12
その週は、奇妙なほど「何事もないふり」が上手くいった。
朝になればみみはいつもの時間に神羅ビルへ来て、前室を整え、コーヒーを淹れ、ルーファウスのスケジュールを読み上げる。昼になれば会議の合間に書類を運び、夜になれば残業に付き合う。ルーファウスもまた、冷静で隙のない副社長として、書類の山と会議の連続に身を置き続けた。どちらも、少しだけ言葉が足りない気がしたが、致命的なわけではない。
誰から見ても、優秀な副社長と敏腕秘書。あのキスの一瞬がなければ、完璧な日常だったはずだ。
みみの端末には、あの設備管理の男性から一度だけメッセージが届いた。週が明けた日の夕方、リフレッシュフロアへ向かう前室で確認した、小さな通知。
——「先日はありがとうございました。もしよかったら、また今度ご飯でもどうですか?」
文面は丁寧で、押しつけがましさはない。それでも、一行分の文字列がやけに重く見えた。画面を見つめる時間が長くなり、ハーブティーを淹れてくれたレナに「大丈夫?」と首を傾げられる。
(どうしよう……)
「楽しかった」と言ったのは嘘ではない。気遣ってくれたことも、本当に嬉しかった。スラム出身であることを偏見なく受け止めてくれたのも、心がふっと軽くなった理由だ。それでも、胸の奥に小さく引っかかっているものがある。
——テーブルの上で指が触れたとき、自動的に蘇ってしまった、別の手の感触。仕事の話の途中で、ふと頭をよぎってしまった青い瞳。
レナのカウンターに、空になったカップを置く。
「レナさん……」
「ん?」
「この間の方から、また食事のお誘いをいただいていて……」
「へえ」
レナはバイト仲間の恋バナでも聞いたような気軽さで目を細めたが、その奥にはちゃんと真剣さもあった。
「どうしたの。嬉しくなさそうだね」
「嬉しいんです。嬉しいんですけど……」
言葉を探しているうちに、胸のあたりがきゅうっと締め付けられる。
「あの人とお話ししてると、ほっとするんです。安心できるというか。でも、心臓がドキドキするのは……別のときで」
「別のとき?」
「……はい」
副社長とエレベーターに乗るとき、ふと視線が重なったとき。資料を渡す手が触れたとき。あの日以来、「仕事の動作」の一つ一つに、余計な意味が勝手に付いてきてしまう。
「ねえ、レナさん」
「うん」
「誰かのことが好きなまま、別の人とちゃんと向き合うことって、できるんでしょうか」
しばし沈黙が落ちる。レナはグラスを拭く手を止め、カウンター越しにみみを見つめた。
「……できなくはないと思うよ」
やがて、慎重に言葉を選びながら答える。
「でも、それってたぶん、自分にも相手にも、ちょっと不誠実かもしれない」
「不誠実……」
「頭で『この人なら安全』『この人なら傷つかない』『この人ならちゃんと私を大事にしてくれる』って選ぶことと、心臓が勝手に走っていく方向って、別のときあるじゃない」
レナは自嘲気味に笑った。
「私も昔、それで失敗したことあるんだよね。安全なほう選んで、自分も相手も長く引きずって、結局別れた。最初からちゃんと『ごめん』って言えてたら、もっと楽だったろうなって、今でも思う」
ハーブティーの香りが、やけに強く感じる。みみはカップの縁を指でなぞりながら、胸の中の答えを探した。
「じゃあ、私は……どうしたら」
「それはさ」
レナは肩をすくめる。
「誰を選ぶかじゃなくて、今、自分がどっちを見てるか、じゃない?」
「どっちを……」
「さっきからあんた、端末見てても、自分の中身を見てる時間のほうが長いよ。メッセージの向こうにいる人じゃなくて、もっと別の誰かを考えてる顔してる」
図星を突かれたような痛みが走る。レナの視線は責めていない。ただ、長いこと人を見てきた人間の目をしていた。
「ね。あの人に返事する前に、一回だけ自分に正直になってみな。『今、一番会いたいのは誰か』って」
「……」
返事ができない。タクシーの窓の外に流れる夜景を見ながら、考えないようにしてきた問いだ。今ここで向き合うのは怖かった。
けれど、逃げてばかりでもいられない。
「……ありがとうございます」
やっとのことでそう言うと、レナは笑ってカウンターに手を置いた。
「もし断るにしても、ちゃんと言ってあげな。あの人、悪い人じゃないから。曖昧にすると、引きずらせちゃう」
「……はい」
端末の画面を見つめ、深呼吸をひとつ。指が震えるのを抑えながら、ゆっくりと文字を打っていく。
——「先日は本当にありがとうございました。とても楽しかったです。ただ、正直にお話しすると、今私の心が少し落ち着いていなくて、誰かとお付き合いする準備ができていないと感じています。せっかく誘っていただいたのに申し訳ありません」
