出張が増えたのは、ジュノンの一件からしばらく経った頃だった。

表向きの理由はいくつもあった。地方支社の視察、魔晄炉建設予定地の確認、新規プロジェクトの下準備。社長の思惑もあれば、社内の力学もある。だが、みみにはぼんやりと、そこにルーファウス自身の意図も絡んでいるのではないかという感覚があった。ミッドガル本社に張り付いているよりも、外の空気を吸いながら水面下で動ける方が、彼には都合がいいのかもしれない——そんなふうに思える瞬間が、何度かあった。

そして、そうした出張には、必ずみみも同行した。

スケジュール調整、資料の管理、現地スタッフとの連携。秘書としての仕事は、場所が変わっても変わらない。けれど、ミッドガルの厚いコンクリート天井から離れるたび、鉄と魔晄の匂いが薄れて、代わりに土や海や雪の匂いが鼻先をかすめる。そんな「外」の空気が、彼女の胸の緊張を少しだけ解きほぐすこともあった。

その年のクリスマスも、出張先で迎えることになった。

視察先は、雪の多い内陸の都市。街路樹には小さな電飾が巻き付けられ、プレートのない空からは、静かに白いものが降っていた。神羅のロゴが掲げられた地方支社のビルも、入口だけはそれらしく飾られている。門松とリースが並ぶ、季節感の渋滞した玄関を横目に、二人は支社長に挨拶を済ませた。

「今夜は、ささやかではありますがクリスマスディナーを——」

支社長がそう申し出たが、ルーファウスは軽く手を上げて断った。

「結構だ。社の行事にかこつけた『接待』は、父の相手だけで十分だ」

「は、はあ……」

気まずそうに笑う支社長に、「ローカルのレストランで構わない」とだけ告げる。その指示を受けて、現地の秘書が探してきたのが、ホテルから程近いカジュアルなレストランだった。個室もあり、比較的目立たず食事ができる場所だという。

夜。街路に灯るイルミネーションが窓ガラスに映り込む頃、二人はその店を訪れた。

外観は、こじんまりとしたレンガ造り。扉を開けると、暖かい空気とスパイスの香りがふわりと迎えてくれる。店内は大きなツリーこそないものの、テーブルごとに小さなキャンドルと簡単なリースが置かれていた。従業員が慣れた様子で、二人を奥の個室へと案内する。

「こちらになります。クリスマスメニューもご用意しておりますが……」

「通常メニューでいい」

ルーファウスは即答した。

「ただ、あまり騒がしい料理は要らない。あくまで『夕食』だ」

「かしこまりました」

個室は、四人掛けのテーブルがひとつと、壁際にコート掛けがあるだけの簡素な部屋だった。窓の外には、うっすらと積もり始めた雪と、遠くの通りの明かりが見える。

みみはコートを脱ぎ、黒のタイトスカートと落ち着いた色味のニット姿を現した。派手さはないが、柔らかなウェーブの髪と紫の瞳が、キャンドルの灯りを受けて静かに輝く。

「疲れていないか」

席につきながら、ルーファウスがふと尋ねる。

「いえ、大丈夫です。今日の視察も、予定どおりに進みましたし」

「『視察が順調だった』と『疲れていない』は、必ずしもイコールではない」

「そうですね」

小さく笑いながら、みみはテーブルの上のナプキンを整える。彼の視線の向こう側で、グラスとカトラリーが整然と並ぶさまが、妙に落ち着いて見えた。

「ですが、こうして個室でゆっくり食事ができるだけでも、ずいぶんと贅沢だと思います」

「社長と一緒の出張では、こうはいかない」

「そうですね……」

記憶の中の社長との出張は、いつも喧騒と煙草と酒の匂いに満ちている。誰かが笑い、誰かが媚び、誰かが潰れる。その中心にいる男の隣で、いつもルーファウスは少し離れたところからその様子を眺めていた。

今、みみの視界の中心にいるのは、そのルーファウスだ。白いシャツにネイビーのスーツ。ネクタイの結び目はいつも通り緩みがない。グラスを持つ指先の動きまで、彼女は自然と追ってしまう。

