22
タークス本部に連れて来られてから、どれくらいの日数が経ったのか、ルーファウス自身も正確には数えなくなっていた。
「長期出張」という名目で移送された先は、社内の一部の人間にしか所在地を知られていない、地下施設を中心とした複合拠点だった。窓はない。壁は厚く、外界の気配は掴めない。時計と照明の明滅だけが、かろうじて時間の流れを教えてくれる。
最初の数日は、ほとんど笑える余裕もあった。「父の息子」という身分を利用し、半ば居候のような扱いでここに身を置いているだけだと、自分に言い聞かせることもできた。
だが、それが単なる「預かり」ではなく、「無期限の軟禁」に近いものなのだと気づいたのは、社長からの一本の通信を受けたときだった。
タークス本部の一室。無機質なテーブルと椅子しかない部屋に、ルーファウスはひとり座っていた。テーブルの上には端末がひとつ。予定されていた回線が開き、画面に父の顔が映し出される。
「久しいな、ルーファウス」
画面の向こうで、社長が薄く笑う。その笑みを見ただけで、胃の奥に冷たいものが広がる。
「コレルの件では、随分と派手にやってくれたそうじゃないか」
「結果はご存じのはずでしょう」
ルーファウスは特に取り繕わなかった。「失敗 すまない」と送った短いメッセージが、どんな形で父に届いているかなど、考えるまでもない。
「アバランチと組んで父親を引きずり下ろそうとした息子など、世界中探してもそうはいないぞ」
社長は愉快そうに肩を揺らす。
「面白い見世物だ。だが——自分が操っていたつもりの連中に足をすくわれたのでは、笑い話にもならんな」
ルーファウスは黙った。反論しても無意味だと分かっている。アバランチの想定外の動き、情報の漏れ、タークスの介入。どれもが計画の綻びとなり、最終的に「失敗」の二文字に収束した。
父はそれ以上責め立てることもなく、唐突に話題を変えた。
「ところで——」
わざとらしく思い出したような口調。
「お前の秘書だがな」
「……みみが、どうかしましたか」
喉が勝手に動いた。「彼女」という言葉を出しかけて飲み込み、「秘書」に置き換える。この男の前では、絶対に踏み越えてはいけない線がある。
「解任した」
あっさりと言われる。
「コレルの件で、あいつがお前の計画を知っていたか聞いたらな。素直に頷いたぞ」
短い沈黙が落ちる。ルーファウスの中で、何かがゆっくりと軋んだ。
「……そうですか」
「加担したかという問いにも、同じく『はい』だ。まったく、あれはお前に似て正直すぎる」
「……」
彼女が嘘をつくだろうとは、思っていなかった。むしろ、そう簡単に自分だけを守る嘘を選ぶ人間ではないことを知っている。それでも——。
(ただ、黙っていてくれてもよかったんだ)
そんな理不尽な感情が胸をかすめて、すぐに苦く掻き消された。彼女はいつも、最も難しい選択の中で「誇り」を選ぶ人間だ。自分の暗い部分ごと受け止めると決めた以上、そこで目を逸らすことはできなかったのだろう。
「面白いことを言ったぞ」
社長は笑いを含んだ声で続ける。
「『私が副社長の秘書であることに誇りを持っています。解任されて異動するくらいなら辞めます』——だとさ」
その言葉を聞いた瞬間、ルーファウスの胸の中心が、熱く、そして鋭く痛んだ。脳裏に、最上階の前室で見た彼女の横顔が浮かぶ。「副社長秘書であることに誇りを持っている」と、以前にも笑っていた顔。
「だから、どうされたんです」
声が少し低くなるのを、自分でも感じた。
「辞めさせたのですか」
「まさか」
社長は肩を竦める。
「多くの情報を持つ人間を、簡単に外に出すほど私は甘くない。だから——無期限の『休職』だ」
「休職」
「そうだ。過労による心身の不調。静養が必要、ということになっている」
葉巻の煙の向こうで、社長の目が細い光を帯びる。
「適当な保養地に送っておいた。詳細な場所は、お前に教える義理はないがな」
「……」
胸の奥で、どす黒い何かが静かに膨らむ。
(保養地)
ミッドガルを飛び立つ前に彼女が見せた、不安と諦めの混ざった笑顔が、勝手に脳裏で組み合わされていく。陽光、海、神羅の保養施設——それがどれほど贅沢な牢獄であるか、想像するのは難しくない。
