週がさらにひとつ過ぎた頃、神羅ビルの空気は、一層刺々しさを増していた。

新しい魔晄炉計画の話が水面下で動き出したのだ。正式発表にはまだ時間があるものの、各部署の資料や打ち合わせは着々と進んでいる。副社長フロアにも、通常より多くの役員や軍関係者が出入りし、電話は鳴りっぱなし、書類の山も膨れ続けていた。

みみの手帳は、ここ最近で一番黒く埋まっている。ルーファウスのスケジュール、会議の準備物、決裁を待つ案件、各部署からの問い合わせ。そこに加えて、六番街のマムから届く、ごくたまにの短い手紙も挟まっていた。

「……」

昼前、みみは手帳を閉じ、深く息を吐いた。前室の机の上には、午前と午後の会議用に分けられた資料の束がきっちりと並んでいる。その横で、端末が一度震えた。

画面には、六番街の知り合いからのメッセージが表示されていた。久しぶりに連絡をくれた顔馴染みの女の名前。その内容を読んだ瞬間、みみの表情がわずかに強張る。

——「最近、七番街の魔晄炉の話でスラムがざわついてるわよ。上が何か企んでるって」

短い一文。それだけだ。だが、「七番街」「魔晄炉」「企んでる」という単語が、不穏な形で胸に刺さる。幼い頃、捨てられた場所。自分が必死に歩いて抜けてきた路地。その上に建っている巨大な施設。

(……仕事中)

心の中で繰り返し、自分を現実に引き戻す。今、自分がいるのは最上階の前室だ。ここで感情を乱しても、何一つ良い方向には転がらない。

端末を閉じ、代わりにルーファウスの端末用のメモを開く。今日の午後の会議に持ち込むべき数字のチェック。軍側の要求と財務の試算の擦り合わせ。細かい確認項目を、一つずつ潰していく。指はいつものように動くのに、胸の奥だけが落ち着かない。

「——みみ」

執務室の扉が開き、ルーファウスが顔を出した。呼びかけに、みみはすぐに立ち上がる。

「はい、副社長」

「軍との会議の前に、追加の資料が必要だ。七番街周辺の人口推移のデータと、直近十年の事故件数だ」

「かしこまりました。経理と治安維持部門に確認を取ります」

端的なやり取り。だが、「七番街」と言われた瞬間、心臓が一拍だけ強く跳ねた。表情に出していないつもりでも、自分で分かるほど、ほんのわずかに血の気が引く。

(関係ない。……関係ない)

たとえ七番街の上に新しい魔晄炉が増設されようと、それは「副社長」としての彼の判断であり、「神羅」としての決定だ。スラム出身の一人の女の感情で揺れていい話ではない。理屈では、そう分かっていた。

「君の顔色が悪いな」

不意にルーファウスが眉を寄せた。いつもより、視線がまっすぐ彼女の顔を捉える。

「……大丈夫です」

「本当にか?」

「はい。少し、寝不足なだけです」

明らかな嘘ではなかった。ここしばらく眠りは浅く、夜中に目を覚ましてしまうことも増えていた。それが七番街と無関係かと言われれば、嘘になるが。

ルーファウスはしばらく彼女を見つめ、それから一度だけ短く頷いた。

「……資料の手配に取り掛かれ。会議は一時間後だ」

「かしこまりました」

頭を下げ、前室を出る。足早に廊下を歩きながら、みみは自分の手の震えに気づいていた。

---

会議は予想どおり、緊張した空気の中で進んだ。

七番街魔晄炉増設計画に伴うコストとリスク。そのすべてが数字でしか語られない場だ。軍は治安面の問題を、財務は採算を、開発部門は技術的な可能性を、それぞれ冷静に並べていく。

みみは会議室の隅で、必要な資料をその場で用意し、配布し、要点をメモに起こしていく。表情や言葉に出さないようにしていても、「七番街」「スラム」「プレート下」という言葉が出るたびに、胸がじくりと痛んだ。

(今、下はどうなっているんだろう)

頭の片隅が勝手に考える。七番街市場の賑わい。子どもたちの笑い声。細い路地裏の匂い。六番街へ向かう途中で拾った、あのときの空腹と寒さ。そして、マムに手を引かれたあの日の感覚。

「……」

ペンを握る指先に力が入る。紙が少しだけしわになり、慌てて力を抜く。

ルーファウスは、そんな彼女の様子を横目で捉えていた。彼の声は終始冷静で、数字と論理だけを標的にしているように見える。だが、ときおりみみの横顔に視線が滑る。

(七番街、か)

