25
軟禁が始まってから、季節がいくつも海を渡っていった。
コスタ・デル・ソルは、ミッドガルと違って季節の顔つきが分かりやすい。陽射しの角度や、海の色、観光客の服装——そんなものを見ていると、「ああ、今年も夏が来た」「また年が明けたのだ」と実感する。カレンダーをほとんど見なくても、世界が勝手にページをめくってくれるようだった。
みみは、その一枚一枚のページを、ノートに写し取るように生きていた。
日記はもう、何冊目か分からない。最初の濃いグリーンの表紙のノートは、本棚の一段目にきちんと並んでいる。隣には同じ色の表紙がいくつも続き、色違いのものも少し混ざっている。インクの色も、黒に紫を混ぜたものから、青みのあるものへと変わったりしたが、書かれている内容の濃さに変わりはなかった。
ページには、日々の生活の記録がびっしりと並んでいる。
今日は何時に起きた。朝の海は少し荒れていた。新しく教えてもらった料理を試した。施設の管理担当者との短い会話。読み終えた本の感想。ランニングの距離。ヨガの新しいポーズでうまくバランスが取れたこと。
そしてそのどれもに、少しずつ形を変えながら、必ずルーファウスの影が差し込んでいた。
——「今日読んだ本の主人公は、あなたほど器用ではありませんでした。でも、不器用なくらいまっすぐで、少し似ている気もしました」
——「海の向こうの空を見ていたら、ミッドガルの灰色の天井を思い出しました。あの場所に、あなたがまだ囚われていませんように」
——「もしここに来られるなら、あなたはどの部屋を仕事部屋にすると仰るでしょう。きっと眺めのいいところを選んで、『悪くない』とだけ言いそうです」
日記の中での彼の呼び方も、少しずつ変わっていった。最初は「副社長」。途中からは「ルーファウス様」や「あなた」。ごくたまに、うっかり「ルー」と書いてしまい、慌ててその文字をぐるぐると囲む日もあった。
髪は、あの日バッサリと切ってから、何度か形を整え直しながらまた伸びていた。顎のラインまで切ったボブは、肩を軽く超え、鎖骨のあたりまで届くくらいになっている。完全に元通りというわけではないが、鏡の前に立つと、昔の自分と今の自分とが半分ずつ混じったような姿が映る。
「だいぶ伸びましたね」
数ヶ月に一度、出入りを許された美容師がヴィラを訪れると、決まってそう言った。みみは笑って、「あまり短くしすぎないでください」とだけ伝える。切りすぎると、あの日の「決意」の手触りが薄れてしまいそうで、それが少し怖かった。
数年という時間は、人を変えるには十分長い。けれど、変わらないものも確かにある。
その夜も、みみはいつものように、夕食を終えてから日記の前に座っていた。
リビングのテーブルの上。薄い明かりだけが灯っている。窓の外には、真っ暗な海と、遠くのリゾート地のぼんやりした灯り。波の音が、耳の奥で一定のリズムを刻んでいる。
今日は、昼間に少し強い風が吹いた。バルコニーに置いてあった植木鉢が倒れかけ、急いで起こしたこと。ランニングの途中で、いつも見かける野良猫が足元に擦り寄ってきたこと。温かいスープを作ったら、思ったより美味しくできて嬉しかったこと。
そんな出来事をひとつずつ書き連ねていく。ペン先は、いつものように迷いなく走っていた。
——そこまでは。
日記の今日のページも、半分くらいが埋まった頃だ。
ふと、ペン先が止まった。
「……」
視線が、紙の上の空白と、その上部に並ぶ自分の字を往復する。そこにはもう、「コスタに来て何年目か」「今日は何曜日か」という具体的な数字はあまり書かれていない。ただ、「今日も生きた」という実感と、「今日もあなたを想った」という事実だけが、変わらず綴られている。
(何年、こんなふうに書き続けているんだろう)
