18
ジュノンでの一件から、数日が過ぎた。
ミッドガルに戻った神羅ビルの空気は、いつも以上に張り詰めていた。エレベーターホールでは軍や治安維持部門の幹部たちがせわしなく行き来し、会議フロアの前には頻繁にスーツ姿の役員が溜まる。廊下に流れる会話の断片には、「ジュノン」「アバランチ」「警備体制」「責任」という単語が、日に日に濃く混ざるようになっていた。
そんな中で、みみはいつもの自席で淡々と仕事をこなしていた。副社長室前の小さなデスク。その上には、いつものスケジュール帳やメモに加えて、ここ数日で増えた財務関係の書類が積まれている。ジュノンの復旧や警備強化に伴う予算の再配分、広報戦略にかかる追加費用、軍備増強の予算案——ルーファウスが決裁するものはすべて、事前に彼女の手を通る。
「……あれ」
ページをめくる手が、ふと止まった。
タブレット端末の画面に表示されているのは、社内の特別予算枠の支出記録だ。数字の羅列。その中の、とある項目の小さな差異に、みみの目が引っかかった。
(このプロジェクトコード……見覚えがある)
コードだけ見れば、地味な研究開発案件か、地方支社の施設補修の一種に見える。金額も決して大きくはない。全体予算から見れば、誤差の範囲と言われてもおかしくない程度だ。
けれど、その数字が前回見たときと微妙に違っている。
(移動させた……?)
前回の記憶を辿る。自分は細かい数字を覚えるほうではないが、特定のパターンには敏感だ。定期的に支出される項目が、いつもと違う月に、違う比率で動いている。しかも、一度きりではない。ここ数ヶ月、ほんの少しずつ比率がずれている。
「……」
みみは別ウィンドウで過去の記録を呼び出し、二つの画面を並べた。一見、同じような支出が並んでいる。だが、よく見ると、毎月一定の金額が、別のコードに振り替えられているのが分かった。
(財務部が見逃している……?)
財務部は優秀だ。彼らは大きな不正や派手な数字の動きには敏感だし、定期監査も厳しい。それでも、ここまで細かく分散させていれば、見過ごされてもおかしくない。全体から見れば、どれも「誤差」で片付けられてしまいそうな微調整だ。
ただ、それを積み重ねれば、それなりの額になる。
(集約させたら……)
みみは別表を開き、何ヶ月分かの「誤差」を拾い集める。指先で軽く計算すると、ひとつの支社が小さな設備を新設できるくらいの金額になっていることが分かった。
(どこに行ってる……?)
その疑問が頭をよぎった瞬間、背筋にうっすら冷たいものが走る。神羅の中で資金が動くとき、それはたいてい目的がはっきりしている。魔晄炉の建設、軍備の増強、新規事業の立ち上げ。どれも表向きは「世界のため」「会社のため」という名目が付いている。
だが、この資金の動きには、そうした「名札」がない。わざとぼかしている、と言われても納得してしまいそうな曖昧さだ。
(……副社長に、報告しないと)
財務部に直接確認することもできるかもしれない。だが、これはルーファウスの決裁が絡んでいる可能性が高い。彼の署名が付いた予算枠だ。まずは彼に確認を取るのが、秘書としての筋だと思った。
プリントアウトを数枚手に取り、クリップで留める。心臓が少しだけ早く脈を打つのを感じながら、みみは深呼吸をひとつして立ち上がった。
---
「失礼いたします、副社長」
ノックのあと、執務室の扉を開く。書類の束を抱えたみみを見て、ルーファウスはペンを置き、視線だけを向けた。
「どうした」
「財務記録の確認の途中で、気になる点がありました」
みみは机の前まで進み、プリントアウトを差し出した。ルーファウスはそれを受け取り、ざっと目を通す。数字を斜め読みする仕草は、いつもと変わらない。
「特別予算枠の支出についてです。ここ数ヶ月、わずかではありますが、前回までの記録と比べて、毎月決まった割合で他のコードに振り替えられているように見えます」
みみは、自分なりに整理した説明を添える。
「すべて合法的な手続きで処理されていますので、不正ではないのかもしれません。ただ、目的が記録上には表れておらず……財務部も、おそらく気付いていないかと」
少しだけ不安を滲ませながら言う。自分の勘違いかもしれないという不安と、「もし本当に見逃されているなら」という警戒が、胸の中でせめぎ合う。
ルーファウスは、ページのある一点に視線を止めた。
「……よく気付いたな」
その言葉は、驚きではなく、どこか感心したような響きだった。
「やはり、意図的なものなのですね」
「そうだ」
あまりにも素直な肯定に、みみの胸がきゅっと締め付けられる。
「財務部は?」
「知らない」
ルーファウスは淡々と答えた。
「彼らは数字には敏感だが、『誰が』という名札が付いているものには、敢えて深く踏み込まないこともある。これは、そういう類の資金だ」
「……副社長の、ご決裁で」
「私の権限の範囲で動かしている」
はっきりと言い切られる。みみは、手に持っていたクリップを握る指先に、じわりと力がこもるのを感じた。
「説明が……必要でしたら、もちろん申し上げます」
ルーファウスは書類から目を離し、みみを見た。その青い瞳は、いつもより少しだけ真剣で、少しだけ探るようだった。
