朝のアラームが鳴る前に、みみは目を開けていた。

眠った気がしない。浅い眠りの中で何度も浮かんでは消えたのは、八番街のレストランでもなければ、設備管理の彼の穏やかな笑顔でもない。最後に何度も反芻されたのは、やはりあの瞬間だった。

——掴まれた腕。引き寄せられた距離。ふいに重なった唇。そして、「すまない」の声。

枕元の端末を見ると、まだ出社には早い時間だった。それでも二度寝する気にはとてもなれず、みみはゆっくりと身を起こす。頭は重く、身体は妙にだるい。けれど、熱はない。これは疲労ではなく、きっと別の何かだ。

(行かないわけには、いかない)

それだけは、最初から分かっていた。逃げ出すみたいに休むのは、仕事からも、彼からも距離を取るどころか、自分の中で余計に「特別」にしてしまうだけだ。

シャワーを浴び、鏡の前に立つ。昨日より少しだけ控えめなメイクをする。ワンピースではなく、いつものタイトスカートとブラウス。色もデザインも「いつものみみ」に戻す。外側だけでも、普段通りでいたかった。

髪を整えながら、ふと手が止まる。

(……副社長、どんな顔をするんだろう)

何もなかったように接してくれるのか。それとも、何か言葉をくれるのか。謝られるのが怖い。忘れられたふりをされるのも怖い。どちらに転んでも、心がざわつく未来しか見えない。

「考えない。考えない」

小さく口にして、自分の頬を軽く叩いた。その音がやけに大きく響いて、部屋の静けさを少しだけ追い払ってくれる。

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神羅ビルのエントランスに入ると、いつもの冷たい空気が頬を撫でた。昨日までと何ひとつ変わらないはずなのに、自分だけが場違いな場所に紛れ込んでしまったような心細さが胸の奥に広がる。

エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。数字が一つ一つ上がっていくのを見つめながら、みみは手帳を抱きかかえる腕に力をこめた。

扉が開けば、いつものフロアだ。前室に足を踏み入れ、深呼吸をひとつ。まずは机の上を整える。コーヒーメーカーの準備をし、ルーファウスの机に今日使う資料を並べる。身体が自然に動く。何度も繰り返してきた動作に救われるような気さえした。

端末でスケジュールを確認し終えたとき、エレベーターの到着音が聞こえた。

(来た)

心臓が、またあの夜と同じように大きく跳ねる。肩に力が入り、背筋が自然と伸びた。扉が開き、足音が近づいてくる。みみは机の前に立ち、いつもの位置で待った。

「おはようございます、副社長」

声がわずかに震えていないかだけが心配だった。自分では分からないが、耳には妙に高く響いたような気がする。

ルーファウスは、いつもと変わらぬ足取りで前室に入ってきた。ネクタイもシャツも、乱れひとつない。表情も、仕事モードのそれだ。淡い青の瞳が一瞬だけ彼女を捉え——すぐに、いつも通りの視線に戻る。

「……おはよう」

わずかに間を置いたあと、いつもと同じトーンで返ってきた言葉。みみは、そこで初めて息ができた気がした。

「本日のご予定をお伝えします」

手帳を開きながら、ルーファウスの顔を直視しないよう、視線を文字に落とす。午前中の会議、午後の打ち合わせ、夕方の軍とのブリーフィング。昨夜、自宅で一通り頭に入れておいた流れを、そのまま口に出していく。

ルーファウスは黙ってそれを聞いていた。腕を組み、視線だけ彼女に向けて。彼の頭の中でも、別の意味での「予定」が鳴り止まない。

——昨夜、キスをしたこと。謝ったこと。走り去る背中を追わなかったこと。バーへ行き、何も得られずに帰ってきたこと。そして、今。

(いつも通り、か)

