コレル魔晄炉の件が本格的に動き始めたのは、ジュノンから少し時間が経った頃だった。

アバランチの活動は、あの日を境に一段と過激になった。各地の小さな魔晄炉や関連施設が狙われ始め、神羅内部の報告書には「潜在的標的」のリストがいくつも並ぶ。その中のひとつに、北の山間の村の近くにある、コレル魔晄炉の名もあった。

「現地の状況を、直接目で見ておきたい」

ある日の夜、ルーファウスはそう言った。

副社長室のソファ。窓の外にはミッドガルの夜景が広がり、魔晄炉の輪がわずかに揺らめいている。みみは手帳を膝に乗せたまま、視線だけを彼に向けた。

「コレル……ですか」

「アバランチが狙う可能性が高い」

淡々とした声。あくまで「仕事」の話として告げられる。

「本社で報告書を眺めているだけでは、見えないものがある。どんな土地で、どんな人間たちが神羅に頼り、どんなふうに憎んでいるのか。——この目で見ておく必要がある」

その言葉が、どこまでが「副社長として」のものなのか、どこからが「父の失脚を目論む男として」のものなのか、みみには判別がつかなかった。ただひとつ分かるのは、彼がそこへ行くつもりでいることだけ。

「出張の準備をします」

そう口にした瞬間、ルーファウスの青い瞳が彼女を射抜いた。

「君は来ない」

静かな拒絶。いつもなら、「もちろん君も同行だ」と当然のように言うはずの場面で。

「……え?」

思わず聞き返してしまう。彼は視線を逸らさずに続けた。

「危険だから君は来るな」

その一言に、みみの胸がきゅっと縮まる。

「危険なのは……副社長も同じでは」

「私の仕事だ」

即答だった。

「君の仕事は、ここで報告を受け取ることだ。スケジュール調整、情報の整理、必要なときには私の代わりに指示を伝える。——現場で爆発を見に行くのは、君の役目ではない」

「でも——」

言いかけた言葉を、ルーファウスの視線が遮った。いつになく強い、拒むような色が混ざっていた。

「君は私に『危ないところにひとりで行かないでください』と言った」

ジュノンの一件のあと、アバランチへの資金のことを聞かされた夜の言葉。みみは息を呑む。

「だが、これは『危ないところに行かないといけない仕事』だ」

ルーファウスはゆっくりと言葉を選ぶ。

「だからこそ、君まで連れて行きたくない」

その言い方はずるかった。彼女自身の言葉を逆手に取るようでありながら、その実「絶対に譲らない」という意思を含んでいる。

「……分かりました」

反論したい気持ちを喉の奥で噛み潰し、みみは頷いた。

「ですが、必ずご連絡ください。無事なうちに」

「状況が許せばな」

生返事のようでいて、どこか約束めいた響きもある。その曖昧さに不安を抱きながらも、みみはそれ以上は言えなかった。

---

出発の日。

ルーファウスは最低限の護衛と共に、専用機でコレル方面へ飛んでいった。タークスも別ルートで動いていると聞かされていたが、詳細は知らされない。みみは神羅ビル最上階に残り、「長期出張中の副社長」のスケジュール管理という名目で、各部署との調整と報告の窓口を引き受けた。

コレル魔晄炉に関する報告は、最初のうちは淡々としていた。

——現地の状況確認完了。村の代表との面会調整中。

——アバランチの動きに目立った兆候なし。

——現地軍と共同で、警備体制を強化。

端末に届く報告書の文字を追いながら、みみは必要な情報を整理し、ルーファウスがアクセスできるようにシステム上のフォルダを整える。それはいつも通りの仕事だった。

だが、やがて報告の間隔が少しずつ空き始めた。

(おかしい)

定時報告が数時間遅れた時点で、胸の中にざらりとした不安が広がる。現地は山間で回線が不安定なのかもしれない。軍との連携で忙しいのかもしれない。そう自分に言い聞かせながらも、端末を握る指先に力が入る。

夕刻が過ぎ、ビルの窓の外の光が少しずつ夜の色に変わっていく。前室にひとり残されたみみは、スケジュール帳を閉じ、ただ端末の画面を見つめていた。

(連絡……)