「あの娘、なかなか見どころがある」
社長は下卑た笑みを浮かべた。
「社長秘書になれと言ってやったんだ。あの年で社長付き、悪くない椅子だろう。ほとんどの女なら飛びつく」
手の甲で顎を撫でる仕草が、ぞわりとした嫌悪を呼び起こす。
「少し甘い言葉をかけてやれば、身体のひとつやふたつ、簡単に——」
「……」
その瞬間、ルーファウスの視界の色が、ほんのわずかに変わった。
怒鳴りたい衝動が喉まで込み上げる。端末を叩き割りたい衝動が指先に宿る。だが、そのどれもを、表情ひとつ変えずに飲み込んだ。ここで感情を爆発させることは、父に「効き目」を見せるだけだと分かっている。
「断られましたか」
代わりに選んだのは、冷え切った声だった。
「……何?」
「社長秘書の申し出を、彼女は断りましたか」
社長の顔に、一瞬だけ不快げな色が浮かぶ。
「断った。『副社長の秘書に誇りを持っている』などと、聞いてもいないことまでつけ加えてな」
ルーファウスは目を伏せた。
(ああ——)
この上なく彼女らしい、と同時に、この上なく危なっかしい答えだと思った。相手が誰であろうと、自分が正しいと思うものに背を向けない。それは尊敬すべき強さであり、この世界では致命的な弱点にもなり得る。
「まあ、面白いから生かしておくことにした」
社長はつまらなそうに続けた。
「過労で倒れたことにして、指示があるまで保養地で寝ていてもらう。そのほうが、お前も安心だろう?」
画面の向こうの笑みは、「安心」などという言葉から最も遠い場所にあった。
「……場所を教えていただくことは、できませんか」
ルーファウスは、一応だけ問いを口にした。無駄だと分かっている。だが、聞かずにはいられない。
「何のためにだ」
社長の目が細められる。
「会いに行くつもりか? 軟禁中の身で」
「彼女がどこにいるか知っておくことは、今後の——」
「当て馬を欲しがるな、ルーファウス」
父はあっさりと遮った。
「お前は今、鎖につながれた犬だ。自分の首輪すら外せないうちは、女の居場所を気にする資格はない」
回線が、ぷつりと途切れた。
静寂。端末の画面に「通話終了」の文字だけが残る。
ルーファウスは、しばらく動かなかった。指先に、テーブルの縁の冷たさが食い込む。奥歯を噛み締める感覚だけが、かろうじて自分がまだ肉体に繋がれていることを教えていた。
(セクハラで怖い思いをしただろうな)
社長秘書の申し出。あの男の目付き。言葉の端々に滲む欲と支配欲。彼女があの場でどれほどの嫌悪と恐怖を抱いたかを想像するのに、想像力はほとんど必要なかった。
その場に、自分はいなかった。
自分はコレルの山中で、失敗の後始末に追われ、タークス本部に連れ込まれ、ここに座らされている。彼女を守るべき瞬間に、彼女の隣にはいなかった。
テーブルに置いた手の甲を、爪が食い破りそうなほど握りしめる。皮膚が白くなり、やがてじわりと赤みを取り戻す。その間も、胸の奥のざわめきは収まらない。
---
その日を境に、ルーファウスの「長期出張」は、質を変えた。
最初のうちは、荒れた。
眠れない夜が続いた。照明が落とされ、施設の「夜」を告げる時間になっても、瞼は重くならない。目を閉じれば、コレルの爆発と、社長室の中で固く笑う女と、父の下卑た笑みが立て続けに襲ってくる。
ベッドに横たわっても、天井の模様を数え、時計の針の音を追い、意味もなく数字を数えているうちに、気がつけば朝の照明が点く。数時間だけ意識が飛んでいるらしいが、それは眠りというより「気絶」に近かった。体が限界を迎えて勝手に電源を落とし、少しだけ回復したらまた強制的に再起動する——そんな感覚。
タークスの誰かにそう指摘されたわけではないが、彼らの視線の端に「また寝ていないのか」という呆れ混じりの色を感じることはあった。だが、誰も何も言わなかった。ここにいる間の彼は、厳重監視対象であると同時に、微妙な客人でもあった。
苛立ちと自己嫌悪が、じわじわと積もっていく。
(何もできない)
