コスタ・デル・ソルの空は、ミッドガルの天井とはあまりにも違っていた。窓の外を埋め尽くすのは鉄と魔晄炉ではなく、どこまでも続く青と、雲の白と、海面に跳ね返る光だった。飛行機を降りてから、神羅のロゴが入った車に乗せられ、みみは言葉少なに移動した。街の中心にある賑やかなホテル街を抜け、さらに坂を上がっていく。観光客の声が遠ざかるごとに、海風の匂いだけが濃くなる。

「こちらです」

案内役の男性社員が車を停めたのは、小高い丘の途中に建つ小さなヴィラの前だった。真っ白な外壁に、テラコッタの屋根。窓枠や手すりは深いブラウンで統一され、玄関脇には名前も番号もない。まるで誰かの別荘のような佇まいだった。

玄関の鍵を開けて中に足を踏み入れると、ひんやりとした空気と、かすかな木の匂いが出迎える。広いとは言わないが、一人暮らしには十分すぎるほどの空間が広がっていた。リビングにはソファとローテーブル、大きめのテレビが壁に掛けられている。キッチンには、最新式のコンロやオーブン、冷蔵庫。ベッドルームにはダブルベッドと、本棚と、簡素なドレッサー。床は磨かれたフローリングで、窓から差し込む光が柔らかく反射していた。

「バルコニーもあります」

男性社員がガラス戸を開けると、強い日差しと共に、海の匂いが一気に流れ込んできた。バルコニーはヴィラの幅いっぱいに広がり、白い手すりの向こうには、青く広がる海が眼前に迫っている。高台にあるため、視界を遮る建物はない。波の音が遠くから届き、陽光を受けてきらきらと光る海面が、まるで現実感を奪う絵のように広がっていた。

「……」

どこから見ても、「保養地」と呼ぶにふさわしい環境だった。家具も家電も新品同然で、冷蔵庫を開ければ食材や飲み物がたっぷりと詰め込まれている。食器棚には皿やカトラリーが揃い、棚にはタオルやリネン、清掃用具まできちんと整頓されていた。必要なものはすべて揃っている。何も足りないものなどない——そう言われているかのようだった。

「生活に必要なものは、ひと通り用意してあります」

男性社員は事務的に説明を続ける。

「足りないものがあれば、備え付けの固定電話からこの番号に連絡してください。食材や日用品は、こちらで手配します」

リビングの壁には、有線式の電話機が据え付けられていた。見慣れた企業ロゴはなく、ごく普通の家庭用のように見えるが、余計な番号へは繋がらないであろうことは容易に想像できた。

「それから——」

男性社員は、みみの足元に置かれたスーツケースではなく、彼女の肩掛けバッグに視線を移した。

「携帯端末やノートパソコンなど、通信機器をお持ちの場合は、お預かりします」

予想していた言葉だった。胸の内側が、きゅうと小さく痛む。

「……神羅から支給されている端末は、すべて回収させていただくことになっています。個人所有のものも、申し訳ありませんが」

みみは静かに頷いた。抵抗しても無駄だと分かっているし、ここで揉めたところで、状況が良くなるとは思えない。

「分かりました」

バッグの中からスマホを取り出す。黒い画面に、自分の顔がぼんやり映る。つい昨日まで、そこにはスケジュールやメールや、ルーファウスからの短いメッセージや、タークスたちから送られた悪ふざけのスタンプが並んでいた。今それらは、暗い画面の奥に沈んでいる。

一瞬だけ親指が画面の上を滑り、あの「失敗 すまない」という文字列を呼び出しそうになって——やめる。今ここで開いてしまえば、手放せなくなる。

「こちらをお願いします」

もうひとつ、仕事用のタブレットも取り出す。男性社員は無表情にそれらを受け取り、持ってきたケースに収めた。

「すみませんが、念のため」

彼は丁寧な口調のまま、部屋の中を一周する。リビング、キッチン、ベッドルーム。机の上や引き出しの中、棚の上などを手際よく確認していく。その様子を見ながら、みみは「さすが神羅だ」と皮肉を込めた感想を飲み込んだ。二重三重の封じ込め。外の世界と繋がる回線を、徹底して切ろうとしている。

「こちらにあるテレビは、娯楽用の番組だけが映ります。ニュースや報道番組は視聴制限がかかっています」

テレビ横に置かれた小さなリモコンを示しながら説明される。世界の状況を知る術も、ここでは制限されている。

「ラジオも同様です。……お察しのとおり、こちらでの情報取得は控えていただきたい、という会社の方針ですので」

「……はい」

一通りの説明が終わると、部屋の中に静けさが戻った。海の音と、冷蔵庫の低い駆動音だけが、かすかに響いている。

男性社員は、端末の入ったケースを手にして玄関に向かいかけて——ふと立ち止まり、振り返った。

「何か、ご質問は」

「……ひとつだけ」

喉の奥に張り付いていた言葉が、ようやく形を取る。

「副社長は、無事ですか」

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。震えはない。ただ、胸の奥がじんじんと痛い。

男性社員は、ほんの短い沈黙ののち、首を横に振った。

「分かりません」

その正直さが、かえって胸を締め付ける。取り繕った安心も、空虚な嘘も、ここにはない。ただ「知らされていない」という事実だけがある。

みみは唇を噛む。目の奥に熱が溜まりそうになるのを、必死で堪える。

「ただ——」

意外にも、男性社員はそこで言葉を切らずに続けた。

「ひとつだけ、言えることがあります」

「……?」

視線が合う。彼の目は、神羅の社員らしい無表情の奥に、かすかな人間味を滲ませていた。

「あなたを、こうしてコスタ・デル・ソルに送っていること自体が、ひとつの答えだと、私は思います」

「……どういう、意味でしょうか」

「もし、本当にすべてが終わっていて、取り返しのつかない状態だとしたら——」

彼は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。

「おそらく、あなたはここにはいない」

その言い方は婉曲だったが、含まれている意味は十分すぎるほど伝わった。みみの背筋に、違う種類の寒気が走る。社長室で聞かされた「簡単には辞めさせない」という言葉が、別の角度から裏付けられる。

