パーティの翌朝、神羅ビルの空気はいつもどおり冷たく澄んでいた。

けれど、みみの胸の中だけは、まだ昨夜の熱が少し残っているようだった。目を覚ましたとき、枕元に置いた手帳が視界に入る。眠る前に書き込んだ文字は、そのままそこにある。

——「隣に立てて、嬉しかった」

思わず、布団の中で枕をぎゅっと掴んだ。

(何を書いてるんだろう、私)

恥ずかしさで顔を覆いたくなる。それでも、手帳を開いてその一行を指でなぞると、不思議なことに少しだけ肩の力が抜けた。少なくとも、自分は自分に嘘をつかないでいられたのだと、そう思えたから。

シャワーを浴び、いつものタイトスカートとブラウスに着替える。昨夜のディープグリーンのドレスは、丁寧に畳んで衣装カバーにしまってある。あれは「仕事用の鎧」だ。日常に持ち込むには、まだ勇気が足りない。

鏡の前で軽くメイクを整えながら、ふと自分の表情に気づく。

(……浮かれてる)

口元が、わずかに上がっていた。誰かに指摘されたら、すぐにでも誤魔化したくなるような微妙な変化。それでも、完全に消してしまうのも惜しい気がして、みみはほんの少しだけ、そのままにしておくことにした。

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神羅ビルの最上階に到着すると、いつもの冷気が迎えてくれる。

前室の扉を開けた瞬間、その空気に少しだけ安心する。シャンデリアでも音楽でもなく、蛍光灯と書類と端末の匂い。胸の奥に残っていた昨夜のざわめきが、少しずつ落ち着いていく。

机の上を整え、コーヒーメーカーの準備をし、今日のスケジュールを確認する。ペンを持つ手はいつもどおりで、仕事の手順も変わらない。それでも、ルーファウスがどんな顔で執務室から出てくるのかを考えると、心臓が妙に落ち着かなくなる。

エレベーターの到着音が聞こえ、足音が近づいてきた。

扉が開き、ルーファウスが現れる。昨日のタキシードとは違い、いつもの仕立ての良いスーツ姿だ。けれど、みみにはその姿が、ほんの少しだけ違って見えた。昨夜の光の中に立っていた姿が重なって見え、一瞬だけ現実感がずれる。

「おはようございます、副社長」

声がきちんと出たことに、みみは内心ほっとする。ルーファウスは一瞬だけ彼女を見つめ、それからいつもどおりの低い声で返した。

「おはよう」

その声には、昨夜の残り香のようなものは感じられない。いつも通りの挨拶。仕事モードの副社長。そのことに、みみは少しだけ肩の力を抜いた。

「本日のご予定をお伝えします」

手帳を開きながら、いつものように午前と午後のスケジュールを読み上げていく。会議、打ち合わせ、視察。昨夜のパーティの報告を求められる場も、少なからずある。

ルーファウスは黙ってそれを聞いていたが、ふと、途中で口を挟んだ。

「——広報から、今日中に写真の選別の確認が来るはずだ」

「はい。社内報用の写真の件ですね」

広報部の女が言っていた内容が頭をよぎる。「副社長とご一緒に写っているものも使用されるかもしれません」と言われたときのざわめきも、まだ薄く残っていた。

「君にも確認させる」

「……よろしいのですか」

思わず顔を上げてしまう。ルーファウスは書類の束を机に置きながら、当たり前のように言った。

「私の秘書として出る写真だ。君が見ておいて損はない」

「はい。承知しました」

(私の秘書)

昨夜、何度も聞いたその言葉が、また胸の奥で静かに響く。仕事上の言葉だと分かっていても、それは確かにみみの足元を支えてくれる杭になりつつあった。

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午前中の会議がひと段落したころ、前室の端末に広報部からの連絡が入った。

——「社内報掲載候補写真・確認のお願い」

データを開くと、いくつもの写真が並んでいる。ホール全体を写したもの、社長と副社長が並んだもの、取引先との握手シーン。そして、その中に——。

「……」

ルーファウスとみみが写った写真が、いくつかあった。

一枚は、ホール入口付近で横並びに立っているショット。彼が正面を向き、みみは少し後ろに控えている。もう一枚は、誰かと話している最中、斜めから撮られたもの。ルーファウスが相手に視線を向けている横で、みみが資料を差し出している。その指先の動きまで、クリアに写っていた。

そして、もう一枚。

「——」

息が詰まりそうになる。

それは、ダンスフロア近くで撮られた一瞬だった。ルーファウスが誰かの申し出を断ろうとしているところだろう。その隣で、みみがわずかに前に出て、彼に何か耳打ちをしている。二人の距離は近く、横顔の角度のせいか、写真だけ見るとまるで親密な会話をしているように見える。

