14
その後の数週間は、嵐の前の静けさのように過ぎていった。
七番街魔晄炉の案件は水面下で着々と進み、書類上の数字は少しずつ形を整えていく。会議、調整、報告。そのすべての中で、みみはひたすら「秘書」としての仕事をこなした。朝は前室の整頓から始まり、コーヒーを淹れ、ルーファウスの予定を読み上げる。日中は各部署とのやりとりに走り回り、夜は残っている案件の整理と翌日の準備。手帳の余白はどんどん減り、書き込まれるメモだけが増えていく。
それでも、あの昼休みに一緒に外を歩いた時間は、彼女の中で確かな支えになっていた。七番街の話を口にしてもいいのだと知れたこと。感情を完全に消し去るのではなく、「見せる場所とタイミングを選べ」と言われたこと。副社長のやり方で叱られ、支えられたこと。あの短い散歩は、彼女の心のどこかに、小さな杭を打ってくれていた。
ルーファウスもまた、意識してなのか無意識なのか、みみに対する接し方を少しだけ変えていた。仕事中の口調は相変わらず冷静で、要求は厳しい。だが、彼女の顔色や声の調子がいつもと違うときは、「休憩を取れ」の一言が以前より増えた。彼女が自分の限界を超えて働こうとすると、「それは明日だ」と線を引くことも増えた。
「副社長、こちらの資料を——」
「それは明日の午前中でいい。今はこっちだ」
「ですが——」
「君の集中力を、ここで切らせたくない」
そう言われてしまえば、みみも引き下がるしかない。表面上は「効率」の話でありながら、彼女の体力や精神状態まで見通しているような采配に、何度となく胸がじんわりと温かくなる。
ただ、その安定しつつある日々の中にも、少しずつ軋みの予感は混ざっていた。
---
ある日の午後、秘書課から内線が入った。
「副社長付き秘書、みみさん? 本社広報部の者ですが、今よろしいでしょうか」
受話器の向こうの女の声は、いかにも「プレート上」の調子をしていた。抑揚のある丁寧な声色。慣れた社交辞令。しかし、その裏にある感情の色は、みみにも分かる。
「はい、広報部の……どのようなご用件でしょうか」
「近日開催されるパーティの件で、副社長にご出席いただくことになりまして。付き添いとして正式に秘書の方のお名前が必要なのですが」
「あ……」
ほんの一瞬、言葉が詰まる。ルーファウスが顔を出すパーティはいくつもあるが、その多くは社内役員や取引先との形式的な場だ。秘書が同伴するかどうかはケースバイケース。だが、「広報部主導」となると話は別だ。メディアも出入りし、役員だけでなく他社の重役や貴族たちも顔を揃える華やかな場になる。
「副社長付きの秘書は、みみさんで間違いありませんか?」
「はい。間違いございません」
「でしたら、お名前を名簿に記載させていただきますね」
広報担当は、さも当然のように話を進めていく。
「ドレスコードについてのご案内も送付いたしますので、ご確認ください。あ、念のため伺いますが……正式なイブニングドレスはお持ちですか?」
「……あまり、ちゃんとしたものは」
六番街のマムに仕立ててもらったワンピースはある。八番街のバーで働いていた頃に何度か着た、少し上等なものもある。だが、「イブニングドレス」と呼べるほどのものは持っていない。あの世界の「当たり前」が、自分にとってはまだ少し遠いことを、こういう場面で思い知らされる。
「でしたら、神羅の提携ブティックでのレンタルも可能ですので、そのご案内も併せて……」
広報担当は事務的に説明を続ける。その口ぶりは「副社長の秘書」であることを前提としていて、そこに出自への偏見は感じられなかった。むしろ、「副社長の隣に立つなら、それなりの格好を」という純粋な広報的配慮なのだろう。
電話を切ったあと、みみはメモを見つめた。
——「広報部主催・神羅パーティ 日程:〇月〇日 会場:本社ビル上層ホール ドレスコード:イブニング」
副社長と、同じ会場。同じ時間。同じ空間。これまでも会議や視察で一緒の場にいることはあったが、「パーティ」という響きは、どうしても仕事以上の何かを連想させてしまう。
(……いけない)
自分に言い聞かせる。これは仕事だ。公の場で、彼の側に立って、必要なサポートをするために参加するだけ。そこに「特別な意味」を持たせるのは、自分の勝手な期待でしかない。
それでも、胸の奥がふわりと浮くような感覚を完全には消せなかった。
---
その晩、ルーファウスに報告をすると、彼はほとんど眉ひとつ動かさなかった。
「広報のやつらは、そういう場が好きだからな」
「ご出席されるのですね」
「ああ。社長命令だ」
ほんの少しだけ、言葉の端に苦味が混ざる。父がこうした場を利用して、自分を「次期社長」として見せびらかすことが多いからだ。表向きは華やかな社交の場でありながら、その実は権力と利権の見せ合いの場でもある。
「付き添いの件ですが、私が……」
みみが言いかけると、ルーファウスは書類から目を上げた。
「他に誰がいる」
「いえ、その……秘書課からどなたか——」
「必要ない。私は君以外の秘書を付けるつもりはない」
即答だった。あまりにも迷いがなくて、みみは一瞬息を呑む。
「……畏まりました」
「ドレスは広報が手配するのだろう」
「はい。提携ブティックのご案内が来るとのことです」
「何か必要なものがあれば、経費で落とせ」
「そんな、そこまでしていただくわけには——」
「君にはそれだけの仕事をさせている」
淡々とした言い方だったが、その中にはわずかな「誇り」が滲んでいた。自分の隣に立つ秘書に、恥ずかしい思いをさせるつもりはない、という意思が感じられる。
「副社長の顔を潰すような真似はしません」
「君ならしない」
あまりにも自然に返されたので、みみは胸の奥がきゅっと締め付けられた。信頼されていることの嬉しさと、その信頼に自分の感情を混ぜ込んではいけないという焦りとが、同時に押し寄せてくる。
---
数日後、広報部からの案内状と共に、提携ブティックのリストが届いた。
「この中のいずれかの店舗にご予約のうえご来店ください。神羅社員の場合、特別割引とレンタル料金の一部負担が適用されます——」