最初に彼女の姿を見たとき、ルーファウスは胸の奥がぴくりと反応するのを感じた。昨日のワンピースではない。目元のメイクも控えめで、髪もいつもの結い方。外見だけ見れば、何も変わっていない。だが、挨拶の声の高さや、わずかにぎこちない手の動きは、昨夜の余韻を隠しきれていない。

(隠そうとしているのは、どちらだ)

自分もだ。彼自身も、何事もなかったように振る舞っている。そのほうが彼女にとって楽だろうと思ったから。謝罪の続きや言い訳を重ねるより、仕事のペースを崩さないほうがいいと判断したから。

「……以上です」

みみが読み上げ終わり、顔を上げかけて——彼の視線とぶつかる寸前で、反射的に逸らした。その一瞬を、ルーファウスは見逃さない。

「体調は」

唐突な問いだった。みみは少しだけ目を見開き、それから瞬きを一度して答える。

「問題ありません」

「そうか」

短いやり取り。形式だけ見れば、普段の確認と何も変わらない。だが、「昨日は無事に帰れたか」「疲れていないか」「あのあと泣いていないか」といった言葉が喉まで上がってきて、それをすべて飲み込んで「体調は」の一言に置き換えたことを知っているのは、本人だけだった。

「コーヒーを」

「はい。すぐにお持ちします」

みみが前室を出て、給湯スペースへ向かう。ルーファウスはその背中を見送りながら、ほんの少しだけ椅子に深く座り直した。

(謝るべきか)

まだ迷いは消えていない。昨夜の「すまない」は、衝動の直後に出た反射的な言葉だった。あれだけで済ませるのは、あまりにも無責任だと分かっている。だが、今ここで改めて「昨夜のことだが」と切り出すことで、彼女の中の動揺を再び掘り返すことにもなる。

自分のための謝罪か、彼女のための謝罪か。その線引きが、今の彼にはうまくできない。

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午前中は、驚くほど淡々と進んだ。

会議室へ向かう途中も、プレゼンの合間も、二人は必要最低限以上の言葉を交わさなかった。いつものように、みみは資料を先に渡し、要点を耳元で手短に伝える。ルーファウスはそれを受け取り、会議の場で淀みなく話す。

他の役員たちから見れば、いつも通りの「優秀な副社長とその秘書」だ。実際、仕事は滞りなく進み、決裁もいくつかその場で下りた。

ただ一度、会議室から前室へ戻るエレベーターの中で、微妙な沈黙が流れた。

狭い箱の中。二人きり。銀色の壁面に、自分たちの姿がぼんやりと映る。いつもなら、ルーファウスが仕事に関連する短い話題を振り、みみがそれに答える。それで数十秒の沈黙を埋めてきた。

だが今日は、ルーファウスが何か言いかけて、口を噤み、そのまま視線を正面の数字に固定してしまった。それが分かるほどには、みみは彼の横顔を見慣れている。

(聞かれたくない)

もし今、「昨日の食事はどうだった」「相手はどんな男だ」と聞かれたら、彼女はきっと答えに詰まるだろう。「いい人でした」と言えば、胸が軋む。「よく分かりませんでした」と言えば、相手に対して申し訳ない。何より、「副社長には関係のないことです」と本当のことを言う勇気は、自分にはない。

数字が最上階に到達し、扉が開いた。二人は何も言わないままフロアに出る。いつもと同じ動線。いつもと同じ距離。足音だけが、やけに耳に残った。

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昼休憩の少し前、軍とのブリーフィング資料に手を通していたルーファウスは、ふとペンを置いた。机の上の時計は、正午少し前を示している。

「少し休憩を取れ」

執務室の扉を開けて顔を出すと、前室で資料を整理していたみみが顔を上げた。

「え?」

「午前中、ずっと詰めていたからな。君も昼食くらいは落ち着いて取ったほうがいい」

「はい、少ししたら——」

「今行け」

いつになく、言い方が強かった。命令というより、半ば自分に向けた苛立ちを、言葉に乗せてしまったような調子。みみは一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。

