15
パーティの翌朝、神羅ビルの空気はいつもどおり冷たく澄んでいた。
けれど、みみの胸の中だけは、まだ昨夜の熱が少し残っているようだった。目を覚ましたとき、枕元に置いた手帳が視界に入る。眠る前に書き込んだ文字は、そのままそこにある。
——「隣に立てて、嬉しかった」
思わず、布団の中で枕をぎゅっと掴んだ。
(何を書いてるんだろう、私)
恥ずかしさで顔を覆いたくなる。それでも、手帳を開いてその一行を指でなぞると、不思議なことに少しだけ肩の力が抜けた。少なくとも、自分は自分に嘘をつかないでいられたのだと、そう思えたから。
シャワーを浴び、いつものタイトスカートとブラウスに着替える。昨夜のディープグリーンのドレスは、丁寧に畳んで衣装カバーにしまってある。あれは「仕事用の鎧」だ。日常に持ち込むには、まだ勇気が足りない。
鏡の前で軽くメイクを整えながら、ふと自分の表情に気づく。
(……浮かれてる)
口元が、わずかに上がっていた。誰かに指摘されたら、すぐにでも誤魔化したくなるような微妙な変化。それでも、完全に消してしまうのも惜しい気がして、みみはほんの少しだけ、そのままにしておくことにした。
---
神羅ビルの最上階に到着すると、いつもの冷気が迎えてくれる。
前室の扉を開けた瞬間、その空気に少しだけ安心する。シャンデリアでも音楽でもなく、蛍光灯と書類と端末の匂い。胸の奥に残っていた昨夜のざわめきが、少しずつ落ち着いていく。
机の上を整え、コーヒーメーカーの準備をし、今日のスケジュールを確認する。ペンを持つ手はいつもどおりで、仕事の手順も変わらない。それでも、ルーファウスがどんな顔で執務室から出てくるのかを考えると、心臓が妙に落ち着かなくなる。
エレベーターの到着音が聞こえ、足音が近づいてきた。
扉が開き、ルーファウスが現れる。昨日のタキシードとは違い、いつもの仕立ての良いスーツ姿だ。けれど、みみにはその姿が、ほんの少しだけ違って見えた。昨夜の光の中に立っていた姿が重なって見え、一瞬だけ現実感がずれる。
「おはようございます、副社長」
声がきちんと出たことに、みみは内心ほっとする。ルーファウスは一瞬だけ彼女を見つめ、それからいつもどおりの低い声で返した。
「おはよう」
その声には、昨夜の残り香のようなものは感じられない。いつも通りの挨拶。仕事モードの副社長。そのことに、みみは少しだけ肩の力を抜いた。
「本日のご予定をお伝えします」
手帳を開きながら、いつものように午前と午後のスケジュールを読み上げていく。会議、打ち合わせ、視察。昨夜のパーティの報告を求められる場も、少なからずある。
ルーファウスは黙ってそれを聞いていたが、ふと、途中で口を挟んだ。
「——広報から、今日中に写真の選別の確認が来るはずだ」
「はい。社内報用の写真の件ですね」
広報部の女が言っていた内容が頭をよぎる。「副社長とご一緒に写っているものも使用されるかもしれません」と言われたときのざわめきも、まだ薄く残っていた。
「君にも確認させる」
「……よろしいのですか」
思わず顔を上げてしまう。ルーファウスは書類の束を机に置きながら、当たり前のように言った。
「私の秘書として出る写真だ。君が見ておいて損はない」
「はい。承知しました」
(私の秘書)
昨夜、何度も聞いたその言葉が、また胸の奥で静かに響く。仕事上の言葉だと分かっていても、それは確かにみみの足元を支えてくれる杭になりつつあった。
---
午前中の会議がひと段落したころ、前室の端末に広報部からの連絡が入った。
——「社内報掲載候補写真・確認のお願い」
データを開くと、いくつもの写真が並んでいる。ホール全体を写したもの、社長と副社長が並んだもの、取引先との握手シーン。そして、その中に——。
「……」
ルーファウスとみみが写った写真が、いくつかあった。
一枚は、ホール入口付近で横並びに立っているショット。彼が正面を向き、みみは少し後ろに控えている。もう一枚は、誰かと話している最中、斜めから撮られたもの。ルーファウスが相手に視線を向けている横で、みみが資料を差し出している。その指先の動きまで、クリアに写っていた。
そして、もう一枚。
「——」
息が詰まりそうになる。
それは、ダンスフロア近くで撮られた一瞬だった。ルーファウスが誰かの申し出を断ろうとしているところだろう。その隣で、みみがわずかに前に出て、彼に何か耳打ちをしている。二人の距離は近く、横顔の角度のせいか、写真だけ見るとまるで親密な会話をしているように見える。
(これは……)