紙には、プレート上でも名の知れた店の名前が並んでいた。高級ブランド、老舗テーラー、貴族御用達のブティック。六番街のマムの店とは、また違う種類の世界だ。
(場違いじゃないかな……)
正直な感想だった。けれど、「副社長の秘書」としてそこに足を踏み入れなければならないのも事実だ。仕事の一環だと自分に言い聞かせて、みみは一番敷居の低そうな店を選び、予約の電話をかけた。
---
約束の日、みみは仕事を少し早めに切り上げ、プレート上のブティックへ向かった。
ガラス張りの店内には、艶やかなドレスが整然と並んでいる。恥ずかしくなるほど煌びやかなものから、シンプルでラインの美しいものまで。スタッフはみんな洗練されていて、来店客たちも当然のようにその空間に馴染んでいる。
「神羅の方ですね。ご予約のお名前を伺ってもよろしいですか」
対応したスタッフの女性は、プロの笑顔で迎えてくれた。みみが名前と「副社長の付き添いで」と告げると、その目が一瞬だけ驚きに見開かれる。
「まあ……副社長付きの秘書の方でしたか。それなら、なおさら素敵なお仕立てにしませんとね」
「い、いえ、あまり目立つのは——」
「目立つのと、見苦しくないのは違いますから」
くすっと笑われ、みみは苦笑するしかなかった。
スタッフは体のサイズを測り、肌の色や髪色を見ながら、いくつかのドレスを候補として挙げていく。どれも、彼女にとっては眩しすぎるような美しさだった。
「こちらなど、いかがでしょう」
勧められた一着に、みみは思わず息を呑んだ。
落ち着いた色合いのディープグリーン。派手な装飾はなく、シルエットもシンプルだが、胸元からウエストにかけてのラインが美しく、スカートは歩くたびに柔らかく揺れそうな布地だ。背中は大きく開いておらず、露出も控えめ。そのくせ、纏えばきっと十分に華やかだと分かる。
「髪と瞳の色に、とてもよくお似合いになると思います。スラム出身の方って、意外とこういう深い色がすごく映えるんですよ」
さらりと「スラム出身」と口にされて、みみは一瞬だけ心臓が止まりかけた。
「……分かるんですか」
「仕立てをしていると、なんとなくね。肌の質感とか、骨格とか」
スタッフは悪気のない笑顔で続ける。
「でも、今ここにいるのは『スラム出身のみみさん』じゃなくて、『神羅の副社長の秘書のみみさん』ですから。その肩書きにふさわしい装いをお手伝いします」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。過去を笑われているのではなく、今の立場を尊重されているのだと分かる。
試着室でドレスに袖を通す。布地のひやりとした感触が、肌を包む。鏡の前に立った瞬間、自分ではない誰かを見ているような気分になった。
「……」
髪を後ろでまとめられ、簡単なメイクを施され、シンプルなネックレスをつけられると、そこには、六番街のマムが「宝石の原石」と呼んだ少女が、ひとつの形になった姿があった。スラム出身であることも、六番街で育ったことも、そのどれもが消えてはいない。けれど、その上に「神羅の副社長の秘書」としての輪郭が、はっきりと描かれていた。
「副社長も、きっと驚かれますね」
スタッフの軽い言葉に、胸の奥がひゅっとすぼまる。
(……副社長は、どう思うだろう)
仕事としての判断をしてくれるだろうか。「場に相応しい」と言ってくれるだろうか。それとも、「浮ついた格好を」と冷たく見るだろうか。思考がまた余計な方向へ走りそうになり、みみは慌てて頭を振った。
(仕事。これは仕事)
マムが昔、鏡の前で言ってくれた言葉を思い出す。
——「綺麗になるのは、遊びのためだけじゃないよ。生きるために必要な武器さ」
あの頃はぴんと来なかった言葉が、今になってじんわりと胸に落ちてくる。
(私は今、副社長の傍で生きるために、この格好をするんだ)
その自覚が、少しだけ背中を押してくれた。
---
パーティ当日。
神羅ビルの上層にある巨大なホールは、光の海のようだった。天井から吊るされたシャンデリア、壁にかけられた絵画、磨き上げられた床。そこに、黒や濃紺のタキシード、色とりどりのイブニングドレスが行き交っている。メディアのカメラマンもちらほら見え、フラッシュの光が時折瞬いた。
みみは、ホールの入口近くで深呼吸をした。ディープグリーンのドレスに身を包み、髪はいつもとは違うアップスタイルにまとめている。メイクも普段より少しだけ華やかだ。足元のヒールは高く、歩くたびにスカートの裾が静かに揺れる。
(大丈夫。ちゃんと歩いて、ちゃんと笑って、ちゃんと仕事する)
そう自分に言い聞かせていると、背後から聞き慣れた声がした。
「よく似合っている」
振り返った先に、タキシード姿のルーファウスが立っていた。
いつものスーツとは違う、フォーマルな装い。シャツは真っ白で、ネクタイの代わりにタイバーが光っている。髪も普段よりきっちりと整えられていて、その姿はまさに「神羅カンパニー副社長」そのものだった。
「あの……」
言葉が喉に引っかかる。褒められることを想定していなかったのか、胸が一気に熱くなった。
「場の格に見合う装いだ」
ルーファウスは、あくまで淡々と言葉を続ける。
「広報の連中も文句は言えまい」
「ありがとうございます」
仕事としての評価だと分かっていても、嬉しさは隠せない。頬が少しだけ紅潮しているのを、みみは自覚していた。
「行くぞ」
ルーファウスが軽く顎を動かす。みみは、彼の半歩後ろに付き従いながらホールへ足を踏み入れた。
ざわめきの中で、視線がいくつもこちらに向くのが分かる。副社長という肩書きに対する視線。彼の隣に立つ女に対する視線。評価、好奇心、嫉妬、品定め——さまざまな感情が、ひとつひとつの目線に混ざっている。
(飲まれない)
心の中で短く呟き、みみは表情を崩さないように気をつけた。ルーファウスの背中は、いつもより少しだけ遠く感じる。だが、その背中を見失わない限り、自分の居場所はここだと分かる。
「副社長、お久しぶりですな」