送信ボタンを押した瞬間、胸がチクリと痛んだ。設備管理の彼の優しさを思い出し、申し訳なさが喉のあたりでつかえる。それでも、これ以上曖昧にして引きずらせるほうが酷だと、自分に言い聞かせる。
数分後、返信が来た。
——「正直に言ってくれてありがとう。無理させてたらごめんなさい。またリフレッシュフロアで会ったとき、普通に話せたら嬉しいです」
その文面に、ふっと肩の力が抜けた。
(……いい人)
やっぱり、と心の中で呟き、同時に自分の身勝手さに苦く笑う。
(せっかく出会えたのに。ちゃんと向き合えたらよかったのに)
そうできなかった本当の理由は、ひとつしかない。それを口に出せない臆病さだけが、みみの胸に残った。
---
数日後、リフレッシュフロアで彼と鉢合わせた。
「あ」
「こんにちは」
二人して同時に中途半端な声を上げてしまい、思わず目を見合わせる。設備管理の彼は一瞬だけ照れたように笑い、それからいつもの穏やかな表情に戻った。
「この前は、変なこと言ってごめんなさい」
先に頭を下げたのは彼のほうだった。
「自分の気持ちだけ押しつけちゃったなって、あとで思って。ちゃんと断ってくれてよかったです」
「そんな……私のほうこそ、申し訳ありません」
みみも深く頭を下げる。レナがカウンターの向こうで、黙ってハーブティーを準備していた。
「でも、なんとなく……ああ、多分誰かいるんだろうなって思ってました」
「え……」
「レナさんに、『あの子、誰か見てる顔してるよ』って前に言われてたので」
レナが「ちょっと!」と小声で抗議し、彼は苦笑した。
「それに、このビルで副社長付きの秘書なんて、そうそう空いてる椅子じゃないでしょう? その仕事、大事にしたい相手がいるんだろうなって」
「……はい」
「だからきっと、俺なんかが入り込む余地はないんだろうなって、薄々」
「そんなこと……」
否定しようとして、言葉が続かない。「副社長のためにこの仕事を続けたい」という思いは、紛れもない本音だった。その半分は純粋な仕事への誇りで、もう半分は——個人的な感情の色が濃すぎて、誰にも見せられない。
「でも、ちゃんと断ってくれてありがとうございます。本当に。あやふやにされるのが、一番堪えるから」
彼はそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
「また、機械室の愚痴でも聞いてもらえたら嬉しいです。今度は、お客さんとして」
「はい。そのときは、ハーブティー奢らせてください」
「楽しみにしてます」
そう言って、彼は工具箱を肩に担ぎ、フロアから出て行った。その背中を見送りながら、みみは胸の奥がじんわりと痛むのを感じていた。何かを失ったようで、同時に何かを守ったようでもあった。
レナがカップを差し出しながら、ぽつりと言う。
「ちゃんと終わらせられたじゃない」
「……終わらせる、って言うほど始まってもいませんでしたけど」
「それでも、自分で決められたのは偉いよ」
レナは優しく微笑んだ。
「で、これからどうするの。『誰か』には、どう向き合うの?」
その問いには、まだ答えられなかった。
---
その頃、別の場所では。
ルーファウスは、ここしばらく自分の足がリフレッシュフロアから遠ざかっていることに気づいていた。以前なら、肩が重くなったタイミングでふらりと立ち寄り、コーヒーとは違う種類のカフェインを求めてソファに沈み込んでいた。だが、最近は足が向かない。
(あの設備管理の男の顔は、見たくない)
そんな幼稚な理由を自覚しているから、余計に行きづらくなっていた。嫉妬を直視するのは、自分の器の小ささを思い知らされる行為だ。
その代わりに彼は、仕事にさらに拍車をかけていた。新規プロジェクトの企画、軍との微妙なバランス取り、社内の派閥争い。どれも頭を使う案件だ。感情を押し込めるには、これ以上ない環境だった。
ただ一度、財務部との会議の帰り、書類を拾うために立ち止まった際、廊下の隅からみみの笑い声が聞こえてきた。
「——それで、レナさんが『ほら見たことか』って言うんです」
「マジかよ、それは読まれてたな」
設備管理の男の低い笑い声も混ざる。リフレッシュフロアの入口近く、カウンターのほうからの声だ。壁越しに聞こえるほど大きくはないのに、耳は敏感に拾ってしまう。
(……まだ続いているのか)
胸の奥が虫のようにざわつく。足を止めかけて、すぐに歩き出す。聞き耳を立てるなど、彼のプライドが許さない。
その夜、前室でみみが端末を見ている姿を見かけても、以前のように「男か?」と口を挟むことはしなかった。それがどれだけ聞きたい言葉を飲み込むことになるのか、分かっていても。
ある日の終業後、みみが手帳を閉じたタイミングで、ふと彼女が口を開いた。