仕事のための一瞬なのに、写真になると意味が変わる。そういうことは、頭では分かっていた。けれど、こうして実際に目の当たりにすると、胸の奥がざわつく。
「どうした」
いつの間にか、ルーファウスが前室に出てきていた。端末の画面を覗き込む彼の影が、みみの上に落ちる。
「社内報の写真の候補が届きました。副社長にご確認いただこうと……」
「見せろ」
みみは椅子を少し横にずらし、彼が画面を見やすいようにした。ルーファウスはスクロールしながら、いくつかの写真をざっと確認する。社長と並ぶものは、表情ひとつで受け取られ方が変わることを知っているので、特に注意深く見ていた。
やがて、問題の写真まで辿り着く。
ほんの一瞬、彼の指が止まった。
二人の距離。表情。角度。見ようによっては、親しい関係にも見える写真。広報部はおそらく、「副社長とその秘書」という構図で使おうとしているのだろう。それ自体は不自然ではない。
(どうされますか)
喉まで出かかった問いを、みみは必死で飲み込んだ。自分から「これは誤解を招くかもしれません」と言ってしまえば、かえって意識していることを露呈してしまいそうだ。
ルーファウスは、しばらく無言で写真を見つめていた。
その間、みみには彼の横顔の輪郭が、いつも以上にはっきりと見える。顎のライン、睫毛の影、わずかに寄せられた眉。時間にしてはほんの数秒だが、その沈黙は妙に長く感じられた。
やがて、彼は静かに息を吐いた。
「——これでいい」
「え?」
「この写真も含めて構わないと言っておけ」
あまりにもあっさりとした言い方に、みみは思わず彼の顔を見上げた。
「ですが、その……誤解を招くかもしれません」
「何の誤解だ」
ルーファウスはわずかに首を傾げる。
「副社長と秘書が、仕事の話をしているだけだ」
「……そうですが」
「社内報を見る連中の中に、勝手な噂をしたがる者がいても不思議ではない。だが、その程度の声を恐れていたら、君を隣に立たせられない」
そう言って、視線を画面から彼女へ移した。その目は、いつもどおり澄んだ青だが、その奥にある感情の色はほんのわずかに違って見えた。
「私は、君を隠すつもりはない」
昨日と似た言葉。それでも、今、写真という「証拠」を前にして聞くと、重みが変わる。
「君が私の秘書であることは、事実だ」
「……はい」
「それ以上でも、それ以下でもない」
最後の一言が、胸に静かに落ちる。
それ以上でも、それ以下でもない——。
みみは、ほんの一瞬だけ胸を締め付けられたような感覚に襲われた。期待していたわけではない。むしろ、そう言ってくれたほうが今は楽だと頭では分かっている。それでも、心のどこかで、わずかな痛みが生まれる。
(私は……何を期待してるんだろう)
自分で自分に問いながら、みみは短く息を吸った。
「社内報の担当者に、そのようにお伝えします」
「頼む」
ルーファウスは軽く頷くと、執務室に戻っていった。
閉まる扉の音を聞きながら、みみは画面の中の写真をもう一度だけ見つめる。そこには、「副社長と秘書」としての自分たちが写っている。その枠の中でしか、今は存在を許されないのだと、改めて思い知らされる。
それでも——。
(隠されていないだけ、贅沢なのかもしれない)
スラムで捨てられた子どもだった自分が、今、神羅の社内報に「副社長付き秘書」として載る。そのこと自体が、十分すぎるくらいの変化だ。マムがこれを見たら、どんな顔をするだろう。
ふと、その顔が浮かんで、みみは心の中で予定を組み立て始めた。
(近いうちに、六番街に顔を出そう)
マムに会って、ここ最近のことを話そう。パーティのことも、写真のことも、七番街魔晄炉のことも——話せる範囲で、そして話せない範囲も含めて。
---
数日後の休日。
みみは、神羅ビルのエントランスとはまるで違う種類の空気の中にいた。
六番街スラムの空気は、相変わらず混沌としている。市場の喧騒、屋台から立ち上る煙、子どもたちの走り回る足音。プレートの下から見上げる鉄の天井には、今日も薄暗い光が滲んでいた。
「マム、いるかな……」
路地を抜け、見慣れた建物の前に立つ。洒落た飾り窓と、少し色褪せた看板。外から見ればただの店だが、中は六番街の女たちにとっての「城」であり、祈りの場所であり、逃げ場でもある。
扉を開けると、ふわりと香水と煙草と酒の混ざった匂いが鼻をくすぐった。嫌な匂いではない。むしろ、みみにとっては懐かしい匂いだ。
「——あら」
カウンターの奥から、マダム=マムの低い声が響いた。
ふくよかな体を上質なドレスで包み、豪奢なアクセサリーをこれでもかと身につけた女。深い色の口紅と、印象的な目元。六番街で「マダム」と言えば誰もがこの女を思い浮かべる。