「お噂はかねがね……」
「やはりお父上に似ておいでだ」
挨拶の嵐が始まった。取引先企業の重役、貴族、政府関係者。彼らは次々とルーファウスに話しかけ、彼はそれぞれに適切な笑顔と返答で応じていく。話の内容は多岐にわたり、魔晄炉の話から社交界の噂話まで。みみは少し後ろで控え、必要に応じて名刺や資料を差し出し、ときおり耳元で簡単な情報を囁いた。
「先日の会議の件ですと、支社長は——」
「そちらは未決ですので、曖昧に返されたほうがよろしいかと」
短い言葉のやり取りの中にも、二人の呼吸は噛み合っている。ルーファウスが視線だけで合図を送れば、みみはすぐにその意図を汲み取る。周囲から見れば、洗練された副社長と有能な秘書の組み合わせに見えただろう。
だが、その中に混ざり込む視線のいくつかは、あからさまにみみを「女」として値踏みしていた。
「副社長、そちらのレディは?」
「新しい秘書かね。秘書課からではなさそうだが」
「いや、聞いたことがある。スラム出身の……」
薄く笑いながら耳打ちする声。わざと聞こえる位置で囁かれる噂話。みみはそれを聞こえないふりでやり過ごそうとしたが、完全に無視することはできなかった。
(まただ)
給湯室で聞いた秘書課の女性たちの声が、ふと重なる。「どうやって取り入ったんだろう」「特別扱い」。ここでも同じだ。肩書きや出自に、人は簡単に意味づけをする。
ルーファウスの指が、手に持ったグラスをわずかに強く握るのを、みみは横目で見た。
「スラム出身かどうかなど、関係のない話だろう」
彼は静かに言う。その声には、わずかに鋭さが混ざっていた。
「私の秘書として必要な資質を持っているかどうかだけが問題だ」
「おお、手厳しい」
相手の男は笑ってごまかした。だが、その目の中の軽い興味の色は完全には消えていない。
「副社長は、やはりお父上とは違われる」
「同じだと思われるほうが心外だ」
軽く返しながらも、ルーファウスの視線は一瞬だけみみへと向いた。その目の中に、「気にするな」という意思が見て取れる。
(大丈夫です)
口には出さず、目だけでそう返す。実際、大丈夫だった。あの時の自分より、今のほうがずっと強くなっていると感じる。マムの店で鍛えられ、バーで鍛えられ、副社長の隣で鍛えられてきた。言葉は刃物だが、刃物は使い方次第で守りにもなる。
場の空気が少しずつ温まっていき、音楽が流れ始める。ダンスフロアでは、早々と踊り始めるカップルもいた。貴族の娘と思しき女性たちは、次々とルーファウスに視線を送り、タイミングを見計らって近づいてくる。
「副社長、よろしければ一曲——」
「申し訳ないが、私は踊りは得意ではない」
視線を交わす間もなく、ルーファウスは丁重に断る。だが、相手は簡単には引き下がらない。
「そんなことおっしゃらずに。お父上も若い頃は——」
父を引き合いに出されて、ルーファウスの目がわずかに冷える。みみは、その空気の変化を敏感に感じ取った。
(まずいな)
このままでは、父の影を絡めた話になってしまう。そうなれば、彼の機嫌は確実に悪くなる。場の空気も重くなる。広報部が求めているのは、そういう空気ではないはずだ。
「副社長」
みみは、ほんの一歩だけ前に出た。
「先ほどお約束されていた方が、受付のほうでお待ちかもしれません」
ルーファウスがわずかに眉を上げる。その目は「そんな約束はしていない」と言っているが、次の瞬間には察したように口元を引き締めた。
「失礼。業務上の用件があったのを失念していたようだ」
短くそう言って、彼はダンスを申し込んできた女性から視線を外す。
「またの機会に」
女性は不満そうに唇を尖らせたが、さすがにそれ以上食い下がることはできなかった。ルーファウスは背を向け、みみにだけ聞こえる声で言う。
「助かった」
「いえ。私のほうこそ」
そう答えながら、みみはほんの少しだけ胸が締め付けられるのを感じていた。
(女性と踊る姿……見てみたくなかったわけじゃないのに)
彼が他の誰かとダンスを踊る。その光景を想像して、胸の奥がじくりとした。それが嫉妬だと分かるからこそ、余計に苦い。だからこそ、仕事として彼をそこから引き離すことを選んだのは、自分自身のためでもあった。
「今のは、『支え』と言っていいのか」
ふと、ルーファウスが横目でみみを見た。その声には、皮肉めいた軽さが少しだけ混ざっている。
「副社長の仕事の円滑な遂行のための判断です」
みみは真顔で答え、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……そういうことにしておこう」
ルーファウスもまた、わずかに笑う。その表情は、仕事中には滅多に見せない種類のものだった。
---
パーティは、長く、そして疲れるものだった。
終盤には、司会者がマイクを握り、社長と副社長への賛辞が並べ立てられた。フロアの視線が一斉にステージへ向かう。フラッシュが焚かれ、拍手が鳴り響く。その喧騒の中で、みみは少し離れた場所からルーファウスの横顔を見つめていた。
(この人は……どこまで行くんだろう)
父の影を背負いながら、その影を振り払おうとしている男。数字と権力の渦の中で、わずかな「人間らしさ」を手放さないように踏ん張っている男。その隣に、今、自分は立っている。
場が少し落ち着いた頃合いを見計らって、広報部の女性が近づいてきた。
「みみさん、少しよろしいですか?」
「はい」
「本日の副社長のお写真ですが、後日社内報に掲載する予定でして。副社長とご一緒に写っているものも、何枚か使用されるかもしれません」
「……私も、ですか」
「ええ。『副社長付き秘書』として、紹介程度には。もちろん、顔や名前を出したくない場合には調整も可能ですが」
いきなり突きつけられた現実に、みみは一瞬だけ息を飲んだ。
(社内報……)
これまでも、遠目に写り込んでいたことはあるかもしれない。だが、「副社長の隣に立つ秘書」として明確に切り取られるのは、きっと初めてだ。今まで裏方でいられた場所から、少しだけ光の当たる位置に押し出されるような感覚。