「……分かりました。では、三十分ほど席を外します」

「四十五分取れ」

「いえ、三十分で戻ります」

頑なさに、ルーファウスは小さく息を吐いた。折れるべきは自分のほうだろう。これ以上やり取りを続ければ、そのうち余計なことまで口をついて出そうな気がした。

「分かった。三十分だ」

「行ってまいります」

一礼して部屋を出ていく背中を見送りながら、ルーファウスは胸の奥に再び波打つ苛立ちを感じていた。それは彼女に向けたものではない。どちらかと言えば、自分自身に向いている。

(何をしても、昨夜のことを基準に考えてしまう)

休憩時間を伸ばそうとしたのも、デートで疲れたのではないかと無意識に気にしていたからだ。そんなことを本心として認めたくなくて、仕事の効率だの体調管理だのと言い訳を被せている。

そこまで意識してしまっている時点で、「いつも通り」などと言える状態ではなかった。

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午後、軍とのブリーフィング。そこは、いつも以上に殺伐とした空気が漂う場だった。

「こんな配備計画では、前線の兵が持ちませんよ、副社長」

軍側の担当者が眉をひそめる。ルーファウスは書類に目を落とし、冷静に数字を指し示した。

「人的リソースをすり潰すことが目的であれば、お前たちの案でもいい。しかし、我々は兵の命を無駄に消費する余裕はない。訓練コストも、補充の手間も、魔晄使用量もな」

少し苛立ちを含んだその口調には、いつもの鋭さが戻っていた。みみは、隣で淡々と必要な資料を差し出しながらも、その声の調子に、午前中とは別の意味で胸を撫で下ろしていた。

(仕事のときの副社長だ)

彼が本来向けるべき矛先——神羅の利権や軍の無茶な要求、社内の調整ごと。そこに集中しているときの彼は、恐ろしく有能で、冷酷で、同時にどこか安心させる存在でもある。

会議が一段落したころ、軍の担当者の一人が、ふと雑談めかして漏らした。

「いや〜しかし、副社長。昨夜は八番街も賑わっていたでしょう? うちの若いのが、誰それがどこそこの店で美女といたとか、朝から騒いでましてね」

「そうか」

ルーファウスは興味なさそうに返す。みみの指が、一瞬だけ止まりかけたが、すぐにまた動き出した。

「やっぱり、プレートの上はいいですよ。スラムと違って、いい女も多い」

さりげなくスラムを侮蔑する言い回しに、ルーファウスは視線だけを軍人に向けた。その目の冷たさに、相手はひくりと肩をすくめる。

「そういう線引きは、あまり口にしないほうがいいぞ。聞いている相手によっては、命取りになる」

「は、はあ……」

その場はそれで流れたが、みみの胸の中には、別の意味でざわめきが残った。

(昨夜……)

自分も八番街にいた。ルーファウスも、あのあとどこかへ出かけたのだろうか。誰かと。不本意ながら、そんな想像が頭をよぎる。

同時に、軍人の言葉が刺のように心に残った。

——スラムと違って、いい女も多い。

六番街で育ち、七番街を彷徨い、マムに拾われた自分。スラムの土埃と喧騒を知っている自分。プレートの上に上がってから、誰かに露骨に「出」を蔑まれたことはほとんどないが、それが裏で語られていることくらい分かっている。

(副社長は……)

ふと、あのときのことを思い出す。給湯室で秘書課の女性たちに陰口を叩かれていたとき、彼があえて業務の話を振って、自分の「価値」を見せてくれたこと。あのときも、彼は「スラム出身だから」とか「マムのところの女だから」といった理由で評価したことは一度もなかった。

(……余計に、分からなくなる)

仕事の面だけ見れば、彼は誰よりも敬愛すべき上司だ。人として見ても、自分にとって唯一無二の存在になってしまっている。その彼が昨夜したことの意味を、どう捉えればいいのか。必要以上に考えないように、と自分に言い聞かせても、考えずにはいられなかった。