「だが、その前に——」
言葉を区切り、彼は机の上の端末に一瞥を投げると、視線で合図を送った。
「ドアを閉めろ」
「……はい」
みみは振り返り、扉を静かに閉めた。廊下のざわめきが遠のき、小さな機械音と冷却装置の低い唸りだけが部屋に残る。何度も経験した「内輪の話」の空気。それでも、今日のそれはいつもより重く感じられた。
「そこに座れ」
ルーファウスは、机の前の椅子を顎で示した。みみは素直に腰掛ける。彼との距離がいつもより近くなる。机越しに見る横顔は、窓の光を受けて淡く縁取られていた。
しばしの沈黙。紙を軽く指で叩く音が、やけに大きく聞こえる。
「みみ」
名前を呼ばれた瞬間、背筋が自然と伸びた。
「はい」
「何があっても、私に着いてきてくれるか」
その問いは、あまりにも不意打ちだった。
ルーファウスが「確認」を好む男ではないことを、みみはよく知っている。指示は出す。命令もする。だが「着いてこい」と口に出したことはほとんどない。ましてや「何があっても」という曖昧で重い言い回しは、彼の口から聞いたことがなかった。
喉に驚きがせり上がる前に、口が先に動いていた。
「もちろんです」
間髪入れずに出た言葉だった。考えるよりも先に、体のどこかで決まっていた答え。机の向こうの男が眉をかすかに動かす。
「理由は?」
「ありません」
みみは、自分でも驚くほど迷いなく言った。
「私が今ここにいるのは、副社長が拾ってくださったからです。何があっても着いていく、と決めたのは、私の側の都合です」
六番街の路地で震えていた子どもだった自分に、マムが手を差し伸べてくれたように。八番街のバーで働いていた自分に、ルーファウスが手を伸ばしてくれたように。その手に掴まったのは、自分の意思だ。
その手が向かう先がたとえ危険でも、汚れていたとしても——。
「副社長がどこへ行かれるのか、全部を理解しているわけではありません。ですが、少なくとも今の私には、ここ以外に立ちたい場所はありません」
ただの忠誠ではなく、ただの恋情でもない。混ざり合って形を失った感情が、そのまま言葉になったような返答だった。
ルーファウスは、ほんの短い沈黙のあとで小さく息を吐く。
「……そうか」
それが肯定なのか、諦めなのか、安堵なのか。全てが少しずつ混ざったような声だった。
「ならば、君には隠しておけないことがある」
机の上の書類を、指先で軽くなぞる。
「この資金の行き先だ」
みみは無意識に息を呑んだ。
「これは、ある組織への『支援』に使われている」
「……組織」
声が少しだけ震える。嫌な予感が、喉元まで込み上げてくる。
「詳しくは知らなくていい、とは君に対して言いたくないな」
ルーファウスは、ごく稀にしか見せない自嘲めいた笑みを浮かべた。
「君は数字からここまで手繰り寄せた。なら最後まで教えておくのが筋だろう」
青い瞳が、真っ直ぐにみみを捉える。
「——アバランチだ」
その名前が、部屋の空気を一瞬で変えた。
アバランチ。ジュノンで社長抹殺を目論んだ反神羅組織。魔晄炉を爆破し、人々の生活を揺るがし、血と炎を撒き散らす存在。報告書の中だけでなく、現実の事件として世界を騒がせている名前。
「私が、彼らに資金と情報を提供している」
ルーファウスは淡々と言った。
「父の失脚を目論んで、な」
胸の中で何かが大きく揺れた。紙に印刷された数字の列が、一気に生々しい意味を持った気がする。
「……」
言葉が出てこない。喉の奥でいくつもの問いが渦を巻き、それがひとつも形を成せないまま、ただ熱になって込み上げてくる。
「驚いたか」
ルーファウスの声は、意外なほど穏やかだった。
「神羅の副社長が、反神羅組織のスポンサーをしていると知れば、誰でも顔をしかめるだろう」
「……」
みみは、自分の顔がどんな表情をしているのか分からなかった。驚き。戸惑い。恐怖。怒り。否定。どれもが混ざっているはずなのに、一番強く押し寄せてきた感情は、そのどれでもなかった。
(危ない)
それだけだった。
(そんなことをしていたら、いつか——)
事件が起きるたびに、アバランチに対する追及は厳しくなる。もし、その背後に「神羅内部からの支援」があると知れれば、世界はどう反応するだろうか。社長はどうするだろうか。タークスや軍は、どれだけの手段を使って「裏切り者」を探し出すだろうか。
そして、その矛先が真っ先に向かう場所がどこかを想像するのは、難しくない。
「……顔をしかめているな」
ルーファウスの声に、みみははっとした。
「いえ、その……」
「正直でいい」
彼は軽く肩を竦めた。
「君は、テロリストと手を組んでいる私を軽蔑したか」
違う。
喉まで出かかった言葉を、みみは飲み込まなかった。これは飲み込んではいけない種類の言葉だと、本能が告げていた。
「違います」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。
「副社長が……テロリストと手を組んでいるから嫌なのではありません」
ルーファウスの眉が、かすかに動く。
「では、何だ」
「そんな危ない橋を、ひとりで渡っていることが、嫌です」
胸の奥がかっと熱くなる。言葉にした瞬間、感情が溢れそうになるのを、必死で押さえ込んだ。
