺りなら、こちらの癇癪を面白がって外に漏らすような真似はしないだろう)

自分の立場を分かっている女は、自分の立場も守ろうとする。秘密を守ることが、自分の価値を守ることでもあると知っているからだ。

端末を手に取り、連絡先リストを開く。名前の並びの中から、いくつか候補を頭の中で絞り込む。仕事が絡まない、父とも縁の薄い、程よく距離のある女。

指先が、一人の名前の上で止まった。

(……手近で、口の堅い女)

そう自分に言い訳しながら、メッセージを打ち込む。

——「今夜、時間は取れるか」

送信。数分も経たないうちに、返信が来る。

——「もちろん。いつものバーで?」

あっさりとした返事。こちらの都合に合わせることに慣れている文面。彼女はきっと、「また退屈な重役との夜が一本入った」とでも思っているのだろう。

ルーファウスは、短く「そうだ」と返し、時間を指定した。端末を机に置き、少しの間天井を見上げる。

(これは、逃避だ)

自覚はある。嫉妬の矛先を、別の方向へ曲げようとしているだけ。みみが他の男と食事をしている間、自分も別の女と時間を潰し、「対等だ」と強がりたいだけ。

(父と何が違う)

胸の奥で、冷たい声が問いかける。その声を無理やり押し込めるように、彼は椅子から立ち上がった。

「……着替えが必要だな」

鏡の前に立ち、ネクタイを緩める。ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を少しだけ捲る。鏡に映る自分の顔は、普段より少し青白く、目の奥には疲労がにじんでいる。

それでも、表情は整えておかなければならない。どれだけ中身が荒れていても、「副社長」の顔が崩れているところを、誰かに悟られるわけにはいかない。ましてや、父の側で見てきたような「醜さ」を、自分に重ねるのだけはごめんだ。

上着を取り、執務室を出る。夜のビルは、昼間とは別の表情をしていた。人の姿は少なくなり、清掃員や夜勤の警備員の足音だけが響く。エレベーターに乗り、地下の駐車場へ向かう間、彼は一度だけ目を閉じた。

頭の中に、さっきのキスの瞬間が鮮やかに蘇る。驚きで固まった紫の瞳。震える肩。掴んだ腕の細さ。その全てを、雑音で上書きしようとするかのように、彼は奥歯を噛みしめた。

(忘れられるとは思っていない。ただ、今は——考えないための何かが必要だ)

地下の駐車場に響く足音が、少しだけ硬くなる。

神羅の副社長は、その夜、他の男と食事に赴く秘書に対する理不尽な苛立ちを押し込めるために、自分もまた「誰か」との夜に逃げ込もうとしていた。

それが、傷を和らげるどころか、後々さらに深い後悔を生むことになると知るのは、もう少し先のことだった。