彼女がどこからここに来たのか、詳しく話したことはほとんどない。断片的な言葉の端々から、スラムの出だということと、六番街のマムのもとで育ったことだけは聞いている。七番街で幼い頃を過ごし、その後六番街へ——そこから先は、彼女が語ろうとしていない領域だ。

(今の顔色と、さっきのメッセージ画面)

数日前、前室のガラス越しに見た、端末を見つめる彼女の顔がふと頭に浮かぶ。あのときも、微かに表情を曇らせていた。あれも、七番街からの知らせだったのだろうか。

会議を終え、役員たちが部屋を出ていく。椅子が引かれ、書類を掴む音が一斉に鳴る中、ルーファウスは立ち上がらずに席に残った。

「副社長、次の会議の——」

「五分だけ、時間をくれ」

みみが近づこうとするのを手で制し、彼は短く言う。

「ここでいい。君も座れ」

「いえ、私は——」

「命令だ。座れ」

少しだけ強い口調に、みみは思わず従ってしまう。会議室の隅に残された席に腰を下ろすと、彼の視線がまっすぐ自分を捉えた。

「七番街の話で、顔が強張っていたな」

言い当てられて、みみは一瞬息を詰めた。

「そんなつもりは……ありませんでしたが」

「君のつもりはどうであれ、私にはそう見えた」

淡々とした口調。責めるような色はないが、見逃しはしない目だ。

「……あの」

迷いながら、みみは言葉を探す。

「少しだけ、昔のことを思い出してしまって。七番街で過ごした頃のことは、あまり思い出したくないので……」

「そうか」

短い返事。だがそれだけで、「理解しようとしている」ことは伝わった。

沈黙が落ちる。薄いテーブルを挟んで、二人は正面に座っている。会議室の外からは、遠くの足音とざわめきがわずかに聞こえるだけだ。

「……仕事に支障をきたしたつもりはありません」

みみは俯きながら、言葉を続けた。

「七番街がどうなろうと、神羅が決めることで、私の感情を挟む余地はないと思っています。副社長の決定に私情を挟むつもりも——」

「それは違う」

静かだが、はっきりした言葉が遮る。

「『私情を挟むな』というのと、『何も感じるな』というのは、別だ」

みみは顔を上げる。ルーファウスの目は、いつもの冷静さを保ちながら、その奥に少しだけ柔らかさを含んでいた。

「君が七番街で育ったことは事実だ。その記憶が何かを感じさせるのも当然だろう。それを否定しろとまでは言わない」

「ですが——」

「だが、仕事の最中に飲まれすぎるな」

そこで、彼は言葉の調子を少しだけ変えた。叱責というより、約束を思い出させるような響き。

「この前、君は自分で言ったはずだ。『不安定になったら叱ってください』と」

「あ……」

停電の夜のことが蘇る。非常灯だけが灯る窓辺で、「支えが欲しい」と言った自分。彼に叱ってほしいと頼んだ、自分の声。

「今、君は少し不安定だ」

ルーファウスはそれを淡々と告げる。

「七番街のことも、スラムのことも、君の中の問題だ。それを完全に消せとは言わない。ただし——」

少しだけ目を細める。その表情には、昨日までの「副社長」としての厳しさが重なる。

「君は、私の秘書だ」

短い言葉が、静かに落ちる。

「君がフロアで顔色を悪くしたり、会議中に手を震わせたりすれば、それを見た連中は『副社長の秘書は動揺しやすい』と判断する。君個人の問題では済まない」

「……はい」

「私情を持つなとは言わない。だが、それを見せる場所とタイミングは選べ」

叱っているのは確かだ。だが、その言葉の裏には、「感情を持つことを否定していない」という温度があった。それが、みみの胸にじわりと広がる。

「君が不安で足元を崩しそうになったら、そのときは頼れと言ったはずだ」

「……」

「頼らずに一人で飲み込もうとして、仕事に影響を出しかけた。それは叱られるべきことだ」

正面から言われて、さすがのみみも視線をそらすことができなかった。自分でも薄々分かっていた。「関係ない」と言い聞かせれば言い聞かせるほど、意識はそこに向かっていってしまう。昨日今日に限った話ではない。