「アバランチに資金と情報を流すということは、副社長ご自身が両側から狙われる位置に立つということです。社長からも、アバランチからも。神羅からも、世界からも」
視界の端で、ルーファウスの表情がわずかに揺れた気がした。だが今は、それを確認する余裕はない。
「父親の失脚を目論むことが正しいとか間違っているとか、今の私には判断できません。神羅のやり方が間違っている部分があることも知っています。アバランチの行為が多くの人を傷つけていることも知っています」
声のトーンが自然と低くなる。
「でも……そんな危険なところに、副社長ひとりが立っているのは、嫌です」
「……」
沈黙が落ちた。
それは、道徳や理念の話ではなかった。世界の正しさでも、神羅の正義でもない。ただひとりの人間の身を案じる、あまりにも個人的で、わがままな感情だった。
「君は、私が『何をしているか』より、『どうなるか』のほうを気にしているわけだ」
ルーファウスの声が、少しだけ柔らかくなる。
「……はい」
「私が世界を裏切ろうと、神羅を裏切ろうと、父を裏切ろうと——」
彼は、わざとらしいほど列挙した。
「君は、その結果として私の身に降りかかる危険だけを心配している」
「そんな言い方は……」
みみは唇を噛んだ。
「副社長の選択を軽んじているつもりはありません。ただ、私にとって一番大事なのは——」
そこまで言って、言葉が途切れる。これ以上言うと、線を踏み越えてしまう気がした。
「君にとって一番大事なのは?」
ルーファウスが促す。その青い瞳が、逃げ場を塞ぐようにこちらを捉えている。
喉が渇く。心臓が痛いほど速く打つ。それでも、嘘だけは吐けなかった。
「……副社長が、生きていてくださることです」
静かな告白だった。誰に聞かせるでもなく、ただ目の前の男だけに向けられた言葉。
「神羅がどうなっても、世界がどうなっても、という意味ではありません。そんなことを言えば、きっと怒られます」
「心配するな。そこまで極端なことは言わないだろうと、期待している」
ルーファウスは小さく笑う。その笑いに、いつもより多くの人間味が滲んでいる気がした。
「でも……私の視界の真ん中にいるのは、いつも副社長です」
みみは、視線を落としながら続ける。
「だから、その副社長が危ないところに立っていると思うと、顔をしかめてしまいます」
別に、清く正しくいたいわけではない。スラム育ちの自分は、神羅が世界にしてきたことの一部を肌で知っている。マムの店で聞いた話も、六番街の夜の噂も。どれもが「綺麗事だけでは済まない世界」の証拠だ。
その世界の中で、副社長がどんな汚れた手を使っているのかを、完全に知らずにいたいと思ったこともある。けれど、今こうして目の前で告げられてしまった以上、目を背けることはできない。
「……君は、本当に厄介だな」
ルーファウスは、溜息とも笑いともつかない息を吐いた。
「世の中の多くは、こう言うだろう。『テロリストと手を組むなんて最低だ』『父親を裏切るのか』『神羅を内部から崩すつもりか』と」
「そうかもしれません」
「だが君は、『危ないところに立たないでください』と顔をしかめる」
彼は少しだけ肩を落とし、苦笑した。
「そんなふうに心配されると、やりづらくなる」
「……すみません」
素直に謝ると、ルーファウスは首を横に振る。
「いや」
声が静かになる。
「そういう目で見てくれる人間がひとりくらいいるのは、悪くない」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
ルーファウスは椅子の背にもたれ、天井を見上げるように視線を上げた。
「父の失脚を目論んでアバランチに資金と情報を流しているのは事実だ」
ゆっくりとした口調で続ける。
「だが、彼らを完全に自由にさせているわけではない。流す情報も、資金の量も、こちらで制御している。『利用している』と言い換えてもいい」
「ジュノンの件も……副社長の想定内だったのですか」
思わず、問いが口をついて出た。あの日の冷静さが、ふと蘇る。
ルーファウスの瞳に、ほんの一瞬だけ影が差した。
「ジュノンでの社長抹殺計画は、私の望んだ形ではなかった」
静かな否定。
「彼らは、こちらの想定よりも速く、深く、過激になっている。だからこそ、今こうして資金と情報の流れを調整している」
指先が、机の上の数字を再びなぞる。
「父の座を揺らがせるために炎を使った。だが、その火がどこまで燃え広がるかは、誰にも完全には読めない」
「それでも、火をつけたのは副社長です」
みみは、少しだけ震える声で言った。
「だからこそ、その火の中に副社長がひとりで立っているのが、嫌なのです」
ルーファウスは、じっとみみを見つめた。その視線は鋭いのに、不思議と痛くはなかった。
「君は、さっき『何があっても着いていく』と言った」
「はい」
「私がその火の中に立っているとしてもか」
「……もちろんです」
答えは変わらなかった。怖くないわけではない。むしろ、背筋が震えるほど怖い。それでも、足は動かなかった。
「そのうえで顔をしかめてくれるなら、まあ許そう」
ルーファウスは小さく笑った。
「ただし、ひとつだけ約束しろ」
「……約束」