世界のどこかで、父は依然として社長の椅子に座っている。アバランチはどこかで動き続けている。神羅の魔晄炉は、相変わらず世界の血を吸い上げている。
そして、海のどこかの保養地で、みみがひとり、情報を遮断された状態で「休職」を強いられている。
そのすべてを理解していながら、自分はこの窓もない部屋に閉じ込められている。鎖につながれた犬——父の言葉は、悔しいほど的確だった。
ある夜、ベッドの端に腰掛けたまま、ルーファウスは不意に笑いが込み上げてくるのを感じた。乾いた笑いだった。
(このままここで、少しずつ腐っていくのか)
そうしていれば、いずれ父の怒りも興味も薄れ、会社の中で「役に立たない息子」として、ほどよく安全な位置に置かれるのかもしれない。何も知らない社員たちからは同情の目を向けられ、適当に傀儡として祭り上げられる未来もあるだろう。
——だが、そのどれもが、耐え難かった。
(みみは、そんな男の側に戻りたいと思うだろうか)
問いは残酷なほど率直だった。
世界を揺らすだけ揺らして、何も変えられず、父の顔色を窺いながら与えられた檻の中で安穏とする男。その男に、「何があっても着いていく」と言った女が、誇りを持てるはずがない。
胸の奥で、何かがかちりと音を立てた。
その日を境に、ルーファウスは眠れない夜を別のものに変え始めた。
---
タークス本部には、時間を潰すための「資料」がいくらでもあった。古い作戦記録。極秘扱いの報告書。神羅上層には渡されない現場の情報。表に出ない事件の詳細。
ルーファウスは、そうした文書を片っ端から読み始めた。
「暇つぶしにはなるさ」
皮肉を込めてそう言ったのは、資料室の管理を任されているタークスの一人だった。彼が本当に「暇つぶし」と思っているのかどうかは知らない。それでも、上の許可が出ているのか、暗黙の了解なのか、ルーファウスはそれらに自由にアクセスすることを許された。
夜。照明を少し落とした自室で、テーブルの上に資料の山を積む。そこには、アバランチの過去の動きだけでなく、社長が黙殺してきた反神羅の声や、軍や治安維持部門が握り潰してきた失敗も含まれていた。
ページをめくる。ペンを走らせる。必要だと思う部分には印を付け、頭の中で点と点を繋げていく。
眠れない夜が、いつしか「知識を貪る時間」に変わっていった。
同時に、彼は身体も動かし始めた。
タークス本部には、小さな訓練室がある。格闘訓練用のマットやダミーが置かれ、タークスの面々が日々そこで身体を鍛えている。
「副社長がここにいる間、何もするなとは言われていない」
ある日、ルーファウスが訓練室の前で立ち止まっていると、レノが肩を竦めながらそう言った。彼の隣で、ルードが黙って腕を組んでいる。
「時間潰しに、ちょっとくらい教えてやってもいいぜ?」
軽口に聞こえるが、その目には別の色も宿っていた。現場で何度も死線をくぐり抜けてきた男たちの目だ。
ルーファウスは、その誘いを受けた。
最初は惨憺たるものだった。もともと病弱ぎみだった身体は、長時間の格闘訓練に慣れていない。受け身は遅れ、反応は鈍く、息はすぐに上がる。マットに叩きつけられ、床に転がされ、汗と呼吸で肺が焼けるような感覚に喘いだ。
「副社長、顔色わりぃっすよ」
レノが笑いながらタオルを放って寄こす。
「今までろくに身体動かしてなかったツケっすね。まあ、最初はこんなもんだ」
ルードは特に何も言わず、水の入ったボトルを差し出した。その沈黙が、妙にありがたかった。
それでもルーファウスは、やめなかった。
「護身術と言うよりは、これは戦闘訓練だぞ」
ツォンが眉をひそめるような場面もあった。だが、彼も最終的には黙認した。「いざという時に自分の身を守れる副社長」の価値を、現場目線で理解しているからだろう。
日々、少しずつ、身体が変わっていくのを感じた。
最初は一日置きだった訓練が、やがて毎日に変わる。息が上がるまでの時間が伸び、倒されても立ち上がれる回数が増える。打撃の出し方、相手の重心の崩し方、ナイフを持った相手への対処。タークスたちが当然のようにやっていることの、ごく一部を、血と汗で刻み込んでいく。