「……すみません」

やっとのことで、素直な謝罪が口から出た。

「不安に飲まれていることを、自覚していながら放置していました」

「それを自覚できているだけ、まだマシだ」

ルーファウスは短く言い、椅子から立ち上がった。

「昼休憩を、少し長く取れ」

「え?」

意外な言葉に、思わず顔を上げる。

「外に出てこい。少し歩く」

「で、ですが、午後にも会議が——」

「時間は調整する」

あまりにも当然の顔で言うので、みみは一瞬言葉を失った。

「ここにいても、君は七番街のことばかり考えるだろう。だったら、いっそ外で風に当たって、頭を切り替えたほうがいい」

「……いいんですか」

「必要なことだ」

短く言い切る。その口調の中に、「支え」の形を探っている気配があった。

---

昼休み、二人はビルから外に出た。

護衛はいない。ルーファウスの意思だった。「ただ歩く」だけなら、大げさな護衛や車はむしろ邪魔になる。最上階から降り、裏口に近い出入り口から表に出ると、プレートの上の風がふっと頬を撫でた。

「……久しぶりです、外」

みみが小さく呟く。ここ最近、本当に外に出ていなかった。出るとしても、八番街のほんの一部か、家との往復だけ。昼の光の下、こうして歩くのはいつぶりだろう。

「人が多い場所は、あまり好きではないがな」

ルーファウスも、どこかぎこちなく歩いていた。普段は車での移動が多く、自分の足でこの距離を歩くことは少ない。だが、今は目的地のない散歩だ。背筋はいつもどおり伸びているのに、歩幅は思っていたより少しだけ緩かった。

ビルから少し離れると、プレート上の風景が広がる。ビジネス街から少し外れた場所には、小さな公園があった。人工芝と、整えられた花壇。昼休みの会社員たちが、ベンチで弁当を広げたり、喫煙所で煙草を吸ったりしている。

ルーファウスは、公園の外れにあるベンチに目を留めた。

「少し座るか」

「はい」

二人で並んで腰を下ろす。隣り合って座っているが、腕が触れるほどの近さではない。一定の距離があり、その距離感が今の二人にはちょうどよかった。

風が吹き、髪が揺れる。遠くから、子どもの笑い声が聞こえた。プレートの上にいても、こういう声はあるのだと、改めて思う。

「七番街も、こんなふうに笑い声がありました」

不意に口をついて出た言葉に、みみ自身が少し驚いた。

「薄汚れてはいましたけど、子どもはどこでも遊びますし。市場ではおばさんたちの声がうるさいくらいで、夜になると酔っ払いも出てきて……」

「想像はつく」

「でも、夜中の停電のときは、本当に真っ暗で。怖くて、寒くて、足元も見えなくて」

そこまで言って、みみは自分の口に手をあてた。

「……すみません。仕事に関係のないことを」

「続けろ」

ルーファウスは視線を前に向けたまま言う。

「聞きたくない話なら、ここまで連れてこない」

その言い方は、あくまで淡々としていた。「話してもいい」と告げるのではなく、「話すことを許す」というでもなく、「話すことを前提に聞く」という態度。それが、みみにとっては何よりの安心材料だった。

