社内報が発行されたのは、それから一週間ほど経った朝だった。

出社して前室の机を整え、今日の予定にざっと目を通していると、エレベーターホールのほうからいつもよりざわついた気配が聞こえてくる。ワゴンの軋む音と、社員たちの小さな笑い声やため息。何度か耳にしたことのある音だった。

「今月号でーす」「ご自由にお取りくださーい」

配布担当の若い社員の声が、廊下の奥からかすかに届く。みみは手帳から目を上げ、前室のドア越しに様子をうかがった。しばらくすると、ノックもなくひょいと顔を覗かせたのは、財務部の若い男性社員だった。

「おはようございます、副社長付き秘書さん」

「おはようございます。財務部のご資料でしたら——」

「いえ、今日はこれのお届けです」

彼は少し照れくさそうに笑いながら、一冊の薄い冊子を差し出した。社内報の今月号。表紙には、神羅ビル夜景の写真と、金色のロゴが大きく印刷されている。

「最上階には配布員あんまり来ないんで。ついでです、ついで」

「わざわざありがとうございます」

受け取って頭を下げると、彼は「いえいえ」と手を振った後、少しだけ言いづらそうに言葉を続けた。

「……載ってましたよ」

「え?」

「ほら」

彼は自分の持ってきた冊子のページをぱらぱらとめくり、ある見開きで止めた。

そこには、ルーファウスと並んで写る自分の姿があった。パーティ会場での一瞬。斜めから撮られた写真の中で、ルーファウスは誰かに視線を向け、みみは資料を差し出している。キャプションには、副社長の簡単なコメントと共に、「副社長付き秘書・みみ」の文字がある。

「すごいですね。神羅の社内報で、こんな大きく載るなんて。うちの部長ですら、端にちょこっとしか出たことないのに」

「……そんな、大げさな」

胸の奥が妙にざわざわする。誇らしさと、気恥ずかしさと、薄い怖さがごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。

財務部の彼は気付いていないのか、それとも敢えて触れないのか、いつもと変わらない調子で言った。

「今度、決算の件でまたお邪魔すると思います。そのときは、社内報に載ってた有名人の方にご挨拶しますね」

「やめてください、恥ずかしいです」

思わず笑って返すと、彼も「ですよね」と微笑み、手を振って廊下の奥へと消えていった。

前室に一人になる。指先に残る紙の感触だけが妙に鮮明だ。みみはゆっくりとソファに腰掛け、冊子を膝の上で開いた。

紙面の写真は、画面越しで見たものより鮮やかだった。印刷されたインクの匂い。光沢紙に反射する蛍光灯の光。そこにいる「自分」は、スラム出身の過去も、六番街で育った日々も、マムに拾われた夜も、すべて抱えたまま、「副社長の秘書」としての形を保っていた。

——「その秘書みみ氏」

活字になった自分の名前に、喉が少し詰まる。紙面の隅には、小さなプロフィールまで載っていた。「副社長付き秘書。冷静沈着かつ誠実な仕事ぶりで信頼を集めている」といった、広報らしい飾った言葉の数々。

(冷静沈着……)

心の中で小さく苦笑する。ルーファウスの前に出るたびに胸は高鳴り、七番街の話を聞けば今でも足元が揺らぎそうになる自分が、「冷静沈着」と形容されるのは妙な気分だった。けれど、仕事の場で崩れないようにと必死に続けてきた日々が、こうして言葉になっているのも事実だ。

ページの隅に指を滑らせる。

(マムに見せたら、絶対笑う)

「ほら見な」と豪快に笑って、煙草を吹かしながら「いい男の隣に立つ女になったじゃないか」とからかう顔が浮かぶ。胸の奥に小さな温かさが灯る。

そのとき、執務室の扉が開いた。

「——何を見ている」

低い声に、みみは慌てて冊子を閉じかけた。だが途中で動きを止め、ゆっくりと立ち上がって向き直る。

「社内報が届きましたので。副社長にもご確認いただこうかと」

「そうか」

ルーファウスは数歩近づき、みみの手から自然な動きで冊子を受け取った。表紙を一瞥すると、迷いなく該当ページを開く。その指先は、すでに写真の位置を記憶しているかのようだった。