「私が危険な方向に行き過ぎていると感じたら、遠慮なく叱れ」
それは以前にも聞いたことのある言葉だった。ただ、そのときとは重さが違う。今や彼は、反神羅組織に資金を流すという「明確な一線」を越えている。そのうえでの「叱れ」という注文は、より現実味を帯びていた。
「私に……そんなこと」
「君にしか言われたくない」
即答だった。
「父にも、役員にも、タークスにも、そんな役目は任せられない。彼らは私を、道具か、後継者か、危険分子かとしてしか見ない」
少しだけ間を置き、静かに続ける。
「君だけが、私を『人』として叱れる位置にいる」
胸の奥に、じん、とした痛みが走る。それは苦しさとも温かさともつかない、不思議な感覚だった。
「……分かりました」
みみは、ゆっくりと頷いた。
「副社長があまりにも危ないところに行きそうになったら、そのときは、全力で叱ります」
「楽しみにしておこう」
ルーファウスは冗談めかして言ったが、その瞳の奥には、どこか安堵の色が浮かんでいた。
「それまでは……」
彼は机の上の書類をひとまとめにしながら言う。
「君は君の仕事をしろ。数字を見て、行き先を追って、必要だと思うことがあれば、今日のように私のところへ持ってくる。それが、今のところ君に頼みたいことだ」
「かしこまりました」
みみは立ち上がり、書類を受け取った。膝の上で一度揃え、深く一礼する。
「失礼いたします、副社長」
ドアへ向かう背中に、ふいに声がかかった。
「みみ」
振り返る。ルーファウスは椅子にもたれ、窓の外を半ば見上げていた。
「君が気付かなければ、私はおそらく何も言わなかった」
「……」
「だが、君が見つけた以上——」
青い瞳がこちらを捉える。
「これは、君と私のあいだの秘密だ」
その言葉は、重く、そして残酷なほど甘かった。
「……はい」
声が少しだけ震える。
執務室を出て扉を閉めた瞬間、みみは背中を壁に預け、静かに息を吐いた。指先が冷たく震えている。掌には、まだルーファウスの言葉の余韻が残っていた。
(アバランチに、資金と情報を……)
頭の中で何度も繰り返す。そのたびに、ジュノンの炎と、七番街の人々の顔と、マムの店の笑い声と、ルーファウスの横顔が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
それでも——。
(何があっても、着いていくって答えたのは、私)
自分で選んだ答えだ。誰に強制されたわけでもない。神羅という巨大な歯車の中で、自分ひとりの意思で決められることなど、ほとんどない。それでも、このひとつだけは、自分のものだと思えた。
自席に戻り、手帳を開く。ペン先が震えながらも、文字を綴っていく。
——「特別予算枠の不明瞭な資金の流れを見つけた」
——「行き先はアバランチ。資金と情報の提供。社長失脚を目論んでいると、副社長が自分の口で認めた」
——「顔をしかめた。嫌だった。怖かった。——でも、それは副社長が危険な目に遭うことが嫌だったから」
——「何があっても着いていくかと聞かれて、迷わず『もちろんです』と答えた」
最後の一行を書く前に、少し迷う。
やがて、覚悟を込めてペンを滑らせる。
——「この人の暗闇ごと受け止めると決めたのは、私だ」
手帳を閉じると、胸の奥のざわめきが少しだけ静かになった気がした。
世界は、少しずつ崩れ始めている。神羅も、アバランチも、そのどちらも「正しく」ないかもしれない。その渦の中心に、ルーファウスが立っている。その少し後ろに、自分もいる。
その立ち位置が、これからどれだけ危険になっていくのかを思うと、背筋が冷たくなる。それでも、もう足は動かなかった。
「——副社長」
誰にも聞こえないような小さな声で、みみは呟いた。
「ちゃんと、生きていてください」
それは祈りでも命令でもなく、ただの願いだった。だが、今の彼女にできる一番まっすぐな言葉でもあった。
ミッドガルに戻った神羅ビルの空気は、いつも以上に張り詰めていた。エレベーターホールでは軍や治安維持部門の幹部たちがせわしなく行き来し、会議フロアの前には頻繁にスーツ姿の役員が溜まる。廊下に流れる会話の断片には、「ジュノン」「アバランチ」「警備体制」「責任」という単語が、日に日に濃く混ざるようになっていた。
そんな中で、みみはいつもの自席で淡々と仕事をこなしていた。副社長室前の小さなデスク。その上には、いつものスケジュール帳やメモに加えて、ここ数日で増えた財務関係の書類が積まれている。ジュノンの復旧や警備強化に伴う予算の再配分、広報戦略にかかる追加費用、軍備増強の予算案——ルーファウスが決裁するものはすべて、事前に彼女の手を通る。
「……あれ」
ページをめくる手が、ふと止まった。
タブレット端末の画面に表示されているのは、社内の特別予算枠の支出記録だ。数字の羅列。その中の、とある項目の小さな差異に、みみの目が引っかかった。
(このプロジェクトコード……見覚えがある)
コードだけ見れば、地味な研究開発案件か、地方支社の施設補修の一種に見える。金額も決して大きくはない。全体予算から見れば、誤差の範囲と言われてもおかしくない程度だ。
けれど、その数字が前回見たときと微妙に違っている。
(移動させた……?)