「やっと顔見せに来たねぇ、あんた」
「ただいま戻りました、マム」
自然と口から出る言葉。マムの前では、「おかえり」と言ってもらえることが分かっているからだ。
案の定、マムは笑って両手を広げた。
「おかえり、お嬢さん。ずいぶん、いい顔になったじゃないか」
「そんな……」
照れながらも、みみはその胸に飛び込む。マムの腕は昔と変わらず大きくて、抱きしめられると世界の喧騒が少し遠のく気がした。
「痩せたんじゃないかい。神羅はあんたを働かせすぎだよ」
「いえ、ちゃんと食べてます」
「肌は……ふん、悪くないね。ちゃんと寝てる?」
「それは……頑張ってます」
マムはじろりとみみを見て、それからため息混じりに笑った。
「まったく。あたしがあんたを拾ったときは、もっと骨と皮だけだったのにねぇ。今じゃ腕も足も、ちゃんと女の線になってる」
「マムのご飯と、マムの店のおかげです」
「そうさね」
マムは鼻で笑い、カウンターの向こうからグラスを取り出した。
「まあ座りな。甘いものでも飲みながら、最近の話を聞かせな」
「はい」
カウンター席に腰掛けると、マムは慣れた手つきでノンアルコールカクテルを作り始めた。グラスの中で氷が音を立て、鮮やかな色の液体が混ざっていく。
「で、どうだい。プレートの上の生活は。神羅の副社長さまの秘書ってのは」
「……忙しいです。でも、やりがいはあります」
「ふうん」
マムはグラスを差し出しながら、じっと彼女の表情を覗き込む。
「その顔は、仕事の話だけじゃないね」
一口飲んだ瞬間に、見透かされる。みみは思わずむせそうになり、慌ててグラスを置いた。
「な、何の話ですか」
「恋だろうが」
あっさりと言われて、声が出なくなる。
「……」
「昔からそうさ。あんたは、分かりやすく顔に出る子だった。嬉しいときも、悲しいときも、怖いときも。今の顔はね——」
マムは少しだけ目を細める。
「『大事にされたい』って顔さ」
胸の奥を、鋭く刺されたような気がした。
「大事にされてると、思ってるよ」
マムは続ける。
「あんたがそこまで表情を柔らかくして、この店に戻ってくるってことはね。あの神羅の坊やも、なかなか骨があるんだろうさ」
「坊やって……」
思わず吹き出しそうになる。六番街で「坊や」と呼んでいい存在ではないはずなのに、マムが言うと妙にしっくりきてしまう。
「ちゃんと、あんたを『飾り』じゃなくて『人』として扱ってる顔だよ、今のあんた」
「……」
「だけど」
マムはグラスを手の中でくるりと回した。
「神羅の男はみんな、何かしら抱えてる。権力でも、欲望でも、復讐でも。あの坊やも例外じゃないだろうね」
「……はい」
父との関係、神羅という巨大な会社、その中での政治。彼が抱えているものの一端を、みみも少しずつ知り始めていた。
「だからこそ、あんたが自分で線を引かなきゃいけないよ」
マムは煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせる。
「あんたが彼のことを好きでも構わない。惚れるのは自由さ。でも、『どこまでを仕事として』『どこからを女として』って、自分で決めるんだ」
「……それが、難しくて」
思わずこぼれる。マムは「だろうね」と笑った。
「でも、難しいからって全部ごちゃ混ぜにしたら、最後に損するのはあんたのほうだよ。権力の椅子に座ってる男はね、自分が手に入れたものを手放すのも得意だけど、『仕事のために切る』って言い訳も得意なんだ」
「副社長は、そんな方じゃ——」
「今はね」
マムはそれを遮るように言う。
「今のあんたの目は、あの坊やを信じてる。そこは否定しないさ。だけど、どんな男でも、追い詰められると変わることもある。それが『権力』ってやつさ」
煙の向こうから、鋭い目がみみを射抜く。
「あんたがあの坊やの隣に立ちたいなら、『彼を信じる女』であると同時に、『自分を守れる女』でもありな」
「……自分を、守る」
「そう。あんたはもう、スラムの路地裏で震えてた子どもじゃない。自分で選んで、神羅の最上階に立ってる女だ」
マムはカウンター越しに手を伸ばし、みみの頬に触れた。
「誰かに守られるだけじゃなく、自分の足で立って、相手の隣に立つんだよ。それが、あんたの『恋』の仕方なんじゃないかい」
胸の奥がじんわりと熱くなる。マムの言葉は、いつも少し乱暴で、でも必ず核心を突いていた。
「……私」
みみはグラスを両手で包み込みながら、静かに言った。
「副社長のことが、好きだと思います」
あまりにもまっすぐな告白に、自分で驚く。口に出した瞬間、逃げ道が一つふさがれる気がした。