最初の料理とワインが運ばれ、互いにひと口ずつ口に運んでから、みみはふと思い出したように口を開いた。

「そういえば、副社長」

「何だ」

「先日、レノから聞いたのですが——」

「またろくでもない話だろうな」

一足先にうんざりしたように言われて、みみは思わず笑いを噛み殺す。

「……最近、ルードと良い関係の女性がいるそうです」

「……あいつが?」

グラスを持つ手がわずかに止まる。ルーファウスは眉をひそめた。

「レノの誇張ではないのか」

「その可能性も考えたのですが、本人も否定しなかったそうで」

「本人?」

「はい。レノがからかったら、グラスを落としそうになったって言ってました」

目元を緩めながら話すみみの声には、どこか楽しげな色が混ざっていた。タークスのプライベートな話は、彼女にとって珍しい「微笑ましい噂話」のひとつだ。

「ルードさん、いつも落ち着いていらっしゃいますし、女性とそういう関係になるところが想像できなくて」

「……」

「でも、お相手の方は、とても真面目で静かな方らしいです。『俺なんかでいいのか』って、何度も確認していたとか」

ルーファウスの脳裏に、無口な巨漢の顔が浮かぶ。サングラス越しに何を考えているのか分からない男だが、タークスとしての腕は一流だ。感情の揺れを滅多に表に出さない男が、「俺なんかで」と繰り返している姿を想像して、ほんの少しだけ口元が緩んだ。

「——ふん。レノの話の割には、多少の信憑性はありそうだな」

「ですよね」

みみはうれしそうに頷く。

「タークスの方々も、お仕事柄いろいろと大変だと思いますし。そうやって、誰かと穏やかな時間を過ごせるなら、いいなと思って」

「……」

ルーファウスはワインをひと口含み、喉を通す。その赤い液体は、キャンドルの灯りで暗い宝石のように見えた。

「君は、タークスにずいぶん肩入れするな」

ふいに落とされた言葉に、みみは瞬きをした。

「肩入れ……しているでしょうか」

「レノの話に笑い、ルードの恋路にほほ笑む」

ルーファウスは淡々と言う。

「彼らの仕事を知っていながら、その私生活にこうも情を寄せるのは、普通の社員にはなかなかできないことだ」

「仕事とプライベートは、別物だと思っていますので」

「別物、か」

彼は少しだけ目を細めた。

「悪いことは言わない。あまりタークスに肩入れするな」

「……どうしてですか」

問う声は柔らかかったが、その奥にはほんの少しの戸惑いがあった。レノたちと過ごした何気ない時間や、彼らの不器用な優しさを思い出すたび、その言葉が胸にひっかかる。

「奴らは暗躍組織だ」

ルーファウスの声が低く落ちる。

「表に出ない仕事をし、表に出ない死に方をする。いつ消えてもおかしくない。名前も残さず、記録にも残らない。——そういう生き方をしている」

雪のように静かに積もっていく殺しと隠蔽。その影に立つ男たちの姿が、言葉の行間から浮かび上がる。

「親交を深めすぎると、別れた時につらいぞ」

キャンドルの火が揺れる。その小さな炎に、みみは一瞬視線を落とした。

「……レノも、ルードさんも、確かにそういうお仕事をされています」

彼女はゆっくりと口を開く。

「でも、だからこそ、ほんの少しでも『普通の時間』があってもいいんじゃないかと……」

言いながら、自分が何を言おうとしているのかに気付く。タークスに向けた言葉のはずなのに、胸の奥で重なるのは、目の前の男の姿だった。

いつ死んでもおかしくない。表に出ない仕事。暗躍。危険な橋。

(……副社長だって同じなのに)

心の中の声は、喉元までは上がってこない。ルーファウスが今どんな危うい位置に立っているのか、それを知っているからこそ、「別れた時につらい」と言われると、無意識に自分たちの姿に重ねてしまいそうになる。

ルーファウスは、そんな彼女の揺らぎをどこまで察しているのか。ワインを傾けながら、視線だけをじっとみみに据えた。

「タークスの私生活に口出しをするつもりはない」

静かに続ける。

「ただ、君に覚えておいてほしいのは——『彼らがそういう場所に立っている』という事実だけだ」

「……忘れません」

みみは小さく頷いた。

彼の忠告の意図が、すべては分からない。ただ「タークスの身を案じている」だけではないことくらいは、察しがついた。これからルーファウスがどう動くのか、その結果としてタークスにどんな仕事が降ってくるのか——その一端を、彼自身が先に知っているからこその言葉なのだと。

(私を……悲しませたくないから)

想像でしかない。彼がそんなことを口にするはずもない。それでも、ジュノンの件以来、彼を取り巻く水面下の濁りを少しずつ知ってしまった今の彼女には、そうとしか思えなかった。