「副社長」
「なんだ」
「少しだけ、予定変更のご報告を」
「変更?」
「先日お話ししていた、食事のお相手の件ですが……」
淡々とした口調の裏に、ほんの少しだけ迷いが混ざっているのが分かる。ルーファウスはペンを置き、視線を彼女に向けた。
「これ以上お会いするのは失礼だと判断して、お断りさせていただきました」
「……そうか」
喉の奥で、何かが外れる音がした気がした。安堵と同時に、情けないほどの喜びが胸に広がる。それが顔に出ないよう、必死で表情筋を制御する。
「理由を聞いても?」
業務上の確認のように、冷静な声で尋ねる。本当は聞く必要などない。だが、どうしても知りたかった。
「……私のほうが、中途半端な気持ちのまま、その方と向き合うのは不誠実だと感じたからです」
みみは視線を落とし、指先で手帳の角をなぞる。
「仕事のことも、自分のことで精いっぱいで、人としてちゃんと向き合える状態ではないと、気づきました」
「そうか」
繰り返す言葉しか出てこない。だが、その「仕事のこと」と「自分のこと」の中に、自分がどれだけ占めているかを考えると、胸の奥が熱くなった。
(他の男を選ばなかったことに、安堵している)
あまりにも率直な自覚に、内心で苦笑する。道理に合わない感情だと分かっているのに、抑えきれない。
「……その判断は、正しいと思う」
ルーファウスは少しだけ声を低くした。
「中途半端な気持ちで人と会うのは、相手にも自分にも負担になるだけだ。君がそう判断したのなら、私はそれを尊重する」
「ありがとうございます」
みみは小さく頭を下げる。その動きは、どこか肩の力が抜けたように見えた。決して軽くはない決断をしたのだろう。それでも、その選択に満足しているような表情が少しだけ見て取れる。
(……彼女にとって、私はどういう存在なのか)
聞きたくてたまらない問いを、ルーファウスはまた飲み込んだ。聞けば、今の均衡は崩れる。彼女がどんな答えを出すにしても、この関係は同じ形ではいられなくなる。
「……引き続き、仕事に集中します」
みみの言葉に、ルーファウスはごくわずかに口元を緩めた。
「それが、君には一番似合っている」
「ひどいです」
思わず口をついた小さな抗議が、二人の間の空気を少しだけ軽くする。みみは笑いながらも、どこかほっとしたような顔をしていた。
---
季節が、ほんの少しだけ移ろい始める。
プレートの上にも、わずかな温度差がある。夜風の冷たさが増し、社員たちのコートが厚くなっていく。神羅ビルの空調は一定でも、窓ガラスの向こうに広がるミッドガルの色合いは少しずつ変わっていった。
ある夜、突発的な停電があった。軍の実験施設でのトラブルが原因で、一時的に魔晄供給が不安定になったのだ。ビル全体が真っ暗になるほどではなかったが、一部のフロアの照明やエレベーターが数分間だけ止まった。
「非常用電源に切り替わります」
スピーカーから案内の声が流れる。最上階のフロアも、少しだけ照明が落ちて、いつもより暗くなった。
「びっくりした……」
前室で資料をまとめていたみみは、思わず胸に手を当てる。照明の明滅と、一瞬の静寂。プレートの上であっても、薄暗闇はスラムの夜を思い出させた。
「大丈夫か」
執務室から出てきたルーファウスが、様子を見に来る。非常灯のわずかな光で照らされたその顔は、いつもより陰影が深く、どこか現実味を失って見えた。
「はい。少し驚いただけです」
「そうか」
窓の外を見ると、遠くのほうで一部の区画が暗くなっているのが見える。魔晄灯がちらちらと点滅し、すぐに予備電源に切り替わっていく様も、ここからは俯瞰できた。
「スラムにいた頃、停電はしょっちゅうでしたから」
ふと、みみがぽつりと漏らす。
「でも、プレートの上でこういうのがあると、なんだか不安になりますね。『上』はいつも安心で安定しているものだと思っていたので」
「上も下も、そう変わらないさ」
ルーファウスは窓の外を見たまま言う。
「違うのは、見えているものと、見えないふりをしているものの割合だ」
みみは少しだけ首を傾げた。
「副社長は、怖くないんですか? こういうとき」
「怖い?」
「真っ暗になったり、急に音が止まったりすると……私は、少し怖くて」
ルーファウスは少しだけ考えるふりをして、短く答えた。
「……怖いというより、苛立つな」
「苛立つ、ですか」
「自分で制御できないものに振り回されるのは、性に合わない」
その言葉に、みみは小さく笑った。
「副社長らしいです」
「君は?」
「私は……そうですね」
非常灯の光で、みみの横顔が柔らかく照らされる。紫の瞳が、少しだけ遠くを見ていた。