夜になると、痛み止めも飲まずにベッドに倒れ込む。それでも、以前のように「眠れぬまま朝を迎える」ことは少しずつ減っていった。極限まで身体を追い込めば、意識は勝手に落ちる。眠りは浅く、夢は多いが、それでも以前の「気絶」に比べれば、まだましだった。
本は読み続けた。訓練で疲弊した身体に鞭を打つように、報告書と歴史書と戦略論を読み漁る。神羅が築き上げた支配構造。そのひび割れ。アバランチ以外にも存在する小さな抵抗。社長が見ようとしない世界。
(父の築いたものを、父に代わって制御するには——)
自分には、まだ足りないものが多すぎる。それを自覚することは苦いが、同時に、前に進むための唯一の原動力でもあった。
眠らない夜は、「何もできない時間」から、「次の手を考える時間」に変わっていく。
訓練室で汗にまみれた手で、資料室で紙をめくる指で、彼は少しずつ「鎖につながれた犬」から、牙を研ぐ獣へと変わりつつあった。
---
それでも、夜の静けさの中で、ふとした瞬間に浮かぶ顔はひとつしかなかった。
——バルコニーから海を見下ろす、紫の瞳。
——「副社長の秘書であることに誇りを持っています」と笑う横顔。
——社長の手をかわしながら、「解任されて異動するくらいなら辞めます」と言ったであろう唇。
(場所さえ分かれば)
どれだけの距離があっても、どれだけの敵が立ちはだかっても、そこへ行く方法を考えることができるだろう。だが今は、その「座標」すら与えられていない。世界地図から、彼女の位置だけが抜き取られているようなものだ。
だからこそ、彼ができることはひとつしかなかった。
——生き延びること。
——力をつけること。
——父の目を欺き、鎖を外す日を迎えること。
その時になって初めて、自分は胸を張って彼女の前に立てるだろう。鎖を引きずる犬としてではなく、自らの足で歩く人間として。
いつか、彼女が陽光の下の檻から解き放たれたとき。その「帰るべき場所」が、再び自分の隣であると信じ続けるために。
薄暗いタークス本部の一角で、ルーファウス=神羅は、眠りの少ない夜を削りながら、静かに牙を研ぎ続けた。
「長期出張」という名目で移送された先は、社内の一部の人間にしか所在地を知られていない、地下施設を中心とした複合拠点だった。窓はない。壁は厚く、外界の気配は掴めない。時計と照明の明滅だけが、かろうじて時間の流れを教えてくれる。
最初の数日は、ほとんど笑える余裕もあった。「父の息子」という身分を利用し、半ば居候のような扱いでここに身を置いているだけだと、自分に言い聞かせることもできた。
だが、それが単なる「預かり」ではなく、「無期限の軟禁」に近いものなのだと気づいたのは、社長からの一本の通信を受けたときだった。
タークス本部の一室。無機質なテーブルと椅子しかない部屋に、ルーファウスはひとり座っていた。テーブルの上には端末がひとつ。予定されていた回線が開き、画面に父の顔が映し出される。
「久しいな、ルーファウス」
画面の向こうで、社長が薄く笑う。その笑みを見ただけで、胃の奥に冷たいものが広がる。
「コレルの件では、随分と派手にやってくれたそうじゃないか」
「結果はご存じのはずでしょう」
ルーファウスは特に取り繕わなかった。「失敗 すまない」と送った短いメッセージが、どんな形で父に届いているかなど、考えるまでもない。
「アバランチと組んで父親を引きずり下ろそうとした息子など、世界中探してもそうはいないぞ」
社長は愉快そうに肩を揺らす。
「面白い見世物だ。だが——自分が操っていたつもりの連中に足をすくわれたのでは、笑い話にもならんな」
ルーファウスは黙った。反論しても無意味だと分かっている。アバランチの想定外の動き、情報の漏れ、タークスの介入。どれもが計画の綻びとなり、最終的に「失敗」の二文字に収束した。
父はそれ以上責め立てることもなく、唐突に話題を変えた。
「ところで——」
わざとらしく思い出したような口調。
「お前の秘書だがな」
「……みみが、どうかしましたか」
喉が勝手に動いた。「彼女」という言葉を出しかけて飲み込み、「秘書」に置き換える。この男の前では、絶対に踏み越えてはいけない線がある。