頭の中で、ミッドガルを出た日の景色を思い出す。あのとき短く切った髪の感触。社長室の重い空気。タークス本部に連れて行かれるルーファウスの姿を想像して、胃が捻れるようだった夜。
そこから数年。時間の流れは、日記の背の厚みになっている。それでも、胸の中で占めているのは、相変わらずひとりの男のことばかりだ。
(これは……いったい、何なんでしょうね)
問いかける相手もいないので、自問自答になる。
恋、と呼ぶにはあまりにも長く、あまりにも深く、あまりにも重い。十代の頃にマダムの店で見聞きした恋の話は、もっと軽やかで、もっと華やかで、もっと一瞬のきらめきに満ちていた。バーにいた頃、客と店員の間に生まれる「火遊び」のような関係もそうだ。熱く燃えて、少し冷めて、また別の誰かへと移っていく。
自分の中にあるものは、それとはまるで違っていた。
彼のことで胸が高鳴ることも、確かにある。あの不意打ちのキスを思い出すと、今でも耳まで熱くなる。出張先のホテルの廊下で、腕を掴まれたときの感触は、時間が経っても鮮明だ。
けれど、それだけではない。
彼が危険な目に遭っているかもしれないと思うと、息が詰まりそうになる。彼が自分を庇おうとしてくれた場面を思い出すと、胸が痛くてたまらない。彼の暗い企みを知りながら、それでも隣に立ち続けることを選んだ自分を思い返すと、その判断の重さにひどく冷静な気持ちにもなる。
恋という言葉が連想させる浮ついた明るさは、そこにはほとんどなかった。
あるのは、もっと鈍く、深く沈んだ感情だ。光の届かない場所で、静かに、それでいて確実に広がっているような。
(恋、じゃない気がする)
ペンを持ったまま、みみは目を伏せた。
「恋をしているんだ」と自分に言い聞かせるほうが、きっと楽だった。恋なら、いつか終わらせることもできる。結ばれなくても、「いい思い出」として心の棚にしまい込める可能性もある。
でも——数年経っても、薄れるどころか増していくこの感情を、「いい思い出」で片付けられる未来が自分に訪れるとは、到底思えなかった。
彼が今どこで何をしているか分からないのに。生きているのかどうかさえ確信が持てないのに。それでも毎日、彼の名前を誰にも聞こえないように口の中で転がしている。
それは、ただの恋ではない。
(……分かっていたはずなのに)
ようやく、その事実を言葉として認めてしまいそうになっている自分に気付き、胸が苦しくなる。気づかないふりをすることもできた。日記の中では何度も「好き」と書いてきた。「恋」とも何度か書いた。そのたびに、どこかで違和感を覚えながらも、深く踏み込まないようにしてきた。
それでも、数年の時間は、そうした小さな誤魔化しを許してくれなくなっていた。
ペン先が、再び紙の上に触れる。
最初の文字は、いつものようにすんなりと出てきた。
「副社長——」
そこまでは、何度も書いてきた呼びかけだ。インクが紙にじわりと染み込んでいく。続く言葉に迷って、ペン先だけが紙をかすめる。
「私は……」
みみは、一度ペンを離した。胸の奥で、ふたつの声がぶつかり合う。
(このまま、「あなたのことが好きです」と書けばいい。今までどおりに)
それなら、まだ後戻りがきくような気がする。自分の心の中で、「好き」という言葉をいくらでも重ね塗りしておけば、その下に何が隠れているかを見ないふりができるかもしれない。
(でも——)
それは、嘘だ。
紙の上だけの、誰に見せるわけでもない言葉にまで嘘を吐くのは、彼女にはどうしても耐え難かった。自分が自分でいられる最後の場所が、このノートだ。ここでまで誤魔化したら、本当に何も信じられなくなる。
喉の奥が熱くなる。目の奥も、じんと燃えるように痛い。
「……私は」
ゆっくりと、ペンを握り直す。手の震えが文字に出ないように、少し深呼吸をしてから、慎重に書き進める。