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夜。ブリーフィングも会議も終わり、フロアに残っているのは二人だけになっていた。

時計の針は、いつもの残業時間を指している。だが、今日は書類の山は少し低い。みみが昨日のうちに前倒しで片づけていたことと、ルーファウスが意識的に「今日はここまで」と線を引いたことが重なった結果だった。

「ここまでだ」

ペンを置き、ルーファウスが立ち上がる。机の上の資料を軽く整え、端末をポケットにしまう。

「今日はこれ以上進めても効率が落ちる。君も、そろそろ切り上げろ」

「……はい」

返事の声は素直だった。心身ともに疲れているくせに、「あと少しだけ」と自分を追い込む癖があることを、みみは自覚している。だからこそ、ここで線を引いてくれるのはありがたい……はずなのに、どこか落ち着かないのは別の理由だ。

「明日は、午前中に例のプロジェクトの初期案を出す。今日のうちに君の視点で気になった点があれば、メモでもいいからまとめておけ」

「かしこまりました。帰宅後に整理して、明日の朝お渡しします」

「……自宅でまで?」

「頭が冴えているうちにまとめておきたいので」

そこだけは譲らない口調に、ルーファウスは小さく笑った。ほんの少しだけ、昨日までの空気が戻る。

「仕事の鬼だな、君は」

「副社長の秘書ですから」

一言だけ交わした冗談に、二人とも少しだけ救われる。重くなりすぎた空気に、細い亀裂が入ったような瞬間だった。

帰り支度をしながら、みみは勇気を振り絞るように口を開いた。

「あの……副社長」

「なんだ」

彼が振り向く。その視線を正面から受け止めるのは、まだ怖い。けれど、逃げ続けるのも違うと思った。

「昨日は……その、失礼いたしました。突然走り出してしまって」

本当は「昨日は、キスを——」と言いかけた言葉を、必死で飲み込む。話題に乗せた瞬間、自分の感情が溢れ出してしまいそうで怖かった。

ルーファウスは一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと首を振る。

「謝るのは、私のほうだ」

低い声が、静かな前室に落ちる。

「君に対して、あってはならないことをした」

言葉を選ぶように、ひとつひとつ区切りながら話す。その顔には、昨夜のような衝動の熱はなく、冷静な自己認識と、わずかな苦みが宿っている。

「……」

みみは、ただ黙って聞いていた。どう返していいか分からない。否定すべきなのか、「気にしていません」と笑うべきなのか。「あのキスに、私も揺らいでいる」と告白すべきなのか。

どの選択肢も口から出せずにいると、ルーファウスは少しだけ視線を逸らした。

「私は、父のようにはならないと決めていた。権力を盾にして、部下に手を出すような真似はしないと」

「……副社長は、そんな方ではありません」

思わず口から出た言葉だった。少なくとも、これまで彼がそういう振る舞いをしたことはない。秘書課の女性たちがどれだけ色目を使っても、彼は一切取り合わなかった。彼の周囲にいた「女たち」は、たいてい父の取り巻きか、父が用意した場にいた相手だ。

「昨日は——」

そこで言葉を切り、ルーファウスは自嘲気味に笑った。

「理性より先に、感情のほうが動いた」

それがどんな感情かまでは口にしない。嫉妬だと認めるには、あまりにも未熟だ。渇望だと言うには、あまりに一方的だ。ただ、自分の中にそんなものが確かに存在していたことを、彼は初めて言葉にした。