一瞬だけ、青い瞳が紙面の上の二人を見つめる。彼自身と、その隣に立つ秘書。その構図を客観的に見ているようでいて、どこか遠くない。

「印刷の質は悪くないな」

「そこですか」

思わず出た言葉に、ルーファウスは小さく口角を上げた。

「社内報にしては、という意味だ」

「……はい」

わざとらしい会話が、かえって胸の緊張をほどいていく。あの日、写真を許可したときと同じように、「仕事」の話に落とし込もうとしてくれているのが分かるからだ。

「広報から何か言付けは?」

「特にございません。ただ、反響があれば今後も継続的に掲載を——とのことでした」

「反響、ね」

ルーファウスは社内報を閉じ、軽く指で叩いた。

「君のほうには来るだろう」

「たぶん……」

その予感は、すでに現実になり始めていた。

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午前中、資料を届けに数人の社員が前室を訪れた。その多くが、いつもよりほんの少しだけ視線を長く留める。直接社内報の話を出す者もいれば、敢えて触れずに普段通りの調子で話す者もいる。

「社内報見ましたよ」と言って笑ってくれるのは、財務部の彼や、リフレッシュフロアのレナといった、普段からみみと親しくしている人たちだ。彼らの言葉には、素直な祝福と面白がりが混ざっていて、重くはなかった。

問題は、そうでない視線だ。

昼前、給湯室に向かう途中、エレベーターホールの隅で、小さな声が耳に入った。

「ねえ、見た? 社内報」

「見た見た。副社長の隣に、あの子」

「秘書課じゃないでしょ? どこから来たのかしら」

「あの子、前にバーで見かけたことある気がするんだけど……気のせい?」

ささやき声が、壁の向こう側から滲み出てくる。こちらに気付いてないわけではないだろう。それでも、わざと聞こえる位置で囁いている。

「やっぱり特別扱いよね」

「スラム出身って噂もあったけど……神羅って、そういう子を拾ってくるのが好きな人もいるじゃない」

「まあ、副社長ならどんな子でも似合うけど」

笑い声が混じる。悪意だけではなく、羨望や好奇心も混ざった音色。それでも、耳に触れるたびに胸の奥に小さな傷が増えるような感覚がした。

(……前と同じ。けど)

あの日、給湯室の前で聞いた秘書課の噂話が頭をよぎる。あのときは、足に力が入らなくなりそうで、ルーファウスの前で作り笑いをするのに精一杯だった。

今は——。

みみは深呼吸をひとつして、そのまま給湯室に入った。扉が開く音に、女性たちは一瞬びくりと肩を震わせる。社内報のページを開いたまま、視線をそらしきれずにいる。

「失礼いたします」

いつもの声で挨拶をし、カップを取り出してコーヒーを淹れる。背中に視線が突き刺さるのを感じながらも、手は震えない。動作のひとつひとつをいつもより丁寧に行うことで、自分の足元を確かめる。

「……社内報、拝見しました」

ポットを戻そうとしたとき、秘書課の一人が遠慮がちに声をかけてきた。目はまっすぐには合わせてこないが、そこに露骨な敵意はない。

「とても……素敵でした」

「ありがとうございます」

みみは、素直に頭を下げた。

「副社長のお隣に立たれて。私たち、ずっと側でお仕えしてきましたけど、ああいう場に出たことはなくて」

「……私は、たまたま機会をいただいただけです」

それは本心だった。自分が努力しなかったと言うつもりはないが、「最初に見つけられた」という点では、確かに偶然の要素もあった。マムに拾われた夜と同じように。

「たまたまでも、そこに立てる人と立てない人がいるんですよ」

別の女性がぽつりと漏らす。その声には、悔しさというよりも、純粋な羨望が混ざっていた。

「私たち、ずっと社長側に付いてましたから。副社長はあまり……」

「あの……」

みみは言葉を選んだ。

「副社長は、とてもお忙しい方です。きっと、どなたが隣に立たれても、同じように厳しく、同じようにお忙しくさせてしまいますよ」

自嘲めいた冗談に、女性たちは一瞬ぽかんとした後、くすくすと笑った。

「そうかもね」

「副社長付きは、大変そう」

「体、壊さないようにね」

「ありがとうございます。皆さんもご自愛ください」

短いやり取り。完全にわだかまりが消えたわけではないだろうが、少なくとも今ここで剥き出しの棘を向けてくる気配はなかった。

(……前とは違う)

