日記をつけ始めた日から、時間の流れはようやく輪郭を持ち始めた。

一冊目のノートの最初の数ページは、まだ「ミッドガルの時間」の余韻をまとっていた。起床時間と就寝時間、食べたもの、読んだ本。それに添えられるようにして、「今日はあなたを思い出して泣きました」「夢の中で会いました」など、どこか過去にしがみつく言葉たちが並ぶ。

それが、数週間も経つころには、少しだけ変わっていた。

朝、窓辺でストレッチをしたこと。海の色が昨日より少し濃く見えたこと。キッチンでパンを焼いてみたら、真ん中だけ少し生焼けだったこと。それでも美味しかったから、次はきっともっと上手くできると思ったこと。

そうした些細な日常の間に、変わらずルーファウスへの言葉が挟まる。

——「今日も、あなたのことを考えない時間はありませんでした」

——「もしここにいらしたら、この景色をどう評するのかなと想像してしまいます。『悪くない』と一言だけ言って、すぐ仕事の話をなさりそうです」

ある日は、目を覚ました瞬間から胸が重く、ベッドから起き上がるのにひどく時間がかかった。何をしてもぼんやりとルーファウスの姿が離れず、日中も、唐突に涙がこぼれそうになる。

その日のページは、最初から最後まで、ほとんどラブレターだった。

「——今日はどうしても、あなたのことを書かずにはいられません」

「副社長の秘書であった時間が、今の私を支える唯一の柱です。あなたの隣でメモを取ったこと。スケジュールを整えたこと。給湯室の前で、あなたが私を庇うように業務の話を振ってくださったこと」

「どれもこれも、私の中で、宝石みたいに光っています」

「神羅ビルの前室で、あなたの『お疲れ様』の一言を聞くために、私はどれだけ頑張れたか分かりません。今も、その記憶だけで、こうして息をしていられます」

書きながら、自分で自分のことがおかしくなるほどだった。あまりにも一方的で、あまりにも切実な感情の吐露。読み返せば、顔から火が出そうだ。

それでも、やはりページは破らなかった。

夜になるたびに、みみはそのページを何度もめくり、何を思って書いたのかをもう一度確かめる。恥ずかしさよりも先に、「ここまで想える人に出会えたのだ」という事実に、少しだけ救われる気がした。

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日々の生活は、少しずつ「儀式」のような形を帯びていった。

朝は、ベッドから起き上がったらまずカーテンを開ける。海が見えることを確認する。空が曇っていても、荒れていても、そこに広がっている青と灰色のグラデーションは、ミッドガルでは決して見られなかったものだ。

そのあと、キッチンで湯を沸かし、カップに紅茶を淹れる。マムの店で覚えたやり方を少しアレンジしながら、蒸らす時間を計る。その間に、今日の天気や気分を書き込むためのスペースを、日記のページの上部に空けておく。

午前中は掃除をする。リビングの床を拭き、キッチンのシンクを磨き、バルコニーの砂や塩を軽く落とす。誰かに見せるわけではないが、清潔な空間でいることが、自分を保つ最後の境界線のように思えた。

昼、簡単な食事を取る。冷蔵庫にあるものと相談しながら、なるべく手を動かす。包丁のリズムが、余計なことを考えない時間をくれる。

午後は読書と、少しの運動。施設側に頼んで送ってもらったストレッチ用のマットを床に敷き、ヨガのポーズを真似る。背筋を伸ばし、肩を回し、深呼吸をする。それはどこか、ルーファウスがこの瞬間どこで息をしているのかを確かめるような行為でもあった。

夕方、バルコニーで海を眺める時間を必ず取る。陽が傾いていくとき、海の色は深くなり、空には淡いオレンジが差す。その変化を、毎日少しずつ眺める。その時間だけは、「ここにいる」自分と、「あちらにいるかもしれない」彼との距離が、少し縮まるような気がした。

夜は、夕食のあとに必ず日記を書く。

ただ、いくら生活が整っても、眠りが穏やかになるわけではなかった。

ベッドに入ると、暗闇の中でどうしても過去の場面が鮮明に浮かぶ。ガラス扉の前で交わした、あの不意打ちのキス。会議フロアからの帰り道に、給湯室の噂話を打ち消すように業務の質問をしてくれたときの声。出張先のホテルの廊下で、一瞬だけ腕を掴まれ、すぐに離されたあの夜。

(あのとき、引き込まれていたら——)

もしもあの夜、ルーファウスが躊躇わず、自分を部屋に連れ込んでいたら。そのあと二人の関係はどう変わっていただろう。今、自分はここにいなかったかもしれない。もっと別の形で、もっと別の理由で、彼の側から切り離されていたのかもしれない。