「……捨てられた夜のことは、今でも夢に見ます」

ぽつり、と言葉が落ちる。

「七番街の路地裏で、気がついたらひとりで。どうしてそこにいたのかもよく覚えていなくて。ただ、寒くて、お腹がすいて……誰も止まってくれなくて」

プレートの下の闇。泥と水たまりと、酔っぱらいの笑い声。大人たちの視線は、通り過ぎるだけで、誰も小さな女の子を拾おうとはしなかった。

「歩きました。とにかく歩いて、六番街まで。途中で倒れそうになったとき、マムに拾われました」

「それが、君の『最初の救い』か」

「はい」

マムの手の温かさ。差し出されたスープ。汚れた髪を梳かれた感触。あの夜のことを思い出すと、胸がちくりと痛むと同時に、じんわりと温かくもなる。

「……だから、七番街がどうなるかを考えると、怖くて」

みみは膝の上で手を握りしめる。

「そこで今も誰かが笑っていて、誰かが眠っていて、誰かが泣いているかもしれないと思うと。魔晄炉の話を数字として聞いても、その向こう側のことを考えてしまいます」

「それを考えられる人間は、多くない」

ルーファウスは静かに言った。

「ほとんどの者は、数字だけを見る。効率、利益、安全率。それ自体は間違ってはいない。だが、その向こう側に何があるのかを想像できる人間は少ない」

「副社長は、想像されるんですか」

「しようとはする」

短く、しかしはっきりと。

「私は神羅の副社長だ。数字を見ないわけにはいかない。だが、その数字が何を切り捨て、何を残すのかくらいは、知っておかなければならないと思っている」

みみは、顔を横に向けた。彼の横顔は、いつものように冷静で、どこか遠い。だが、その言葉には、少なくとも「完全な無関心」ではない何かが宿っていた。

「……そんなふうに考えてくださる人が上にいることが、少し救いです」

正直な気持ちが、自然と口をついて出た。

「私が七番街のことで不安になるのは、たぶん一生変わらないと思います。でも、副社長が数字の向こうを見てくださるなら、少しだけ、それを信じたいです」

「信じすぎるな」

ルーファウスはふっと笑う。

「私は聖人でも理想家でもない。神羅の利益を優先することには変わりない」

「分かっています」

「ただ、自分が選ぶ数字の責任くらいは、取るつもりだ」

言葉の端には、自嘲とも決意ともつかない響きが混ざる。父親とは違う道を歩こうとする男の、静かな意地だった。

「……副社長」

みみは、ほんの少しだけ身体を向けた。

「もし、私がまた不安に飲まれかけたら、そのときも叱ってください」

「また、その話か」

「はい。私、きっとまた動揺してしまうので。そのときに、『仕事を見ろ』って言ってください。副社長の仕事を支えることが、私の今の場所だから」

それは、「ここにいたい」という告白とあまり変わらなかった。

ルーファウスは、しばらく黙ったあと、肩の力を抜くように息を吐いた。

「分かった。君が不安定になったら、いくらでも叱ってやる」

「……ありがとうございます」

「その代わり、頼らずに一人で抱え込んだときは、倍叱る」

「ひどいです」

口ではそう言いながらも、みみの声には笑いが混ざる。胸の中の不安は消えていない。七番街の未来も、スラムの行く末も、神羅がどう動くかも、まだ何ひとつ分からない。

それでも——隣で風を受けている男が、自分の不安を「仕事の一部」として受け止めようとしてくれていることは確かだった。それは、あの夜マムに手を引かれたときの「救い」とは違うけれど、今の自分に必要な「支え」だった。

---

午後の会議に戻ったみみの顔色は、午前中より少しだけ落ち着いていた。

会議室に配られる資料を配りながら、彼女の指はもう震えていない。七番街の数字を読み上げる声も、一定の冷静さを保っていた。もちろん、胸の奥では複雑な感情が渦巻いている。それでも、表に出すべきものと、胸の内にだけ留めるべきものの境界線を、自分なりに引き直すことができていた。

終業後、前室で書類を整理していると、ルーファウスが執務室から出てくる。

「今日はここまでだ」

「まだ残っている案件が——」

「それは明日だ。君も、今日はもう帰れ」

「ですが——」

「命令だと言ったら、従うか」

一瞬だけ沈黙が落ちる。次の瞬間、みみは小さく笑った。

「はい、副社長」

「よろしい」

短いやりとり。それだけのことなのに、二人の間の空気は朝よりずっと柔らかくなっていた。

コートを羽織り、鞄を手に取る。エレベーターホールへ向かう途中、みみはふと足を止めた。

「副社長」

「なんだ」

「……今日はありがとうございました」

振り返って言うと、彼は少しだけ首を傾げる。

「公園まで付き合ってくださって、話を聞いてくださって。支えてくださって」

「支えたつもりはない」

即座に返され、みみは一瞬目を瞬かせる。

「君に仕事をさせるために、必要な調整をしただけだ」

「それを、支えって言うんです」

静かに、しかしはっきりと。

「副社長のやり方で、支えてくださってます」

そう言われて、ルーファウスはほんのわずかに言葉に詰まった。ふっと視線をそらし、それから短く頷く。

「……そう思うなら、そうしておけ」

「はい」

エレベーターに乗り込み、扉が閉まる直前、みみは小さく頭を下げた。

二人の関係は、相変わらず「副社長」と「秘書」のままだ。名前で呼び合うこともないし、恋人としてどこかへ出かける約束をすることもない。それでも、あの夜のキスで一度乱れた境界線は、別の形で引き直されつつあった。

仕事を軸にしながら、お互いを「大事にしたいもの」の一つとして心の中に置く。その微妙な距離感は、危うくも心地よく、二人を少しずつ同じ方向へと歩かせていく。

このときの彼らはまだ知らない。この先、もっと大きな崩壊や裏切りや痛みが待っていることを。それでも今は、プレートの上の小さな公園で交わした約束と、「不安定になったら叱る」という支え方が、静かに二人の絆を強くしていくのだった。