「副社長に確認を——」
「構わん」
ルーファウスがいつの間にか近づいていて、会話に割って入った。
「彼女は私の秘書だ。それを隠す理由はない」
「かしこまりました。それでは、写真の選別の際はまたご相談させていただきます」
広報の女性が去っていく。みみは、その背中を見送りながら、胸の中のざわめきを抑えきれずにいた。
「……副社長」
「なんだ」
「本当に、よろしかったのですか。私なんかが、一緒に写ってしまって」
「『なんか』とはなんだ」
即座に返された声は、少しだけ低かった。
「君は、私が選んだ秘書だ。それ以上の理由が必要か?」
「……いえ」
何も言えなくなる。嬉しさと重さとが同時に押し寄せてきて、息が詰まりそうになる。自分の姿が、これまで以上に「神羅」の一部として刻み込まれていく。そのことが、誇らしくもあり、怖くもあった。
「君がどこから来たかは、君の問題だ」
ルーファウスは、少しだけ柔らかい声で続けた。
「今、どこに立っているかは、私の問題でもある」
「……」
「それを隠すつもりはない」
それは、彼なりの宣言だった。スラム出身であろうと、マムに拾われた女であろうと、自分が選び、隣に立たせると決めた人間を、他人の目を気にして隠したりしないという意思表示。
みみは、胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
そう言う声は、少し震えていた。感謝だけでなく、覚悟も混ざっていたからだ。
---
パーティが終わる頃には、みみの足はすっかり疲れていた。普段より高いヒールで長時間立ちっぱなしだったせいで、足首からふくらはぎにかけて鈍い痛みが広がっている。
控え室で簡単に身支度を整え、ホール近くの廊下に出ると、ルーファウスが壁にもたれて待っていた。
「車は?」
「広報部がまとめて手配しているようですが、私はタクシーで——」
「送る」
短く言われる。
「……でも」
「この時間帯に、その格好でひとりでタクシーを拾わせる気はない」
淡々とした言い方だが、棘はない。単純に、安全の問題を指摘しているだけだと分かる。
「副社長のお手を煩わせるわけには——」
「私の秘書だと言っただろう」
それは、今日何度目かの言葉だった。彼にとって、その一言がすべての理由になるのだろう。
少しの沈黙のあと、みみは静かに頷いた。
「……お願いします」
地下の駐車場に向かうエレベーターの中、二人の間に漂うのは、静かな疲労感だった。喧騒から離れた密閉空間に、さっきまでの華やかな音楽や笑い声は届かない。
「……似合っていた」
ふいに、ルーファウスがぽつりと言う。
「え?」
「ドレスだ」
視線は正面の数字に向いたまま、彼は続ける。
「広報のやつらが選んだにしては、悪くない」
「ありがとうございます」
思わず、小さな笑みが浮かぶ。
「副社長も、とても……その、お似合いでした。タキシード」
「仕事着の一種だ」
「それでも」
みみは、少し勇気を出して続けた。
「いつもより……少し、近寄りがたくて。でも、かっこよかったです」
自分でも何を言っているのか分からなくなり、顔が一気に熱くなる。エレベーターの狭い空間が、急に暑く感じられた。
ルーファウスは、ほんの短い沈黙のあとで、小さく笑った。
「それは、褒め言葉として受け取っておく」
「……はい」
エレベーターが地下に到着し、扉が開く。ひんやりとした空気が流れ込んできて、熱くなった頬を冷ましてくれる。
車に乗り込み、夜のプレート上を走る。窓の外には、まだ眠らないミッドガルの光が流れていった。
「疲れたか」
運転手に聞こえない程度の声で、ルーファウスが問う。
「少しだけ。でも、貴重な経験でした」
「君が隣にいてくれて助かった」
何気ない一言が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
「私も……副社長の隣に立てて、光栄でした」
それは、今日一日を総括するありったけの本音だった。スラムで捨てられた幼い自分では想像もできなかった場所に、今自分はいる。その隣に、どうしようもなく惹かれてしまった人がいる。
その夜、みみは家に戻ってから、いつものように手帳を開いた。
——「初めて副社長と一緒にパーティに出た」
——「ドレスを褒めてくれた」
——「『私の秘書だ』と何度も言ってくれた」
——「隣に立てて、嬉しかった」
ペン先がそこで止まり、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと一行が追加される。
——「それでも、この気持ちは秘書の仕事の外側に置いておく」
文字を見つめながら、みみは小さく笑った。自嘲とも覚悟ともつかない笑み。それでも、その一行を書けるくらいには、自分は強くなれている気がした。
一方、同じ夜、自室に戻ったルーファウスもまた、デスクの上に軽くグラスを置きながら、窓の外の夜景を見つめていた。
(私の秘書、か)
今日何度も口にしたその言葉を思い出す。周囲への宣言であり、自分自身への言い聞かせでもあった。彼女を「秘書」として隣に置く。その枠を超える感情を抱いていることを認めながらも、その枠を守ることでしか、今の彼には彼女を守る術がない。
窓ガラスに映る自分の顔は、どこか疲れているようで、どこか満ち足りてもいた。隣に立つ緑のドレスの姿が、目を閉じなくても鮮やかに思い出せる。
「……面倒な感情だ」
そう呟きながらも、その感情を手放す気は、もうなかった。
この夜、プレートの上の二つの部屋で、それぞれの「好き」が少しずつ形を変えながら、しかしまだ言葉にならないまま、静かに積み重なっていった。
七番街魔晄炉の案件は水面下で着々と進み、書類上の数字は少しずつ形を整えていく。会議、調整、報告。そのすべての中で、みみはひたすら「秘書」としての仕事をこなした。朝は前室の整頓から始まり、コーヒーを淹れ、ルーファウスの予定を読み上げる。日中は各部署とのやりとりに走り回り、夜は残っている案件の整理と翌日の準備。手帳の余白はどんどん減り、書き込まれるメモだけが増えていく。