前回の記憶を辿る。自分は細かい数字を覚えるほうではないが、特定のパターンには敏感だ。定期的に支出される項目が、いつもと違う月に、違う比率で動いている。しかも、一度きりではない。ここ数ヶ月、ほんの少しずつ比率がずれている。
「……」
みみは別ウィンドウで過去の記録を呼び出し、二つの画面を並べた。一見、同じような支出が並んでいる。だが、よく見ると、毎月一定の金額が、別のコードに振り替えられているのが分かった。
(財務部が見逃している……?)
財務部は優秀だ。彼らは大きな不正や派手な数字の動きには敏感だし、定期監査も厳しい。それでも、ここまで細かく分散させていれば、見過ごされてもおかしくない。全体から見れば、どれも「誤差」で片付けられてしまいそうな微調整だ。
ただ、それを積み重ねれば、それなりの額になる。
(集約させたら……)
みみは別表を開き、何ヶ月分かの「誤差」を拾い集める。指先で軽く計算すると、ひとつの支社が小さな設備を新設できるくらいの金額になっていることが分かった。
(どこに行ってる……?)
その疑問が頭をよぎった瞬間、背筋にうっすら冷たいものが走る。神羅の中で資金が動くとき、それはたいてい目的がはっきりしている。魔晄炉の建設、軍備の増強、新規事業の立ち上げ。どれも表向きは「世界のため」「会社のため」という名目が付いている。
だが、この資金の動きには、そうした「名札」がない。わざとぼかしている、と言われても納得してしまいそうな曖昧さだ。
(……副社長に、報告しないと)
財務部に直接確認することもできるかもしれない。だが、これはルーファウスの決裁が絡んでいる可能性が高い。彼の署名が付いた予算枠だ。まずは彼に確認を取るのが、秘書としての筋だと思った。
プリントアウトを数枚手に取り、クリップで留める。心臓が少しだけ早く脈を打つのを感じながら、みみは深呼吸をひとつして立ち上がった。
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「失礼いたします、副社長」
ノックのあと、執務室の扉を開く。書類の束を抱えたみみを見て、ルーファウスはペンを置き、視線だけを向けた。
「どうした」
「財務記録の確認の途中で、気になる点がありました」
みみは机の前まで進み、プリントアウトを差し出した。ルーファウスはそれを受け取り、ざっと目を通す。数字を斜め読みする仕草は、いつもと変わらない。
「特別予算枠の支出についてです。ここ数ヶ月、わずかではありますが、前回までの記録と比べて、毎月決まった割合で他のコードに振り替えられているように見えます」
みみは、自分なりに整理した説明を添える。
「すべて合法的な手続きで処理されていますので、不正ではないのかもしれません。ただ、目的が記録上には表れておらず……財務部も、おそらく気付いていないかと」
少しだけ不安を滲ませながら言う。自分の勘違いかもしれないという不安と、「もし本当に見逃されているなら」という警戒が、胸の中でせめぎ合う。
ルーファウスは、ページのある一点に視線を止めた。
「……よく気付いたな」
その言葉は、驚きではなく、どこか感心したような響きだった。
「やはり、意図的なものなのですね」
「そうだ」
あまりにも素直な肯定に、みみの胸がきゅっと締め付けられる。
「財務部は?」
「知らない」
ルーファウスは淡々と答えた。
「彼らは数字には敏感だが、『誰が』という名札が付いているものには、敢えて深く踏み込まないこともある。これは、そういう類の資金だ」
「……副社長の、ご決裁で」
「私の権限の範囲で動かしている」
はっきりと言い切られる。みみは、手に持っていたクリップを握る指先に、じわりと力がこもるのを感じた。
「説明が……必要でしたら、もちろん申し上げます」
ルーファウスは書類から目を離し、みみを見た。その青い瞳は、いつもより少しだけ真剣で、少しだけ探るようだった。
「だが、その前に——」
言葉を区切り、彼は机の上の端末に一瞥を投げると、視線で合図を送った。
「ドアを閉めろ」
「……はい」
みみは振り返り、扉を静かに閉めた。廊下のざわめきが遠のき、小さな機械音と冷却装置の低い唸りだけが部屋に残る。何度も経験した「内輪の話」の空気。それでも、今日のそれはいつもより重く感じられた。
「そこに座れ」
ルーファウスは、机の前の椅子を顎で示した。みみは素直に腰掛ける。彼との距離がいつもより近くなる。机越しに見る横顔は、窓の光を受けて淡く縁取られていた。
しばしの沈黙。紙を軽く指で叩く音が、やけに大きく聞こえる。