給湯室を出ながら、みみは自分の胸の中でそっと呟いた。噂話は消えない。羨望も好奇心も、今後増える一方かもしれない。それでも、今の自分は、あのときより少しだけ強く立っていられる気がする。

副社長が「隠さない」と決めたこと。マムが「自分を守れる女でいな」と言ってくれたこと。そのどちらもが、目に見えない支えになっていた。

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午後、書類を届けに来たツォンが、社内報を軽く持ち上げて見せた。

「賑やかになっているようだな」

相変わらず感情の読めない笑み。タークスのリーダーらしい、薄い皮肉と観察眼が混ざった眼差しだった。

「副社長のご活躍が、社内報にも反映されているようで」

「副社長の、でしょうか」

みみは苦笑する。ツォンは少しだけ目を細めた。

「君のほうにも、いろいろ声がかかっているだろう」

「まあ……」

「タークスに転属する気は?」

「絶対にありません」

即答に、ツォンが珍しく喉の奥で笑った。

「忠義深いことだ」

「タークスの皆さんのお仕事は、私には荷が重すぎます」

「副社長の隣に立ち続けるのも、相当な荷だと思うがね」

さらりと告げられた言葉が、妙に胸に残った。ツォンの目は、みみの肩や手元ではなく、顔をじっと見ている。そこに、探るような鋭さはあるが、敵意はない。

「君がこの位置にいることは、いずれ何かの引き金になるかもしれない」

「……どういう意味でしょうか」

「そのときが来たら分かる」

ツォンはそれ以上言わず、書類を置いて踵を返した。ドアが閉まる音だけが、前室に残る。

(引き金……)

漠然とした不安が胸の奥に沈む。けれど、その輪郭はまだ見えない。七番街のざわつき、魔晄炉計画、社内の力学。すべてが絡み合っている気配は感じるのに、どこで何が崩れるのかまでは分からない。

ただひとつだけはっきりしているのは、自分が今立っている場所だ。

——副社長の隣。

その場所を守るために、自分が何を選び、何を手放すのか。それを決めるための時間は、まだあると信じたかった。

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季節がひとつ、またひとつ進む。

七番街の魔晄炉計画は正式に動き出し、社内の空気はさらに緊張を増していく。反神羅を掲げるグループの名前も、内部の報告書に頻繁に上がるようになった。「アバランチ」という単語が、初めてルーファウスの机の上に置かれた日、みみはその文字の冷たさに背筋が震えた。

「テロ組織のひとつだ」

ルーファウスは淡々と言った。

「まだ規模は小さいが、目は逸らせない」

「……はい」

報告書の文字が霞んで見える。爆破、襲撃、犠牲者。数字になると実感を失うはずのものが、そこに生々しく並んでいた。

そのぶん、ルーファウスの仕事も増えた。軍との調整、情報部門との連携、社長との応酬。会議と決裁の数は、以前の比ではない。

「ここにサインを——」

「これは後回しでいい。優先度を落とせ」

「かしこまりました」

前室と執務室を何度も往復する日々。みみの手帳は、びっしりと文字で埋まっていく。それでも、どれだけ忙しくなっても、「彼が崩れないように支える」という軸だけはぶれなかった。

ある夜、時計の針が日付の境界を越えた頃、ようやく一段落ついた。

「今日はここまでだ」

書類を閉じながら、ルーファウスが言う。

「君も帰れ」

「副社長こそ、お休みにならないと——」

「君が帰らないと、私も帰りづらい」

いつか言われた冗談めいた一言が、再び口にされる。みみは小さく笑い、「では」と頭を下げた。

コートを羽織り、鞄を肩にかける。前室の灯りを落とし、執務室の扉をノックする。

「お先に失礼いたします」

「……ああ」

返事はいつも通りだが、その声に微かな疲労が滲んでいるのが分かる。

思わず振り返りかけて、みみは足を止めた。開いた扉の隙間から、机に肘をついて目元を押さえるルーファウスの姿が見える。いつも隙のない背筋が、ほんの少しだけ丸まっていた。

