八番街のネオンは、夜になるといっそう派手さを増す。

タクシーを降りたみみは、約束のレストランの看板を見上げた。落ち着いた外観のビストロで、ガラス越しに柔らかな照明と整えられたテーブルが見える。外の喧騒とは少し距離を置いたような空気に、胸のざわめきが、ほんのわずかだけ静まった気がした。

(大丈夫。ちゃんと挨拶して、ちゃんとご飯を食べて、ちゃんと話をするだけ)

それだけのはずだ。何度も自分に言い聞かせる。けれど、足はほんの少しだけ重い。扉に手をかけようとした瞬間、ふと、自分の唇へ意識が向いてしまった。

さっきまで触れていた、彼の温度。

「……っ」

慌ててその感覚を振り払うように頭を振り、みみは扉を押した。鈴の音が小さく鳴り、店内の空気がふわりと流れ込む。ワインの香りと、焼いた肉とハーブの匂い。柔らかな音楽が流れていて、店内の客の声も穏やかだった。

「——みみさん、ですよね?」

少し緊張を含んだ声が、入口のすぐ近くから掛けられた。振り向くと、そこに立っていたのは、リフレッシュフロアで何度か顔を合わせた設備管理の男性だった。作業着ではなく、ダークグレーのジャケットにシャツという、きちんとした格好をしている。髪もいつもより丁寧に整えられていて、印象はぐっと柔らかくなっていた。

「あ、はい。こんばんは」

自然と笑顔が浮かぶ。どこかぎこちないが、相手の緊張と自分の緊張がぶつかり合って、少しだけほぐれた。

「よかった。ちゃんと来てくれて……いえ、その、忙しいかなって」

「今日はきちんと定時で上がらせていただきましたので」

その言葉に、自分でも一瞬だけ胸がちくりと痛む。「誰のおかげで」とまでは口にしない。ただ、その影を振り払うように、みみは微笑みを深くした。

席に案内され、メニューを広げる。彼は、料理に詳しいわけではないが、事前に評判を調べてきたらしく、おすすめをいくつか挙げてくれた。前菜をシェアし、メインはそれぞれ別のものを頼む。ワインはグラスで一杯だけ。互いに「強くはないので」と笑い合う。

会話は、思っていたよりも自然に続いた。

設備管理の仕事の話。神羅ビルの裏側の構造の話。リフレッシュフロアがどれだけの電力を食っているかという、聞いてみれば意外と面白い数字の話。彼は口数が多いほうではないが、言葉を選びながらきちんと話すタイプで、その真面目さが伝わってくる。

「副社長フロアって、やっぱり空気違うんですか」

「ああ……そうですね。静かです。音の一つ一つが、よく響くというか」

「そりゃそうだ。あのビルの最上階だもんな……俺、たまに配線見に行くんですけど、あのフロアだけは何度行っても緊張します」

「そうなんですね」

「でも、たまに……前室のほうから、コーヒーのいい匂いがしてくるんですよ」

彼は少し照れたように笑った。

「もしかして、それも……みみさんが?」

「はい。私が淹れています」

「やっぱりか。いい匂いだなって思ってて……あ、変ですよね、こんな話」

「変じゃないですよ」

むしろ、少し嬉しかった。自分の仕事の一部を、こんなところで別の形で見てくれている人がいる。それは、「秘書としての自分」が神羅以外の場所でも確かに存在しているような感覚だった。

ただ——。

時折、会話の途切れた隙間に、ふっと別の横顔が浮かぶ。鋭く見えながら、ふとしたときに柔らかさを見せる青の瞳。苦いコーヒーを好みながらも、みみが淹れたものだけは一度も残したことがない人。

(いまは、ダメ)

自分にそう言い聞かせ、そのたびに目の前の男性に意識を引き戻す。彼は彼で、誠実にこの時間を過ごそうとしている。その気持ちを踏みにじるような真似だけはしたくなかった。