「みみ」
名前を呼ばれた瞬間、背筋が自然と伸びた。
「はい」
「何があっても、私に着いてきてくれるか」
その問いは、あまりにも不意打ちだった。
ルーファウスが「確認」を好む男ではないことを、みみはよく知っている。指示は出す。命令もする。だが「着いてこい」と口に出したことはほとんどない。ましてや「何があっても」という曖昧で重い言い回しは、彼の口から聞いたことがなかった。
喉に驚きがせり上がる前に、口が先に動いていた。
「もちろんです」
間髪入れずに出た言葉だった。考えるよりも先に、体のどこかで決まっていた答え。机の向こうの男が眉をかすかに動かす。
「理由は?」
「ありません」
みみは、自分でも驚くほど迷いなく言った。
「私が今ここにいるのは、副社長が拾ってくださったからです。何があっても着いていく、と決めたのは、私の側の都合です」
六番街の路地で震えていた子どもだった自分に、マムが手を差し伸べてくれたように。八番街のバーで働いていた自分に、ルーファウスが手を伸ばしてくれたように。その手に掴まったのは、自分の意思だ。
その手が向かう先がたとえ危険でも、汚れていたとしても——。
「副社長がどこへ行かれるのか、全部を理解しているわけではありません。ですが、少なくとも今の私には、ここ以外に立ちたい場所はありません」
ただの忠誠ではなく、ただの恋情でもない。混ざり合って形を失った感情が、そのまま言葉になったような返答だった。
ルーファウスは、ほんの短い沈黙のあとで小さく息を吐く。
「……そうか」
それが肯定なのか、諦めなのか、安堵なのか。全てが少しずつ混ざったような声だった。
「ならば、君には隠しておけないことがある」
机の上の書類を、指先で軽くなぞる。
「この資金の行き先だ」
みみは無意識に息を呑んだ。
「これは、ある組織への『支援』に使われている」
「……組織」
声が少しだけ震える。嫌な予感が、喉元まで込み上げてくる。
「詳しくは知らなくていい、とは君に対して言いたくないな」
ルーファウスは、ごく稀にしか見せない自嘲めいた笑みを浮かべた。
「君は数字からここまで手繰り寄せた。なら最後まで教えておくのが筋だろう」
青い瞳が、真っ直ぐにみみを捉える。
「——アバランチだ」
その名前が、部屋の空気を一瞬で変えた。
アバランチ。ジュノンで社長抹殺を目論んだ反神羅組織。魔晄炉を爆破し、人々の生活を揺るがし、血と炎を撒き散らす存在。報告書の中だけでなく、現実の事件として世界を騒がせている名前。
「私が、彼らに資金と情報を提供している」
ルーファウスは淡々と言った。
「父の失脚を目論んで、な」
胸の中で何かが大きく揺れた。紙に印刷された数字の列が、一気に生々しい意味を持った気がする。
「……」
言葉が出てこない。喉の奥でいくつもの問いが渦を巻き、それがひとつも形を成せないまま、ただ熱になって込み上げてくる。
「驚いたか」
ルーファウスの声は、意外なほど穏やかだった。
「神羅の副社長が、反神羅組織のスポンサーをしていると知れば、誰でも顔をしかめるだろう」
「……」
みみは、自分の顔がどんな表情をしているのか分からなかった。驚き。戸惑い。恐怖。怒り。否定。どれもが混ざっているはずなのに、一番強く押し寄せてきた感情は、そのどれでもなかった。
(危ない)
それだけだった。
(そんなことをしていたら、いつか——)
事件が起きるたびに、アバランチに対する追及は厳しくなる。もし、その背後に「神羅内部からの支援」があると知れれば、世界はどう反応するだろうか。社長はどうするだろうか。タークスや軍は、どれだけの手段を使って「裏切り者」を探し出すだろうか。
そして、その矛先が真っ先に向かう場所がどこかを想像するのは、難しくない。
「……顔をしかめているな」
ルーファウスの声に、みみははっとした。
「いえ、その……」
「正直でいい」
彼は軽く肩を竦めた。
「君は、テロリストと手を組んでいる私を軽蔑したか」
違う。
喉まで出かかった言葉を、みみは飲み込まなかった。これは飲み込んではいけない種類の言葉だと、本能が告げていた。
「違います」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。
「副社長が……テロリストと手を組んでいるから嫌なのではありません」
ルーファウスの眉が、かすかに動く。
「では、何だ」
「そんな危ない橋を、ひとりで渡っていることが、嫌です」
胸の奥がかっと熱くなる。言葉にした瞬間、感情が溢れそうになるのを、必死で押さえ込んだ。