マムは「やっと言ったね」と微笑んだ。
「そりゃそうだろうさ。あんたがここまで綺麗な顔して戻ってきたんだ。恋のひとつやふたつしてなくちゃ、つまらない」
「でも、秘書です。仕事です。……その線は、守りたいです」
「守りなさいな」
マムはあっさり言い切る。
「そのうえで、どうしようもなく溢れてくるものがあったら、そのときにまた悩めばいい」
「そんな、先送りみたいな……」
「恋なんて、どうせそういうもんだよ」
マムは笑って、みみのグラスに新しい氷を足した。
「今はそれでいい。あんたが自分で自分の気持ちを認めたってことが、大事なのさ」
「……はい」
自分の胸の内を言葉にしたことで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。線を引くことと、気持ちを否定することは違う。マムの言うとおり、「好き」を認めたうえで、その外側に「仕事」の枠を置いておく。それが、今の自分にできる精一杯だ。
---
同じ頃、プレートの上では。
ルーファウスは執務室のデスクの上に、一枚の紙を置いてじっと見ていた。
それは、社内報の校正用紙だった。見出しや本文はすでに整えられており、あとは最終確認を残すのみ。そこに、例の写真が使われている。
——「副社長ルーファウス=神羅と、その秘書みみ氏。新規プロジェクトに向けた決意を語る」
文章は広報部が書いたものだ。いかにもそれらしい修辞が並び、「若き副社長とその有能な秘書」という構図が巧妙に描かれている。写真の中の二人は、仕事の話をしているだけなのに、そこには奇妙な統一感があった。
(『その秘書みみ氏』、か)
紙面のその文字を指先でなぞりながら、ルーファウスは小さく息を吐いた。
神羅の社内報など、これまではろくに目を通してこなかった。社長の功績が誇張され、社員の士気を鼓舞するための言葉が並び、時折スキャンダルを誤魔化すための記事が挟まる。そんなものだと認識していた。
だが、今回ばかりは、そこに自分が選んだ「秘書」の名前が乗っている。
——隠すつもりはない。
自分でそう言った。彼女が自分の隣に立つことを、世界から隠す気はない。その言葉に嘘はない。
それでも。
(『氏』と付くほど、距離のある存在ではないはずだがな)
内心で、どうでもいいような感想が浮かぶ。呼び方ひとつで、人と人との関係性は変わって見える。「副社長」と「その秘書」。そこに、個人としての感情が混ざる余地はないはずだ。
それでいい、と頭は言う。
それでは足りない、と胸が囁く。
「……」
窓の外を見ると、プレートの上の街が広がっている。そのさらに下には、七番街や六番街のスラムがある。彼女が生まれ、さまよい、拾われた場所。自分が今いる場所とは、あまりにも違う世界。
(そんな場所から、ここまで上がってきた女を、ただの「秘書」として扱い続けられるほど、私は器用ではないらしい)
自嘲気味な思考が浮かび、消える。
それでも、今はその「器用さ」を演じるしかない。父の目も、会社の目も、世界の目もある。ここで彼女を「それ以上」に扱うことは、彼女の居場所を危うくする。
(彼女が自分で線を引こうとしていることも、分かっている)
あの昼休みの公園での会話を思い出す。「副社長の仕事を支えることが、私の今の場所だから」と言った彼女の声。その中に、仕事と感情の線を必死に引こうとしている気配があった。
ならば、自分も同じように線を守らなければならない。
——そのうえで。
いつか、もっと大きなものが崩れたとき。仕事も、会社も、世界も、今と同じ形ではいられなくなったとき。そのときに、線の引き方を変えることが許されるなら。
(そのとき、彼女はまだ隣にいるか)
紙面の写真の中の彼女は、まだ迷いながらもまっすぐにこちらを支えようとしている。あの瞳が、自分から離れていく未来を想像したくなくて、ルーファウスは目を閉じた。
「——面倒な感情だ」
また同じ言葉が唇から漏れる。けれど、その声には、ほんのわずかに諦めではない何かが混ざっていた。
社内報の最終決裁欄に、「承認」の印を押す。
これで、神羅の中で「副社長とその秘書」の形がひとつ刻まれる。その枠の中で、二人はまだ「仕事」として隣に立ち続ける。
だが、その水面下で、みみの胸の中にも、ルーファウスの胸の中にも、「仕事」だけでは処理しきれない何かが、静かに、確実に育ち続けていた。
けれど、みみの胸の中だけは、まだ昨夜の熱が少し残っているようだった。目を覚ましたとき、枕元に置いた手帳が視界に入る。眠る前に書き込んだ文字は、そのままそこにある。