「マムのところにいた頃は、『次に何が起こるか分からない』ことも楽しさの一部でした。突然客が増えたり、突然誰かがいなくなったり。でも、今は……安定していてほしいです」
「神羅に?」
「はい。副社長や、ここでの仕事や……私が大事にしたいものは、できるだけ揺らいでほしくないと思います」
その「大事にしたいもの」の中に、自分も含まれているのかどうか。愚かな問いが、胸の奥で形を取ろうとする。ルーファウスはそれを押しとどめ、代わりに別の言葉を選んだ。
「……なら、なおさら私が安定させなければならないな」
「副社長がいないと、このフロアは途端に不安定になりそうです」
「君がいれば、最低限の秩序は保たれるだろう」
「そんな、買いかぶりすぎです」
くすりと笑い合う。その瞬間だけ、非常灯の暗さが少し和らいだような気がした。
「……副社長」
ふと、みみが真面目な声で呼びかける。
「もし、また何かあって……私が不安定になってしまったら、そのときは叱ってください」
「叱る?」
「はい。『仕事に支障をきたすな』って。私、そう言われたほうが、きっと踏ん張れますから」
その頼み方が、あまりにも彼女らしくて、ルーファウスは思わず笑ってしまった。
「自分で自分を縛るのが好きだな、君は」
「縛るというか……支えが欲しいだけです」
「支え、か」
彼は少しだけ表情を和らげる。
「君が不安定になったときに、叱ることが支えになるのなら、いくらでも叱ってやろう」
「約束ですよ?」
「副社長が約束を違えると思うか」
「思いません」
即答に、ルーファウスの胸の奥が温かくなる。信頼という言葉を使わずに、信頼をまっすぐに向けてくるのが、彼女のやり方だ。
数分後、照明が完全に復旧し、フロアはいつもの明るさを取り戻した。何事もなかったかのように、ビル全体が再び動き出す。
ただ、その短い暗闇の時間は、二人の間の距離をほんの少しだけ近づけていた。
---
その夜、みみは自宅の小さな机で手帳を開いていた。
今日の出来事を箇条書きにする癖は、マムのところを出てからも変わらない。会議の内容や仕事の進捗だけでなく、自分の心の動きも、できるだけ簡潔に書き留める。
——「食事の相手の方に、お断りのメッセージを送った」
——「リフレッシュフロアで再会。きちんと終わらせられた」
——「停電。副社長と窓際で少し話した」
ペン先がしばらく止まり、やがて、新しい一行が加わる。
——「大事にしたいものの中に、副社長がいることを認めた」
書いてしまった文字列に、思わず頬が熱くなる。誰にも見せるつもりのないページだ。それでも、紙の上に並ぶ文字はあまりにも直球で、自分で自分に告白しているような気分になった。
(……もう、逃げられない)
恋人を作ろうとしてみた。別の人と向き合おうとしてみた。そのどれもが、結局は彼を基準に動いてしまう。ならば、「好きではないふり」を続けるのは、きっとこれ以上無理だ。
だからといって、この気持ちを本人に伝えるつもりはない。伝えた先に待っているものが、今の居場所を壊す可能性があるなら、口を閉ざすほうを選ぶ。
「……副社長の秘書として」
呟いて、手帳を閉じる。
「ちゃんと隣に立てるように、頑張る」
それが今、みみにとっての「恋」の形だった。
---
一方、ルーファウスは自室のソファに座り、グラスを指先で転がしていた。中身は半分ほど減っているが、酔うまで飲む気にはなれない。
さっきの停電のことを思い出す。薄暗い非常灯に照らされた彼女の横顔。大事にしたいものの話。自分に「叱ってください」と頼んだときの真剣さ。
(大事にしたいもの、か)
神羅。会社としての存続。ミッドガルの均衡。父から奪わなければならない「力」。その全部の中に、ひとりの秘書の名前を紛れ込ませることが、どれだけ愚かで、どれだけ甘い行為なのかは分かっている。
それでも、もう脳内のリストから消すことはできない。何度線を引き直しても、その名前だけは勝手に浮かび上がってくる。
「……君の時間を奪う権利はない、か」
あの日、自分で言った言葉を思い出す。そのくせ、彼女が他の男との予定を手放したと聞いて、胸の奥でほっとしている自分がいる。矛盾だらけだ。
(面倒な感情だ)
また同じ言葉を心の中で繰り返し、グラスをテーブルに置く。
明日もまた、神羅ビルの最上階で、彼は副社長として椅子に座り、彼女は秘書としてその隣に立つ。互いの胸に抱えた「大事にしたいもの」の中に、すでに相手の姿があることを、自覚したまま。
それでもまだ、「好きだ」と口に出すには、二人とも少しだけ臆病だった。