(これは……)

仕事のための一瞬なのに、写真になると意味が変わる。そういうことは、頭では分かっていた。けれど、こうして実際に目の当たりにすると、胸の奥がざわつく。

「どうした」

いつの間にか、ルーファウスが前室に出てきていた。端末の画面を覗き込む彼の影が、みみの上に落ちる。

「社内報の写真の候補が届きました。副社長にご確認いただこうと……」

「見せろ」

みみは椅子を少し横にずらし、彼が画面を見やすいようにした。ルーファウスはスクロールしながら、いくつかの写真をざっと確認する。社長と並ぶものは、表情ひとつで受け取られ方が変わることを知っているので、特に注意深く見ていた。

やがて、問題の写真まで辿り着く。

ほんの一瞬、彼の指が止まった。

二人の距離。表情。角度。見ようによっては、親しい関係にも見える写真。広報部はおそらく、「副社長とその秘書」という構図で使おうとしているのだろう。それ自体は不自然ではない。

(どうされますか)

喉まで出かかった問いを、みみは必死で飲み込んだ。自分から「これは誤解を招くかもしれません」と言ってしまえば、かえって意識していることを露呈してしまいそうだ。

ルーファウスは、しばらく無言で写真を見つめていた。

その間、みみには彼の横顔の輪郭が、いつも以上にはっきりと見える。顎のライン、睫毛の影、わずかに寄せられた眉。時間にしてはほんの数秒だが、その沈黙は妙に長く感じられた。

やがて、彼は静かに息を吐いた。

「——これでいい」

「え?」

「この写真も含めて構わないと言っておけ」

あまりにもあっさりとした言い方に、みみは思わず彼の顔を見上げた。

「ですが、その……誤解を招くかもしれません」

「何の誤解だ」

ルーファウスはわずかに首を傾げる。

「副社長と秘書が、仕事の話をしているだけだ」

「……そうですが」

「社内報を見る連中の中に、勝手な噂をしたがる者がいても不思議ではない。だが、その程度の声を恐れていたら、君を隣に立たせられない」

そう言って、視線を画面から彼女へ移した。その目は、いつもどおり澄んだ青だが、その奥にある感情の色はほんのわずかに違って見えた。

「私は、君を隠すつもりはない」

昨日と似た言葉。それでも、今、写真という「証拠」を前にして聞くと、重みが変わる。

「君が私の秘書であることは、事実だ」

「……はい」

「それ以上でも、それ以下でもない」

最後の一言が、胸に静かに落ちる。

それ以上でも、それ以下でもない——。

みみは、ほんの一瞬だけ胸を締め付けられたような感覚に襲われた。期待していたわけではない。むしろ、そう言ってくれたほうが今は楽だと頭では分かっている。それでも、心のどこかで、わずかな痛みが生まれる。

(私は……何を期待してるんだろう)

自分で自分に問いながら、みみは短く息を吸った。

「社内報の担当者に、そのようにお伝えします」

「頼む」

ルーファウスは軽く頷くと、執務室に戻っていった。

閉まる扉の音を聞きながら、みみは画面の中の写真をもう一度だけ見つめる。そこには、「副社長と秘書」としての自分たちが写っている。その枠の中でしか、今は存在を許されないのだと、改めて思い知らされる。

それでも——。

(隠されていないだけ、贅沢なのかもしれない)

スラムで捨てられた子どもだった自分が、今、神羅の社内報に「副社長付き秘書」として載る。そのこと自体が、十分すぎるくらいの変化だ。マムがこれを見たら、どんな顔をするだろう。

ふと、その顔が浮かんで、みみは心の中で予定を組み立て始めた。

(近いうちに、六番街に顔を出そう)

マムに会って、ここ最近のことを話そう。パーティのことも、写真のことも、七番街魔晄炉のことも——話せる範囲で、そして話せない範囲も含めて。

---

数日後の休日。

みみは、神羅ビルのエントランスとはまるで違う種類の空気の中にいた。

六番街スラムの空気は、相変わらず混沌としている。市場の喧騒、屋台から立ち上る煙、子どもたちの走り回る足音。プレートの下から見上げる鉄の天井には、今日も薄暗い光が滲んでいた。

「マム、いるかな……」

路地を抜け、見慣れた建物の前に立つ。洒落た飾り窓と、少し色褪せた看板。外から見ればただの店だが、中は六番街の女たちにとっての「城」であり、祈りの場所であり、逃げ場でもある。

扉を開けると、ふわりと香水と煙草と酒の混ざった匂いが鼻をくすぐった。嫌な匂いではない。むしろ、みみにとっては懐かしい匂いだ。

「——あら」

カウンターの奥から、マダム=マムの低い声が響いた。

ふくよかな体を上質なドレスで包み、豪奢なアクセサリーをこれでもかと身につけた女。深い色の口紅と、印象的な目元。六番街で「マダム」と言えば誰もがこの女を思い浮かべる。