それでも、あの昼休みに一緒に外を歩いた時間は、彼女の中で確かな支えになっていた。七番街の話を口にしてもいいのだと知れたこと。感情を完全に消し去るのではなく、「見せる場所とタイミングを選べ」と言われたこと。副社長のやり方で叱られ、支えられたこと。あの短い散歩は、彼女の心のどこかに、小さな杭を打ってくれていた。
ルーファウスもまた、意識してなのか無意識なのか、みみに対する接し方を少しだけ変えていた。仕事中の口調は相変わらず冷静で、要求は厳しい。だが、彼女の顔色や声の調子がいつもと違うときは、「休憩を取れ」の一言が以前より増えた。彼女が自分の限界を超えて働こうとすると、「それは明日だ」と線を引くことも増えた。
「副社長、こちらの資料を——」
「それは明日の午前中でいい。今はこっちだ」
「ですが——」
「君の集中力を、ここで切らせたくない」
そう言われてしまえば、みみも引き下がるしかない。表面上は「効率」の話でありながら、彼女の体力や精神状態まで見通しているような采配に、何度となく胸がじんわりと温かくなる。
ただ、その安定しつつある日々の中にも、少しずつ軋みの予感は混ざっていた。
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ある日の午後、秘書課から内線が入った。
「副社長付き秘書、みみさん? 本社広報部の者ですが、今よろしいでしょうか」
受話器の向こうの女の声は、いかにも「プレート上」の調子をしていた。抑揚のある丁寧な声色。慣れた社交辞令。しかし、その裏にある感情の色は、みみにも分かる。
「はい、広報部の……どのようなご用件でしょうか」
「近日開催されるパーティの件で、副社長にご出席いただくことになりまして。付き添いとして正式に秘書の方のお名前が必要なのですが」
「あ……」
ほんの一瞬、言葉が詰まる。ルーファウスが顔を出すパーティはいくつもあるが、その多くは社内役員や取引先との形式的な場だ。秘書が同伴するかどうかはケースバイケース。だが、「広報部主導」となると話は別だ。メディアも出入りし、役員だけでなく他社の重役や貴族たちも顔を揃える華やかな場になる。
「副社長付きの秘書は、みみさんで間違いありませんか?」
「はい。間違いございません」
「でしたら、お名前を名簿に記載させていただきますね」
広報担当は、さも当然のように話を進めていく。
「ドレスコードについてのご案内も送付いたしますので、ご確認ください。あ、念のため伺いますが……正式なイブニングドレスはお持ちですか?」
「……あまり、ちゃんとしたものは」
六番街のマムに仕立ててもらったワンピースはある。八番街のバーで働いていた頃に何度か着た、少し上等なものもある。だが、「イブニングドレス」と呼べるほどのものは持っていない。あの世界の「当たり前」が、自分にとってはまだ少し遠いことを、こういう場面で思い知らされる。
「でしたら、神羅の提携ブティックでのレンタルも可能ですので、そのご案内も併せて……」
広報担当は事務的に説明を続ける。その口ぶりは「副社長の秘書」であることを前提としていて、そこに出自への偏見は感じられなかった。むしろ、「副社長の隣に立つなら、それなりの格好を」という純粋な広報的配慮なのだろう。
電話を切ったあと、みみはメモを見つめた。
——「広報部主催・神羅パーティ 日程:〇月〇日 会場:本社ビル上層ホール ドレスコード:イブニング」
副社長と、同じ会場。同じ時間。同じ空間。これまでも会議や視察で一緒の場にいることはあったが、「パーティ」という響きは、どうしても仕事以上の何かを連想させてしまう。
(……いけない)
自分に言い聞かせる。これは仕事だ。公の場で、彼の側に立って、必要なサポートをするために参加するだけ。そこに「特別な意味」を持たせるのは、自分の勝手な期待でしかない。
それでも、胸の奥がふわりと浮くような感覚を完全には消せなかった。
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その晩、ルーファウスに報告をすると、彼はほとんど眉ひとつ動かさなかった。
「広報のやつらは、そういう場が好きだからな」
「ご出席されるのですね」
「ああ。社長命令だ」
ほんの少しだけ、言葉の端に苦味が混ざる。父がこうした場を利用して、自分を「次期社長」として見せびらかすことが多いからだ。表向きは華やかな社交の場でありながら、その実は権力と利権の見せ合いの場でもある。
「付き添いの件ですが、私が……」
みみが言いかけると、ルーファウスは書類から目を上げた。
「他に誰がいる」
「いえ、その……秘書課からどなたか——」
「必要ない。私は君以外の秘書を付けるつもりはない」
即答だった。あまりにも迷いがなくて、みみは一瞬息を呑む。
「……畏まりました」
「ドレスは広報が手配するのだろう」
「はい。提携ブティックのご案内が来るとのことです」
「何か必要なものがあれば、経費で落とせ」
「そんな、そこまでしていただくわけには——」
「君にはそれだけの仕事をさせている」
淡々とした言い方だったが、その中にはわずかな「誇り」が滲んでいた。自分の隣に立つ秘書に、恥ずかしい思いをさせるつもりはない、という意思が感じられる。
「副社長の顔を潰すような真似はしません」
「君ならしない」
あまりにも自然に返されたので、みみは胸の奥がきゅっと締め付けられた。信頼されていることの嬉しさと、その信頼に自分の感情を混ぜ込んではいけないという焦りとが、同時に押し寄せてくる。
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数日後、広報部からの案内状と共に、提携ブティックのリストが届いた。
「この中のいずれかの店舗にご予約のうえご来店ください。神羅社員の場合、特別割引とレンタル料金の一部負担が適用されます——」