遅くともこの時間までには、ルーファウスから何かしらの指示が来るはずだった。状況報告でも、次の予定の変更でも、何でもいい。そのどれもが届かない。

代わりに届いたのは——。

ふいに震えた端末。あまりにも短い通知音。画面に表示された差出人名を見た瞬間、みみの心臓が跳ね上がる。

「副社長……」

ルーファウス=神羅。

震える指でメッセージを開く。そこに並んでいた文字列は、たったこれだけだった。

——失敗 すまない

息が、止まった。

意味を理解するより先に、体から血の気が引いていくのが分かる。指先が冷たくなり、視界の端がわずかに暗くなる。椅子の背もたれを掴んでいなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。

「……っ」

たった四文字と三文字。それだけで、あまりにも多くのものが伝わってくる。

アバランチとの共謀が、何らかの形で破綻したこと。コレル魔晄炉への攻撃が、想定どおりには進まなかったのか、それとも予想以上の事態になったのか。神羅側に漏れたのか、アバランチ側に裏切られたのか。

そして何より、その「失敗」の結果、今彼がどんな立場に置かれているのか。

(無事……なの……?)

胸の奥に浮かんだ最初の問いは、それだけだった。共謀の成否よりも、計画の行方よりも、会社の行く末よりも、今は彼の生死だけが頭を占めている。

メッセージには、それ以上の言葉はなかった。現状の説明も、今後の予定も、何もない。「失敗」と「すまない」だけ。

それがかえって、事態の重さを物語っていた。

指が勝手に動きそうになる。「今どこにいるのか」「無事なのか」「戻ってこられるのか」——いくつもの問いを打ち込みたくなる。それでも、みみは必死に自制した。

(返信を……送っていい状況じゃない)

彼がこの短いメッセージを送ることすら難しい状況にいるのだとしたら、こちらからの返信は、彼にとって足枷になるかもしれない。ログひとつが、彼の首を絞める証拠になり得る世界だ。

だからこそ、彼は「失敗 すまない」だけを選んだのだと、みみは理解してしまった。

「……副社長……」

震える声が、静まり返った前室に滲む。

---

その日のうちに、噂が流れ始めた。

——副社長は長期出張に出たらしい。

——行き先は公開されていない。

——タークス本部に詰めているという話もある。

——コレルで何かあった。

情報は断片的で、どこまでが本当でどこからが憶測なのか分からない。だが、「コレル」と「副社長」と「タークス本部」という単語が、あまりにも不穏な組み合わせで耳に入ってくる。

タークスの本部。表向きには存在しないはずの拠点。本当の意味での「暗躍組織」の巣。その名が囁かれる時、そこにはたいてい「尋問」や「拘束」といった暗い影が付き纏う。

(軟禁……)

その言葉が頭に浮かび、胃のあたりがぎゅっと締め付けられる。社内で公式に発表されるのは「長期出張」という言葉だけだろう。だが実態は、出張という名の幽閉——そんな予感が、どうしても拭えなかった。

その日の夕方、内線が鳴った。

「副社長付秘書、みみだな」

聞き慣れた、だが決して好ましいとは言えない声。社長室からの直通だ。みみは反射的に腰を上げた。

「は、はい。みみです」

「今すぐ来い」

返事を待たずに回線は切れた。

胸の奥に冷たいものを抱えたまま、みみは社長室へ向かった。最上階の別フロア。分厚い扉。重たい静けさ。

ノックをして入室すると、いつものように広い部屋の中央に、分厚いデスクが鎮座していた。その後ろの巨大な椅子に、神羅カンパニー社長——ルーファウスの父が座っている。葉巻の煙が空気を濁らせ、重い笑みが顔に張り付いていた。

「おう」

社長は、いやらしく目を細めてみみを見た。

「噂の副社長秘書か。久しぶりだな」

「お呼び出しいただき、ありがとうございます」

みみは表情を崩さず、一礼した。足元の絨毯が、やけに柔らかく感じる。

「さて」

社長は葉巻を灰皿に押し付け、煙を吐き出す。

「ルーファウスの件だが——」

その名が出た瞬間、胸がひどくざわめいた。だが、顔には出さない。

「……はい」

「コレルで、あの馬鹿息子はしくじった」

あっさりと言われる。みみの喉がぎゅっと締まった。

「アバランチと共謀し、父親を食い物にしようとした。自分の立場を利用して、会社の資金と情報を流していた。——そういう報告だ」

(やはり……)