「君には、私の衝動に付き合わせた責任がない。……不快だったなら、すぐにでも秘書を代える」

その提案に、みみの心臓が一瞬止まりかけた。

「——嫌です」

ほとんど反射のように飛び出した言葉に、自分で驚く。頬が熱くなり、慌てて付け足した。

「あの、えっと……その、私は……副社長の秘書として、まだお役に立てると思っています。昨日のことだけで、この仕事を手放したくはありません」

「……そうか」

短い返事。だが、その声には、ほんのわずかな安堵が滲んでいた。

「不快では、なかったのか」

今度の問いは、さすがに直接的すぎた。みみは一瞬、息を詰まらせる。

不快——ではない。むしろ、あまりにも嬉しくて、怖くて、どうしていいか分からなくなった。心臓が暴れて、呼吸の仕方を忘れて、だから走り出してしまった。

だが、そのまま口に出せるほど、自分は正直ではない。

「……驚きました」

選んだのは、それでもギリギリの正直さだった。

「突然でしたし……どう受け止めるべきか、まだ分からなくて。でも、だからといって秘書を代えていただきたいとは思いません。これからも、副社長のお役に立ちたいです」

それが今、言える精一杯だった。恋だの好意だのを混ぜてしまえば、仕事も自分も壊れてしまう気がした。

ルーファウスはしばらく彼女を見つめ、それから小さく頷いた。

「分かった。君がそう言うなら、今すぐ何かを変えるつもりはない」

「はい」

「ただ——」

そこで彼は言葉を切り、少しだけ柔らかな声で続けた。

「君の時間を奪うような真似は、しないつもりだ。昨日のように、他の男との約束を妨げる権利は、私にはない」

「……」

他の男、という言葉に、みみの胸がちくりと痛む。昨日の食事を思い出す。穏やかな笑顔。誠実な言葉。悪い時間ではなかった。それでも、心のどこかでずっと別の人のことを考えていた自分を思い出し、自己嫌悪が胸を満たす。

「君が誰とどこで食事をしようと、君の自由だ」

ルーファウスはそう言いながら、視線を彼女から外した。自分に言い聞かせるように。何度も何度も反芻しなければ押し込めない感情を、言葉という形で壁に貼りつけているようだった。

「……ありがとうございます」

それだけが、今は精一杯の返事だった。

ふたりの間に、短い沈黙が落ちる。昨日までとは違う、しかし完全に壊れたわけでもない、新しい均衡点を探っているような沈黙。

先に口を開いたのは、みみだった。

「明日も、いつも通り出社します」

「それが一番だ」

「はい」

小さく頷き、鞄を持ち直す。

「それでは、お先に失礼いたします。……お疲れ様でした、副社長」

「お疲れ」

ドアノブに手をかける前、みみは一瞬だけ振り返りかけて——やめた。今振り返れば、何かを期待してしまう。その期待が裏切られたとき、自分の足がどこへ向かうか分からない。

前室を出て、エレベーターホールへ向かう。足音が、昨日とは違う意味で重い。それでも、逃げるような早足ではない。自分の足で、きちんと歩いている実感があった。

ルーファウスは、その背中が角を曲がって見えなくなるまで視線を向け、それからゆっくりと執務室へ戻った。

机の上には、まだ片づけ切れていない書類が数枚残っている。だが、今夜はもうペンを持つ気になれなかった。代わりに、端末を手に取り、カレンダーアプリを開く。

——来週、再来週。その先。

そこには、びっしりと予定が詰まっている。「副社長」としての彼の時間だ。そのどのマス目にも、「みみとの私的な何か」は書かれていない。書くわけにもいかない。

(それでいい)

端末の画面を閉じながら、自分にそう言い聞かせる。

どれだけ感情が揺らいでも、彼女に与えられるのは「仕事の場」と「守れるだけの環境」だけだ。それ以外に何かを望めば、自分も、彼女も、今の居場所を失う。

それでも——。

唇に、まだ微かな感触が残っている。昨夜の一瞬が、彼の中にも深く刻まれてしまっている。

(面倒な感情だ)

再び心の中で呟き、ルーファウスは薄く笑った。

明日もまた、彼は副社長として執務室に座り、彼女は秘書としてその隣に立つ。その役割を守りながら、互いの胸に芽生えてしまったものの名前だけを、まだ口に出せずにいる。