紙には、プレート上でも名の知れた店の名前が並んでいた。高級ブランド、老舗テーラー、貴族御用達のブティック。六番街のマムの店とは、また違う種類の世界だ。
(場違いじゃないかな……)
正直な感想だった。けれど、「副社長の秘書」としてそこに足を踏み入れなければならないのも事実だ。仕事の一環だと自分に言い聞かせて、みみは一番敷居の低そうな店を選び、予約の電話をかけた。
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約束の日、みみは仕事を少し早めに切り上げ、プレート上のブティックへ向かった。
ガラス張りの店内には、艶やかなドレスが整然と並んでいる。恥ずかしくなるほど煌びやかなものから、シンプルでラインの美しいものまで。スタッフはみんな洗練されていて、来店客たちも当然のようにその空間に馴染んでいる。
「神羅の方ですね。ご予約のお名前を伺ってもよろしいですか」
対応したスタッフの女性は、プロの笑顔で迎えてくれた。みみが名前と「副社長の付き添いで」と告げると、その目が一瞬だけ驚きに見開かれる。
「まあ……副社長付きの秘書の方でしたか。それなら、なおさら素敵なお仕立てにしませんとね」
「い、いえ、あまり目立つのは——」
「目立つのと、見苦しくないのは違いますから」
くすっと笑われ、みみは苦笑するしかなかった。
スタッフは体のサイズを測り、肌の色や髪色を見ながら、いくつかのドレスを候補として挙げていく。どれも、彼女にとっては眩しすぎるような美しさだった。
「こちらなど、いかがでしょう」
勧められた一着に、みみは思わず息を呑んだ。
落ち着いた色合いのディープグリーン。派手な装飾はなく、シルエットもシンプルだが、胸元からウエストにかけてのラインが美しく、スカートは歩くたびに柔らかく揺れそうな布地だ。背中は大きく開いておらず、露出も控えめ。そのくせ、纏えばきっと十分に華やかだと分かる。
「髪と瞳の色に、とてもよくお似合いになると思います。スラム出身の方って、意外とこういう深い色がすごく映えるんですよ」
さらりと「スラム出身」と口にされて、みみは一瞬だけ心臓が止まりかけた。
「……分かるんですか」
「仕立てをしていると、なんとなくね。肌の質感とか、骨格とか」
スタッフは悪気のない笑顔で続ける。
「でも、今ここにいるのは『スラム出身のみみさん』じゃなくて、『神羅の副社長の秘書のみみさん』ですから。その肩書きにふさわしい装いをお手伝いします」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。過去を笑われているのではなく、今の立場を尊重されているのだと分かる。
試着室でドレスに袖を通す。布地のひやりとした感触が、肌を包む。鏡の前に立った瞬間、自分ではない誰かを見ているような気分になった。
「……」
髪を後ろでまとめられ、簡単なメイクを施され、シンプルなネックレスをつけられると、そこには、六番街のマムが「宝石の原石」と呼んだ少女が、ひとつの形になった姿があった。スラム出身であることも、六番街で育ったことも、そのどれもが消えてはいない。けれど、その上に「神羅の副社長の秘書」としての輪郭が、はっきりと描かれていた。
「副社長も、きっと驚かれますね」
スタッフの軽い言葉に、胸の奥がひゅっとすぼまる。
(……副社長は、どう思うだろう)
仕事としての判断をしてくれるだろうか。「場に相応しい」と言ってくれるだろうか。それとも、「浮ついた格好を」と冷たく見るだろうか。思考がまた余計な方向へ走りそうになり、みみは慌てて頭を振った。
(仕事。これは仕事)
マムが昔、鏡の前で言ってくれた言葉を思い出す。
——「綺麗になるのは、遊びのためだけじゃないよ。生きるために必要な武器さ」
あの頃はぴんと来なかった言葉が、今になってじんわりと胸に落ちてくる。
(私は今、副社長の傍で生きるために、この格好をするんだ)
その自覚が、少しだけ背中を押してくれた。
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パーティ当日。
神羅ビルの上層にある巨大なホールは、光の海のようだった。天井から吊るされたシャンデリア、壁にかけられた絵画、磨き上げられた床。そこに、黒や濃紺のタキシード、色とりどりのイブニングドレスが行き交っている。メディアのカメラマンもちらほら見え、フラッシュの光が時折瞬いた。
みみは、ホールの入口近くで深呼吸をした。ディープグリーンのドレスに身を包み、髪はいつもとは違うアップスタイルにまとめている。メイクも普段より少しだけ華やかだ。足元のヒールは高く、歩くたびにスカートの裾が静かに揺れる。
(大丈夫。ちゃんと歩いて、ちゃんと笑って、ちゃんと仕事する)
そう自分に言い聞かせていると、背後から聞き慣れた声がした。
「よく似合っている」
振り返った先に、タキシード姿のルーファウスが立っていた。
いつものスーツとは違う、フォーマルな装い。シャツは真っ白で、ネクタイの代わりにタイバーが光っている。髪も普段よりきっちりと整えられていて、その姿はまさに「神羅カンパニー副社長」そのものだった。
「あの……」
言葉が喉に引っかかる。褒められることを想定していなかったのか、胸が一気に熱くなった。
「場の格に見合う装いだ」
ルーファウスは、あくまで淡々と言葉を続ける。
「広報の連中も文句は言えまい」
「ありがとうございます」
仕事としての評価だと分かっていても、嬉しさは隠せない。頬が少しだけ紅潮しているのを、みみは自覚していた。
「行くぞ」
ルーファウスが軽く顎を動かす。みみは、彼の半歩後ろに付き従いながらホールへ足を踏み入れた。
ざわめきの中で、視線がいくつもこちらに向くのが分かる。副社長という肩書きに対する視線。彼の隣に立つ女に対する視線。評価、好奇心、嫉妬、品定め——さまざまな感情が、ひとつひとつの目線に混ざっている。
(飲まれない)