「スラム出身だって、レナさんから聞いて……」

彼は少し慎重に言葉を選んだ。

「差し支えなかったら、どのあたりか聞いてもいいですか」

「七番街と六番街の間あたり、です。……ちゃんとした住所は、私もよく知りません」

「そうなんですね。俺は生まれは五番街で、今はプレートの外れのほうで暮らしてます」

プレートの上と下。近くて遠い距離。スラム出身であることを、彼は当然のように受け入れているように見えた。そこに妙な偏見も、見下しもない。そのことが、みみには心の底からほっとする理由になった。

(こういう人と、ちゃんと向き合えたら——)

ルーファウスへの感情も、少しずつ薄れていくのかもしれない。そんな淡い期待が、胸にふんわりと膨らむ。

料理はどれも美味しく、店の雰囲気もよかった。彼の気遣いも感じられた。笑う場面も何度かあった。ぎこちなさも含めて、「悪くない夜」だった。

ただ一度、彼が何気なくテーブルの上で彼女の手に触れたとき——。

「ごめん、大丈夫?」

「っ……大丈夫です」

ナイフを置こうとした瞬間、指先が触れ合っただけだった。怪我をしていないか確認しようと、彼がそっと手を包もうとした、その一瞬。

みみの身体は、反射的にびくりと強張った。脳裏に、別の手の感触が鮮やかに蘇ってしまったからだ。細い腕を迷いなく掴む、大きな掌。そこから逃れようとしても逃れられないくらいの、確かな力。

(また、考えてる……)

自分に腹が立った。目の前の男性には何の罪もない。優しくて、穏やかで、自分に変な期待を押しつけてくる様子もない。それなのに、さっきのキスのせいで、心も身体もまともに反応できない。

「すみません、ちょっと……今日は少し、疲れてしまっているみたいで」

そう言うと、彼はすぐに手を引っ込めた。

「いや、こっちこそ、ごめん。変にびっくりさせちゃいましたよね」

「いえ……私のほうこそ」

そのあとは、さっきまでより少し、慎重な距離感になった。彼は無理に距離を詰めようとせず、食後のコーヒーを飲みながら、雑談を少しだけ続ける。

店を出る頃には、八番街のネオンは一層賑やかになっていた。店の前で立ち止まり、別れの挨拶をする。

「今日は、ありがとうございました」

みみが深く頭を下げると、彼は慌てて手を振った。

「こちらこそ。急に誘ったのに、来てくれて」

「また……機会があれば」

そう言葉を添えると、彼は一瞬だけ目を丸くし、それから安堵したように微笑んだ。

「はい。そのときは、もうちょっと慣れた男になっておきます」

冗談めかした言葉に、みみも少し笑う。

いい人だ。きっと、誰かを誠実に大事にできるタイプの人だ。そんな確信が、今はかえって胸に重かった。

タクシーを拾って一人になると、さっきまで張りつめていた「ちゃんとしなきゃ」という意識の糸がぷつりと切れる。座席に深く沈み込み、窓の外の光の流れをぼんやりと眺めながら、みみは自分の胸に手を当てた。

まだ、落ち着かない。

さっきの食事の場面と、キスの瞬間が、交互に浮かんでは消える。どちらも今夜、自分が確かにいた場所の記憶だ。なのに、心が揺さぶられるのは——片方だけ。

「……どうして」

自分に吐き捨てるように呟き、目を閉じた。

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同じ頃、別のバーでは。

ルーファウスは、薄暗いカウンター席に腰を下ろしていた。高級なウイスキーが並ぶ棚。その前に立つバーテンダーは、彼の顔を見るなり、何も聞かずにいつもの銘柄を用意する。

隣の席には、肩のあいた黒いドレスを着た女が座っていた。艶のある黒髪を片側に流し、赤い口紅がよく映えている。彼女は神羅の取引先の令嬢であり、いくつかのパーティで何度も顔を合わせている。噂好きではないが、空気を読むのは得意で、余計なことは外に漏らさないタイプだ。