朝になればみみはいつもの時間に神羅ビルへ来て、前室を整え、コーヒーを淹れ、ルーファウスのスケジュールを読み上げる。昼になれば会議の合間に書類を運び、夜になれば残業に付き合う。ルーファウスもまた、冷静で隙のない副社長として、書類の山と会議の連続に身を置き続けた。どちらも、少しだけ言葉が足りない気がしたが、致命的なわけではない。
誰から見ても、優秀な副社長と敏腕秘書。あのキスの一瞬がなければ、完璧な日常だったはずだ。
みみの端末には、あの設備管理の男性から一度だけメッセージが届いた。週が明けた日の夕方、リフレッシュフロアへ向かう前室で確認した、小さな通知。
——「先日はありがとうございました。もしよかったら、また今度ご飯でもどうですか?」
文面は丁寧で、押しつけがましさはない。それでも、一行分の文字列がやけに重く見えた。画面を見つめる時間が長くなり、ハーブティーを淹れてくれたレナに「大丈夫?」と首を傾げられる。
(どうしよう……)
「楽しかった」と言ったのは嘘ではない。気遣ってくれたことも、本当に嬉しかった。スラム出身であることを偏見なく受け止めてくれたのも、心がふっと軽くなった理由だ。それでも、胸の奥に小さく引っかかっているものがある。
——テーブルの上で指が触れたとき、自動的に蘇ってしまった、別の手の感触。仕事の話の途中で、ふと頭をよぎってしまった青い瞳。
レナのカウンターに、空になったカップを置く。
「レナさん……」
「ん?」
「この間の方から、また食事のお誘いをいただいていて……」
「へえ」
レナはバイト仲間の恋バナでも聞いたような気軽さで目を細めたが、その奥にはちゃんと真剣さもあった。
「どうしたの。嬉しくなさそうだね」
「嬉しいんです。嬉しいんですけど……」
言葉を探しているうちに、胸のあたりがきゅうっと締め付けられる。
「あの人とお話ししてると、ほっとするんです。安心できるというか。でも、心臓がドキドキするのは……別のときで」
「別のとき?」
「……はい」
副社長とエレベーターに乗るとき、ふと視線が重なったとき。資料を渡す手が触れたとき。あの日以来、「仕事の動作」の一つ一つに、余計な意味が勝手に付いてきてしまう。
「ねえ、レナさん」
「うん」
「誰かのことが好きなまま、別の人とちゃんと向き合うことって、できるんでしょうか」
しばし沈黙が落ちる。レナはグラスを拭く手を止め、カウンター越しにみみを見つめた。
「……できなくはないと思うよ」
やがて、慎重に言葉を選びながら答える。
「でも、それってたぶん、自分にも相手にも、ちょっと不誠実かもしれない」
「不誠実……」
「頭で『この人なら安全』『この人なら傷つかない』『この人ならちゃんと私を大事にしてくれる』って選ぶことと、心臓が勝手に走っていく方向って、別のときあるじゃない」
レナは自嘲気味に笑った。
「私も昔、それで失敗したことあるんだよね。安全なほう選んで、自分も相手も長く引きずって、結局別れた。最初からちゃんと『ごめん』って言えてたら、もっと楽だったろうなって、今でも思う」
ハーブティーの香りが、やけに強く感じる。みみはカップの縁を指でなぞりながら、胸の中の答えを探した。
「じゃあ、私は……どうしたら」
「それはさ」
レナは肩をすくめる。
「誰を選ぶかじゃなくて、今、自分がどっちを見てるか、じゃない?」
「どっちを……」
「さっきからあんた、端末見てても、自分の中身を見てる時間のほうが長いよ。メッセージの向こうにいる人じゃなくて、もっと別の誰かを考えてる顔してる」
図星を突かれたような痛みが走る。レナの視線は責めていない。ただ、長いこと人を見てきた人間の目をしていた。
「ね。あの人に返事する前に、一回だけ自分に正直になってみな。『今、一番会いたいのは誰か』って」
「……」
返事ができない。タクシーの窓の外に流れる夜景を見ながら、考えないようにしてきた問いだ。今ここで向き合うのは怖かった。
けれど、逃げてばかりでもいられない。
「……ありがとうございます」
やっとのことでそう言うと、レナは笑ってカウンターに手を置いた。
「もし断るにしても、ちゃんと言ってあげな。あの人、悪い人じゃないから。曖昧にすると、引きずらせちゃう」
「……はい」
端末の画面を見つめ、深呼吸をひとつ。指が震えるのを抑えながら、ゆっくりと文字を打っていく。
——「先日は本当にありがとうございました。とても楽しかったです。ただ、正直にお話しすると、今私の心が少し落ち着いていなくて、誰かとお付き合いする準備ができていないと感じています。せっかく誘っていただいたのに申し訳ありません」
送信ボタンを押した瞬間、胸がチクリと痛んだ。設備管理の彼の優しさを思い出し、申し訳なさが喉のあたりでつかえる。それでも、これ以上曖昧にして引きずらせるほうが酷だと、自分に言い聞かせる。
数分後、返信が来た。