「……ルードさんには、あまり深入りしないようにします」

やがて、みみはそう言って微笑んだ。

「レノにも、『からかったらグラスを落とされますよ』って、伝えておきます」

「奴は落とされても笑っているだろう」

ルーファウスはわずかに口元を緩める。

「だが——君が泣くことになるなら、私はあまり愉快ではない」

最後の一言に、みみの心臓が跳ねた。見透かされた気がして、思わずグラスを持つ指に力が入る。

「……そんな、泣きませんよ」

「そうか」

ルーファウスの視線は、彼女の表情の細かな揺らぎを逃さない。タークスの話をしながら、彼はずっと別の誰か——自分自身の行く末と、それに巻き込まれる彼女の顔を、頭のどこかで想像していた。

(君が泣かないで済むように、立ち回れる自信はない)

そんな本音を、口に出すわけにはいかない。だからこそ、せめて「事前の忠告」という形で、ほんの少しだけ距離を取らせようとする。タークスとも、自分とも。

---

食事は、仕事の延長のような会話と、ほんの少しのプライベートな雑談で穏やかに過ぎていった。外は本格的に雪になり、窓ガラスに細かな粒が当たる音が静かに響く。

店を出る頃には、街路樹の根元にうっすらと白い縁取りができていた。ホテルまでの道を歩きながら、吐く息が白く煙る。防寒用のコートの襟を合わせるみみの横を、ルーファウスは歩調を合わせて歩く。

「寒くないか」

「少しだけ。でも、綺麗です」

みみは雪に覆われ始めた街を見回した。

「ミッドガルだと、なかなかこういう景色は……」

「雪は、すぐに煤に汚されるからな」

「はい」

プレートの下に落ちる雪は、地面に触れる前に黒く染まる。それを知っているからこそ、今目の前にある白さが、余計に儚く見えた。

ホテルに着くと、ロビーには小さなクリスマスツリーが飾られていた。支社から手配された部屋のカードキーを受け取り、エレベーターで上階へ上がる。

「こちらがお部屋になります。お二人とも同じフロアで、隣同士のお部屋をご用意しております」

フロント係の説明どおり、廊下の一角に並ぶ二つの扉。その片方の番号がルーファウスの部屋で、隣がみみの部屋だ。

「では、副社長。本日はありがとうございました」

廊下で立ち止まり、みみはいつものように一礼した。会社の経費で取られた部屋。公私の線を守るためにも、それぞれの扉に消えていくのが「正しい」形だと分かっている。

ルーファウスも、カードキーを取り出しながら軽く頷いた。

「ゆっくり休め。明日は朝から移動だ」

「はい。おやすみなさいませ」

みみが自分の部屋の扉にカードをかざし、開けようとした、その瞬間だった。

「みみ」

名前を呼ばれ、足が止まる。振り返ると、ルーファウスがいつの間にか距離を詰めていた。廊下の照明が、彼の髪と瞳を柔らかく照らす。

「……はい」

返事をした瞬間、彼の手が伸びた。

手首ではなく、腕でもなく、腰でもない。肩と肘のあいだあたりの柔らかな部分に、ぴたりと指が添えられる。力は強くない。だが、その一点だけで、体が自然と彼のほうに引き寄せられそうになる。

数ヶ月前、あのガラス扉の前で、不意打ちのキスを受けたときの記憶が甦る。目の前で近づいてくる青い瞳。熱を含んだ唇。思考が追いつかないまま、世界が彼だけで満たされた一瞬。

今は——。

彼の指先が、わずかに力を込めたところで、ぴたりと止まった。

ルーファウスの喉仏が、ごくりと上下する。自分の中で何かを飲み込むような動き。その視線が、みみの瞳から、頬へ、唇へと一瞬だけ滑り落ちて、すぐに引き上げられた。

このまま、ほんの少しだけ引き寄せれば、自分の部屋の中に連れ込める。扉を閉めてしまえば、誰にも見られることはない。出張先のホテル。クリスマスの夜。理由など、いくらでも後付けできる。

——その先にあるものも、想像するまでもない。

(今ここで扉を閉めなければ、彼女を抱いてしまう)