体のどこかが冷たくなる。彼の「失敗 すまない」という言葉が、別の角度から突きつけられる。

社長は、みみのわずかな表情の揺らぎを見逃さなかった。

「ルーファウスの計画は、知っていたか?」

単刀直入な問い。みみは息を飲む。

嘘をつくこともできる。何も知らなかったと首を振れば、この場は凌げるかもしれない。彼女はただの秘書で、「勝手に副社長が裏切っただけだ」と、そう位置づけることもできる。

だがそれは——。

(私が、彼の暗闇ごと受け止めると決めたことを、なかったことにする)

あの日、書き留めた手帳の文字が胸によみがえる。数字の不自然な流れを見つけ、彼に問い、アバランチの名を聞かされた夜。何があっても着いていくと答えた自分。

その自分に背を向けることは、彼だけでなく、自分自身を裏切ることになる。

「……はい」

みみは、ゆっくりと頷いた。

「ルーファウスの計画は知っていました」

社長の目が細くなる。その視線には、驚きよりも「やはりな」という納得が混ざっていた。

「加担したか?」

次の問いは、さらに踏み込んだものだった。

資金の流れに気付いたこと。数字を整理したこと。彼に「危ない」と顔をしかめながらも、「何があっても着いていく」と言ったこと。そのすべてが「加担」と言われてしまえば、否定のしようがない。