心の中で短く呟き、みみは表情を崩さないように気をつけた。ルーファウスの背中は、いつもより少しだけ遠く感じる。だが、その背中を見失わない限り、自分の居場所はここだと分かる。
「副社長、お久しぶりですな」
「お噂はかねがね……」
「やはりお父上に似ておいでだ」
挨拶の嵐が始まった。取引先企業の重役、貴族、政府関係者。彼らは次々とルーファウスに話しかけ、彼はそれぞれに適切な笑顔と返答で応じていく。話の内容は多岐にわたり、魔晄炉の話から社交界の噂話まで。みみは少し後ろで控え、必要に応じて名刺や資料を差し出し、ときおり耳元で簡単な情報を囁いた。
「先日の会議の件ですと、支社長は——」
「そちらは未決ですので、曖昧に返されたほうがよろしいかと」
短い言葉のやり取りの中にも、二人の呼吸は噛み合っている。ルーファウスが視線だけで合図を送れば、みみはすぐにその意図を汲み取る。周囲から見れば、洗練された副社長と有能な秘書の組み合わせに見えただろう。
だが、その中に混ざり込む視線のいくつかは、あからさまにみみを「女」として値踏みしていた。
「副社長、そちらのレディは?」
「新しい秘書かね。秘書課からではなさそうだが」
「いや、聞いたことがある。スラム出身の……」
薄く笑いながら耳打ちする声。わざと聞こえる位置で囁かれる噂話。みみはそれを聞こえないふりでやり過ごそうとしたが、完全に無視することはできなかった。
(まただ)
給湯室で聞いた秘書課の女性たちの声が、ふと重なる。「どうやって取り入ったんだろう」「特別扱い」。ここでも同じだ。肩書きや出自に、人は簡単に意味づけをする。
ルーファウスの指が、手に持ったグラスをわずかに強く握るのを、みみは横目で見た。
「スラム出身かどうかなど、関係のない話だろう」
彼は静かに言う。その声には、わずかに鋭さが混ざっていた。
「私の秘書として必要な資質を持っているかどうかだけが問題だ」
「おお、手厳しい」
相手の男は笑ってごまかした。だが、その目の中の軽い興味の色は完全には消えていない。
「副社長は、やはりお父上とは違われる」
「同じだと思われるほうが心外だ」
軽く返しながらも、ルーファウスの視線は一瞬だけみみへと向いた。その目の中に、「気にするな」という意思が見て取れる。
(大丈夫です)
口には出さず、目だけでそう返す。実際、大丈夫だった。あの時の自分より、今のほうがずっと強くなっていると感じる。マムの店で鍛えられ、バーで鍛えられ、副社長の隣で鍛えられてきた。言葉は刃物だが、刃物は使い方次第で守りにもなる。
場の空気が少しずつ温まっていき、音楽が流れ始める。ダンスフロアでは、早々と踊り始めるカップルもいた。貴族の娘と思しき女性たちは、次々とルーファウスに視線を送り、タイミングを見計らって近づいてくる。
「副社長、よろしければ一曲——」
「申し訳ないが、私は踊りは得意ではない」
視線を交わす間もなく、ルーファウスは丁重に断る。だが、相手は簡単には引き下がらない。
「そんなことおっしゃらずに。お父上も若い頃は——」
父を引き合いに出されて、ルーファウスの目がわずかに冷える。みみは、その空気の変化を敏感に感じ取った。
(まずいな)
このままでは、父の影を絡めた話になってしまう。そうなれば、彼の機嫌は確実に悪くなる。場の空気も重くなる。広報部が求めているのは、そういう空気ではないはずだ。
「副社長」
みみは、ほんの一歩だけ前に出た。
「先ほどお約束されていた方が、受付のほうでお待ちかもしれません」
ルーファウスがわずかに眉を上げる。その目は「そんな約束はしていない」と言っているが、次の瞬間には察したように口元を引き締めた。
「失礼。業務上の用件があったのを失念していたようだ」
短くそう言って、彼はダンスを申し込んできた女性から視線を外す。
「またの機会に」
女性は不満そうに唇を尖らせたが、さすがにそれ以上食い下がることはできなかった。ルーファウスは背を向け、みみにだけ聞こえる声で言う。
「助かった」
「いえ。私のほうこそ」
そう答えながら、みみはほんの少しだけ胸が締め付けられるのを感じていた。
(女性と踊る姿……見てみたくなかったわけじゃないのに)
彼が他の誰かとダンスを踊る。その光景を想像して、胸の奥がじくりとした。それが嫉妬だと分かるからこそ、余計に苦い。だからこそ、仕事として彼をそこから引き離すことを選んだのは、自分自身のためでもあった。
「今のは、『支え』と言っていいのか」
ふと、ルーファウスが横目でみみを見た。その声には、皮肉めいた軽さが少しだけ混ざっている。
「副社長の仕事の円滑な遂行のための判断です」
みみは真顔で答え、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……そういうことにしておこう」
ルーファウスもまた、わずかに笑う。その表情は、仕事中には滅多に見せない種類のものだった。
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パーティは、長く、そして疲れるものだった。
終盤には、司会者がマイクを握り、社長と副社長への賛辞が並べ立てられた。フロアの視線が一斉にステージへ向かう。フラッシュが焚かれ、拍手が鳴り響く。その喧騒の中で、みみは少し離れた場所からルーファウスの横顔を見つめていた。
(この人は……どこまで行くんだろう)
父の影を背負いながら、その影を振り払おうとしている男。数字と権力の渦の中で、わずかな「人間らしさ」を手放さないように踏ん張っている男。その隣に、今、自分は立っている。
場が少し落ち着いた頃合いを見計らって、広報部の女性が近づいてきた。
「みみさん、少しよろしいですか?」
「はい」
「本日の副社長のお写真ですが、後日社内報に掲載する予定でして。副社長とご一緒に写っているものも、何枚か使用されるかもしれません」
「……私も、ですか」
「ええ。『副社長付き秘書』として、紹介程度には。もちろん、顔や名前を出したくない場合には調整も可能ですが」
いきなり突きつけられた現実に、みみは一瞬だけ息を飲んだ。