そんな言葉が、頭のどこかで生々しく鳴った。

「……」

みみのほうは、ただ静かに彼を見上げていた。怯えているわけでも、期待しているわけでもない。ただ、わずかに緊張を滲ませながら、彼の選択を待つように。

あのときのように、ただ驚きと混乱だけを湛えた瞳ではない。ジュノンの一件も、アバランチへの資金の話も、タークスへの忠告も。いくつもの濁りと光を知ったうえで、それでも隣に立ち続けている目だ。

(——何をしている)

ルーファウスは、内心で自分を罵った。

彼女は「何があっても着いていく」と言った。暗闇ごと受け止めると、無言で示した。その信頼をいいことに、今ここで肉体にまで手を伸ばすのか。自分の欲と寂しさを埋めるためだけに。

「副社長……?」

耐えきれず、みみが小さく呼びかける。その声に、ルーファウスの指先がぴくりと動いた。

次の瞬間、その手はふっと彼女の腕から離れた。

「——おやすみ」

短い言葉。いつも通りの、少しだけぶっきらぼうな声色。

「おやすみなさいませ」

みみは一瞬だけ戸惑ったように瞬きをしたが、すぐに微笑んで頭を下げた。そして、そっと自分の部屋の中へ入り、扉を閉める。

廊下に残されたルーファウスは、数秒その扉を見つめ続けた。そこに立っているはずの細い背中や、微かな香りを想像しながら。

やがて自分の部屋の扉を開け、中へ入る。ドアが閉まった瞬間、肩から力が抜けるような感覚に襲われた。

上着を乱暴にソファへ投げ、ネクタイを緩める。照明を落とした室内には、窓の外から薄い街の灯りが差し込んでいた。靴を脱ぎ捨てると、そのままベッドの端に腰を下ろし、両手で顔を覆う。

「……あのまま引き込むつもりだったのか」

低く、誰にも聞かせるつもりのない声が漏れる。

扉の前で、彼女の腕を掴んだときの感触が、まだ手のひらに残っている。柔らかな肉付きと、コート越しにも伝わる体温。あと一歩、ほんの一歩だけ距離を詰めていれば、そのまま引き寄せて——。

(抱いてしまうところだった)

自分の中に立ち上がっていた衝動を、ルーファウスは認めざるを得なかった。クリスマスだの、出張だの、そんなものはただのきっかけに過ぎない。彼女と二人きりで過ごす夜なら、どんな日付でも構わなかった。

ジュノンから続く暗い水面下の動き。社長失脚のためにアバランチに資金を流し、タークスを危険な任務へ送り出す未来を想定し、世界を揺るがしている自覚。その中心に立ちながら、心のどこかで「ひとりでいたくない」と願ってしまっている自分がいる。

その願いを、彼女の体温で埋めようとした瞬間があったことを、否定はできない。

「……最悪だな」

苦笑とも嘲笑ともつかない息が漏れる。

あのキスの一件すら、まだ完全には片付いていない。彼女は何も責めなかったが、あのときの戸惑いと混乱は、確かに彼女の瞳に刻まれていた。そのあと慎重に距離を測り続けてきたはずなのに、ここにきてまた同じ衝動に飲まれかけるとは。

「何が『世界の安定』だ」

自嘲がこめかみに鈍い痛みをもたらす。

「自分の感情ひとつ制御しきれない人間が」

それでも、最後の一線は越えなかった。越えずに済んだ。彼女を扉の向こうへ送り出した。それだけが、今夜の自分に許されたささやかな救いだった。

ベッドの上に仰向けに倒れ込み、天井を見つめる。薄暗がりの中で、クリスマスツリーの代わりに浮かぶのは、ミッドガルの魔晄炉の輪郭や、ジュノンの砲門の影、そして最上階の前室に立つ細い背中だった。

(何があっても着いていくと、言った女だ)

暗闇の中で、彼女の声が甦る。

(ならば、せめて——)

せめて、自分が彼女を傷つける側には回るまいと決めたばかりだったはずだ。危険な橋を渡ることを選んだ自分に、彼女を巻き込んでいる自覚はある。それでも、最後のところで「奪う」のではなく、「守る」側でありたいと、どこかでまだ信じていたかった。

「……難しいことだ」

天井に向かって呟く。世界を揺らしながら、ひとりの女の安定を守るなど、本来は両立しない願いなのかもしれない。

それでも——。

部屋の静寂の中で、ルーファウスはしばらく両目を閉じた。扉の前で伝わってきた彼女の体温を、記憶の中で何度もなぞりながら、それを現実に変えなかった自分を、ほんの少しだけ甘く許そうとした。