「アバランチに資金と情報を流すということは、副社長ご自身が両側から狙われる位置に立つということです。社長からも、アバランチからも。神羅からも、世界からも」
視界の端で、ルーファウスの表情がわずかに揺れた気がした。だが今は、それを確認する余裕はない。
「父親の失脚を目論むことが正しいとか間違っているとか、今の私には判断できません。神羅のやり方が間違っている部分があることも知っています。アバランチの行為が多くの人を傷つけていることも知っています」
声のトーンが自然と低くなる。
「でも……そんな危険なところに、副社長ひとりが立っているのは、嫌です」
「……」
沈黙が落ちた。
それは、道徳や理念の話ではなかった。世界の正しさでも、神羅の正義でもない。ただひとりの人間の身を案じる、あまりにも個人的で、わがままな感情だった。
「君は、私が『何をしているか』より、『どうなるか』のほうを気にしているわけだ」
ルーファウスの声が、少しだけ柔らかくなる。
「……はい」
「私が世界を裏切ろうと、神羅を裏切ろうと、父を裏切ろうと——」
彼は、わざとらしいほど列挙した。
「君は、その結果として私の身に降りかかる危険だけを心配している」
「そんな言い方は……」
みみは唇を噛んだ。
「副社長の選択を軽んじているつもりはありません。ただ、私にとって一番大事なのは——」
そこまで言って、言葉が途切れる。これ以上言うと、線を踏み越えてしまう気がした。
「君にとって一番大事なのは?」
ルーファウスが促す。その青い瞳が、逃げ場を塞ぐようにこちらを捉えている。
喉が渇く。心臓が痛いほど速く打つ。それでも、嘘だけは吐けなかった。
「……副社長が、生きていてくださることです」
静かな告白だった。誰に聞かせるでもなく、ただ目の前の男だけに向けられた言葉。
「神羅がどうなっても、世界がどうなっても、という意味ではありません。そんなことを言えば、きっと怒られます」
「心配するな。そこまで極端なことは言わないだろうと、期待している」
ルーファウスは小さく笑う。その笑いに、いつもより多くの人間味が滲んでいる気がした。
「でも……私の視界の真ん中にいるのは、いつも副社長です」
みみは、視線を落としながら続ける。
「だから、その副社長が危ないところに立っていると思うと、顔をしかめてしまいます」
別に、清く正しくいたいわけではない。スラム育ちの自分は、神羅が世界にしてきたことの一部を肌で知っている。マムの店で聞いた話も、六番街の夜の噂も。どれもが「綺麗事だけでは済まない世界」の証拠だ。
その世界の中で、副社長がどんな汚れた手を使っているのかを、完全に知らずにいたいと思ったこともある。けれど、今こうして目の前で告げられてしまった以上、目を背けることはできない。
「……君は、本当に厄介だな」
ルーファウスは、溜息とも笑いともつかない息を吐いた。
「世の中の多くは、こう言うだろう。『テロリストと手を組むなんて最低だ』『父親を裏切るのか』『神羅を内部から崩すつもりか』と」
「そうかもしれません」
「だが君は、『危ないところに立たないでください』と顔をしかめる」
彼は少しだけ肩を落とし、苦笑した。
「そんなふうに心配されると、やりづらくなる」
「……すみません」
素直に謝ると、ルーファウスは首を横に振る。
「いや」
声が静かになる。
「そういう目で見てくれる人間がひとりくらいいるのは、悪くない」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
ルーファウスは椅子の背にもたれ、天井を見上げるように視線を上げた。
「父の失脚を目論んでアバランチに資金と情報を流しているのは事実だ」
ゆっくりとした口調で続ける。
「だが、彼らを完全に自由にさせているわけではない。流す情報も、資金の量も、こちらで制御している。『利用している』と言い換えてもいい」
「ジュノンの件も……副社長の想定内だったのですか」
思わず、問いが口をついて出た。あの日の冷静さが、ふと蘇る。
ルーファウスの瞳に、ほんの一瞬だけ影が差した。
「ジュノンでの社長抹殺計画は、私の望んだ形ではなかった」
静かな否定。
「彼らは、こちらの想定よりも速く、深く、過激になっている。だからこそ、今こうして資金と情報の流れを調整している」
指先が、机の上の数字を再びなぞる。
「父の座を揺らがせるために炎を使った。だが、その火がどこまで燃え広がるかは、誰にも完全には読めない」
「それでも、火をつけたのは副社長です」