「やっと顔見せに来たねぇ、あんた」

「ただいま戻りました、マム」

自然と口から出る言葉。マムの前では、「おかえり」と言ってもらえることが分かっているからだ。

案の定、マムは笑って両手を広げた。

「おかえり、お嬢さん。ずいぶん、いい顔になったじゃないか」

「そんな……」

照れながらも、みみはその胸に飛び込む。マムの腕は昔と変わらず大きくて、抱きしめられると世界の喧騒が少し遠のく気がした。

「痩せたんじゃないかい。神羅はあんたを働かせすぎだよ」

「いえ、ちゃんと食べてます」

「肌は……ふん、悪くないね。ちゃんと寝てる?」

「それは……頑張ってます」

マムはじろりとみみを見て、それからため息混じりに笑った。

「まったく。あたしがあんたを拾ったときは、もっと骨と皮だけだったのにねぇ。今じゃ腕も足も、ちゃんと女の線になってる」

「マムのご飯と、マムの店のおかげです」

「そうさね」

マムは鼻で笑い、カウンターの向こうからグラスを取り出した。

「まあ座りな。甘いものでも飲みながら、最近の話を聞かせな」

「はい」

カウンター席に腰掛けると、マムは慣れた手つきでノンアルコールカクテルを作り始めた。グラスの中で氷が音を立て、鮮やかな色の液体が混ざっていく。

「で、どうだい。プレートの上の生活は。神羅の副社長さまの秘書ってのは」

「……忙しいです。でも、やりがいはあります」

「ふうん」

マムはグラスを差し出しながら、じっと彼女の表情を覗き込む。

「その顔は、仕事の話だけじゃないね」

一口飲んだ瞬間に、見透かされる。みみは思わずむせそうになり、慌ててグラスを置いた。

「な、何の話ですか」

「恋だろうが」

あっさりと言われて、声が出なくなる。

「……」

「昔からそうさ。あんたは、分かりやすく顔に出る子だった。嬉しいときも、悲しいときも、怖いときも。今の顔はね——」

マムは少しだけ目を細める。

「『大事にされたい』って顔さ」

胸の奥を、鋭く刺されたような気がした。

「大事にされてると、思ってるよ」

マムは続ける。

「あんたがそこまで表情を柔らかくして、この店に戻ってくるってことはね。あの神羅の坊やも、なかなか骨があるんだろうさ」

「坊やって……」

思わず吹き出しそうになる。六番街で「坊や」と呼んでいい存在ではないはずなのに、マムが言うと妙にしっくりきてしまう。

「ちゃんと、あんたを『飾り』じゃなくて『人』として扱ってる顔だよ、今のあんた」

「……」

「だけど」

マムはグラスを手の中でくるりと回した。

「神羅の男はみんな、何かしら抱えてる。権力でも、欲望でも、復讐でも。あの坊やも例外じゃないだろうね」

「……はい」

父との関係、神羅という巨大な会社、その中での政治。彼が抱えているものの一端を、みみも少しずつ知り始めていた。

「だからこそ、あんたが自分で線を引かなきゃいけないよ」

マムは煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせる。

「あんたが彼のことを好きでも構わない。惚れるのは自由さ。でも、『どこまでを仕事として』『どこからを女として』って、自分で決めるんだ」

「……それが、難しくて」

思わずこぼれる。マムは「だろうね」と笑った。

「でも、難しいからって全部ごちゃ混ぜにしたら、最後に損するのはあんたのほうだよ。権力の椅子に座ってる男はね、自分が手に入れたものを手放すのも得意だけど、『仕事のために切る』って言い訳も得意なんだ」

