髪を切ろうと思ったのは、軟禁が始まって二日目の朝だった。

コスタ・デル・ソルの眩しい日差しが、薄いカーテン越しに寝室へ差し込んでくる。波の音と、遠くのリゾート客の笑い声。目を覚ましたみみは、枕元に広がった自分の髪をぼんやりと見つめていた。

カシスブラウンの、ゆるく波打つロングヘア。六番街の路地裏でマムに拾われてから、彼女に「宝石の原石」と呼ばれ、手をかけて伸ばしてきた髪。八番街のバーでも、神羅ビルの最上階でも、この髪は「みみ」という存在を形作る大きな要素だった。

それが今、真っ白なシーツの上で、どうしようもなく「ミッドガル」の匂いを纏っているように見えた。

(このままじゃ、いつまで経っても、あそこから抜け出せない)

ミッドガルも、神羅も、ルーファウスも。

忘れたいわけじゃない。忘れられるわけもない。それでも、今の自分は、「そこに戻れない自分」であることを、髪の一本一本が突きつけてくる気がした。

バスルームの鏡の前に立つ。長い髪を一束にまとめてみると、ゴムで括った部分の下が、肩甲骨のあたりまである。指で毛先を摘まみながら、みみは自分の顔をじっと見つめた。

日焼けはまだしていない。スラム出身特有の、少し鋭さのある目元も、右目の下の泣きぼくろも、何も変わっていないはずなのに——長い髪だけが、過去に縛り付けているように感じる。

固定電話を取り、用意されていた番号を押す。

「……あの」

「はい、コスタ施設管理です」

「髪を、切りたいのですが」

一瞬、受話器の向こうが静かになる。

「美容院に行かせてほしい、ということでしょうか」

「できれば、ここでお願いできないでしょうか。……来ていただくことは、難しいですか」

外出の許可が出ないことは、聞かずとも分かる。だからこその、ダメ元のお願いだった。

少しの保留のあと、管理担当者は穏やかな声で答えた。

「分かりました。出入りが許可されている地元の美容師に、こちらから依頼してみます。午前中でよろしいですか」

「はい。……ありがとうございます」

電話を切り、鏡の前に戻る。髪をとかしながら、ふとルーファウスの顔を思い浮かべる。

(驚くだろうな)

いつだったか、彼に「今の長さ、似合っている」と言われたことがある。何気ない一言だったが、その日、みみはコームを通しながらひそかに嬉しさを噛み締めていた。

今から切る髪は、そのときと同じ髪だ。彼に褒められた髪。彼と共に過ごした時間を、ずっと背中で受け止めていた髪。

(それでも、今は——)

彼の隣に立てない自分に、そのままぶら下がり続けるわけにはいかなかった。

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数時間後、リビングのドアチャイムが鳴った。

来てくれたのは、日焼けした肌に白いシャツを着た、三十代くらいの女性美容師だった。シザーケースを肩から提げ、簡易ケープやタオルをまとめたバッグを持っている。

「はじめまして。**美容室の者です。神羅さんから伺いました」

柔らかな笑顔。事情を深く詮索することはせず、ただ淡々と仕事の準備を始めるその姿勢が、かえってありがたい。

リビングの一角に椅子を置き、床にタオルを敷き、ケープを肩にかけられる。大きな鏡がないので、窓ガラスにうっすら映る自分を確認するしかない。

「今日は、どのくらい切りましょうか?」

「……肩くらいまで、お願いします」

言ったあとで、ほんの少しだけ考え直す。

「いえ、もっと。顎のあたりまで」

「けっこうバッサリいきますね」

美容師は驚きながらも、楽しそうに櫛を通した。

「イメチェンですか?」

「……そう、かもしれません」

イメチェンという軽い言葉を借りなければ、今にも崩れそうだった。

ザクン、と最初の一束が切られる音がした。肩にかかっていた重さが、じわりと消える。切り落とされた髪がタオルの上に落ちていくたび、自分が少しずつ過去から切り離されていくような感覚があった。

美容師は手際よく、長さを揃え、毛先を整えていく。やがて、首筋のあたりがすうすうと軽くなった。鏡代わりの窓ガラスに映るのは、顎のラインで揺れるボブに近いシルエットの自分。慣れないこともあり、少し大人びて見える。

「似合ってますよ」

美容師が笑って言う。

「元の髪もきれいでしたけど、顔立ちがはっきりしてるから、このくらい短いのも素敵です」

「……ありがとうございます」

礼を言いながら、みみはそっと髪に触れた。指先を滑る毛先は、確かに軽くなっている。重さだけでなく、ひとつの「時代」を落としたような感覚がして、胸の奥が少し痛んだ。

(ルー……驚くかな)

心の中だけで、彼のことをそう呼ぶ。声に出すにはまだ遠すぎる呼び名。いずれ彼の前に戻れたとき、この髪を見て何と言うだろう。何も言わず、少しだけ目を細めるのだろうか。それとも、「無茶をしたな」と眉をひそめるだろうか。