——「隣に立てて、嬉しかった」
思わず、布団の中で枕をぎゅっと掴んだ。
(何を書いてるんだろう、私)
恥ずかしさで顔を覆いたくなる。それでも、手帳を開いてその一行を指でなぞると、不思議なことに少しだけ肩の力が抜けた。少なくとも、自分は自分に嘘をつかないでいられたのだと、そう思えたから。
シャワーを浴び、いつものタイトスカートとブラウスに着替える。昨夜のディープグリーンのドレスは、丁寧に畳んで衣装カバーにしまってある。あれは「仕事用の鎧」だ。日常に持ち込むには、まだ勇気が足りない。
鏡の前で軽くメイクを整えながら、ふと自分の表情に気づく。
(……浮かれてる)
口元が、わずかに上がっていた。誰かに指摘されたら、すぐにでも誤魔化したくなるような微妙な変化。それでも、完全に消してしまうのも惜しい気がして、みみはほんの少しだけ、そのままにしておくことにした。
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神羅ビルの最上階に到着すると、いつもの冷気が迎えてくれる。
前室の扉を開けた瞬間、その空気に少しだけ安心する。シャンデリアでも音楽でもなく、蛍光灯と書類と端末の匂い。胸の奥に残っていた昨夜のざわめきが、少しずつ落ち着いていく。
机の上を整え、コーヒーメーカーの準備をし、今日のスケジュールを確認する。ペンを持つ手はいつもどおりで、仕事の手順も変わらない。それでも、ルーファウスがどんな顔で執務室から出てくるのかを考えると、心臓が妙に落ち着かなくなる。
エレベーターの到着音が聞こえ、足音が近づいてきた。
扉が開き、ルーファウスが現れる。昨日のタキシードとは違い、いつもの仕立ての良いスーツ姿だ。けれど、みみにはその姿が、ほんの少しだけ違って見えた。昨夜の光の中に立っていた姿が重なって見え、一瞬だけ現実感がずれる。
「おはようございます、副社長」
声がきちんと出たことに、みみは内心ほっとする。ルーファウスは一瞬だけ彼女を見つめ、それからいつもどおりの低い声で返した。
「おはよう」
その声には、昨夜の残り香のようなものは感じられない。いつも通りの挨拶。仕事モードの副社長。そのことに、みみは少しだけ肩の力を抜いた。
「本日のご予定をお伝えします」
手帳を開きながら、いつものように午前と午後のスケジュールを読み上げていく。会議、打ち合わせ、視察。昨夜のパーティの報告を求められる場も、少なからずある。
ルーファウスは黙ってそれを聞いていたが、ふと、途中で口を挟んだ。
「——広報から、今日中に写真の選別の確認が来るはずだ」
「はい。社内報用の写真の件ですね」
広報部の女が言っていた内容が頭をよぎる。「副社長とご一緒に写っているものも使用されるかもしれません」と言われたときのざわめきも、まだ薄く残っていた。
「君にも確認させる」
「……よろしいのですか」
思わず顔を上げてしまう。ルーファウスは書類の束を机に置きながら、当たり前のように言った。
「私の秘書として出る写真だ。君が見ておいて損はない」
「はい。承知しました」
(私の秘書)
昨夜、何度も聞いたその言葉が、また胸の奥で静かに響く。仕事上の言葉だと分かっていても、それは確かにみみの足元を支えてくれる杭になりつつあった。
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午前中の会議がひと段落したころ、前室の端末に広報部からの連絡が入った。
——「社内報掲載候補写真・確認のお願い」
データを開くと、いくつもの写真が並んでいる。ホール全体を写したもの、社長と副社長が並んだもの、取引先との握手シーン。そして、その中に——。
「……」
ルーファウスとみみが写った写真が、いくつかあった。
一枚は、ホール入口付近で横並びに立っているショット。彼が正面を向き、みみは少し後ろに控えている。もう一枚は、誰かと話している最中、斜めから撮られたもの。ルーファウスが相手に視線を向けている横で、みみが資料を差し出している。その指先の動きまで、クリアに写っていた。
そして、もう一枚。
「——」
息が詰まりそうになる。
それは、ダンスフロア近くで撮られた一瞬だった。ルーファウスが誰かの申し出を断ろうとしているところだろう。その隣で、みみがわずかに前に出て、彼に何か耳打ちをしている。二人の距離は近く、横顔の角度のせいか、写真だけ見るとまるで親密な会話をしているように見える。
(これは……)
仕事のための一瞬なのに、写真になると意味が変わる。そういうことは、頭では分かっていた。けれど、こうして実際に目の当たりにすると、胸の奥がざわつく。