「副社長は、そんな方じゃ——」

「今はね」

マムはそれを遮るように言う。

「今のあんたの目は、あの坊やを信じてる。そこは否定しないさ。だけど、どんな男でも、追い詰められると変わることもある。それが『権力』ってやつさ」

煙の向こうから、鋭い目がみみを射抜く。

「あんたがあの坊やの隣に立ちたいなら、『彼を信じる女』であると同時に、『自分を守れる女』でもありな」

「……自分を、守る」

「そう。あんたはもう、スラムの路地裏で震えてた子どもじゃない。自分で選んで、神羅の最上階に立ってる女だ」

マムはカウンター越しに手を伸ばし、みみの頬に触れた。

「誰かに守られるだけじゃなく、自分の足で立って、相手の隣に立つんだよ。それが、あんたの『恋』の仕方なんじゃないかい」

胸の奥がじんわりと熱くなる。マムの言葉は、いつも少し乱暴で、でも必ず核心を突いていた。

「……私」

みみはグラスを両手で包み込みながら、静かに言った。

「副社長のことが、好きだと思います」

あまりにもまっすぐな告白に、自分で驚く。口に出した瞬間、逃げ道が一つふさがれる気がした。

マムは「やっと言ったね」と微笑んだ。

「そりゃそうだろうさ。あんたがここまで綺麗な顔して戻ってきたんだ。恋のひとつやふたつしてなくちゃ、つまらない」

「でも、秘書です。仕事です。……その線は、守りたいです」

「守りなさいな」

マムはあっさり言い切る。

「そのうえで、どうしようもなく溢れてくるものがあったら、そのときにまた悩めばいい」

「そんな、先送りみたいな……」

「恋なんて、どうせそういうもんだよ」

マムは笑って、みみのグラスに新しい氷を足した。

「今はそれでいい。あんたが自分で自分の気持ちを認めたってことが、大事なのさ」

「……はい」

自分の胸の内を言葉にしたことで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。線を引くことと、気持ちを否定することは違う。マムの言うとおり、「好き」を認めたうえで、その外側に「仕事」の枠を置いておく。それが、今の自分にできる精一杯だ。

---

同じ頃、プレートの上では。

ルーファウスは執務室のデスクの上に、一枚の紙を置いてじっと見ていた。

それは、社内報の校正用紙だった。見出しや本文はすでに整えられており、あとは最終確認を残すのみ。そこに、例の写真が使われている。

——「副社長ルーファウス=神羅と、その秘書みみ氏。新規プロジェクトに向けた決意を語る」

文章は広報部が書いたものだ。いかにもそれらしい修辞が並び、「若き副社長とその有能な秘書」という構図が巧妙に描かれている。写真の中の二人は、仕事の話をしているだけなのに、そこには奇妙な統一感があった。

(『その秘書みみ氏』、か)

紙面のその文字を指先でなぞりながら、ルーファウスは小さく息を吐いた。

神羅の社内報など、これまではろくに目を通してこなかった。社長の功績が誇張され、社員の士気を鼓舞するための言葉が並び、時折スキャンダルを誤魔化すための記事が挟まる。そんなものだと認識していた。

だが、今回ばかりは、そこに自分が選んだ「秘書」の名前が乗っている。

——隠すつもりはない。

自分でそう言った。彼女が自分の隣に立つことを、世界から隠す気はない。その言葉に嘘はない。

それでも。

(『氏』と付くほど、距離のある存在ではないはずだがな)

内心で、どうでもいいような感想が浮かぶ。呼び方ひとつで、人と人との関係性は変わって見える。「副社長」と「その秘書」。そこに、個人としての感情が混ざる余地はないはずだ。

それでいい、と頭は言う。

それでは足りない、と胸が囁く。

「……」

窓の外を見ると、プレートの上の街が広がっている。そのさらに下には、七番街や六番街のスラムがある。彼女が生まれ、さまよい、拾われた場所。自分が今いる場所とは、あまりにも違う世界。

(そんな場所から、ここまで上がってきた女を、ただの「秘書」として扱い続けられるほど、私は器用ではないらしい)

自嘲気味な思考が浮かび、消える。

それでも、今はその「器用さ」を演じるしかない。父の目も、会社の目も、世界の目もある。ここで彼女を「それ以上」に扱うことは、彼女の居場所を危うくする。

(彼女が自分で線を引こうとしていることも、分かっている)

あの昼休みの公園での会話を思い出す。「副社長の仕事を支えることが、私の今の場所だから」と言った彼女の声。その中に、仕事と感情の線を必死に引こうとしている気配があった。

ならば、自分も同じように線を守らなければならない。

——そのうえで。

いつか、もっと大きなものが崩れたとき。仕事も、会社も、世界も、今と同じ形ではいられなくなったとき。そのときに、線の引き方を変えることが許されるなら。

(そのとき、彼女はまだ隣にいるか)

紙面の写真の中の彼女は、まだ迷いながらもまっすぐにこちらを支えようとしている。あの瞳が、自分から離れていく未来を想像したくなくて、ルーファウスは目を閉じた。

「——面倒な感情だ」

また同じ言葉が唇から漏れる。けれど、その声には、ほんのわずかに諦めではない何かが混ざっていた。

社内報の最終決裁欄に、「承認」の印を押す。

これで、神羅の中で「副社長とその秘書」の形がひとつ刻まれる。その枠の中で、二人はまだ「仕事」として隣に立ち続ける。

だが、その水面下で、みみの胸の中にも、ルーファウスの胸の中にも、「仕事」だけでは処理しきれない何かが、静かに、確実に育ち続けていた。