そんな未来を想像することすら、今は贅沢だと思いながらも、想像せずにはいられなかった。

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生活リズムに慣れようとする努力は、それなりにした。

毎朝決まった時間に起きる。簡単なストレッチをして、シャワーを浴び、キッチンで朝食を作る。パンケーキやオムレツのレシピを試しながら、「これを彼にも出してみたかった」と、ふとよぎる考えを追い払う。

昼間はヴィラの中を片付けたり、本棚にあった古い小説や雑誌を読んだりする。頼めば軽いトレーニング器具も送られてきたので、簡単な筋トレやヨガを真似てみる。午後には、バルコニーで海風を浴びながらお茶を飲む時間を作った。

見た目だけなら、「優雅なひとり暮らし」だった。

だが、夜になると——。

ベッドに横たわり、天井を見つめる時間が訪れる。波の音が、昼間よりもはっきりと聞こえるようになる。街の騒がしさは遠ざかり、代わりに風の音と、自分の呼吸だけが耳に残る。

ふとした拍子に、脳裏に浮かぶのは決まって彼の姿だった。

「危険だから君は来るな」と言ったときの、少しだけ強い声。

「君は私に『危ないところにひとりで行かないでください』と言った」と、どこか意地悪そうに笑った顔。

アバランチへの資金の話を打ち明け、「君だけが私を人として叱れる」と言ったときの、弱さと強さが同居した瞳。

そして——「失敗 すまない」の文字。

目を閉じれば、あの日のメッセージ画面が鮮やかに浮かぶ。たったそれだけの言葉に込められた重さが、何度思い返しても胸を締め付けた。

(生きている……よね)

問いかけても、返事はない。コスタの夜空は、ミッドガルの天井とは違う。そこには星があるはずなのに、ヴィラからは見えない。窓の外に広がるのは、真っ暗な海だけだ。

枕に顔を埋める。目尻が熱くなり、堪えていたものが決壊する。

「……ルーファウス……」

声に出して名前を呼ぶのは、これが初めてではない。軟禁が始まってから、夜のベッドの中でだけは、誰にも聞こえないように、彼の名前を何度も何度も呼んだ。

涙は、思っていたよりも簡単に溢れた。頬を伝い、枕を濡らし、顎からシーツへと落ちていく。涙を見せないように生きてきた時間が長かったせいで、一度流れ始めると止め方が分からない。

(心配で仕方ないのに、何もできない)

自分だけ安全な場所にいて、海を見て、美味しい食事をとっていることが、ときどきひどく後ろめたくなる。彼がどこかの地下施設で、窓もない部屋に閉じ込められているかもしれないと想像するたび、その差が胸を刺す。

何度も枕を抱き締め、何度も涙で濡らし、それでも朝になると目を赤くしながら起き上がり、また昼間の「優雅な生活」を演じる。

そんな日々が続いた。

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それでも、このままでは何も残らないと思ったのは、軟禁生活が始まって一週間ほど経った頃だった。

日付の感覚がぼんやりしてくる。曜日を確認しなければ、自分が何日ここにいるのか分からなくなる。朝食に何を食べたのか、昨日読んだ本の内容が何だったのか。「今日」と「昨日」が溶け合いそうになる瞬間が増えてきた。

(このままだと、ちゃんと、ここで生きていることを、自分で証明できなくなる)

そんな不安が胸を掠める。ルーファウスの近くにいたときは、常にスケジュール帳が埋まっていた。会議、視察、電話、決裁。ひとつひとつに印を付け、メモを書き、彼と共に「時間」を回していた。

今の彼女には、それがない。

(せめて——)

固定電話を手に取り、番号を回す。

「はい、コスタ施設管理です」

「……文房具を、いくつかお願いしたいのですが」

「文房具、ですか?」

「新しいノートと、万年筆を」

少し驚いたような声が返ってくる。

「もちろん、ノートはすぐにご用意できます。万年筆も、こちらで選んでよろしいでしょうか」

「はい。シンプルなもので構いません。……あまり高価すぎないもので」

「かしこまりました」

電話を切ってから数時間後、玄関の前に小さな紙袋が置かれた。インターホン越しに「お届け物です」と告げられ、中身を確認する。

濃いグリーンの表紙をしたハードカバーのノート。手触りの良い布張りで、角には小さな金の装飾があしらわれている。開くと、少しクリーム色がかった厚めの紙が、静かに並んでいた。

そして滑らかな黒いボディの万年筆と、小さなインクボトル。インクは、深い紫に近い黒——光の加減で、わずかに色のニュアンスが変わる。

(……きれい)