(……)

迷いが胸をよぎる。このまま扉を閉めて帰ることもできる。副社長はきっと、誰の助けも借りずにまた立ち上がるだろう。そういう男だ。

けれど——。

ノックをし直す代わりに、みみはそっと扉を少し広く開けた。

「……副社長」

ルーファウスが顔を上げる。驚きと、微かな警戒が一瞬だけ瞳をよぎり、すぐにいつもの冷静さに戻った。

「何だ」

「お疲れのようでしたので」

みみは、手に持っていた小さな紙袋を差し出した。

「これを、お持ちしました」

「……?」

受け取って中を覗くと、そこには小さな瓶が入っていた。琥珀色の液体と、乾燥したハーブの束が添えられている。

「六番街の知り合いからいただいた、安眠用のハーブティです。お湯を注いでしばらく置いておくと、香りが立ちますので」

「ハーブティ」

ルーファウスは瓶を手の中で回しながら、少しだけ目を細めた。

「君の好物だろう」

「はい。私には少し贅沢なくらいですが……副社長は、コーヒーばかりでいらっしゃるので」

言いながら、頬が少し熱くなる。「体調を気遣っている」とあからさまに言うのが気恥ずかしくて、言葉が回りくどくなる。

「コーヒーで頭は冴えるが、眠りは浅くなる」

ルーファウスは自分でそう言って、ふっと笑った。

「君は、私をよく見ているな」

「秘書ですので」

即座に返すと、彼の口元がほんの少し柔らかくなる。

「……受け取っておく」

「よかった」

みみは小さく息を吐いた。

「効果があるかどうかは分かりませんが、香りだけでも、少しは気分が変わるかと」

「君がくれたものなら、効果がなかったとしても、気分は変わるだろう」

軽く返された言葉に、胸が一瞬だけ跳ねる。

「からかわないでください」

「事実だ」

ルーファウスは瓶を机の端に置き、立ち上がった。

「君がいなくなったら、前室の空気がどうなるかを想像したことがあるか」

「ありません」

「あまり想像したくはないがな」

さらりと告げられた一言が、部屋の空気に静かに落ちる。

「君がそこにいることも、私の『安定』のひとつだ」

それは、あの日の公園で交わした言葉の、ささやかな答えのようだった。

「……私もです」

みみは目を伏せ、それでもはっきりと答えた。

「副社長が椅子に座ってくださっていることが、私の『安定』です」

言葉にしてしまうと、あまりにも生々しくて、少しだけ怖い。それでも、このくらいなら言ってもいいと、どこかで線を引いていた。

二人の間に、短い沈黙が落ちる。窓の外には、深夜のミッドガルの光が遠く瞬いていた。七番街の上の魔晄炉も、その下のスラムも、今はまだ爆音も炎も上げていない。ただ静かに、次の一手を待っているかのように。

「……帰れ」

やがてルーファウスが口を開く。声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

「君が帰らないと、私もこの椅子から離れづらい」

「かしこまりました」

扉を閉める直前、みみはもう一度だけ振り返った。机の端に置かれた小さな瓶と、それを一瞥するルーファウスの横顔。

その横顔を胸に焼きつけながら、みみは最上階のフロアを後にした。

自宅に戻り、手帳を開く。

——「社内報に載った。副社長と並んで」

——「給湯室で噂はあったけれど、少しは向き合えるようになってきた」

——「マムに『自分を守れる女でいな』と言われた」

——「副社長に安眠用のハーブティを渡した」

ペン先が止まり、少しだけ迷う。

それから、静かに一行が書き足される。

——「この人の『安定』の一部でいられるうちは、隣で支え続けたい」

紙の上に並ぶ文字は、まだ誰にも見せるつもりはない。けれど、自分だけは知っている。みみの中で育ち続けている感情が、もはや「不必要なもの」ではなく、「どうしても手放せないもの」になりつつあることを。

その感情が、やがて世界の崩壊とどんなふうに交わるのか。このときの彼女はまだ知らない。ただ静かに、青い瞳の男の背中を追い続ける決意だけを、胸の中で固めていた。