「どうした」
いつの間にか、ルーファウスが前室に出てきていた。端末の画面を覗き込む彼の影が、みみの上に落ちる。
「社内報の写真の候補が届きました。副社長にご確認いただこうと……」
「見せろ」
みみは椅子を少し横にずらし、彼が画面を見やすいようにした。ルーファウスはスクロールしながら、いくつかの写真をざっと確認する。社長と並ぶものは、表情ひとつで受け取られ方が変わることを知っているので、特に注意深く見ていた。
やがて、問題の写真まで辿り着く。
ほんの一瞬、彼の指が止まった。
二人の距離。表情。角度。見ようによっては、親しい関係にも見える写真。広報部はおそらく、「副社長とその秘書」という構図で使おうとしているのだろう。それ自体は不自然ではない。
(どうされますか)
喉まで出かかった問いを、みみは必死で飲み込んだ。自分から「これは誤解を招くかもしれません」と言ってしまえば、かえって意識していることを露呈してしまいそうだ。
ルーファウスは、しばらく無言で写真を見つめていた。
その間、みみには彼の横顔の輪郭が、いつも以上にはっきりと見える。顎のライン、睫毛の影、わずかに寄せられた眉。時間にしてはほんの数秒だが、その沈黙は妙に長く感じられた。
やがて、彼は静かに息を吐いた。
「——これでいい」
「え?」
「この写真も含めて構わないと言っておけ」
あまりにもあっさりとした言い方に、みみは思わず彼の顔を見上げた。
「ですが、その……誤解を招くかもしれません」
「何の誤解だ」
ルーファウスはわずかに首を傾げる。
「副社長と秘書が、仕事の話をしているだけだ」
「……そうですが」
「社内報を見る連中の中に、勝手な噂をしたがる者がいても不思議ではない。だが、その程度の声を恐れていたら、君を隣に立たせられない」
そう言って、視線を画面から彼女へ移した。その目は、いつもどおり澄んだ青だが、その奥にある感情の色はほんのわずかに違って見えた。
「私は、君を隠すつもりはない」
昨日と似た言葉。それでも、今、写真という「証拠」を前にして聞くと、重みが変わる。
「君が私の秘書であることは、事実だ」
「……はい」
「それ以上でも、それ以下でもない」
最後の一言が、胸に静かに落ちる。
それ以上でも、それ以下でもない——。
みみは、ほんの一瞬だけ胸を締め付けられたような感覚に襲われた。期待していたわけではない。むしろ、そう言ってくれたほうが今は楽だと頭では分かっている。それでも、心のどこかで、わずかな痛みが生まれる。
(私は……何を期待してるんだろう)
自分で自分に問いながら、みみは短く息を吸った。
「社内報の担当者に、そのようにお伝えします」
「頼む」
ルーファウスは軽く頷くと、執務室に戻っていった。
閉まる扉の音を聞きながら、みみは画面の中の写真をもう一度だけ見つめる。そこには、「副社長と秘書」としての自分たちが写っている。その枠の中でしか、今は存在を許されないのだと、改めて思い知らされる。
それでも——。
(隠されていないだけ、贅沢なのかもしれない)
スラムで捨てられた子どもだった自分が、今、神羅の社内報に「副社長付き秘書」として載る。そのこと自体が、十分すぎるくらいの変化だ。マムがこれを見たら、どんな顔をするだろう。
ふと、その顔が浮かんで、みみは心の中で予定を組み立て始めた。
(近いうちに、六番街に顔を出そう)
マムに会って、ここ最近のことを話そう。パーティのことも、写真のことも、七番街魔晄炉のことも——話せる範囲で、そして話せない範囲も含めて。
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数日後の休日。
みみは、神羅ビルのエントランスとはまるで違う種類の空気の中にいた。
六番街スラムの空気は、相変わらず混沌としている。市場の喧騒、屋台から立ち上る煙、子どもたちの走り回る足音。プレートの下から見上げる鉄の天井には、今日も薄暗い光が滲んでいた。
「マム、いるかな……」
路地を抜け、見慣れた建物の前に立つ。洒落た飾り窓と、少し色褪せた看板。外から見ればただの店だが、中は六番街の女たちにとっての「城」であり、祈りの場所であり、逃げ場でもある。
扉を開けると、ふわりと香水と煙草と酒の混ざった匂いが鼻をくすぐった。嫌な匂いではない。むしろ、みみにとっては懐かしい匂いだ。
「——あら」
カウンターの奥から、マダム=マムの低い声が響いた。