「お久しぶりね、副社長」

彼女はグラスを揺らしながら笑った。

「お忙しいって聞いていたから、こうしてお会いできるなんて思っていなかったわ」

「忙しいのは事実だが、たまには気分転換も必要でね」

ルーファウスは淡々と答え、グラスを唇に運ぶ。琥珀色の液体が喉を落ちていく感覚は、いつもと変わらないはずだった。だが、味がどこか遠く感じられる。

(何をしている)

ウイスキーの香りの奥に、自分への冷笑が混ざる。

「今日はご機嫌ななめ?」

ふと、隣の女が目を細めて彼を覗き込んだ。

「いつもより、少しだけ眉間に皺が寄っているように見えるわ」

「そう見えるか」

「ええ。仕事のストレス? それとも、お父様関係?」

父の話題を軽く口にできるあたり、この女も相当タフだ、とルーファウスは内心感心する。だが、今日の苛立ちの根源はそこではない。

「たいしたことではない」

彼はそれ以上言葉を続けなかった。続ければ、自分でも何を吐き出してしまうか分からない。

女はしばらく彼の横顔を眺めていたが、やがて話題を変えた。最近の社交界の事情、誰が誰と婚約しただの、どの企業がどこと手を組みそうだのといった話。ルーファウスは適度に相槌を打ち、必要な情報だけを拾い上げる。頭のどこかはきちんと仕事をしている。

しかし、その裏側で、別の映像が何度も再生されていた。

ガラス扉越しに見た、端末に微笑みかけるみみの横顔。ほんの少し華やかに仕上げた目元。いつもとは違うワンピースの裾の揺れ。そして、自分の腕に引き寄せられたときの震え。

(謝って、走らせて——どの面下げてここにいる)

ウイスキーを飲み干した喉に、自己嫌悪が重く沈む。

「ねえ、副社長」

隣の女が身を乗り出す。香水の匂いが強くなる。

「そんな顔して飲んでいたら、お酒がかわいそうよ。せっかくの夜なんだし、もう少し楽しんでみない?」

彼女は軽く肩に触れてきた。触れ方は慣れていて、距離の詰め方も計算ずく。これまでなら、ルーファウスもその流れに合わせて「それなり」の役を演じてきただろう。

だが、今日は——肩越しのその手に、無意識に身体が拒否反応を示した。

(違う)

柔らかさも、体温も、何もかも違う。比較することすら彼女に失礼だと分かっていても、脳裏に浮かんでしまうのは別の感触だった。細くて華奢な腕を掴んだときの、あの震え。間違いなく自分のせいで生まれた震え。

「……すまない」

思わず、同じ言葉が口から漏れそうになる。慌てて飲み込む。

「今日はあまり長居はできない」

「そうなの?」

女は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに表情を整えた。

「まあ、あなたがそう言うなら引き止めないけれど」

それでも、その目にはわずかな探るような色が宿る。

「ねえ、本当に仕事のせいだけ?」

鋭いところを突いてくる。ルーファウスはグラスを置き、女のほうをまっすぐ見た。

「仕事以外で、私をこんな顔にさせるものがあると思うか」

「……あるわね、多分」

女は小さく笑った。

「そうじゃなきゃ、わざわざこんな時間に連絡してこないもの」

その観察眼に、少しだけ感心する。やはり、口が堅いだけでなく、人を見る目もそれなりにある女だ。

「心配しなくても、誰にも言わないわよ。私だって、色々と秘密は抱えて生きてる身だもの」

「そういうことにしておいてくれ」

短くそう答え、ルーファウスは立ち上がった。

「今日は、これで失礼する」

「送っていかなくていいの?」

「必要ない。私一人で十分だ」

女は肩をすくめ、グラスを掲げた。

「じゃあ、また気が向いたら連絡して。今度はもう少し、楽しい顔で来てくれると嬉しいわ」

「努力する」

それだけ返して、ルーファウスはバーをあとにした。夜風が頬を撫でる。ウイスキーの熱と、自己嫌悪の熱と、嫉妬の冷たさが、胸の中で混ざり合っている。

(気分転換、ね)

苦く笑う。何一つ、転換などされていない。むしろ、自分がどれだけみみに縛られているかを思い知らされただけだ。

車に乗り込み、シートに背中を預ける。エンジンの振動が伝わる中、ルーファウスは天井を見上げた。

(謝罪だけで済む話ではない)