「……考えても仕方ないですね」

枕に顔を埋め、ひとりごとのように呟く。けれど、考えずにはいられない。

そんな夜には、泣くことを我慢しないと決めていた。涙がこぼれそうになったら、そのまま流す。声を殺しながら枕を抱き締める。泣き疲れたら、いつの間にか眠りに落ちる。その眠りは浅く、夢も多いが、目覚めたときに「ああ、少しは眠れた」と思えるだけで、だいぶ違った。

そして次の日の朝、日記のページを開いて、「また昨夜も泣いてしまいました」と書き添える。そこに「でも」と続ける。

「でも、泣けるということは、まだ心が動いているということだと信じたいです」

「あなたに何の感情も抱けなくなる日が来ることのほうが、ずっと怖いです」

そんな言葉を残しておくことで、自分自身を励ますしかなかった。

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ノートのページが半分を過ぎる頃から、記録には小さな変化が現れた。

「今日は、神羅とは関係のない本を読みました」と書かれたページには、マムに薦められていつか読もうと思っていた恋愛小説のタイトルが添えられている。「登場人物の『待つ』という行為に、自分を重ねずにはいられませんでした」と書かれていて、最後の行には小さく「でも、私はただ待つだけでは終わらないつもりです」と付け足されていた。

また別の日には、「ランニングを始めました」とある。バルコニーから見える小道を、決められた範囲だけゆっくり走る。あらかじめ施設側に説明し、監視を付けられることと引き換えに許可をもぎ取った小さな自由。

「息が切れるほど走ると、少しだけ、余計なことを考えなくて済みます」

「タークスの方々も、こんなふうに自分を追い込んでいるのかなと、勝手に想像しました。あなたも、どこかで身体を鍛えていてください」

会ったこともない「今のルーファウス」を、日記の中で自由に描く。タークス本部で鍛錬し、書類を読み漁り、眠れない夜をやり過ごしている姿。そんな彼が、本当に存在するかどうかは分からない。それでもそうあってほしいと願うことで、彼女は自分の時間にも意味を持たせようとした。

やがて一冊目のノートが終わりに近づくと、みみは再び固定電話を手に取った。

「……すみません、またお願いがありまして」

「はい、コスタ施設管理です」

「ノートを、もう一冊。できれば、同じものがあれば」

電話の向こうの担当者は、少しだけ笑った。

「かしこまりました。同じメーカーのものを取り寄せておきます。万年筆のインクも、残りは大丈夫ですか?」

「少し減ってきましたので、同じ色を一本だけ、お願いできますか」

「承知しました」

数日後、玄関前に届いた紙袋の中には、一冊目と同じ濃いグリーンのノートと、同じ色のインクが入っていた。その並びを見つめながら、みみは自分の中に、言葉にならない感慨が込み上げるのを感じた。

(一冊、使い切ったんだ)

誰に見せるわけでもない、一人の女の軟禁生活の記録。それが一冊という物理的な重みを持って手元にある。その厚みを手のひらで確かめながら、彼女は少し息を吸い込んだ。

「……いつか、これをルーに渡せたら」

声に出してしまった途端、顔が熱くなる。誰もいないリビングで、ひとり身体を縮こまらせる。

「そんなの、恥ずかしすぎます」

どのページを開いても、彼のことばかり書いてある。たとえ彼が「読む」と言ったとしても、途中でノートを取り上げて破りたくなるに違いない。

それでも、胸のどこかで、「読んでほしい」と願っている自分がいることを、彼女は否定できなかった。

(『君は本当に、私のことばかり考えているな』って、呆れられるでしょうね)

その呆れ顔まで含めて、見たいと思ってしまう。ページの端に、小さくそう書き足してから、みみは一冊目のノートの表紙をそっと撫でた。

その夜の日記は、二冊目の最初のページにこう記された。

「——一冊目のノートが終わりました」

「ここまで書けたということは、ここまで生きてこられたということだと思います」

「あなたも、どこかで今日という日を生きていてくれたら。それだけで、私は、この先のページも埋めていける気がします」

涙は、相変わらず夜ごとにこぼれることがあった。ルーファウスへの不安も恋しさも、まるで波のように引いたり押し寄せたりを繰り返した。

それでも、日記のページが一枚一枚増えていくたびに、みみの中には、ひとつだけ揺るがない確信が育ちつつあった。

——いつか必ず、あの人の隣に戻る。

——それまでの時間を、なかったことにはしない。

コスタ・デル・ソルの高台の小さなヴィラで、海風と紙の匂いに包まれながら、彼女は今日もペン先を走らせる。

そのインク色の軌跡の向こう側で、窓のない別の場所にいる男が、同じように眠れない夜を削りながら、着実に力をつけていることを——まだ知らないまま。