ふくよかな体を上質なドレスで包み、豪奢なアクセサリーをこれでもかと身につけた女。深い色の口紅と、印象的な目元。六番街で「マダム」と言えば誰もがこの女を思い浮かべる。
「やっと顔見せに来たねぇ、あんた」
「ただいま戻りました、マム」
自然と口から出る言葉。マムの前では、「おかえり」と言ってもらえることが分かっているからだ。
案の定、マムは笑って両手を広げた。
「おかえり、お嬢さん。ずいぶん、いい顔になったじゃないか」
「そんな……」
照れながらも、みみはその胸に飛び込む。マムの腕は昔と変わらず大きくて、抱きしめられると世界の喧騒が少し遠のく気がした。
「痩せたんじゃないかい。神羅はあんたを働かせすぎだよ」
「いえ、ちゃんと食べてます」
「肌は……ふん、悪くないね。ちゃんと寝てる?」
「それは……頑張ってます」
マムはじろりとみみを見て、それからため息混じりに笑った。
「まったく。あたしがあんたを拾ったときは、もっと骨と皮だけだったのにねぇ。今じゃ腕も足も、ちゃんと女の線になってる」
「マムのご飯と、マムの店のおかげです」
「そうさね」
マムは鼻で笑い、カウンターの向こうからグラスを取り出した。
「まあ座りな。甘いものでも飲みながら、最近の話を聞かせな」
「はい」
カウンター席に腰掛けると、マムは慣れた手つきでノンアルコールカクテルを作り始めた。グラスの中で氷が音を立て、鮮やかな色の液体が混ざっていく。
「で、どうだい。プレートの上の生活は。神羅の副社長さまの秘書ってのは」
「……忙しいです。でも、やりがいはあります」
「ふうん」
マムはグラスを差し出しながら、じっと彼女の表情を覗き込む。
「その顔は、仕事の話だけじゃないね」
一口飲んだ瞬間に、見透かされる。みみは思わずむせそうになり、慌ててグラスを置いた。
「な、何の話ですか」
「恋だろうが」
あっさりと言われて、声が出なくなる。
「……」
「昔からそうさ。あんたは、分かりやすく顔に出る子だった。嬉しいときも、悲しいときも、怖いときも。今の顔はね——」
マムは少しだけ目を細める。
「『大事にされたい』って顔さ」
胸の奥を、鋭く刺されたような気がした。
「大事にされてると、思ってるよ」
マムは続ける。
「あんたがそこまで表情を柔らかくして、この店に戻ってくるってことはね。あの神羅の坊やも、なかなか骨があるんだろうさ」
「坊やって……」
思わず吹き出しそうになる。六番街で「坊や」と呼んでいい存在ではないはずなのに、マムが言うと妙にしっくりきてしまう。
「ちゃんと、あんたを『飾り』じゃなくて『人』として扱ってる顔だよ、今のあんた」
「……」
「だけど」
マムはグラスを手の中でくるりと回した。
「神羅の男はみんな、何かしら抱えてる。権力でも、欲望でも、復讐でも。あの坊やも例外じゃないだろうね」
「……はい」
父との関係、神羅という巨大な会社、その中での政治。彼が抱えているものの一端を、みみも少しずつ知り始めていた。
「だからこそ、あんたが自分で線を引かなきゃいけないよ」
マムは煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせる。
「あんたが彼のことを好きでも構わない。惚れるのは自由さ。でも、『どこまでを仕事として』『どこからを女として』って、自分で決めるんだ」
「……それが、難しくて」
思わずこぼれる。マムは「だろうね」と笑った。
「でも、難しいからって全部ごちゃ混ぜにしたら、最後に損するのはあんたのほうだよ。権力の椅子に座ってる男はね、自分が手に入れたものを手放すのも得意だけど、『仕事のために切る』って言い訳も得意なんだ」
「副社長は、そんな方じゃ——」
「今はね」
マムはそれを遮るように言う。
「今のあんたの目は、あの坊やを信じてる。そこは否定しないさ。だけど、どんな男でも、追い詰められると変わることもある。それが『権力』ってやつさ」
煙の向こうから、鋭い目がみみを射抜く。
「あんたがあの坊やの隣に立ちたいなら、『彼を信じる女』であると同時に、『自分を守れる女』でもありな」
「……自分を、守る」
「そう。あんたはもう、スラムの路地裏で震えてた子どもじゃない。自分で選んで、神羅の最上階に立ってる女だ」
マムはカウンター越しに手を伸ばし、みみの頬に触れた。
「誰かに守られるだけじゃなく、自分の足で立って、相手の隣に立つんだよ。それが、あんたの『恋』の仕方なんじゃないかい」
胸の奥がじんわりと熱くなる。マムの言葉は、いつも少し乱暴で、でも必ず核心を突いていた。
「……私」
みみはグラスを両手で包み込みながら、静かに言った。
「副社長のことが、好きだと思います」