「私は、あなたを——」
そこから先の一言を書き込むのに、数秒とも、数分ともつかない時間がかかった。波の音が、遠くで繰り返し打ち寄せては引いていく音だけが、耳に届く。
迷って、迷って、迷って——それでも。
「愛してしまっています」
書いた瞬間、胸の奥で何かがはっきりと音を立てて、落ちたような気がした。
「……っ」
ペン先がかすかに震える。インクが少しだけ滲み、最後の「す」がほんの少し太くなる。
紙の上に並んだその一文を見つめながら、みみはしばらく息をしているのかどうかも分からなかった。心臓がやけにうるさく、耳の奥でどくどくと鳴っている。
「副社長、私はあなたを愛してしまっています」
声に出して読み上げることはできなかった。唇だけが、無音でその言葉をなぞる。自分で書いた文字なのに、まるで別の誰かが書いたような、現実感のなさと重さが同時に押し寄せてくる。
愛している。
その言葉を、今まで自分がどれだけ慎重に避けてきたかを、初めて自覚した。マムの店でも、バーでも、神羅でも——愛という単語は、いつもどこか遠くにあって、誰かの会話の中や、物語の中でだけ使われるものだった。自分の口から出すことなど、想像したこともない。
それを今、誰にも届かない日記の中とはいえ、自分の手で書いてしまった。
もう、戻れない。
恋と言い換えたり、憧れと誤魔化したり、忠誠心だと決めつけたり——そんな逃げ道は、すべて自分でふさいでしまったことになる。
喉の奥から、押し殺した声が漏れた。笑いなのか、泣き声なのか、自分でも分からない。
「……ひどいですね、私」
涙が一滴、紙の上に落ちた。インクの行を歪めないよう、慌てて袖で目元を押さえる。
「勝手に愛してしまって、勝手に想って、勝手に生きていて」
彼が今どこにいるかも分からない。生きているのか、どんな状態で生きているのかも分からない。その相手に向かって、「愛してしまっています」と書き付ける自分は、あまりにも一方的で、あまりにも図々しくて、あまりにもどうしようもない。
それでも——。
「でも、嘘は吐けません」
誰もいない部屋で、そっと呟く。
「これが恋じゃないと分かってしまった以上、『好き』だけでは足りないと分かってしまった以上……」
目を閉じ、胸の前でそっと手を握る。
「あなたを愛してしまったと、自分ぐらいは認めないと、きっと前に進めません」
ここで言う「前に進む」は、忘れるという意味ではなかった。むしろその逆だ。どれほど深く愛してしまったのかを正面から認めることでしか、今後の自分の行動も選択も、何ひとつ決められない。
待つのか、諦めるのか。諦めずに待ち続けるのか。
どの選択を選ぶにしても、「愛してしまった」という事実から目を逸らしたままでは、きっとどこかで歪みが出る。
日記のページの端に、小さく付け加える。
「——この感情を、なかったことにはしません」
「たとえあなたにとって迷惑でも、重すぎても、私の中ではもう変えられません」
「いつか、あなたの前でこの言葉を口にできる日が来るのかどうかは分かりません。それでも、今日の私は、ここにこうして書きました」
ペン先を置く。万年筆のキャップを静かに閉める。ノートをそっと閉じたあと、両手をその上に重ねた。
リビングの時計の針が、ひとつ音を刻む。窓の外では、相変わらず波の音が続いている。世界は何も変わっていないように見える。それでも、みみの内側では、ほんの少しだけ世界の色が変わっていた。
恋と呼ぶには軽すぎて、愛と呼ぶには重すぎると思っていた感情に、ようやく名前を与えた夜。
コスタ・デル・ソルの小さなヴィラの片隅で、一冊のノートに書かれた一文が、静かにページの中に沈んでいく。そのインクの下で、彼女の時間と覚悟は、また少しだけ深くなっていった。