「解任した」
あっさりと言われる。
「コレルの件で、あいつがお前の計画を知っていたか聞いたらな。素直に頷いたぞ」
短い沈黙が落ちる。ルーファウスの中で、何かがゆっくりと軋んだ。
「……そうですか」
「加担したかという問いにも、同じく『はい』だ。まったく、あれはお前に似て正直すぎる」
「……」
彼女が嘘をつくだろうとは、思っていなかった。むしろ、そう簡単に自分だけを守る嘘を選ぶ人間ではないことを知っている。それでも——。
(ただ、黙っていてくれてもよかったんだ)
そんな理不尽な感情が胸をかすめて、すぐに苦く掻き消された。彼女はいつも、最も難しい選択の中で「誇り」を選ぶ人間だ。自分の暗い部分ごと受け止めると決めた以上、そこで目を逸らすことはできなかったのだろう。
「面白いことを言ったぞ」
社長は笑いを含んだ声で続ける。
「『私が副社長の秘書であることに誇りを持っています。解任されて異動するくらいなら辞めます』——だとさ」
その言葉を聞いた瞬間、ルーファウスの胸の中心が、熱く、そして鋭く痛んだ。脳裏に、最上階の前室で見た彼女の横顔が浮かぶ。「副社長秘書であることに誇りを持っている」と、以前にも笑っていた顔。
「だから、どうされたんです」
声が少し低くなるのを、自分でも感じた。
「辞めさせたのですか」
「まさか」
社長は肩を竦める。
「多くの情報を持つ人間を、簡単に外に出すほど私は甘くない。だから——無期限の『休職』だ」
「休職」
「そうだ。過労による心身の不調。静養が必要、ということになっている」
葉巻の煙の向こうで、社長の目が細い光を帯びる。
「適当な保養地に送っておいた。詳細な場所は、お前に教える義理はないがな」
「……」
胸の奥で、どす黒い何かが静かに膨らむ。
(保養地)
ミッドガルを飛び立つ前に彼女が見せた、不安と諦めの混ざった笑顔が、勝手に脳裏で組み合わされていく。陽光、海、神羅の保養施設——それがどれほど贅沢な牢獄であるか、想像するのは難しくない。
「あの娘、なかなか見どころがある」
社長は下卑た笑みを浮かべた。
「社長秘書になれと言ってやったんだ。あの年で社長付き、悪くない椅子だろう。ほとんどの女なら飛びつく」
手の甲で顎を撫でる仕草が、ぞわりとした嫌悪を呼び起こす。
「少し甘い言葉をかけてやれば、身体のひとつやふたつ、簡単に——」
「……」
その瞬間、ルーファウスの視界の色が、ほんのわずかに変わった。
怒鳴りたい衝動が喉まで込み上げる。端末を叩き割りたい衝動が指先に宿る。だが、そのどれもを、表情ひとつ変えずに飲み込んだ。ここで感情を爆発させることは、父に「効き目」を見せるだけだと分かっている。
「断られましたか」
代わりに選んだのは、冷え切った声だった。
「……何?」
「社長秘書の申し出を、彼女は断りましたか」
社長の顔に、一瞬だけ不快げな色が浮かぶ。
「断った。『副社長の秘書に誇りを持っている』などと、聞いてもいないことまでつけ加えてな」
ルーファウスは目を伏せた。
(ああ——)
この上なく彼女らしい、と同時に、この上なく危なっかしい答えだと思った。相手が誰であろうと、自分が正しいと思うものに背を向けない。それは尊敬すべき強さであり、この世界では致命的な弱点にもなり得る。
「まあ、面白いから生かしておくことにした」
社長はつまらなそうに続けた。
「過労で倒れたことにして、指示があるまで保養地で寝ていてもらう。そのほうが、お前も安心だろう?」
画面の向こうの笑みは、「安心」などという言葉から最も遠い場所にあった。
「……場所を教えていただくことは、できませんか」
ルーファウスは、一応だけ問いを口にした。無駄だと分かっている。だが、聞かずにはいられない。
「何のためにだ」
社長の目が細められる。
「会いに行くつもりか? 軟禁中の身で」
「彼女がどこにいるか知っておくことは、今後の——」
「当て馬を欲しがるな、ルーファウス」
父はあっさりと遮った。
「お前は今、鎖につながれた犬だ。自分の首輪すら外せないうちは、女の居場所を気にする資格はない」
回線が、ぷつりと途切れた。