「あなたは多くの情報を持った方です。社内でも、いろいろな部署に顔が利く。副社長のスケジュールも、動きも、誰よりも近くで見てこられた」

男性社員は、淡々と事実を並べる。

「そんな方を、辞めさせたり、消したりせず——こうして生かしている」

「……」

「それは、『時期を見て帰るべき場所がある』という証左だと、私は思っています」

帰るべき場所。

その言葉が、胸の奥で静かに響いた。

それが神羅ビルを指すのか、社長の椅子の側なのか、副社長室の前なのか。どこまでが会社の意図で、どこからがこの社員個人の解釈なのか。すべてを見通すことはできない。

それでも、「帰るべき場所がある」と言われたことが、たまらなくうれしく、同時に怖かった。

「……それは、会社としての公式な見解では、ないですよね」

かすかに笑いながらそう返すと、男性社員も僅かに口元を緩めた。

「もちろん、個人的な意見です」

「神羅の社員としては、不適切かもしれませんが」

「いえ、とても……救われました」

ありがとう、と喉の奥まで出かかった言葉を、みみは飲み込んだ。簡単に「ありがとう」と言ってしまうと、その言葉にすがりつき過ぎてしまいそうだったからだ。

男性社員は軽く会釈をする。

「体調にはお気を付けください。何かありましたら、先ほどの番号へ。——どうか、ご無事で」

最後の一言は、どちらに向けられたものなのか分からなかった。彼女へか、彼女の帰るべき場所にいる誰かへか。それを確かめる術はない。

玄関の扉が閉まり、鍵の回る音が響く。外から足音が遠ざかっていく。やがて、ヴィラの中は、本当の意味で静寂に包まれた。

みみはリビングの真ん中に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。外から差し込む眩しい光と、室内の落ち着いた影。そのコントラストが、頭の中の整理されていない感情と重なる。

(帰るべき場所が、ある……)

信じたい。心のどこかで、必死にその言葉に縋ろうとしている自分がいる。一方で、「それはただの慰めかもしれない」と冷静に線を引こうとする部分もある。

バルコニーに出る。白い手すりに両手を添え、海を見下ろす。太陽は高く、海面はきらきらと眩しく光っている。波は絶えず打ち寄せ、引いていく。そのリズムは心地よくもあり、残酷でもあった。

ここは、誰が見ても「贅沢な場所」だった。高台から海を一望できるヴィラ。最新の設備。整えられた環境。何不自由のない生活。それでも、ここは自由ではない。情報は遮断され、行き先も選べない。

「……贅沢な牢屋ですね」

風に紛れて消えそうな声で呟き、みみはバルコニーから身を引いた。

リビングに戻り、ソファに腰を下ろす。テーブルの上に、コスタ・デル・ソルの観光パンフレットが置かれているのに気付く。笑顔の家族。海で遊ぶ子どもたち。カクテルを手にするカップル。そこには、「軟禁」という言葉の欠片もない。

パンフレットを裏返し、テーブルの端に寄せる。代わりに、スーツケースから手帳を取り出した。唯一ここに持ち込むことを許された、自分の記録。

ページを開き、ミッドガルでの最後の日の記述をなぞる。社長室での会話。「辞めます」と言った自分。「失敗 すまない」のメッセージ。そして、「この『休職』が、再び副社長の隣に立つための時間であると信じるしかない」と書いた一行。

今日の日付を書き足す。その横に、ゆっくりと文字を綴った。

——「コスタ・デル・ソル到着。海が目の前に広がるヴィラ。家具や家電、食材まで揃っている。贅沢な牢屋」

——「男性社員が通信端末をすべて回収。テレビもラジオもニュースは制限。世界から切り離された」

——「『副社長は無事ですか』と聞いた。『分かりません』と答えられた」

——「ただ、『あなたを生かしていることは、時期を見て帰るべき場所がある証左だと思う』と言われた」

少し迷ってから、最後に一行、付け足す。

——「その『帰るべき場所』が、副社長の隣であると信じることを、今は自分に許す」

ペンを置き、目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、ミッドガルの灰色の空と、最上階の前室と、青い瞳の男の横顔だった。

彼が今どこにいるのか。本当に生きているのか。分からないことだらけだ。それでも、「帰るべき場所がある」と言われた以上、自分はその場所に戻れるように、ここで生き延びなければならない。

たとえそれが、眩しすぎる陽光と青すぎる海の中に閉じ込められることでも。

ヴィラの窓を叩く風の音と、遠くの波の音が、ゆっくりと日常の背景音に変わっていく中で、みみは心の奥底で、ただひとつの願いを繰り返した。

——どうか、彼が生きていてくれますように。

——そしていつか、「おかえり」と言える日が来ますように。