(社内報……)
これまでも、遠目に写り込んでいたことはあるかもしれない。だが、「副社長の隣に立つ秘書」として明確に切り取られるのは、きっと初めてだ。今まで裏方でいられた場所から、少しだけ光の当たる位置に押し出されるような感覚。
「副社長に確認を——」
「構わん」
ルーファウスがいつの間にか近づいていて、会話に割って入った。
「彼女は私の秘書だ。それを隠す理由はない」
「かしこまりました。それでは、写真の選別の際はまたご相談させていただきます」
広報の女性が去っていく。みみは、その背中を見送りながら、胸の中のざわめきを抑えきれずにいた。
「……副社長」
「なんだ」
「本当に、よろしかったのですか。私なんかが、一緒に写ってしまって」
「『なんか』とはなんだ」
即座に返された声は、少しだけ低かった。
「君は、私が選んだ秘書だ。それ以上の理由が必要か?」
「……いえ」
何も言えなくなる。嬉しさと重さとが同時に押し寄せてきて、息が詰まりそうになる。自分の姿が、これまで以上に「神羅」の一部として刻み込まれていく。そのことが、誇らしくもあり、怖くもあった。
「君がどこから来たかは、君の問題だ」
ルーファウスは、少しだけ柔らかい声で続けた。
「今、どこに立っているかは、私の問題でもある」
「……」
「それを隠すつもりはない」
それは、彼なりの宣言だった。スラム出身であろうと、マムに拾われた女であろうと、自分が選び、隣に立たせると決めた人間を、他人の目を気にして隠したりしないという意思表示。
みみは、胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
そう言う声は、少し震えていた。感謝だけでなく、覚悟も混ざっていたからだ。
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パーティが終わる頃には、みみの足はすっかり疲れていた。普段より高いヒールで長時間立ちっぱなしだったせいで、足首からふくらはぎにかけて鈍い痛みが広がっている。
控え室で簡単に身支度を整え、ホール近くの廊下に出ると、ルーファウスが壁にもたれて待っていた。
「車は?」
「広報部がまとめて手配しているようですが、私はタクシーで——」
「送る」
短く言われる。
「……でも」
「この時間帯に、その格好でひとりでタクシーを拾わせる気はない」
淡々とした言い方だが、棘はない。単純に、安全の問題を指摘しているだけだと分かる。
「副社長のお手を煩わせるわけには——」
「私の秘書だと言っただろう」
それは、今日何度目かの言葉だった。彼にとって、その一言がすべての理由になるのだろう。
少しの沈黙のあと、みみは静かに頷いた。
「……お願いします」
地下の駐車場に向かうエレベーターの中、二人の間に漂うのは、静かな疲労感だった。喧騒から離れた密閉空間に、さっきまでの華やかな音楽や笑い声は届かない。
「……似合っていた」
ふいに、ルーファウスがぽつりと言う。
「え?」
「ドレスだ」
視線は正面の数字に向いたまま、彼は続ける。
「広報のやつらが選んだにしては、悪くない」
「ありがとうございます」
思わず、小さな笑みが浮かぶ。
「副社長も、とても……その、お似合いでした。タキシード」
「仕事着の一種だ」
「それでも」
みみは、少し勇気を出して続けた。
「いつもより……少し、近寄りがたくて。でも、かっこよかったです」
自分でも何を言っているのか分からなくなり、顔が一気に熱くなる。エレベーターの狭い空間が、急に暑く感じられた。
ルーファウスは、ほんの短い沈黙のあとで、小さく笑った。
「それは、褒め言葉として受け取っておく」
「……はい」
エレベーターが地下に到着し、扉が開く。ひんやりとした空気が流れ込んできて、熱くなった頬を冷ましてくれる。
車に乗り込み、夜のプレート上を走る。窓の外には、まだ眠らないミッドガルの光が流れていった。
「疲れたか」
運転手に聞こえない程度の声で、ルーファウスが問う。
「少しだけ。でも、貴重な経験でした」
「君が隣にいてくれて助かった」
何気ない一言が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
「私も……副社長の隣に立てて、光栄でした」
それは、今日一日を総括するありったけの本音だった。スラムで捨てられた幼い自分では想像もできなかった場所に、今自分はいる。その隣に、どうしようもなく惹かれてしまった人がいる。
その夜、みみは家に戻ってから、いつものように手帳を開いた。
——「初めて副社長と一緒にパーティに出た」
——「ドレスを褒めてくれた」
——「『私の秘書だ』と何度も言ってくれた」
——「隣に立てて、嬉しかった」
ペン先がそこで止まり、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと一行が追加される。
——「それでも、この気持ちは秘書の仕事の外側に置いておく」
文字を見つめながら、みみは小さく笑った。自嘲とも覚悟ともつかない笑み。それでも、その一行を書けるくらいには、自分は強くなれている気がした。
一方、同じ夜、自室に戻ったルーファウスもまた、デスクの上に軽くグラスを置きながら、窓の外の夜景を見つめていた。
(私の秘書、か)
今日何度も口にしたその言葉を思い出す。周囲への宣言であり、自分自身への言い聞かせでもあった。彼女を「秘書」として隣に置く。その枠を超える感情を抱いていることを認めながらも、その枠を守ることでしか、今の彼には彼女を守る術がない。
窓ガラスに映る自分の顔は、どこか疲れているようで、どこか満ち足りてもいた。隣に立つ緑のドレスの姿が、目を閉じなくても鮮やかに思い出せる。
「……面倒な感情だ」
そう呟きながらも、その感情を手放す気は、もうなかった。
この夜、プレートの上の二つの部屋で、それぞれの「好き」が少しずつ形を変えながら、しかしまだ言葉にならないまま、静かに積み重なっていった。