静寂。端末の画面に「通話終了」の文字だけが残る。
ルーファウスは、しばらく動かなかった。指先に、テーブルの縁の冷たさが食い込む。奥歯を噛み締める感覚だけが、かろうじて自分がまだ肉体に繋がれていることを教えていた。
(セクハラで怖い思いをしただろうな)
社長秘書の申し出。あの男の目付き。言葉の端々に滲む欲と支配欲。彼女があの場でどれほどの嫌悪と恐怖を抱いたかを想像するのに、想像力はほとんど必要なかった。
その場に、自分はいなかった。
自分はコレルの山中で、失敗の後始末に追われ、タークス本部に連れ込まれ、ここに座らされている。彼女を守るべき瞬間に、彼女の隣にはいなかった。
テーブルに置いた手の甲を、爪が食い破りそうなほど握りしめる。皮膚が白くなり、やがてじわりと赤みを取り戻す。その間も、胸の奥のざわめきは収まらない。
---
その日を境に、ルーファウスの「長期出張」は、質を変えた。
最初のうちは、荒れた。
眠れない夜が続いた。照明が落とされ、施設の「夜」を告げる時間になっても、瞼は重くならない。目を閉じれば、コレルの爆発と、社長室の中で固く笑う女と、父の下卑た笑みが立て続けに襲ってくる。
ベッドに横たわっても、天井の模様を数え、時計の針の音を追い、意味もなく数字を数えているうちに、気がつけば朝の照明が点く。数時間だけ意識が飛んでいるらしいが、それは眠りというより「気絶」に近かった。体が限界を迎えて勝手に電源を落とし、少しだけ回復したらまた強制的に再起動する——そんな感覚。
タークスの誰かにそう指摘されたわけではないが、彼らの視線の端に「また寝ていないのか」という呆れ混じりの色を感じることはあった。だが、誰も何も言わなかった。ここにいる間の彼は、厳重監視対象であると同時に、微妙な客人でもあった。
苛立ちと自己嫌悪が、じわじわと積もっていく。
(何もできない)
世界のどこかで、父は依然として社長の椅子に座っている。アバランチはどこかで動き続けている。神羅の魔晄炉は、相変わらず世界の血を吸い上げている。
そして、海のどこかの保養地で、みみがひとり、情報を遮断された状態で「休職」を強いられている。
そのすべてを理解していながら、自分はこの窓もない部屋に閉じ込められている。鎖につながれた犬——父の言葉は、悔しいほど的確だった。
ある夜、ベッドの端に腰掛けたまま、ルーファウスは不意に笑いが込み上げてくるのを感じた。乾いた笑いだった。
(このままここで、少しずつ腐っていくのか)
そうしていれば、いずれ父の怒りも興味も薄れ、会社の中で「役に立たない息子」として、ほどよく安全な位置に置かれるのかもしれない。何も知らない社員たちからは同情の目を向けられ、適当に傀儡として祭り上げられる未来もあるだろう。
——だが、そのどれもが、耐え難かった。
(みみは、そんな男の側に戻りたいと思うだろうか)
問いは残酷なほど率直だった。
世界を揺らすだけ揺らして、何も変えられず、父の顔色を窺いながら与えられた檻の中で安穏とする男。その男に、「何があっても着いていく」と言った女が、誇りを持てるはずがない。
胸の奥で、何かがかちりと音を立てた。
その日を境に、ルーファウスは眠れない夜を別のものに変え始めた。
---
タークス本部には、時間を潰すための「資料」がいくらでもあった。古い作戦記録。極秘扱いの報告書。神羅上層には渡されない現場の情報。表に出ない事件の詳細。
ルーファウスは、そうした文書を片っ端から読み始めた。
「暇つぶしにはなるさ」
皮肉を込めてそう言ったのは、資料室の管理を任されているタークスの一人だった。彼が本当に「暇つぶし」と思っているのかどうかは知らない。それでも、上の許可が出ているのか、暗黙の了解なのか、ルーファウスはそれらに自由にアクセスすることを許された。
夜。照明を少し落とした自室で、テーブルの上に資料の山を積む。そこには、アバランチの過去の動きだけでなく、社長が黙殺してきた反神羅の声や、軍や治安維持部門が握り潰してきた失敗も含まれていた。
ページをめくる。ペンを走らせる。必要だと思う部分には印を付け、頭の中で点と点を繋げていく。