キスをしたこと。それを「すまない」の一言で誤魔化したこと。そして、その直後に別の女のもとへ逃げたこと。どれを取っても、自分らしくない。それでも、もう起きてしまったことは元に戻せない。

(明日……どう顔を合わせるつもりだ)

みみがどんな表情で前室に立つのか。自分をどう見るのか。彼女が何も言わずにいつも通り仕事をするのなら、それに甘えていいのか。それとも、自分から何かを説明すべきなのか。

答えは、今は出ない。

ただひとつはっきりしているのは、誰かと食事をして笑っている彼女を想像するだけで、喉の奥が焼けるように苦くなるということだけだった。

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その夜、プレートの上の別々の部屋で。

みみはシャワーの水音の中で、額をタイルに預けていた。熱い湯が背中を流れ落ちていくのに、身体の芯の冷えはなかなか取れない。指先が、無意識に唇に触れる。

(忘れなきゃ……)

そう思えば思うほど、キスの瞬間が鮮やかになる。目を閉じれば、あの青い瞳が浮かぶ。開ければ、天井の白さがやけに眩しい。

タオルで髪を拭き、パジャマに着替え、ベッドに倒れ込む。天井を見上げたまま、メッセージ端末を手に取る。

——「今日はありがとうございました。楽しかったです。少し疲れてしまっていたかもしれませんが、またお話できたら嬉しいです」

設備管理の彼に、丁寧なお礼のメッセージを送る。その文面を何度も読み返し、「楽しかった」という言葉に嘘はないと確認する。でも、「また」の気持ちがどれくらい本物なのかは、自分でもまだ分からない。

端末を枕元に置き、横を向く。目を閉じても、すぐには眠れそうもなかった。

(副社長は……今、何をしているんだろう)

考えまいとしていた問いが、自然と浮かぶ。仕事をしているだろうか。それとも、もう帰っているだろうか。誰かといるだろうか。自分が他の誰かと食事をしたように。

胸が少し痛くなる。その痛みを抱えたまま、みみはようやく目を閉じた。

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同じ頃、ヘリンボーン柄の床が続く高層マンションの一室でも。

ルーファウスは、デスクの前の椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。ガラスの向こうには、ミッドガルの夜景が広がっている。無数の灯りが、星空のように瞬いていた。

(あいつは、今頃……)

想像したくないのに、頭に浮かんでしまう。レストランの柔らかな照明の下で、誰かと向かい合って座るみみ。緊張しながらも笑顔を浮かべ、ワインを飲み、料理を味わい、相手の言葉に耳を傾ける。

自分が今日、隣に座っていた女とは違う笑い方をするのだろう。仕事の話ではなく、少しだけ個人的な話をするのだろう。彼女の過去や、好きなものや、これからのことを。

(理不尽だな)

誰にも聞かれない場所で、ようやくそう口にする。嫉妬も苛立ちも、すべて自分の勝手な感情だと分かっている。彼女には彼女の人生があり、自分がそれを縛る権利はない。それでも、感情は理屈に従ってはくれない。

窓ガラスに映る自分の顔は、いつもより少しだけ疲れて見えた。そこに、さっきのキスの痕跡が残っているような気がして、思わず視線を逸らす。

(明日——)

前室の扉を開けるとき、彼女はどんな表情をするだろう。呆然とした目のままか、それともいつものように何事もなかった顔で「おはようございます、副社長」と微笑むのか。

どちらにしても、簡単な朝にはならない。

「……寝ろ」

誰にともなくそう呟き、ルーファウスは照明を落とした。暗闇の中でベッドに横たわる。いつもなら、疲労がすぐに意識を奪っていくのに、その夜ばかりは、なかなか眠りが訪れなかった。

みみも、ルーファウスも、それぞれのベッドの中で別の天井を見上げながら、同じキスの一瞬を反芻していた。

仕事と感情の境界線は、あの夜、確かに滲み始めていた。