コスタ・デル・ソルは、ミッドガルと違って季節の顔つきが分かりやすい。陽射しの角度や、海の色、観光客の服装——そんなものを見ていると、「ああ、今年も夏が来た」「また年が明けたのだ」と実感する。カレンダーをほとんど見なくても、世界が勝手にページをめくってくれるようだった。
みみは、その一枚一枚のページを、ノートに写し取るように生きていた。
日記はもう、何冊目か分からない。最初の濃いグリーンの表紙のノートは、本棚の一段目にきちんと並んでいる。隣には同じ色の表紙がいくつも続き、色違いのものも少し混ざっている。インクの色も、黒に紫を混ぜたものから、青みのあるものへと変わったりしたが、書かれている内容の濃さに変わりはなかった。
ページには、日々の生活の記録がびっしりと並んでいる。
今日は何時に起きた。朝の海は少し荒れていた。新しく教えてもらった料理を試した。施設の管理担当者との短い会話。読み終えた本の感想。ランニングの距離。ヨガの新しいポーズでうまくバランスが取れたこと。
そしてそのどれもに、少しずつ形を変えながら、必ずルーファウスの影が差し込んでいた。
——「今日読んだ本の主人公は、あなたほど器用ではありませんでした。でも、不器用なくらいまっすぐで、少し似ている気もしました」
——「海の向こうの空を見ていたら、ミッドガルの灰色の天井を思い出しました。あの場所に、あなたがまだ囚われていませんように」
——「もしここに来られるなら、あなたはどの部屋を仕事部屋にすると仰るでしょう。きっと眺めのいいところを選んで、『悪くない』とだけ言いそうです」
日記の中での彼の呼び方も、少しずつ変わっていった。最初は「副社長」。途中からは「ルーファウス様」や「あなた」。ごくたまに、うっかり「ルー」と書いてしまい、慌ててその文字をぐるぐると囲む日もあった。
髪は、あの日バッサリと切ってから、何度か形を整え直しながらまた伸びていた。顎のラインまで切ったボブは、肩を軽く超え、鎖骨のあたりまで届くくらいになっている。完全に元通りというわけではないが、鏡の前に立つと、昔の自分と今の自分とが半分ずつ混じったような姿が映る。
「だいぶ伸びましたね」
数ヶ月に一度、出入りを許された美容師がヴィラを訪れると、決まってそう言った。みみは笑って、「あまり短くしすぎないでください」とだけ伝える。切りすぎると、あの日の「決意」の手触りが薄れてしまいそうで、それが少し怖かった。
数年という時間は、人を変えるには十分長い。けれど、変わらないものも確かにある。
その夜も、みみはいつものように、夕食を終えてから日記の前に座っていた。
リビングのテーブルの上。薄い明かりだけが灯っている。窓の外には、真っ暗な海と、遠くのリゾート地のぼんやりした灯り。波の音が、耳の奥で一定のリズムを刻んでいる。
今日は、昼間に少し強い風が吹いた。バルコニーに置いてあった植木鉢が倒れかけ、急いで起こしたこと。ランニングの途中で、いつも見かける野良猫が足元に擦り寄ってきたこと。温かいスープを作ったら、思ったより美味しくできて嬉しかったこと。
そんな出来事をひとつずつ書き連ねていく。ペン先は、いつものように迷いなく走っていた。
——そこまでは。
日記の今日のページも、半分くらいが埋まった頃だ。
ふと、ペン先が止まった。
「……」
視線が、紙の上の空白と、その上部に並ぶ自分の字を往復する。そこにはもう、「コスタに来て何年目か」「今日は何曜日か」という具体的な数字はあまり書かれていない。ただ、「今日も生きた」という実感と、「今日もあなたを想った」という事実だけが、変わらず綴られている。
(何年、こんなふうに書き続けているんだろう)