——「正直に言ってくれてありがとう。無理させてたらごめんなさい。またリフレッシュフロアで会ったとき、普通に話せたら嬉しいです」
その文面に、ふっと肩の力が抜けた。
(……いい人)
やっぱり、と心の中で呟き、同時に自分の身勝手さに苦く笑う。
(せっかく出会えたのに。ちゃんと向き合えたらよかったのに)
そうできなかった本当の理由は、ひとつしかない。それを口に出せない臆病さだけが、みみの胸に残った。
---
数日後、リフレッシュフロアで彼と鉢合わせた。
「あ」
「こんにちは」
二人して同時に中途半端な声を上げてしまい、思わず目を見合わせる。設備管理の彼は一瞬だけ照れたように笑い、それからいつもの穏やかな表情に戻った。
「この前は、変なこと言ってごめんなさい」
先に頭を下げたのは彼のほうだった。
「自分の気持ちだけ押しつけちゃったなって、あとで思って。ちゃんと断ってくれてよかったです」
「そんな……私のほうこそ、申し訳ありません」
みみも深く頭を下げる。レナがカウンターの向こうで、黙ってハーブティーを準備していた。
「でも、なんとなく……ああ、多分誰かいるんだろうなって思ってました」
「え……」
「レナさんに、『あの子、誰か見てる顔してるよ』って前に言われてたので」
レナが「ちょっと!」と小声で抗議し、彼は苦笑した。
「それに、このビルで副社長付きの秘書なんて、そうそう空いてる椅子じゃないでしょう? その仕事、大事にしたい相手がいるんだろうなって」
「……はい」
「だからきっと、俺なんかが入り込む余地はないんだろうなって、薄々」
「そんなこと……」
否定しようとして、言葉が続かない。「副社長のためにこの仕事を続けたい」という思いは、紛れもない本音だった。その半分は純粋な仕事への誇りで、もう半分は——個人的な感情の色が濃すぎて、誰にも見せられない。
「でも、ちゃんと断ってくれてありがとうございます。本当に。あやふやにされるのが、一番堪えるから」
彼はそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
「また、機械室の愚痴でも聞いてもらえたら嬉しいです。今度は、お客さんとして」
「はい。そのときは、ハーブティー奢らせてください」
「楽しみにしてます」
そう言って、彼は工具箱を肩に担ぎ、フロアから出て行った。その背中を見送りながら、みみは胸の奥がじんわりと痛むのを感じていた。何かを失ったようで、同時に何かを守ったようでもあった。
レナがカップを差し出しながら、ぽつりと言う。
「ちゃんと終わらせられたじゃない」
「……終わらせる、って言うほど始まってもいませんでしたけど」
「それでも、自分で決められたのは偉いよ」
レナは優しく微笑んだ。
「で、これからどうするの。『誰か』には、どう向き合うの?」
その問いには、まだ答えられなかった。
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その頃、別の場所では。
ルーファウスは、ここしばらく自分の足がリフレッシュフロアから遠ざかっていることに気づいていた。以前なら、肩が重くなったタイミングでふらりと立ち寄り、コーヒーとは違う種類のカフェインを求めてソファに沈み込んでいた。だが、最近は足が向かない。
(あの設備管理の男の顔は、見たくない)
そんな幼稚な理由を自覚しているから、余計に行きづらくなっていた。嫉妬を直視するのは、自分の器の小ささを思い知らされる行為だ。
その代わりに彼は、仕事にさらに拍車をかけていた。新規プロジェクトの企画、軍との微妙なバランス取り、社内の派閥争い。どれも頭を使う案件だ。感情を押し込めるには、これ以上ない環境だった。
ただ一度、財務部との会議の帰り、書類を拾うために立ち止まった際、廊下の隅からみみの笑い声が聞こえてきた。
「——それで、レナさんが『ほら見たことか』って言うんです」
「マジかよ、それは読まれてたな」
設備管理の男の低い笑い声も混ざる。リフレッシュフロアの入口近く、カウンターのほうからの声だ。壁越しに聞こえるほど大きくはないのに、耳は敏感に拾ってしまう。
(……まだ続いているのか)
胸の奥が虫のようにざわつく。足を止めかけて、すぐに歩き出す。聞き耳を立てるなど、彼のプライドが許さない。
その夜、前室でみみが端末を見ている姿を見かけても、以前のように「男か?」と口を挟むことはしなかった。それがどれだけ聞きたい言葉を飲み込むことになるのか、分かっていても。
ある日の終業後、みみが手帳を閉じたタイミングで、ふと彼女が口を開いた。
「副社長」
「なんだ」
「少しだけ、予定変更のご報告を」
「変更?」