眠れない夜が、いつしか「知識を貪る時間」に変わっていった。
同時に、彼は身体も動かし始めた。
タークス本部には、小さな訓練室がある。格闘訓練用のマットやダミーが置かれ、タークスの面々が日々そこで身体を鍛えている。
「副社長がここにいる間、何もするなとは言われていない」
ある日、ルーファウスが訓練室の前で立ち止まっていると、レノが肩を竦めながらそう言った。彼の隣で、ルードが黙って腕を組んでいる。
「時間潰しに、ちょっとくらい教えてやってもいいぜ?」
軽口に聞こえるが、その目には別の色も宿っていた。現場で何度も死線をくぐり抜けてきた男たちの目だ。
ルーファウスは、その誘いを受けた。
最初は惨憺たるものだった。もともと病弱ぎみだった身体は、長時間の格闘訓練に慣れていない。受け身は遅れ、反応は鈍く、息はすぐに上がる。マットに叩きつけられ、床に転がされ、汗と呼吸で肺が焼けるような感覚に喘いだ。
「副社長、顔色わりぃっすよ」
レノが笑いながらタオルを放って寄こす。
「今までろくに身体動かしてなかったツケっすね。まあ、最初はこんなもんだ」
ルードは特に何も言わず、水の入ったボトルを差し出した。その沈黙が、妙にありがたかった。
それでもルーファウスは、やめなかった。
「護身術と言うよりは、これは戦闘訓練だぞ」
ツォンが眉をひそめるような場面もあった。だが、彼も最終的には黙認した。「いざという時に自分の身を守れる副社長」の価値を、現場目線で理解しているからだろう。
日々、少しずつ、身体が変わっていくのを感じた。
最初は一日置きだった訓練が、やがて毎日に変わる。息が上がるまでの時間が伸び、倒されても立ち上がれる回数が増える。打撃の出し方、相手の重心の崩し方、ナイフを持った相手への対処。タークスたちが当然のようにやっていることの、ごく一部を、血と汗で刻み込んでいく。
夜になると、痛み止めも飲まずにベッドに倒れ込む。それでも、以前のように「眠れぬまま朝を迎える」ことは少しずつ減っていった。極限まで身体を追い込めば、意識は勝手に落ちる。眠りは浅く、夢は多いが、それでも以前の「気絶」に比べれば、まだましだった。
本は読み続けた。訓練で疲弊した身体に鞭を打つように、報告書と歴史書と戦略論を読み漁る。神羅が築き上げた支配構造。そのひび割れ。アバランチ以外にも存在する小さな抵抗。社長が見ようとしない世界。
(父の築いたものを、父に代わって制御するには——)
自分には、まだ足りないものが多すぎる。それを自覚することは苦いが、同時に、前に進むための唯一の原動力でもあった。
眠らない夜は、「何もできない時間」から、「次の手を考える時間」に変わっていく。
訓練室で汗にまみれた手で、資料室で紙をめくる指で、彼は少しずつ「鎖につながれた犬」から、牙を研ぐ獣へと変わりつつあった。
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それでも、夜の静けさの中で、ふとした瞬間に浮かぶ顔はひとつしかなかった。
——バルコニーから海を見下ろす、紫の瞳。
——「副社長の秘書であることに誇りを持っています」と笑う横顔。
——社長の手をかわしながら、「解任されて異動するくらいなら辞めます」と言ったであろう唇。
(場所さえ分かれば)
どれだけの距離があっても、どれだけの敵が立ちはだかっても、そこへ行く方法を考えることができるだろう。だが今は、その「座標」すら与えられていない。世界地図から、彼女の位置だけが抜き取られているようなものだ。
だからこそ、彼ができることはひとつしかなかった。
——生き延びること。
——力をつけること。
——父の目を欺き、鎖を外す日を迎えること。
その時になって初めて、自分は胸を張って彼女の前に立てるだろう。鎖を引きずる犬としてではなく、自らの足で歩く人間として。
いつか、彼女が陽光の下の檻から解き放たれたとき。その「帰るべき場所」が、再び自分の隣であると信じ続けるために。
薄暗いタークス本部の一角で、ルーファウス=神羅は、眠りの少ない夜を削りながら、静かに牙を研ぎ続けた。