頭の中で、ミッドガルを出た日の景色を思い出す。あのとき短く切った髪の感触。社長室の重い空気。タークス本部に連れて行かれるルーファウスの姿を想像して、胃が捻れるようだった夜。
そこから数年。時間の流れは、日記の背の厚みになっている。それでも、胸の中で占めているのは、相変わらずひとりの男のことばかりだ。
(これは……いったい、何なんでしょうね)
問いかける相手もいないので、自問自答になる。
恋、と呼ぶにはあまりにも長く、あまりにも深く、あまりにも重い。十代の頃にマダムの店で見聞きした恋の話は、もっと軽やかで、もっと華やかで、もっと一瞬のきらめきに満ちていた。バーにいた頃、客と店員の間に生まれる「火遊び」のような関係もそうだ。熱く燃えて、少し冷めて、また別の誰かへと移っていく。
自分の中にあるものは、それとはまるで違っていた。
彼のことで胸が高鳴ることも、確かにある。あの不意打ちのキスを思い出すと、今でも耳まで熱くなる。出張先のホテルの廊下で、腕を掴まれたときの感触は、時間が経っても鮮明だ。
けれど、それだけではない。
彼が危険な目に遭っているかもしれないと思うと、息が詰まりそうになる。彼が自分を庇おうとしてくれた場面を思い出すと、胸が痛くてたまらない。彼の暗い企みを知りながら、それでも隣に立ち続けることを選んだ自分を思い返すと、その判断の重さにひどく冷静な気持ちにもなる。
恋という言葉が連想させる浮ついた明るさは、そこにはほとんどなかった。
あるのは、もっと鈍く、深く沈んだ感情だ。光の届かない場所で、静かに、それでいて確実に広がっているような。
(恋、じゃない気がする)
ペンを持ったまま、みみは目を伏せた。
「恋をしているんだ」と自分に言い聞かせるほうが、きっと楽だった。恋なら、いつか終わらせることもできる。結ばれなくても、「いい思い出」として心の棚にしまい込める可能性もある。
でも——数年経っても、薄れるどころか増していくこの感情を、「いい思い出」で片付けられる未来が自分に訪れるとは、到底思えなかった。
彼が今どこで何をしているか分からないのに。生きているのかどうかさえ確信が持てないのに。それでも毎日、彼の名前を誰にも聞こえないように口の中で転がしている。
それは、ただの恋ではない。
(……分かっていたはずなのに)
ようやく、その事実を言葉として認めてしまいそうになっている自分に気付き、胸が苦しくなる。気づかないふりをすることもできた。日記の中では何度も「好き」と書いてきた。「恋」とも何度か書いた。そのたびに、どこかで違和感を覚えながらも、深く踏み込まないようにしてきた。
それでも、数年の時間は、そうした小さな誤魔化しを許してくれなくなっていた。
ペン先が、再び紙の上に触れる。
最初の文字は、いつものようにすんなりと出てきた。
「副社長——」
そこまでは、何度も書いてきた呼びかけだ。インクが紙にじわりと染み込んでいく。続く言葉に迷って、ペン先だけが紙をかすめる。
「私は……」
みみは、一度ペンを離した。胸の奥で、ふたつの声がぶつかり合う。
(このまま、「あなたのことが好きです」と書けばいい。今までどおりに)
それなら、まだ後戻りがきくような気がする。自分の心の中で、「好き」という言葉をいくらでも重ね塗りしておけば、その下に何が隠れているかを見ないふりができるかもしれない。
(でも——)
それは、嘘だ。
紙の上だけの、誰に見せるわけでもない言葉にまで嘘を吐くのは、彼女にはどうしても耐え難かった。自分が自分でいられる最後の場所が、このノートだ。ここでまで誤魔化したら、本当に何も信じられなくなる。
喉の奥が熱くなる。目の奥も、じんと燃えるように痛い。
「……私は」
ゆっくりと、ペンを握り直す。手の震えが文字に出ないように、少し深呼吸をしてから、慎重に書き進める。