「先日お話ししていた、食事のお相手の件ですが……」
淡々とした口調の裏に、ほんの少しだけ迷いが混ざっているのが分かる。ルーファウスはペンを置き、視線を彼女に向けた。
「これ以上お会いするのは失礼だと判断して、お断りさせていただきました」
「……そうか」
喉の奥で、何かが外れる音がした気がした。安堵と同時に、情けないほどの喜びが胸に広がる。それが顔に出ないよう、必死で表情筋を制御する。
「理由を聞いても?」
業務上の確認のように、冷静な声で尋ねる。本当は聞く必要などない。だが、どうしても知りたかった。
「……私のほうが、中途半端な気持ちのまま、その方と向き合うのは不誠実だと感じたからです」
みみは視線を落とし、指先で手帳の角をなぞる。
「仕事のことも、自分のことで精いっぱいで、人としてちゃんと向き合える状態ではないと、気づきました」
「そうか」
繰り返す言葉しか出てこない。だが、その「仕事のこと」と「自分のこと」の中に、自分がどれだけ占めているかを考えると、胸の奥が熱くなった。
(他の男を選ばなかったことに、安堵している)
あまりにも率直な自覚に、内心で苦笑する。道理に合わない感情だと分かっているのに、抑えきれない。
「……その判断は、正しいと思う」
ルーファウスは少しだけ声を低くした。
「中途半端な気持ちで人と会うのは、相手にも自分にも負担になるだけだ。君がそう判断したのなら、私はそれを尊重する」
「ありがとうございます」
みみは小さく頭を下げる。その動きは、どこか肩の力が抜けたように見えた。決して軽くはない決断をしたのだろう。それでも、その選択に満足しているような表情が少しだけ見て取れる。
(……彼女にとって、私はどういう存在なのか)
聞きたくてたまらない問いを、ルーファウスはまた飲み込んだ。聞けば、今の均衡は崩れる。彼女がどんな答えを出すにしても、この関係は同じ形ではいられなくなる。
「……引き続き、仕事に集中します」
みみの言葉に、ルーファウスはごくわずかに口元を緩めた。
「それが、君には一番似合っている」
「ひどいです」
思わず口をついた小さな抗議が、二人の間の空気を少しだけ軽くする。みみは笑いながらも、どこかほっとしたような顔をしていた。
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季節が、ほんの少しだけ移ろい始める。
プレートの上にも、わずかな温度差がある。夜風の冷たさが増し、社員たちのコートが厚くなっていく。神羅ビルの空調は一定でも、窓ガラスの向こうに広がるミッドガルの色合いは少しずつ変わっていった。
ある夜、突発的な停電があった。軍の実験施設でのトラブルが原因で、一時的に魔晄供給が不安定になったのだ。ビル全体が真っ暗になるほどではなかったが、一部のフロアの照明やエレベーターが数分間だけ止まった。
「非常用電源に切り替わります」
スピーカーから案内の声が流れる。最上階のフロアも、少しだけ照明が落ちて、いつもより暗くなった。
「びっくりした……」
前室で資料をまとめていたみみは、思わず胸に手を当てる。照明の明滅と、一瞬の静寂。プレートの上であっても、薄暗闇はスラムの夜を思い出させた。
「大丈夫か」
執務室から出てきたルーファウスが、様子を見に来る。非常灯のわずかな光で照らされたその顔は、いつもより陰影が深く、どこか現実味を失って見えた。
「はい。少し驚いただけです」
「そうか」
窓の外を見ると、遠くのほうで一部の区画が暗くなっているのが見える。魔晄灯がちらちらと点滅し、すぐに予備電源に切り替わっていく様も、ここからは俯瞰できた。
「スラムにいた頃、停電はしょっちゅうでしたから」
ふと、みみがぽつりと漏らす。
「でも、プレートの上でこういうのがあると、なんだか不安になりますね。『上』はいつも安心で安定しているものだと思っていたので」
「上も下も、そう変わらないさ」
ルーファウスは窓の外を見たまま言う。
「違うのは、見えているものと、見えないふりをしているものの割合だ」
みみは少しだけ首を傾げた。
「副社長は、怖くないんですか? こういうとき」
「怖い?」
「真っ暗になったり、急に音が止まったりすると……私は、少し怖くて」
ルーファウスは少しだけ考えるふりをして、短く答えた。
「……怖いというより、苛立つな」
「苛立つ、ですか」
「自分で制御できないものに振り回されるのは、性に合わない」
その言葉に、みみは小さく笑った。
「副社長らしいです」
「君は?」
「私は……そうですね」
非常灯の光で、みみの横顔が柔らかく照らされる。紫の瞳が、少しだけ遠くを見ていた。