あまりにもまっすぐな告白に、自分で驚く。口に出した瞬間、逃げ道が一つふさがれる気がした。
マムは「やっと言ったね」と微笑んだ。
「そりゃそうだろうさ。あんたがここまで綺麗な顔して戻ってきたんだ。恋のひとつやふたつしてなくちゃ、つまらない」
「でも、秘書です。仕事です。……その線は、守りたいです」
「守りなさいな」
マムはあっさり言い切る。
「そのうえで、どうしようもなく溢れてくるものがあったら、そのときにまた悩めばいい」
「そんな、先送りみたいな……」
「恋なんて、どうせそういうもんだよ」
マムは笑って、みみのグラスに新しい氷を足した。
「今はそれでいい。あんたが自分で自分の気持ちを認めたってことが、大事なのさ」
「……はい」
自分の胸の内を言葉にしたことで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。線を引くことと、気持ちを否定することは違う。マムの言うとおり、「好き」を認めたうえで、その外側に「仕事」の枠を置いておく。それが、今の自分にできる精一杯だ。
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同じ頃、プレートの上では。
ルーファウスは執務室のデスクの上に、一枚の紙を置いてじっと見ていた。
それは、社内報の校正用紙だった。見出しや本文はすでに整えられており、あとは最終確認を残すのみ。そこに、例の写真が使われている。
——「副社長ルーファウス=神羅と、その秘書みみ氏。新規プロジェクトに向けた決意を語る」
文章は広報部が書いたものだ。いかにもそれらしい修辞が並び、「若き副社長とその有能な秘書」という構図が巧妙に描かれている。写真の中の二人は、仕事の話をしているだけなのに、そこには奇妙な統一感があった。
(『その秘書みみ氏』、か)
紙面のその文字を指先でなぞりながら、ルーファウスは小さく息を吐いた。
神羅の社内報など、これまではろくに目を通してこなかった。社長の功績が誇張され、社員の士気を鼓舞するための言葉が並び、時折スキャンダルを誤魔化すための記事が挟まる。そんなものだと認識していた。
だが、今回ばかりは、そこに自分が選んだ「秘書」の名前が乗っている。
——隠すつもりはない。
自分でそう言った。彼女が自分の隣に立つことを、世界から隠す気はない。その言葉に嘘はない。
それでも。
(『氏』と付くほど、距離のある存在ではないはずだがな)
内心で、どうでもいいような感想が浮かぶ。呼び方ひとつで、人と人との関係性は変わって見える。「副社長」と「その秘書」。そこに、個人としての感情が混ざる余地はないはずだ。
それでいい、と頭は言う。
それでは足りない、と胸が囁く。
「……」
窓の外を見ると、プレートの上の街が広がっている。そのさらに下には、七番街や六番街のスラムがある。彼女が生まれ、さまよい、拾われた場所。自分が今いる場所とは、あまりにも違う世界。
(そんな場所から、ここまで上がってきた女を、ただの「秘書」として扱い続けられるほど、私は器用ではないらしい)
自嘲気味な思考が浮かび、消える。
それでも、今はその「器用さ」を演じるしかない。父の目も、会社の目も、世界の目もある。ここで彼女を「それ以上」に扱うことは、彼女の居場所を危うくする。
(彼女が自分で線を引こうとしていることも、分かっている)
あの昼休みの公園での会話を思い出す。「副社長の仕事を支えることが、私の今の場所だから」と言った彼女の声。その中に、仕事と感情の線を必死に引こうとしている気配があった。
ならば、自分も同じように線を守らなければならない。
——そのうえで。
いつか、もっと大きなものが崩れたとき。仕事も、会社も、世界も、今と同じ形ではいられなくなったとき。そのときに、線の引き方を変えることが許されるなら。
(そのとき、彼女はまだ隣にいるか)
紙面の写真の中の彼女は、まだ迷いながらもまっすぐにこちらを支えようとしている。あの瞳が、自分から離れていく未来を想像したくなくて、ルーファウスは目を閉じた。
「——面倒な感情だ」
また同じ言葉が唇から漏れる。けれど、その声には、ほんのわずかに諦めではない何かが混ざっていた。
社内報の最終決裁欄に、「承認」の印を押す。
これで、神羅の中で「副社長とその秘書」の形がひとつ刻まれる。その枠の中で、二人はまだ「仕事」として隣に立ち続ける。
だが、その水面下で、みみの胸の中にも、ルーファウスの胸の中にも、「仕事」だけでは処理しきれない何かが、静かに、確実に育ち続けていた。