「私は、あなたを——」
そこから先の一言を書き込むのに、数秒とも、数分ともつかない時間がかかった。波の音が、遠くで繰り返し打ち寄せては引いていく音だけが、耳に届く。
迷って、迷って、迷って——それでも。
「愛してしまっています」
書いた瞬間、胸の奥で何かがはっきりと音を立てて、落ちたような気がした。
「……っ」
ペン先がかすかに震える。インクが少しだけ滲み、最後の「す」がほんの少し太くなる。
紙の上に並んだその一文を見つめながら、みみはしばらく息をしているのかどうかも分からなかった。心臓がやけにうるさく、耳の奥でどくどくと鳴っている。
「副社長、私はあなたを愛してしまっています」
声に出して読み上げることはできなかった。唇だけが、無音でその言葉をなぞる。自分で書いた文字なのに、まるで別の誰かが書いたような、現実感のなさと重さが同時に押し寄せてくる。
愛している。
その言葉を、今まで自分がどれだけ慎重に避けてきたかを、初めて自覚した。マムの店でも、バーでも、神羅でも——愛という単語は、いつもどこか遠くにあって、誰かの会話の中や、物語の中でだけ使われるものだった。自分の口から出すことなど、想像したこともない。
それを今、誰にも届かない日記の中とはいえ、自分の手で書いてしまった。
もう、戻れない。
恋と言い換えたり、憧れと誤魔化したり、忠誠心だと決めつけたり——そんな逃げ道は、すべて自分でふさいでしまったことになる。
喉の奥から、押し殺した声が漏れた。笑いなのか、泣き声なのか、自分でも分からない。
「……ひどいですね、私」
涙が一滴、紙の上に落ちた。インクの行を歪めないよう、慌てて袖で目元を押さえる。
「勝手に愛してしまって、勝手に想って、勝手に生きていて」
彼が今どこにいるかも分からない。生きているのか、どんな状態で生きているのかも分からない。その相手に向かって、「愛してしまっています」と書き付ける自分は、あまりにも一方的で、あまりにも図々しくて、あまりにもどうしようもない。
それでも——。
「でも、嘘は吐けません」
誰もいない部屋で、そっと呟く。
「これが恋じゃないと分かってしまった以上、『好き』だけでは足りないと分かってしまった以上……」
目を閉じ、胸の前でそっと手を握る。
「あなたを愛してしまったと、自分ぐらいは認めないと、きっと前に進めません」
ここで言う「前に進む」は、忘れるという意味ではなかった。むしろその逆だ。どれほど深く愛してしまったのかを正面から認めることでしか、今後の自分の行動も選択も、何ひとつ決められない。
待つのか、諦めるのか。諦めずに待ち続けるのか。
どの選択を選ぶにしても、「愛してしまった」という事実から目を逸らしたままでは、きっとどこかで歪みが出る。
日記のページの端に、小さく付け加える。
「——この感情を、なかったことにはしません」
「たとえあなたにとって迷惑でも、重すぎても、私の中ではもう変えられません」
「いつか、あなたの前でこの言葉を口にできる日が来るのかどうかは分かりません。それでも、今日の私は、ここにこうして書きました」
ペン先を置く。万年筆のキャップを静かに閉める。ノートをそっと閉じたあと、両手をその上に重ねた。
リビングの時計の針が、ひとつ音を刻む。窓の外では、相変わらず波の音が続いている。世界は何も変わっていないように見える。それでも、みみの内側では、ほんの少しだけ世界の色が変わっていた。
恋と呼ぶには軽すぎて、愛と呼ぶには重すぎると思っていた感情に、ようやく名前を与えた夜。
コスタ・デル・ソルの小さなヴィラの片隅で、一冊のノートに書かれた一文が、静かにページの中に沈んでいく。そのインクの下で、彼女の時間と覚悟は、また少しだけ深くなっていった。