「マムのところにいた頃は、『次に何が起こるか分からない』ことも楽しさの一部でした。突然客が増えたり、突然誰かがいなくなったり。でも、今は……安定していてほしいです」
「神羅に?」
「はい。副社長や、ここでの仕事や……私が大事にしたいものは、できるだけ揺らいでほしくないと思います」
その「大事にしたいもの」の中に、自分も含まれているのかどうか。愚かな問いが、胸の奥で形を取ろうとする。ルーファウスはそれを押しとどめ、代わりに別の言葉を選んだ。
「……なら、なおさら私が安定させなければならないな」
「副社長がいないと、このフロアは途端に不安定になりそうです」
「君がいれば、最低限の秩序は保たれるだろう」
「そんな、買いかぶりすぎです」
くすりと笑い合う。その瞬間だけ、非常灯の暗さが少し和らいだような気がした。
「……副社長」
ふと、みみが真面目な声で呼びかける。
「もし、また何かあって……私が不安定になってしまったら、そのときは叱ってください」
「叱る?」
「はい。『仕事に支障をきたすな』って。私、そう言われたほうが、きっと踏ん張れますから」
その頼み方が、あまりにも彼女らしくて、ルーファウスは思わず笑ってしまった。
「自分で自分を縛るのが好きだな、君は」
「縛るというか……支えが欲しいだけです」
「支え、か」
彼は少しだけ表情を和らげる。
「君が不安定になったときに、叱ることが支えになるのなら、いくらでも叱ってやろう」
「約束ですよ?」
「副社長が約束を違えると思うか」
「思いません」
即答に、ルーファウスの胸の奥が温かくなる。信頼という言葉を使わずに、信頼をまっすぐに向けてくるのが、彼女のやり方だ。
数分後、照明が完全に復旧し、フロアはいつもの明るさを取り戻した。何事もなかったかのように、ビル全体が再び動き出す。
ただ、その短い暗闇の時間は、二人の間の距離をほんの少しだけ近づけていた。
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その夜、みみは自宅の小さな机で手帳を開いていた。
今日の出来事を箇条書きにする癖は、マムのところを出てからも変わらない。会議の内容や仕事の進捗だけでなく、自分の心の動きも、できるだけ簡潔に書き留める。
——「食事の相手の方に、お断りのメッセージを送った」
——「リフレッシュフロアで再会。きちんと終わらせられた」
——「停電。副社長と窓際で少し話した」
ペン先がしばらく止まり、やがて、新しい一行が加わる。
——「大事にしたいものの中に、副社長がいることを認めた」
書いてしまった文字列に、思わず頬が熱くなる。誰にも見せるつもりのないページだ。それでも、紙の上に並ぶ文字はあまりにも直球で、自分で自分に告白しているような気分になった。
(……もう、逃げられない)
恋人を作ろうとしてみた。別の人と向き合おうとしてみた。そのどれもが、結局は彼を基準に動いてしまう。ならば、「好きではないふり」を続けるのは、きっとこれ以上無理だ。
だからといって、この気持ちを本人に伝えるつもりはない。伝えた先に待っているものが、今の居場所を壊す可能性があるなら、口を閉ざすほうを選ぶ。
「……副社長の秘書として」
呟いて、手帳を閉じる。
「ちゃんと隣に立てるように、頑張る」
それが今、みみにとっての「恋」の形だった。
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一方、ルーファウスは自室のソファに座り、グラスを指先で転がしていた。中身は半分ほど減っているが、酔うまで飲む気にはなれない。
さっきの停電のことを思い出す。薄暗い非常灯に照らされた彼女の横顔。大事にしたいものの話。自分に「叱ってください」と頼んだときの真剣さ。
(大事にしたいもの、か)
神羅。会社としての存続。ミッドガルの均衡。父から奪わなければならない「力」。その全部の中に、ひとりの秘書の名前を紛れ込ませることが、どれだけ愚かで、どれだけ甘い行為なのかは分かっている。
それでも、もう脳内のリストから消すことはできない。何度線を引き直しても、その名前だけは勝手に浮かび上がってくる。
「……君の時間を奪う権利はない、か」
あの日、自分で言った言葉を思い出す。そのくせ、彼女が他の男との予定を手放したと聞いて、胸の奥でほっとしている自分がいる。矛盾だらけだ。
(面倒な感情だ)
また同じ言葉を心の中で繰り返し、グラスをテーブルに置く。
明日もまた、神羅ビルの最上階で、彼は副社長として椅子に座り、彼女は秘書としてその隣に立つ。互いの胸に抱えた「大事にしたいもの」の中に、すでに相手の姿があることを、自覚したまま。
それでもまだ、「好きだ」と口に出すには、二人とも少しだけ臆病だった。