みみは思わず指先で表紙を撫でた。ノートの手触りと、万年筆の重さ。そのどちらもが、「ここで過ごす時間を形にしなさい」と言っているように感じた。

リビングのテーブルにノートを置き、万年筆にインクを吸わせる。最初の一滴がペン先から紙に染み込む瞬間、胸の奥が少しだけ高鳴った。

一ページ目の上部に、日付を書く。その下に、ゆっくりと文字を綴り始めた。

「コスタ・デル・ソルでの生活が始まって、一週間が経ちました——」

日記のような文章は、久しぶりだった。

最初は、事務的な記録から始めた。

——朝、何時に起きたか。

——朝食に何を食べたか。

——昼間、どんな本を読んだか。

——夕方、どのくらい海を眺めていたか。

日記というよりは、「生活記録」に近い。ルーファウスのスケジュール帳を書くときの癖が、そのままペン先に宿っていた。

だが、ページの下に進むにつれて、文字の色が少しずつ変わっていく。

「——今日も、あなたからの連絡はありません」

「どこにいらっしゃるのか、無事なのか、何ひとつ分からないまま、私はこうして海を眺めています」

自然と、文章が「あなた」宛てのものになっていた。気付いたときには、すでにペン先は止まらず、胸の内側をそのまま紙の上に流し出している。

「危険だから来るなと仰ったときの顔を、何度も思い出します。本当は、もっと傍にいたかったです」

「もし、あのとき無理を言ってご一緒していたら、今、私はどこにいたのでしょう」

「地下のどこかで、同じ空気を吸えていたのでしょうか。それとも、もっと早くに消されていたのでしょうか」

書きながら、自分でも「こんなことを書くべきではない」と思う。記録帳からはみ出した、あまりにも個人的で、あまりにも弱い言葉たち。

それでも、ペン先を止める勇気が出なかった。

やがて、ページの最後に辿り着く。

「——どうか、今日も生きていてください」

「海の向こうのどこかで、息をしていてください」

「いつか、このノートを持って、あなたに会いに行けますように」

最後の一行を書き終えると、みみはペンを置き、しばらく紙を見つめた。胸の中から、何かが少しだけ軽くなっていく感覚がある。

(……ラブレター、みたい)

ふと、苦笑いが漏れる。

宛先も、差出人も、郵便番号もない。便箋ですらなく、ただ日記帳の一ページ。それなのに、内容だけは、恋文にも似た密度を帯びている。

恥ずかしさが、頬にじんわりと広がる。書き終えたばかりのページを破り捨ててしまいたい衝動に駆られ、指先が紙の端に伸びる。

——やめた。

そっと手を引っ込める。

(これを消してしまったら、ここで私が何を思って生きていたか、誰も知らなくなる)

たとえこの日記が、誰の目にも触れずに終わったとしても。たとえ、ルーファウスの元に渡ることがなかったとしても。

自分自身だけは、知っておきたいと思った。

自分が、どれほど彼を案じていたか。どれほど彼の隣に戻りたかったか。どれほど「副社長の秘書である自分」に誇りを持っていたか。

それらすべてを、なかったことにしたくなかった。

ノートを閉じる。万年筆を丁寧に拭き、小さな布ケースにしまう。

それからの日々、日記は彼女の生活の中心になっていった。

朝の出来事。昼の出来事。夜、泣いてしまったこと。少しだけ笑えたこと。髪を切った日の感想。初めて作った料理の感想。夢に彼が出てきた夜のこと。

そして、ページのどこかには必ず、ルーファウスへの言葉が書き添えられる。

「今日はあなたが夢に出てきました。相変わらず、眠れていない顔をしていました」

「タークスの方と一緒に訓練しているような夢でした。本当に、そんなことをしていたらいいのにと、勝手に想像しています」

「もしまたお会いできたとき、『髪を切りましたね』と気付いてくださるでしょうか。何も言わずに、視線だけで笑ってくださる気がします」

途中からは、書き出しが完全にラブレターめいてくる日もあった。

「ルーファウス様へ」

と書いてしまってから、「これはさすがに」と頭を抱える。だが、消さない。ぐるぐると線を引いても、インクの跡は紙から消えない。ならば、最初から残してしまったほうがいい。

恥ずかしさと、僅かな誇らしさ。そのどちらもが、ノートのページに染み込んでいく。

夜、涙が止まらないときには、日記を開いた。

言葉にならない感情を、拙い文章に押し込める。同じことを何度も何度も書いてしまう日もある。それでも、ページが埋まっていくたびに、「今日も生きた」という実感が、紙の重みとなって手のひらに残る。

「今日も、あなたを想って生きました」

その一文だけは、どんなに書き方を変えても、必ずどこかに紛れ込む。

コスタ・デル・ソルの小さなヴィラ。そのリビングのテーブルの上で、濃いグリーンのノートは少しずつ厚みを増していった。ペン先からこぼれ落ちた日々と想いが、インクとなって重なり合い、「軟禁」という言葉では決して括れない彼女の時間を形づくっていく。

それがいつか誰かの目に触れるかどうかは、まだ誰にも分からない。

ただひとつ確かなのは——海のそばのその部屋で、毎日誰かの無事を祈り続ける女がいたということであり、その証拠が、一冊のノートとして確かにそこに存在する、ということだけだった。