みみは口を開いた。

「はい」

静かな肯定。

「副社長の指示のもと、必要な資料の用意や、情報の整理を行いました」

社長は椅子にもたれ、大きく息を吐く。

「正直なのは、取り柄だな」

葉巻を手に取り、また火をつける。煙が再び立ち上る。

「本来ならば、お前も一緒に処理してやるところだが……」

「処理」という言葉の冷たさに、背筋が粟立つ。それでも、みみは顔色ひとつ変えない。

「多くの情報を持つ人間を、簡単に消しはしない。利用価値があるうちはな」

社長はにやりと笑った。

「お前は本日付けで、副社長秘書を解任する」

みみの胸がぎゅっと痛む。だが、続く言葉はもっと重かった。

「——社長秘書になる条件で、神羅に居続けさせてやろう」

その言葉と共に、社長はゆっくりと立ち上がった。近づいてくる足音。分厚い手が伸び、彼女の顎を取ろうとする。

「ルーファウスの秘書などやめて、私の側に来い。副社長よりも、よほど安定した椅子だぞ」

含み笑いと、ねっとりした視線。何を要求されるかなど、想像するまでもない。

だが——。

みみの背筋は、微動だにしなかった。

顎に伸びてきた手を、ほんのわずかに体を引いてかわす。その動きは決して乱暴ではないが、明確な拒絶を含んでいる。

「お断りします」

はっきりとした声。

「私は、副社長の秘書であることに誇りを持っています」

社長の目が丸くなった。

「解任されて、異動するくらいなら——」

みみは微笑んだ。その笑みは、震えひとつなく整っている。

「辞めます」

沈黙が落ちた。

神羅ビル最上階。社長室。世界の頂点に座る男の前で、「辞めます」と言い切る社員がどれほどいるだろうか。

社長は、何度か瞬きをしたあと、声を低くした。

「簡単に辞められると思うか?」

葉巻を灰皿に押し付ける。そのまま身を乗り出し、低く唸るように言った。

「多くの情報を持つお前を、外に出してやるほど、私は甘くない」

みみはそれを予想していたかのように、静かに頷いた。

「……そうかもしれません」

世界の汚さを知らないわけではない。神羅が、口封じのために何をしてきたのかも聞いている。彼女自身が、そうした報告書の一端に触れたこともある。

だからこそ、「辞めます」という言葉は、単なる脅しでも駆け引きでもなかった。彼女が自分の線を守るために言える、最後の矜持だった。

社長は、しばらく彼女を値踏みするように見つめた。

やがて、ふっと笑い声を漏らした。

「面白い女だ」

笑っているのに、目は笑っていない。

「よし、決めた」

椅子に戻り、葉巻を新しくくわえる。

「お前は今日から、『過労による休職』だ」

「……過労、ですか」

「そうだ。副社長付きで働きすぎて、心身に不調をきたした。医師の診断のもと、しばらく静養が必要。——そういうことにしてやる」

静養。

その言葉だけ聞けば、優しい配慮にも聞こえる。だが、その実態がどういうものかは、すぐに続く言葉で明らかになった。

「保養地コスタ・デル・ソルで、しばらく待機してもらう。神羅の保養施設だ。海もある。日差しもある。食事も悪くない」

「……」

「ただし——」

社長はわずかに口角を上げた。

「勝手に帰ってくるな」

短い一言。

それはすなわち、「軟禁」を意味していた。建前上は「心身の休養」だが、実際には本社から遠ざけられ、会社の目の届く範囲で監視される。

コスタ・デル・ソル。リゾート地。明るい陽光と海。観光客の笑い声。そこに閉じ込められる自分の姿を想像し、みみは背筋に奇妙な寒気を覚えた。華やかな檻。

「たまには休め。副社長の相手は、疲れるだろう?」

社長の嘲るような声が、耳にまとわりつく。

「……ルーファウスは」

口が勝手に動いた。

「副社長は、ご無事なのですか」

その問いは、秘書としてではなく、ひとりの人間としてのものだった。世界の情勢も、会社の決算も、今はどうでもいい。

ただひとつ知りたいのは、「失敗 すまない」と告げた男が、まだ生きているのかどうか。

社長は、葉巻の煙をゆっくり吐き出した。

答えは——なかった。

沈黙。わざとらしいほど長い沈黙。

その沈黙こそが、彼の答えだった。

「……」

みみの視界が、わずかに滲む。だが、涙はこぼさない。ここでは、絶対に泣きたくなかった。

「準備をしておけ」

社長は、もう彼女に興味を失ったように手を振った。

「明日の便でコスタに飛んでもらう。詳細は人事と総務から伝えさせる」

「……かしこまりました」

みみは深く一礼し、社長室を後にした。

---

廊下に出た瞬間、膝から力が抜けるような感覚に襲われた。壁に手をつき、しばらく深呼吸を繰り返す。

(休職……コスタ・デル・ソル)

言葉だけ聞けば、救済策のように聞こえる。だが、それがどれだけ冷酷な策なのかを理解してしまっている自分がいる。

本社から遠ざけられる。ルーファウスの傍から引き剥がされる。今後の動きにも関われない。情報も入らない。世界がどう揺れていくのか、自分の目で追えない。

それでも——。

(生きている可能性が、まだ消えたわけじゃない)

社長は、「死んだ」とは言わなかった。意図的に黙殺した。それが彼の残酷さであると同時に、わずかな希望でもあった。

前室に戻ると、机の上の端末が静かに光っていた。「失敗 すまない」というメッセージが、まだ画面の片隅に残っている。

みみは椅子に腰掛け、その文字をもう一度だけ見つめた。

「……本当に、最悪です」

誰に向けるでもない言葉が、唇から零れる。

「こんなところで、置いていかないでください」

手帳を開き、震えるペン先で文字を書く。

——「コレル魔晄炉での計画、失敗。『失敗 すまない』のメッセージだけ」

——「ルーファウスは『長期出張』という名目でタークス本部へ。実態は軟禁」

——「私も、『過労による休職』という名目でコスタ・デル・ソルへ送られる」

——「社長秘書になる条件で神羅に残れ、と言われたが、『副社長の秘書に誇りを持っているので、解任されるくらいなら辞めます』と答えた」

——「ルーファウスが無事かと聞いたが、社長は答えなかった」

ペン先が紙を押し破りそうになるのを、ぎりぎりのところで抑える。最後に一行、迷いながら文字を足した。

——「この『休職』が、再び副社長の隣に立つための時間であると、信じるしかない」

信じるしか、なかった。

翌日、コスタ・デル・ソル行きの便に乗るまでの準備を、みみは機械的な手つきで進めた。スーツケースに最低限の衣類と、手帳と、彼からの短いメッセージを残した端末。

ミッドガルを飛び立つ飛行機の窓から見下ろしたとき、巨大な魔晄炉の輪が遠ざかっていくのが見えた。その向こうで、タークス本部という見えない牢獄に閉じ込められているであろう男の姿を想像し、胸が痛んだ。

(生きていてください)

コスタ・デル・ソルの眩しい陽光を浴びる前に、みみは心の中で、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。

(戻ってきてください。私の手が届く場所に)

白い砂浜と青い海が、「保養地」という仮面を被った檻として目の前に広がる。その檻の中で彼女ができることは、ただひとつだった。

——生き延びること。

そして、待つこと。

再び、ルーファウス=神羅の隣に立てる日を。