みみは、少しだけ震える声で言った。
「だからこそ、その火の中に副社長がひとりで立っているのが、嫌なのです」
ルーファウスは、じっとみみを見つめた。その視線は鋭いのに、不思議と痛くはなかった。
「君は、さっき『何があっても着いていく』と言った」
「はい」
「私がその火の中に立っているとしてもか」
「……もちろんです」
答えは変わらなかった。怖くないわけではない。むしろ、背筋が震えるほど怖い。それでも、足は動かなかった。
「そのうえで顔をしかめてくれるなら、まあ許そう」
ルーファウスは小さく笑った。
「ただし、ひとつだけ約束しろ」
「……約束」
「私が危険な方向に行き過ぎていると感じたら、遠慮なく叱れ」
それは以前にも聞いたことのある言葉だった。ただ、そのときとは重さが違う。今や彼は、反神羅組織に資金を流すという「明確な一線」を越えている。そのうえでの「叱れ」という注文は、より現実味を帯びていた。
「私に……そんなこと」
「君にしか言われたくない」
即答だった。
「父にも、役員にも、タークスにも、そんな役目は任せられない。彼らは私を、道具か、後継者か、危険分子かとしてしか見ない」
少しだけ間を置き、静かに続ける。
「君だけが、私を『人』として叱れる位置にいる」
胸の奥に、じん、とした痛みが走る。それは苦しさとも温かさともつかない、不思議な感覚だった。
「……分かりました」
みみは、ゆっくりと頷いた。
「副社長があまりにも危ないところに行きそうになったら、そのときは、全力で叱ります」
「楽しみにしておこう」
ルーファウスは冗談めかして言ったが、その瞳の奥には、どこか安堵の色が浮かんでいた。
「それまでは……」
彼は机の上の書類をひとまとめにしながら言う。
「君は君の仕事をしろ。数字を見て、行き先を追って、必要だと思うことがあれば、今日のように私のところへ持ってくる。それが、今のところ君に頼みたいことだ」
「かしこまりました」
みみは立ち上がり、書類を受け取った。膝の上で一度揃え、深く一礼する。
「失礼いたします、副社長」
ドアへ向かう背中に、ふいに声がかかった。
「みみ」
振り返る。ルーファウスは椅子にもたれ、窓の外を半ば見上げていた。
「君が気付かなければ、私はおそらく何も言わなかった」
「……」
「だが、君が見つけた以上——」
青い瞳がこちらを捉える。
「これは、君と私のあいだの秘密だ」
その言葉は、重く、そして残酷なほど甘かった。
「……はい」
声が少しだけ震える。
執務室を出て扉を閉めた瞬間、みみは背中を壁に預け、静かに息を吐いた。指先が冷たく震えている。掌には、まだルーファウスの言葉の余韻が残っていた。
(アバランチに、資金と情報を……)
頭の中で何度も繰り返す。そのたびに、ジュノンの炎と、七番街の人々の顔と、マムの店の笑い声と、ルーファウスの横顔が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
それでも——。
(何があっても、着いていくって答えたのは、私)
自分で選んだ答えだ。誰に強制されたわけでもない。神羅という巨大な歯車の中で、自分ひとりの意思で決められることなど、ほとんどない。それでも、このひとつだけは、自分のものだと思えた。
自席に戻り、手帳を開く。ペン先が震えながらも、文字を綴っていく。
——「特別予算枠の不明瞭な資金の流れを見つけた」
——「行き先はアバランチ。資金と情報の提供。社長失脚を目論んでいると、副社長が自分の口で認めた」
——「顔をしかめた。嫌だった。怖かった。——でも、それは副社長が危険な目に遭うことが嫌だったから」
——「何があっても着いていくかと聞かれて、迷わず『もちろんです』と答えた」
最後の一行を書く前に、少し迷う。
やがて、覚悟を込めてペンを滑らせる。
——「この人の暗闇ごと受け止めると決めたのは、私だ」
手帳を閉じると、胸の奥のざわめきが少しだけ静かになった気がした。
世界は、少しずつ崩れ始めている。神羅も、アバランチも、そのどちらも「正しく」ないかもしれない。その渦の中心に、ルーファウスが立っている。その少し後ろに、自分もいる。
その立ち位置が、これからどれだけ危険になっていくのかを思うと、背筋が冷たくなる。それでも、もう足は動かなかった。
「——副社長」
誰にも聞こえないような小さな声で、みみは呟いた。
「ちゃんと、生きていてください」
それは祈りでも命令でもなく、ただの願いだった。だが、今の彼女にできる一番まっすぐな言葉でもあった。